17,子夏、莒父(きょほ)の宰と為り、政を問う。子曰く、速やかにせんと欲する毋(な)かれ。小利を見ること毋かれ。速やかにせんと欲すれば則ち達せず、小利を見れば則ち大事成らず。
莒父の町長となった子夏が政治について質問した。先生はお答えになった。「あせってはいけない。小さい目先の利益に目を奪われてはいけない。焦ると見通しがきかなくなる。小さい利益に目を奪われると、大きなことが成功しない」。
※浩→莒父(魯の東南辺境の新開拓地)の町長(城主)に任じられた門弟の子夏に対して、孔子が与えた行政上の忠告です。子夏もせっかちな弟子だったのでしょう。「あまり性急になってはいけない。局部的な小利に目を奪われてはいけない。長期的に、大局的にものを考えるように」という、まことに時宜にかなった忠言です。野田先生は、よく「即断即決即破滅」と諭してくださいました。私は、子供のころから“せっかち”で“おっちょこちょい”のようで、この忠言は身に浸みます。“待てない人”で中途半端に“ほったらかしにできない人”ではりますが、“わかれば納得”します。それでも“ジコチュウ”で“支配的”で、“競合的”であることには違いありません。昔は、他の人からこう指摘されると、「そんなことはない!」と断固否定していました。今はためらわず、「そのとおりです」と認められます。と同時に、「それでも、多少は人さまの役に立っていることもあろうから、I'm OK.を出しています。野田先生も、「自分は私利私欲で動いていて、その結果がたまたま人の役に立った」と思うのが安全だと。「自分は常に人助けをしようと強く願っています」と言うのは偽善者だと。
私の好きな『老子六十三章』には次のようにあります。↓
無為を為(な)し、無事を事とし、無味を味わう。小を大とし少を多とし、怨(うら)みに報(むく)ゆるに徳を以(もっ)てす。難をその易(い)に図(はか)り、大をその細に為す。天下の難事は、必ず易より作(おこ)り、天下の大事は、必ず細より作る。是(ここ)を以て聖人は終(つい)に大を為さず、故に能(よ)くその大を為す。夫れ軽諾(けいだく)は必ず信寡(すく)なく、易(やす)しとすること多ければ、必ず難きこと多し。是を以て聖人は、猶お之を難しとす。故に終に難きこと無し。
16,葉公(しょうこう)、政を問う。子曰く、近き者説(よろこ)ぶときは遠き者来たらん。
葉(しょう)の君主が、政治について聞かれた。先生は答えられた。「近所の者が喜んで集まるようであれば、遠来の者も自然にやってくるだろう」。
※浩→葉公は「楚」の国の重臣・沈諸梁のことで、孔子の晩年の友でした。その人が政治の要諦を問うています。孔子の答えは常識的で、常識的であるゆえに非の打ちどころのない答えである、と吉川幸次郎先生は述べられています。伊藤仁斎の解説も引用されています。「近距離にいる人民は、為政者のあらさがしをしやすいものであるが、実際の恩恵がしみわたっているために、悦服する。また年久しい誠意の堆積が、遠方の者を招き寄せる」と。
ちょっと理屈っぽくは感じられます。貝塚先生は、「近所の人が喜びなつくようなら、遠方の人も自然に集まってくる」というわかりやすい訳を採用されます。国際平和を唱えることは容易でも、隣人と不和だったら、矛盾しています。ロシアとウクライナは先祖は同じなのに戦っています。愚かとしか言えません。儒学で「人を愛する」というのは、まず、家族・近隣から。それを次第に拡大して、多くの人を愛するようにということでした。「博愛主義」でなくて「兼愛主義」と言われます。「格物致知~誠意~正心~修身~斉家~治国~平天下」でした。対人関係作りが苦手だった私は、1997年に現在の家に越してきた当時、南北の隣家とのつきあいに苦慮していました。そういうとき、ちょうど野田先生が児玉先生にカウンセラー養成講座で、「しあわせは心こもらぬ笑顔(言葉)から」という作戦を伝授されていたことも思い出して、「これだ!」と、まず北隣に実行しました。旅行や出張の際に、ささやかなお土産をあげました。そうすると徐々に緊張が解けるし、さらには、その家のご主人が、私の大学時代のボート部の親友・行司伸吾君の兄の親友だったことがわかって、一気に親しくなりました。南隣とは、その後もしばらくは手こずりました。その家がリフォームされました。私が仕事から帰宅すると、わが家の門扉から玄関あたりまでが“泥水まみれ”でした。何ごとかと茫然としましたが、気を取り直して、もう半泣き状態で門扉を洗っていると、隣家の奥さんが出てきて、「お知らせしようと思ったけどお留守でしたから」と言って、「手伝いましょう」とも言わないでさっさと引っ込みました。さすがにこれにはキレました。そのくせ、私がわが家へ入り込んだ地域猫に餌をやっていると、今度は旦那のほうが、かなり攻撃的に、「お宅が猫に餌をやるから、うちがトイレになっていて、困る。キチンとお宅で飼うか、餌をやめるか、どっちかにしてください」と。うちで飼いたくても、昼間留守なので無理で、結局諦めて、餌をやめることにしました。そんなこともあって、ずいぶん長い間、その家とは距離を置いていました。それでも、諍いはなるべくやめようと決心して、その後徐々に、こちらから緊張を解いて平常心でつきあうようにしていくうちに、すっかり関係は改善して、その後は何ごともなかったかのように穏やかにおつきあいできています。そのご主人は、2019年のお正月に食道癌で亡くなられました。諸行無常です。
15,定公問う、一言にして以て邦を興(おこ)すべきものありや。孔子対(こた)えて曰く、言は以て是(か)くの若くなるべからざるも、それ幾(ちか)きなり。人の言に曰く、君たること難く、臣たること易からずと。如(も)し君たることの難きを知らば、一言にして邦を興すに幾(ちか)からずや。曰く、一言にして邦を喪(ほろ)ぼすべきものありや。孔子対えて曰く、言は以て是(か)くの若くなるべからざるも、それ幾きなり。人の言に曰く、予(われ)君たることを楽しむことなし。唯(ただ)、その言いて予(われ)に違(たが)うもの莫(な)きを楽しむなりと。如しそれ善くしてこれに違うもの莫(な)きは、亦善からずや。如し善からずしてこれに違うもの莫きは、一言にして邦を喪ぼすに幾からずや。
魯の定公がおたずねになった。「ほんの短い一句で、国を隆盛させる金言のようなものはないだろうか」。孔子が謹んでお答えした。「言葉というものはそうすぐ本質に接近しうるようなものではありませんが、それに近いものならばございます。人民の諺に、『よき君主となることは困難であり、よき家臣となることも簡単ではない』というのがあります。もし本当によき君主になることの難しさがわかったら、この言葉こそわずか一言で国を隆盛させるものに近いと言えるのではございませんか」。定公がまたおたずねした。「短い一句で国を滅亡させるようなものがあるかね」。孔子が謹んでお答えした。「言葉というものはそうすぐ本質に接近しうるようなものではありませんが、それに近いものならばございます。人民の諺に、『自分は君主となったことを少しも楽しいと感じたことはない。ただ自分の発言に対して臣下が誰も反対する者がいない。それを楽しいと感じている」というものがございます。もし君主の言葉が正しくて、反対する者がいなければ良いでしょう。もし君主の言葉が間違っていて、誰も反対する者がいないのであれば、それはまさに短い一句で国家を滅亡させる原因となると言ってもよいのではないでしょうか」。
※浩→定公は、中年の孔子が魯の国務大臣であったころの君主です。定公との問答は、ここの他に「八佾(いつ)篇」に一箇所あります。そこでは、「定公問う、君臣を使い、臣、君に事(つか)うる、これを如何。孔子対(こた)えて曰く、君は臣を使うに礼をもってし、臣は君に事うるに忠をもってす」とあります。定公は、決して暗君ではなかったのですが、王族らしく、あまりにせっかちで、政治の効果を早くあげようとする傾向がありました。自分の頭脳を信頼して、家来の批判や忠言を聞くことを好まなかったそうです。定公の失脚はその結果だったと言える、と、貝塚茂樹先生の解説にあります。孔子の諫言を真摯に実行していれば、難を招くことはなかったでしょうに。
また、吉川幸次郎先生の解説によれば、荻生徂徠は、「後代の人々は、複雑な現象に対し、えてして簡単な要約を求めたがるが、それは聖人の意ではない」と言ったそうです。孔子の言った「言は以て是(か)くの若くなるべからざるも、それ幾(ちか)きなり」は考えさせられます。ソシュールのシニフィアンとシニフィエを学びたくなりました。
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フランス語で「シニフィアン」は「意味するもの(能記)」、「シニフィエ」は「意味されるもの(所記)」にあたる表現です。
一般言語学を構想することでソシュールが引き受けた課題は、言語学の対象を再規定するということでしたが、彼は、言葉を「物の名前」ととらえる伝統的な言語観を批判します。この言語観では、一つ一つの語と対象とがそれぞれ独立して存在することが前提とされ 、言語はその既存の両項の間に打ち立てられる関係として考えられています。しかしながら実際には、ある記号がその記号であり、その記号が「これこれの意味を持つ」ということは、他の記号との“差異”によってはじめて定まり、言語記号は物のように実在するというよりも、むしろ心的な体系のうちで対立化された“差異の束”として実現します。言語記号は実質substanceというよりむしろ形相formeです。そしてこの差異の体系の中では、xでもyでもないものとしてのzという形で否定的に規定されたシニフィアン(聴覚映像)とシニフィエ(概念)が同時に切り出される(野田先生は“切り取られる”)ことになります。これらはいずれも心的なものであって、物理的な音や指向対象(語によって指されている実在のもの)とは区別されなくてはなりません。またこの切り出しによって定まる、記号相互の関係は「価値valeur」、各記号におけるシニフィアンとシニフィエの関係は「意味作用signification」と呼ばれました。こうした考え方を通じてソシュールは、記号がすでに分節化された世界に付される単なるラベルではなく、世界の分節化そのものを支えるダイナミズムを秘めていることを示しました。
脳が雲丹(ウニ)状態になりそうですが、さいわい、野田先生から教わったことをつなぎ合わせていくと、だんだん理解できるようになります。よくおっしゃったのは、「言葉は地図であって現場ではない」「言葉は月を差す指であって、月そのものではない」とかです。
野田先生の昔の講演に「心理学における土着思想と反土着思想」というのがありました。その冒頭に、「創造的精神は常に批判的である」というエーリッヒ・フロムの言葉を引用されていました。臣下からの諌言(批判)を受け入れない独裁君主が失政することと通じます。現代の組織においても言えそうです。管理職がどこまで部下の意見を取り入れているでしょうか?
14,冉子(ぜんし)、朝(ちょう)より退く。子曰く、何ぞ晏(おそ)きや。対(こた)えて曰く、政あり。子曰く、それ事ならん、如(も)し政あらば、吾以(もち)いられずと雖(いえど)も、吾それこれを与(あずか)り聞かん。
冉子が朝廷(あるいは家老の家の会議)から退出してきた。先生が言われた。「どうしてこんなに遅くなったのだ」。冉子は答えて言った。「政務があったからです」。先生が言われた。「お前が言っているのは(政務でなくて)事務だろう(あるいは、直接仕えている家老の季氏の政務だろう)。もし重要な政治の問題があれば、私が朝廷の重要な役職に就いていないといっても、その政務について聞いているはずだから」。
※浩→「名」は常に実体と関係するから慎重でなければならない、と、孔子は諭したのでしょう。「政務」などという大袈裟な言い方をしないように、所詮「事務仕事レベル」だろう。もしも本当に政務といわれるほどの重要な会議ならば、孔子が知らないはずはない、と。言葉の定義については、アドラー心理学もとても重視しています。古くから「名は体を表す」と言います。
もう1つの解釈は、「会議と言っても、お前が言うのは、魯の国のための政治ではなくて、有力者である家老・季氏のだろう」。季氏のために奔走している冉子に対して、孔子は皮肉な忠告を返したのでしょう。君臣の義&礼の遵守を考えると、家臣である季氏よりも魯の君主のほうにより強い忠誠を誓って政務に励むべきだと孔子は考えていたはずです。
「大義名分」ということについて考えてみます。儒学文化圏では古くから、君臣・父子などの関係(名)には、相応の責任・役割(分)が付随し、それは正当なる人倫の分限にもとづいた価値判断(大義)にもとづいて正否が定まると考えられていました。このため、古来より現実及び過去の経験的実証的知識の蓄積である史実と「華(=中華)・夷(夷狄:いてき)、内・外」・「是非善悪」といった名分を組み合わせて大義名分のありようについての議論が行われるとともに、これにもづいた倫理的価値判断をもって現実の事象を評価することが試みられたのです。日本の幕末の“尊皇攘夷論”も、これでしょう。以前放映された大河ドラマ「青天を衝く」でも描かれていました。一般に「大義名分」は行動の根拠・理由という意味で、特に、「正当な理由」「正当だと感じさせる理由」という意味で使用されています。「言い訳」「口実」という意味で使われることもよくありますが、もとは孔子による言葉で、江戸時代には、朱子学の影響で主君への忠誠を重んじる言葉として使われました。本来の意味を離れて使うと、例えば、「大義名分をふりかざす」などというように。昔、戦時中の日本では、「お国のため」「天皇のため」(=大義名分)と言えば、どんな理不尽なことでも大手をふってまかり通った時代がありました。官主導の班組織「隣組」と呼ばれる町内会組織で国民を縛り、物資の供出や配給、思想統制、相互監視の役割を担わせ、非協力的だと「非国民!」呼ばわりして、排除の論理で国民を支配していました。ドイツのことわざに、「愛国心とは、ならず者の最後のよりどころなり」というのがあるそうです。大義名分を押し立てられると、人が逆らえなくなることを憂えたものでしょう。思い切り飛躍するかもしれませんが、「虎の威を借る狐」という諺もあります。三代目市川猿之助の代表的な歌舞伎「伊達の十役」で、お家騒動が裁かれるお白州の場で、名奉行の細川勝元が仁木弾正一味の利益を計ろうとした同僚の罪をあばくところで、まことに効果的に使われていました。〆の言葉は、「まことに、水は縦には流れませぬなあ」でした。今でも会社でこんなシーンが見られそうです。
上司:君、来週金曜日に、うちと、T 社、Q 社、D 社が集まって、出荷額の調整について、申し合わせをすることになったから、君も出席してくれ。
部下:部長、え、それって談合ですか?独禁法違反ではないですか?
上司:何を青臭いこと言ってんだ。会社という大義名分のためだろう。うちの会社がつぶれてもいいと思ってんのかよ!
13,子曰く、苟(いや)しくもその身を正しくせば、政に従うに於いて何か有らん。その身を正しくすること能(あた)わずば、人を正しくすること如何(いかん)せん。
先生は言われた。「もし自分自身が正しくしているのであれば、政治を行うことに何の問題があるだろうか。自分の行動を正しくすることができないのならば、他人を正しい方向に導くことなどがどうしてできるだろうか」。
※浩→儒学の政治思想の根本にある、率先垂範の修身について述べています。他人にあれこれ注意する前にまず自分自身が正しくあらなければならないということですが、現在の政治を見るにつけ、この当たり前のことが、政治家たちに守られていないことに怒りすらおぼえます。疑惑を受けた政治家に記者が質問すると、まともに答えるどころか、逆ギレして“脅し”をかけたりしています。学校でこそ教師にこの「率先垂範」の修身を期待したいものです。最近は、自分の性欲を抑えられず、生徒に対する教師の性犯罪が頻発しています。警察官や教師が泥棒で捕まったりします。もちろん、“聖人君子”であれというのではありません。「人間は不完全」ですから、あやまちを犯すでしょうが、それにしても、たくさんの“選択肢”の中から選りに選って“性的犯罪行為”や“窃盗”を選ぶことはないでしょう。これはその職業の人には“選択できない可能性”です。家庭で躾けを受けなかったのでしょうか。老子なら「大道廃れて仁義あり」というところでしょうか。
12,子曰く、如(も)し王者有らば、必ず世(よ/せい)にして後(のち)仁ならん。
先生が言われた。「もし(天命を拝受した)王者が出現すれば、三十年のうちに必ず仁にもとづく世界が実現するだろう」。
※浩→孔子の理想主義的な王者観と世界の変化について述べています。儒学では、武力による覇道政治よりも徳性による王道政治をより価値の高いものと考えるのですが、『論語』では“王者”という言葉が見られるのはここだけです。のちの『孟子』では、権力による支配者である“覇者”と対立する、天命を受けて成立する完全な君主としての“王者”が登場します。「世」は、三つの十の字を横に並べたもので、「三十」とするのが定説です。伊藤仁斎の説は、「世」とは、人間一生の意味で、王者はその一生のうちに、仁の世界を実現させる、と、解釈しています。
三十年といえば、私がアドラー心理学のカウンセラー資格をいただいたのが、1992年で、再受講して更新したのが1994年です。92年から数えると、今年“34年”のキャリアになります。高校教師を定年退職したのが、2002年で、こちらは24年になります。この間、アドラー心理学一筋で暮らしてきました。もしもアドラー心理学に出会えていなかったら、退職後はさぞかし生きがいの感じられない、枯れ果てた人生になっていたことでしょう。ぞっとします。この6月に85歳を迎えますが、今も毎月岡山工業高で講演をさせていただいています。ありがたいことです。
11,子曰く、善人邦を為(おさ)むること百年ならば、亦(また)以て残(ざん)に勝ち、殺を去るべしと。誠なるかな、是の言や。
先生が言われた。「普通の善人でも百年間国を治めれば、無法者を押さえ込んで死刑を廃止することができるという。本当だね、この言葉は」。
※浩→儒学には、道徳による教化と君子による啓蒙によって平和で豊かな社会を構築できるという、ある種のユートピアニズムが内在していると言えます。時と場所を、20世紀前半のヨーロッパに置き換えれば、まさしくアドラーが「共同体感覚」を提唱したことと重なりそうです。第一次世界大戦の敗戦国となったオーストリアに軍医として前線に出ていたアドラーが帰国して、ウィーンのカフェで弟子の1人が、「何か新しい発見がありますか?」と聞きました。アドラーは、「世界が今必要としているのは、新しい政府でも新しい大砲でもない。それは共同体感覚だ」と言ったのは、有名なエピソードです。日本は戦後、民主主義になったと言われますが、どう考えても日本の民主主義は、アナーキズムのようです。欧米の民主主義先進国は、新型コロナ・パンデミックのときロックダウンを行ないました。日本は、極端に「私権を守ること」に固執してか、都市封鎖など考えもしなかったです。現在の法律では、「私権を制限できない」と言いますが、これも変だと思います。憲法で、個人の権利は最大限尊重されるとありますが、それには「公共の福祉に反しない限り」という条件が付いています。知識人がテレビによく登場して談話していますが、「公共の福祉」に言及する人を見たことがないです。かつては、この「公共の福祉」という“しばり”が、個人の権利を侵害するための大義名分のように使われて、裁判でも争われたことがありますが、それが手かせ足かせになって、封じ込めてしまったのでしょうか?もちろん、国家権力の濫用による「私権の制限」は断じてあってはなりません。「公利」と「私利」のバランスはいつの時代にも難しい課題なのでしょう。
「善人邦を為むること百年ならば、亦以て残に勝ち、殺を去るべしと」は古来からの諺だそうで、孔子はこれに同感しています。「善人」は最高の徳を備えた「聖人」には劣りますが、「概ね善意の人」くらいの意味でしょう。「賢者」と考えてもいいでしょう。
少し深めてみましょう。
そもそも近代の憲法は、国家権力に歯止めをかけて、国民の人権を守るために生まれました。ですから、憲法は「人権保障の体系」であるということができます。そしてここで人権を保障される国民は、あくまでも個人として尊重されなければなりません。「個人の尊重」こそが憲法の基本的な価値なのです。
そのことを憲法は「すべて国民は個人として尊重される」と規定しました(憲法13条)。人権の発想はこのように国民を一人ひとりの個人ととらえることから始まります。社会的な地位や身分関係で国民をとらえるのではなく、あくまでも一人ひとりの個人として、その生き方や存在を尊重し肯定するのです。
このように「個人の尊重」を根本価値とする人権ですが、実は絶対に制限されないわけではありません。このことを憲法は「公共の福祉」という言葉を使ってあらわしました。12条には「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ」とあります。
また13条の後段にも、「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」とあります。他に22条や29条2項にも登場します。これらの「公共の福祉」とはどのような意味なのでしょうか。
皆さんは「公共の福祉によって人権が制限される」と聞くと、どのようなことを思いうかべますか。「社会の秩序や平穏という公共的な価値のために、個人はわがままをいってはいけない」というイメージを持ちませんか。または、「多数の人の利益になるときには、少数の人はガマンすべきだ」という意味だと感じませんか。
実はこれらの理解は、正しいものとはいえないのです。
仮に「社会公共の利益」といった抽象的な価値を根拠に個人の人権を制限できるとすると、「個人よりも社会公共の利益の方が上」ということになってしまいます。これでは「個人が最高だ」とする個人の尊重の理念に反してしまうのです。
個人が最高の価値であるのならば、その個人の人権を制限できるものは別の個人の人権でなければなりません。つまり個人の人権を制限する根拠は、別の個人の人権保障にあるのです。
私たちは憲法によって人権を保障されていますが、当然のことながら、他人に迷惑をかけることは許されません。たとえば、いくら私たちに「表現の自由」が保障されているといっても、他人の名誉やプライバシーを侵害してまで表現する自由が無制約に認められているわけではないのです。どのような人権であっても、他人に迷惑をかけない限りにおいて認められるという制限を持っています。
私たちが社会の中で生活をしていく以上、ときに、「ある人の表現の自由vs別の人の名誉権やプライバシー権」のように、人権と人権は衝突します。そしてその衝突の場面においては相手の人権をも保障しなければなりませんから、自分の人権はそのかぎりで一定の制約を受けることになります。
すべての人の人権がバランスよく保障されるように、人権と人権の衝突を調整することを、憲法は「公共の福祉」と呼んだのです。けっして「個人と無関係な社会公共の利益」というようなものではありません。また「多数のために個人が犠牲になること」を意味するのでもありません。
「公共の福祉」による人権制限の問題を考えるときには、対立する利益をつねに具体的に考えなければなりません。「誰のどのような利益を守るために人権を制限するのか」をしっかりと意識しないと、「国益」というような抽象的なものでの制限を許してしまいかねないからです。仮に「国益のため」という理由が語られたときには、その「国益」の中身が具体的にどのようなものなのかを考えてみることが必要です。
たとえば以前に、イラクで日本人が人質に取られるという事件が起こりました。このときに「自衛隊を撤退させずに国益を守る」というのであれば、「生命という最大の人権を犠牲にしてまで守るべき国益とは何か」を具体的に考えなければなりません。そうでないと、「国益」という言葉に安易に流されてしまいます。国の都合で人権が制限されることがあってはなりません。
そもそも「公共の福祉」のことを英語ではpublic welfare といいますが、このpublicとは、「人民」がもともとの意味です。つまり「人びと」ということです。ところが、日本語の「公」はもともと、「天皇」や「国家」をさしました。
人権を制限するときに「公共の福祉」とか「公のため」という言葉を使うときにも、私たちはあくまでも、具体的な人びとの幸せを想定して考えていかなければならないのです。
10,子曰く、苟(いや)しくも我を用うる者有らば、期月(きげつ)のみにして可なり。三年にして成る有らん。
先生が言われた。「もし私を(為政者として)採用してくれる君主がいれば、一年間で政治の実績を出すことができる。もう少し言えば、三年の時間を貰えれば十分な成果を出せるだろう」。
※浩→為政者としての自信を語っています。孔子が衛にいたとき、老年の霊公が政治を怠り、孔子の言葉に耳を傾けようとしないので、嘆息してこの言葉を発したとされます。以上は、吉川幸次郎先生の解説です。
一年で実績を出し、三年あれば完全ものを実現できるとは、すごい自信だと思えます。 K先生は、2017年にT工業高校に転勤されて、はじめは「能ある鷹は爪を隠す」で、管理職以外には、自分がアドラー心理学の認定カウンセラーであることを伏せて、とにかく初年度は大人しくしているつもりでした。それでも、キリを袋に隠しても先が飛び出すように、その才能が徐々に職員の間に知れて、いつの間にかいろいろな先生から相談を受けるようになっていました。相談室長は他の先生がなさっていましたが、着々と準備を進められて、2018年の1月には、私を「職員研修会」の講師として招かれました。これが現在の「T工業高校相談室講座」のスタートです。私の講演活動は、これまでは、教師他にも保護者や地域の人など広く参加いただける形態でした。これからは、この学校の先生方限定の会になりました。それでも、すでに、二度も倉敷講座時代の参加者が遠路津山までおいでくださり、先生方に混じって学ばれました。アドラー心理学を学び実践される先生が徐々に増えていくにつれて、学校の雰囲気変わっていきました。生徒さんたちも先生方もとても穏やかに過ごされているようです。私はスクールカウンセラーとしてお勤めしましたが、個人カウンセリングの予約は次第になくなりました。別に「お茶を引いている」わけではなくて、職員向けの「講義」が毎回あって、ここで、先生方がアドラー心理学を学ばれ実践されることと、個人相談が少なくなってきていることで、担任の先生方が、ご自分で対処できるようになってきたからだと思います。元祖アドラー博士も、故・野田俊作先生も、晩年はカウンセリングよりも「講演」活動がメインになっていました。私も今は後継者の育成に全力を尽くす時期になったようです。寂しさと誇らしさがミックスです。
9,子、衛に適(ゆ)く。冉有(ぜんゆう)僕たり。子曰く、庶(おお)きかな。冉有曰く、既に庶(おお)し。また何をか加えん。曰く、これを富まさん。曰わく、既に富めり。また何をか加えん。曰わく、これを教えん。
先生が衛に行かれたときに、御者の冉有に先生が言われた。「衛の首都は人の数が多いな」。冉有が質問した。「すでに人は多いようですが、あと衛に何を加えましょうか」。先生が言われた。「この人たちを富裕にしよう」。冉有がさらに言った。「人々を富裕にしたあとは、何を加えますか」。先生が言われた。「その人たちに教育を与えよう」。
※浩→B.C.497年に魯から衛に亡命した孔子は、多くの人で賑わってる衛の都の様子を馬上から見ながら、経済生活の安定と教育体制の充実の重要性について御者の冉有に語っています。まずは福祉国家であること、その上に文明は成り立つ。「衣食足りて礼節を知る」というのは、斉の菅(かん)氏の言葉で、法家思想だそうです。これとも通じますし、もっと極端に、下部構造(経済)という社会全体の土台が上部構造(法律的・政治的/イデオロギー的)を因果的に決定するという、マルクスの説も思い出させます。ただ、今の日本はどうでしょうか?「衣食足りて」いるようですが、実際には「足りている」のはごく一部の人たちで、貧困に苦しんでいる老若男女が多いでしょう。ヤングケアラーや老老介護、ホームレスの人たちの話題もたびたび取り上げられます。連休などで全国の観光地が賑わっている反面、、憲法が保障しているはずの「健康で文化的な最低限度の生活」はどうなっているのかと思うことしばしばです。政治家さんは今日の「論語」の内容をご存じでしょうか?やはり教育です!教育って受験教育だけではないはずです。
8,子、衛の公子荊(こうしけい)を、善く室に居ると謂う。始め有るに曰く、苟(いささ)か合(あつま)る。少し有るに曰く、苟か完(まった)し。富(さか)んに有るに曰く、苟か美(よ)。
先生が、衛国の王族の公子荊のことについて言われた。「家計の切り盛りが上手である。はじめて財産ができたときには、『これでやっと足りる』と言い、少し財産が貯まってきたときには、『これでようやく一人前になった』と言った。大きな財産ができたときには、『なんとかこれで立派になりました』と言った」。
※浩→孔子が家産を蓄積することに巧みだった公子荊について評価しています。「室」は家の私有財産。「居」は元来“座る”の意味で、ここから“忍耐を伴った持続的な処理”を意味し、さらに“貯える”意味となったと言われます。孔子は「浪費を嫌いながら蓄積することの大切さ」を説いています。公子荊は、財産が多少貯まったくらいで「自分はお金持ちである」と慢心せずに、「これでやっと足りる」と、すっかり大きな財産ができても、「なんとか良くなった、立派になった」と、まことに謙虚です。謙虚なところを孔子が高く評価しましたが、財産の使い方は適切だったかどうか、いささか気になります。例えば、蓄財ができたら、そこから世のため人のために一部を提供したりしたか。あるいは、逆に、吝嗇(りんしょく)を極め、ケチを通したか。吝嗇なら、ディッケンズの「クリスマスキャロル」を思い出します。
ロンドンの下町で商売をしているスクルージは、強欲で、エゴイストで、ケチで、思いやりのカケラもない人物として嫌われていました。慈善的な寄付なんていうのはもっての他、7年前に亡くなった共同経営者のマーレイの葬式から、副葬品であるお金を持ち去るほどの強欲ぶりでした。そのマーレイの幽霊が、クリスマスの前日の夜スクルージの前に現れます。そして、なぜか鎖でがんじがらめになった姿で「金銭欲にまみれた人間にどんな悲惨な運命が待っているか」ということを教えるのです。そしてスクルージの生き方を変えるため、3人の幽霊が今から姿を現すということを言い残していきます。
3人の幽霊は、それぞれ「過去」「現在」「未来」の精霊としてスクルージの前に順番に姿を現しました。そして彼に関係するさまざまな光景を見せるのです。それは彼が忘れていたこと、思い出したくないこと、見たくもないことばかりでした。目の前に現れる光景に心を揺さぶられ、疲れ切った彼は、未来の精霊が見せた最後の場面に衝撃を受けるのです。
この作品は、あの有名な村岡花子さんの翻訳があります。またじっくり味わってみたいです。
落語で吝嗇といえば、まず思い出すのは、「味噌蔵」です。たっぷりお楽しみください。
この物語の主人公、ケチ兵衛は味噌屋を商売としている。仕事はしっかりするのにまだ独身です。ある日、親戚一同が集まり、どうしても嫁をもらわないというのなら、世間に対してみっともないから今後のつきあい断ると脅され、、結局、ケチ兵衛は、泣く泣く嫁をもらうことになりました。嫁をもらっても、同衾しません。子どもでもできたら入費がかかるからと。ところが、ある寒い夜、例によって独り寝をしていますが、寒くて仕方ない。まさか丁稚を抱いて寝るわけにもいかない。2階でギシッと物音がします。「なんだ、鼠か?鼠にしては音が大きい。そうか!あたしゃ2階に嫁がいたんだ。あんな大きなお尻で寝返りでもうったら、畳がすり減る。そうか、嫁と寝りゃいいんだ」。奴さん、枕を抱えて2階へ上がり、嫁さんの床へするりと入り込む。嫁さんは大喜びで、そういうことが何度か続いたある日のこと。嫁が「あなた、わたしできちゃったんです」。「できちゃったって、できものか?そんなの吸い出しで出してしまいな」「おできじゃございませんよ。見るものを見ないんです」「見るものをみないって、芝居でも見たいのか?やめとけやめとけ、あんなもの無駄遣いだ」「どう言えばいいんでしょうね。赤ちゃんができたんですよ」「えー!大変だ」。というわけで、番頭に泣きついて、「どうしようか?」「どうしようかって、旦那様おめでとうございます」「人が困っているのに、おめでとうはないだろ」「それならいっそお里へお返しになったら?」「そんな薄情なことはできないよ。身ごもったからといって、実家へ返すなんて」「離縁するんじゃありませんよ。初産はお里でなさるほうが、奥様も気が楽ですし、ご実家の親御さんもお喜びになるでしょう」ということで、番頭さんの助言に従って、奥さんを実家へ返します。月満ちて、お里から男の子が誕生したとの知らせ。「どうしようか」とまた番頭さんに相談した結果、ケチ兵衛は小僧の定吉を連れて、挨拶に行くことにしましたが、番頭に「今夜はひょっとしたら泊まることになるかもしれない。火の用心にはくれぐれも気をつけておくれ。万一、近所から火事が出たら、蔵の壁を味噌で目塗りしなさい」「どうしてですか?味噌がもったいないでしょ」「焼けた味噌は香ばしい。剥がして皆の朝飯のおみおつけの具にすれば無駄がない」と言い残し、定吉を伴って出て行きました。
旦那が出かけてしまうと、奉公人たちは普段の食事のまずさを番頭さんに訴えます。それもそのはず、今までは具のない味噌汁しか出なかったのですだから。「この前、珍しく味噌汁に具が入っていたんですよ。でも、箸でつかんでもつかんでも取れない。よく見ると自分のめん玉が映っていたんです。自分のめん玉を箸でつかむようになっちゃあ、世もおしまいだ」。番頭さんも、もちろんそのつもりで、帳面をドガチャカドガチャカ誤魔化すことになった。皆から注文を聞くと、刺身から鰤の照り焼き、うな丼、卵焼きと出てくる出てくる、最後に横町の「から屋に田楽あり」と書いてあったので、「それも!」と言うと、番頭は「から屋って店があったか?」「ほら、角から2件目の、いつもおからを買いに行く……」「ありゃ、から屋でなくて豆腐屋だよ。うちじゃあ豆腐なんか買わないから、から屋って思ってたのか。涙ぐましいねえ」と、それらをすべて注文して、田楽は冷めると美味しくないから、二、三丁ずつ焼けたら持ってきてもらうことにしました。それから、飲んで食ってのどんちゃん騒ぎ。帰ってこない旦那の悪口を言いながら皆上機嫌です。そんなとき、まさかの旦那のお帰りです。店の近くまで帰ると、どこかの家でどんちゃん騒ぎ。さらに近づくと、自分の店。大戸を叩いて番頭を呼び出すと、すでにベロンベロンに酔っ払っています。奉公人たちは驚いて、急いで片づけるもあとの祭りで。すっかりバレていまいました。旦那はカンカンに怒り狂って、「今夜の不始末のつけに、お前たちは一生無給金で働いてもらう」と、叱りつけます。そんなとき、「焼けてきました~」と横丁の豆腐屋の声。旦那は「何、焼けてきた?火事だよ。どんな感じだ?」「二、三丁焼けてきました、あとからどんどん焼けてまいります」「大変だ、これは」と、慌てて戸を開けると鼻先に田楽の匂いがプーン。「いけない!味噌蔵に火が入った」。
おあとがよろしいようで。