55,試合がんばって
#ツボ:「がんばる」は「がんばらなくていい」(リラックスしてもらう)
「あなたの試合の幸運を祈ります」
Good luck on your match.
#応用
他に、「楽しんで」=Have fan. 「気楽に」=Take it easy.
(人差し指と中指をクロスさせて)「成功お祈りしています」=I'll my fingers crossed.
#練習
(就職面接試験に向かう友人に)「就職の面接がんばってね」
Good luck on your job interview.
(指をクロスさせて)「がんばってね。成功お祈りしています」
I'll keep my fingres crossed.
#単語帳;武道
@柔道の有段者=black-belt judo expart、
@「空手の5段です」=I am fifth dan in karate.
@弓道=Japanese archery
56,その隅っこのもうちょっと奥に!
#ツボ:「隅っこ」「奥」はどこのこと?
「奥」は自分から遠い場所=back、「ちょっと奥」=a little bit back
「手前」は自分に近い場所=front、「ちょっと手前」=a little bit front
「その隅っこのもうちょっと奥に!」=「もう少し後ろのほうに!その角の」
Just a little bit back into the corner.
#練習
(置いてあるものをずらしてもらうとき)「もうちょっと手前に近づけて」
Just a little bit closer to the front.
「そんなに隅っこギリギリにしないで!」
Not too close to the corner.
#単語帳;日本文化
@提灯=paper hanging lantern
@盆栽=bonsai
@いけばな=flower arrangement、
@茶の湯=tea ceremony
25,子曰く、君子は事(つか)え易(やす)くして説(よろこ)ばしめ難し。これを説ばしむるに道を以てせざれば、説ばざるなり。その人を使うに及びては、これを器(うつわ)にす。小人は事え難くして説ばしめ易し。これを説ばしむるに道を以てせずと雖も、説ぶなり。
先生が言われた。「君子にお仕えするのは簡単だが、君子の心を喜ばせることは難しい。それは、正しい道に従って喜ばせなければ喜んでくれないからだ。君子が人を使役する場合には、(限られた用途を持つ)器のように役割を果たしさえすればよいと考える。小人に仕えるのは難しいが、喜ばせるのは簡単である。小人は正しい道に従っていなくても、ご機嫌取りをすれば喜ぶからである」。
※浩→君子は「理性的な道理」を基準にしますから、理性にはずれたことで喜ばせようとしても喜ばない。小人は理性的でないことによってでも喜ぶ。「器」=器物はそれぞれの用途を持っている。人を使う場合は、相手の特殊な才能を尊び、その才能に応じた使い方をする。道理は1つでも、人間の行動や思考は多様で、それに対する熟慮を持ってこそ、君子と言えます。このことを考慮して人を使っていれば、今騒がれている「パワハラ」はなくなりそうです。“All or nothing”は君子の道ではない、と、吉川幸次郎先生が、嬉しいことをおっしゃっています。賄賂をもらって喜ぶ政治家や、お金で票を買収しようとする政治家には、アドラー心理学で言う「相互尊敬・相互信頼・協力・目標の一致」を知らないでしょう。
第41課 義務の表現
<義務の表現>
#キーフレーズ
急いで準備しなければなりません。
ソドゥrロ チュンビ ヘヤ ドェヨ
서둘러 준비해야 돼요.
#公式「~しなければなりません」(義務の表現)
・「陽母音語幹+아야 돼요(or 해요)」
・「陰母音語幹+어야 돼요(or 해요)」
・「하다動詞→해야 돼요(or 해요)」
頑張ら(一生懸命し)なければなりません。
ヨルシミ ヘヤ ドェヨ
열심히 해야 돼요.
「頑張る」の他の表現=힘내다 ヒmネダ(←力を出す)
※縮約形に注意
힘내+어야 돼요→힘내야 돼요 ヒmネヤ ドェヨ(頑張らなければなりません)
<練習>
誕生日にはケーキを食べなければなりません。
センイrラレヌン ケ'イク'ルr モゴヤ ドェヨ
생일날에는 케이크를 먹어야 돼요.
電話をかけなければなりません。
チョノァルr コロヤ ドェヨ
전화를 걸어야 돼요.
旅先では写真を撮らなければなりません。
ヨヘンジエソヌン サジヌr ッチゴヤ ドェヨ
여행지에서는 사진을 찍어야 돼요.
宿題をしなければなりません。
スkチェルr ヘヤ ドェヨ
숙제를 해야 돼요.
チケットがあるので映画を見なければなりません。
ティ'ケ'シ イッスニッカ ヨンフォァルr ポァヤ ドェヨ
티멧이 있으니까 영화를 봐야 돼요.
<ライブ・アンコール>
#キーフレーズ
忙しくて死にそうです。
パッパ チュッケッソヨ
바빠 죽겠어요.
※「忙しくて」の変形──
「お腹空いて」=배고파
「寒くて」=추워
「うれしくて」=좋아
<スキット>
急いで準備しなければなりません。
ソドゥrロ チュンビ ヘヤ ドェヨ
서둘러 준비 해야 돼요.
これからもっと大変になるだろうから もっと頑張って闘わなければなりません。
アプ'ロト ヒmドゥロジr テ'ニッカ ト ヒmネソ ッサウォヤ ドェヨ
앞으로 더 힘들어질 테니까 더 힘내서 싸워야 돼요.
そのとおりです。いいアイデアで勝負しなければなりません。
マジャヨ チョウン アイディオロ スンブヘヤ ドェヨ
맞아요. 좋은 아이디어로 승부해야 돼요.
完
24,子貢問いて曰く、郷人(きょうじん)皆これを好まば何如(いかん)、子曰く、未(いま)だ可ならざるなり。郷人皆これを悪(にく)まば何如。子曰く、未だ可ならざるなり。郷人の善き者これを好み、その善からざる者これを悪むに如かざるなり。
子貢がたずねた。「村人全部から好かれるという場合、その人物はどうでしょうか」。先生は言われた。「まだ十分ではない」。子貢が言った。「では、村人全部から憎まれるというのはどうでしょか」。先生が言われた。「まだ十分ではない。村人の中で、善い人から好かれ、悪いから憎まれる者に及ばない」。
※浩→大衆すべてから好かれる人物は八方美人です。また、すべてから憎まれ嫌われる人物は、性格に欠陥があって、「同して和せず」になりやすい。SNSへの投稿で多数の「いいね!」をもらえたからといって、それで投稿者の人格が評価されたことにはならないでしょう。アドラー心理学では、「共同体感覚」を価値判断の基準にしますが、よく似た用語に「共通感覚」というのがあります。これは「多数の人に共通」の価値観ということです。ある特定の個人にしか通用しない「私的感覚」に比べると客観性は大きいでしょうが、それが「真実」かどうかは疑わしいです。みんなが賛成したからといって、正しくないこともあります。ですから、「多数決」はほんとは危ないです。多数で間違いを犯すこともありえますから。
「善い人から好かれ、善くない人から憎まれる人物がより望ましい」と締めくくっています。これだと「同して和せず」になりにくいです。昔、ルソーの社会契約論を学んでいて、「一般意志」と「全体意志」の違いについて、あれこれ思案したことがあります。今の、「共同体感覚」と「共通感覚」の違いを考えるようになって理解できました。「全体意志」は個々の具体的な意志の総計で、「一般意志」は抽象的な“理念”です。
23,子曰く、君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず。
先生が言われた。「君子は、他人と心から一致するが、うわべだけの同調はしない。小人はうわべだけ同調するが、心から一致することはない」。
※浩→ここは有名です。短いし、すぐ暗記できます。君子の交友のあり方がシンプルに説かれています。君子はそれぞれに主体性を持ちつつ、人々と調和するが、小人はその逆である。「和」と「同」の違いについては、吉川幸次郎先生が『左伝』の「斉の景公と晏嬰(あんえい)の問答」をを引いて詳しく解説されています。
狩猟から帰ってきた景公が首相の晏嬰と遄台(せんだい)でくつろいでいると、佞臣(ねいしん)の梁丘拠がやって来た。景公は梁丘拠を指さしながら、「あの男は私と和する」と言った。晏嬰は「あの男は“同”であって、“和”ではありません」と言い、さらに説明しました。「和」とは、例えば、吸い物が、水、火、醤油、塩、梅酒と、魚肉との調和であるごとくである。それに対し、「同」とは、水に水を足し、また琴の絃(いと)の同じところばかりを叩くようなものであって、なんら建設的でなく、生産的でない。あの男は、あなたの意見がいかようであれ、すぐにそれに賛成する。だから“同”であって“和”ではない。“和”というのは、二つの異なる心を持った人間が、心から打ち解けて友になることです。ちなみに私が勤務したことのある高梁工業高校の校訓は「自律友愛」でした。これは世界平和にもつながるカントのフレーズです。
SNSに投稿して、「いいね!」をもらえないと落ち込む人が増えて問題になっていると、報道されたことがありました。これなど主体性のなさの典型のようです。他人の評価で自分の幸不幸が決まる。自分の幸福のスイッチを握っているようで、どこに主体性があるのでしょうか。「主体的に他人に任せている」と言うかもしれませんが、これは詭弁です。アドラー心理学理論の基本前提のトップが「個人の主体性」です。キルケゴールの実存主義哲学でも、「主体性が真理で、客観的な事実を知ったところで、それが何になろうか」と言われています。ヘーゲル哲学の弁証法は「あれもこれも」タイプの量の弁証法で、キルケゴールは、「あれかこれか」主体的に選択・決断することの重要性を説く、質の弁証法を説きました。校訓をいくつか思い出しました。自分が生徒だった学校で覚えているのは中学校です。岡山市立丸の内中学校は「勉学・品位・耐乏」です。勤務校では、岡山工業高校が「誠実勤勉」で、スクールカウンセラーを務めた津山工業高校は「至誠敢行」でしたか。「誠」という文字は日本人好みでしょうか?昨今、「人を騙す」犯罪が激増していますから、この語を空文化してはいけないと思います。どこで間違えたのでしょうか?
23,子曰く、南人(なんじん)言えること有り。曰く、人にして恒(つね)なければ、以て巫医(ふい)を作(な)すべからずと。善いかな。その徳を恒にせざれば、或いはこれに羞(は)じを承(う)く。子曰く、占わざるのみ。
先生が言われた。「南方の人間が、『恒常性のない人は、祈祷師や医師も手のつけようがない」と言っていた。これは良い言葉である。(古来の諺にも)『行動に恒常を欠く者は、恥辱を受ける』という言葉があるではないか」。先生が言われた。「行動に持続性がないのだから、未来の吉凶を占いうる対象にはならない」。
※浩→ここは古注と新注とで、甚だしく解釈が異なります。吉川幸次郎先生は古注で、貝塚茂樹先生は新注で解説されています。その対比が面白いです。私は、ここは簡潔に古注に則った吉川先生に従います。
「南方」については、新古ともに、ただ「南国の人」と漠然と述べているだけですが、貝塚先生が詳しく説明されていますので、これはこちらいただきます。孔子の時代の魯の国は、長江の南の呉や越とはすでに交渉を持っていましたが、それらの国は東南方向で「東方」の国と見られていたようです。したがって、ここで言われる「南方」は、武漢地方の「楚」を指すのではないかということです。
行動の恒常性というと、アドラー心理学では、目標追求する「ライフスタイル」という概念を想起させます。さらに、人間の行動に「冗長性」という特徴を見出します。両方を詳しく説明すると長くなりすぎますので、ここでは、耳新しい「冗長性」だけ取り上げてみます。野田俊作先生が2017年に残してくださった資料から引用させていただきます。
↓
ある1つのエピソードは、子ども時代からずっと繰り返されている《冗長性》(哲学では《構造》)の一部分だ。
クライエントの話の中には「困った人」が出現する。なぜ「困った人」が出現するかというと、クライエントのある《冗長性》が「困った人」を作り出すからだ。例えば、長子は家の中で起こることのすべてを知っていたい人が多いのだが、末子はそうでもない。だから末子は、長子が喜ぶだろうと思って、長子に内緒で親と相談して、長子へのプレゼントを決めたりする。長子は、自分に内緒で相談されたことを、逆に言うと自分を除く全員が知っていて自分だけが知らないことを、ひどい侮辱だと感じて怒り出す。しかし末子は、なぜ長子が怒るのか理解できない。つまり、末子にとって長子は「困った人」に見える。しかし、それは末子が長子を理解しないで勝手に行動した結末であって、少なくとも末子を主役にしてサイコドラマをする限り、長子には何も問題はなく、末子の「見落とし」に問題があると読み解かなければならない。
そう思ってエピソードを「味わう」。そうすると、聴くべき追加情報がわかる。そういうことを考えないで、何はともあれ追加情報を集めようと思って聴き始めると、無駄な情報を山ほど集めて、時間が無駄に経っていく。かといって追加情報を何も聴かないでドラマに取りかかると、問題の核心部をはずしたドラマになって、その事件については有効かもしれないが、《冗長性》と関係のないところで仕事をしているかもしれないので、他の事例には無効かもしれない。
エピソード分析をするのは、《冗長性》を証明するための1つの方法だ。ということは、分析を始める前に、クライエントの《冗長性》について、ある程度の見通しがついている必要がある。そこまでは「エピソード」を味わい、必要な追加情報を聴取し、その上で、どの《対処行動》を選ぶかを決めもするし、《仮想的目標》についても、あるいは《私的感覚》についても、推量した《冗長性》と関連づけながら考える。そうすると、クライエントから見ても聴衆から見ても、うんとわかりやすい芝居になるはずだ。
アメリカでアドラー心理学を習ったとき、モザク先生から《推量 guessing》ということを教えていただいた。曰く、「他派の心理学は、現在の問題についての情報を集めて、それから既往歴や発育歴や家族歴を聴いて、これまでのカウンセリング歴を聴いて、それでもまだ足りなくて心理テストをして、すべての結果が出るまでは動き出さない。これに対してアドラー心理学は、1つの話を聴いたら、そこから推量できることを推量し、その推量にもとづいて足りない情報を聴き取る。それはちょうどジグゾーパズルのようなもので、全体の構図を見て足りないピースが何かを見定め、その内で、それをはめ込むと最も情報の増分が多そうな部分を聴く。それをはめて、まだ全体が見えなければ、もう1つ情報を聴く。そうして、全体の構図が推量できるところまで行ったら、できるだけ早く治療操作に取りかかる」ということだ。
未熟な治療者は臨床現場でケロッと《推量》のことを忘れて、重要なピースが欠けたままで治療操作に取りかかったり、どうでもいいピースをたくさん集めたりする。サイコドラマでは、聴衆もいるし、芝居らしく仕上げないといけないし、時間に追われることもあるし、クライエントからエピソードを聴いて、それだけで動き出す人が多い。エピソードを聴き終わったら、一度立ち止まって、構図全体を眺めてみるのがいい。
構図は、空間的なものと時間的なものがある。空間的というのは、例えば話に登場していない家族メンバーであり、例えばクライエントや相手役の職業だ。妻が主役で相手役が夫の事例があって、妻が夫に子どもの歯磨きを頼んだら、夫は引き受けてから、「そうだ、爪切りしよう」と言って、爪を切り始めた。この話を聴いて、夫は理系だろうと私は《推量》した。それでたずねてみたら、やはりそうだった。それがわかると、多くのことがわかる。たとえば妻は、「爪切りが済んだら、歯磨きをお願いね」と言っておけば、それでいい。理系の仕事ってそういうもので、そういうことに順応できる人だけが楽しんで理系の仕事をできる。
時間的な構造は、冗長性がある限り、今の相手役とは違う人に対して、同じ構図のやりとりをしたことがあるはずだし、それを遡っていくと、子ども時代の出来事にまで遡れるはずだということだ。あるいは、現在は破壊的に働いている冗長性が建設的に働いている場合もあるはずだ。実際にそうして別のエピソードを引っ張り出さなくても、同じ冗長性が建設的に使われたり破壊的に使われたりしていて、どういう条件があれば建設的になり、どういう条件があれば破壊的になるのか、推量してみる必要がある。そうして最小必要なことを聴き取る。
アンスバッハーは、アドラー心理学は《深層心理学 depth psychology》というよりは《文脈心理学 context psychology》だと言っている。つまり、現在のエピソードは、大きな《物語》の一部であって、しかもその《物語》には単調な《冗長性》があるので、《物語》の文脈の中に当てはめれば、現在のエピソードの意味は読み解けるということだ。
私は、小説を読むときも、ストーリー展開よりもむしろ論理展開を読む。《論理》とここで言っているのは、「AであればPであるし、AでなければQである」というような文章の《型》のことだ。たとえば、昨日、「妻が夫に子どもの歯磨きを頼んだら、夫は引き受けてから、『そうだ、爪切りしよう』と言って、爪を切り始めた」という事例をあげた。この場合、妻が夫に子どもの歯磨きを頼んだら、P)すぐに取りかかる場合と、Q)すぐに取りかからないで、例えば「そうだ、爪切りしよう」などと言う場合とがあるはずだ。このPの場合は「Aである」場合であり、Qの場合は「Aでない」場合のはずだ。じゃあそれは何かと考えたら、夫から見て、Aは「子どもがすぐには歯磨きにとりかかりそう」な場合であり、そのときは「Aでない」と判断したのだろう。だからP[すぐに歯磨きにとりかかる]代わりにQ[自分の爪を切る]という行動を選択したのだろう。そこには夫の《私的論理》がちゃんとあったはずだと考える。
アドラー心理学は、すべての登場人物がみずからの《私的論理》で行動していると考える。それはその人なりに筋の通ったものなのだが、相手役から見ると筋が通っていないように見えることがあって、それでトラブルが起るわけだ。治療者は、そのおのおの登場人物の筋、すなわち《私的論理》を見破る必要がある。そのためには、おのおのの人の行動の《部品》ではなくて《構図》を見る力を養わなければならない。
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うーん。まだ脳がウニ状態になりますが、読み返すとだんだん理解できそうです。これまで断片的に学んだことがここに詰まっているように思えますから。
21,子曰く、中行(ちゅうこう)を得てこれに与(くみ)せずんば、必ずや狂狷(きょうけん)か。狂者は進みて取り、狷者は為さざるところあり。
先生が言われた。「調和のとれた中庸の徳を持った人間を見つけて友とすることができない場合は、やむをえず、狂者か狷者を友人にするか。狂者つまり情熱家は積極的に行動するし、狷者つまり強情家は絶対に妥協しない。
※浩→孔子は君子の友人を得る基準として「中庸の徳」を重視していました。その中庸の徳を持った友人がいなければ(仕方ないので)、世間の欲得と保身で動く単なる常識人よりも、個性が強い狂狷の人物のほうが友にふさわしいと考えていたようです。温厚に見える孔子が、中庸の人がいないなら、狂者・狷者を友にせよということは、単なる常識人や俗物を軽蔑していたのでしょう。アドラー心理学では、非行傾向の少年たちと引きこもり傾向の少年たちとでは、立ち直りやすいのは、非行傾向のほうだと言われます。どうしてかというと、彼らにはエネルギーがあるから、それを有益な方へ転換できれば、即、立ち直れる、と言うのです。おとなしくて目立たない子どもたちは問題がないかのように見えても、自分にしか関心がなく、世の中のために貢献しようという意欲を持たないとすれば、このほうが問題です。野田先生は、中風の患者さんを例に説明されました。中風には、「突っ張り中風」と「ブラブラ中風」とがあって、「突っ張り中風」の人は、その突っ張る力を利用して快復が早いのだとおっしゃいました。古い話ですが、1989年の岡山でのアドラー心理学会総会に招聘したクリステンセン博士(当時、アリゾナ大学)は、講演の中で次のように語られました。
↓
何年か前、高校の教師をしていたころ、オートバイ・クラブのアドバイザーになってほしいと言われたことがありました。革のジャンパーを着てタフで、とても意地悪い生徒のグループでした。彼らは宝物もたくさん持っていました。たぶん、他の車からラジエーターを盗んで手に入れたお金で買ったようでした。私は勝手に、彼らのお金でカードを作りました。カードには、「ハイスクールのオートバイクラブからあなたは助けられました」という言葉を印刷しました。そしてそれは、車が故障していた時にはタイヤを替えたりモーターを直したりするという意味です。彼らがラジエーターを盗むのではなく、他の車を助けるようになってほしいというふうに願ったのです。この長い話を手短に話すと、その結果彼らは地域の中で非常に有名になりました。そのクラブの会長は、チャリティープログラムの中で(知事から)賞をもらうほどになりました。
私たちのコミュニティーの中にも若者が受け入れられて活動できる場がいくつもあります。学校そのものを良くする活動を通じて学校が良い場になりうることがあります。
ツーソンというとても貧しい地区の学校での経験ですが、学校の窓を修理するたびに乱暴な子どもたちにいつも破られてしまっていました。学期末には窓は全部ベニヤ板で張られてしまう状態だったのです。ベニヤ板にしたことで、子どもたちは自分たちが何か失っているものがあるという気持ちを起こしました。私は学校の管理職の人たちと話して、1つの提案をしました。「夏休みの間に、子どもたちに窓ガラスを替えさせてはどうでしょう。そのような機会を提供してみませんか。窓ガラスを替える業者を雇うのではなく、替える方法を教える業者を雇えばいいと思うのですが」。次の年には、壊れた窓は1つだけでした。その窓を壊した少年は友だちから厳しく注意されていました。
この方法は、すべての生徒に「学校は自分たちのものなんだ」という所有意識を提供することができました。
↑引用終わり
20,子貢問いて曰わく、何如(いか)なるをかこれこれを士と謂うべき。子曰く、己れを行うに恥あり、四方に使いして君命を辱しめざる、士と謂うべし。曰く、敢えてその次を問う。曰く、宗族(そうぞく)は孝を称し、郷党(きょうとう)は弟(てい)を称す。曰く、敢えてその次を問う。曰く、言は必ず信、行は必ず果(か)、硜硜然(こうこうぜん)たる小人なるかな。抑(そもそ)も亦(また)以て次と為すべし。曰く、今の政に従う者は何如(いかん)。子曰く、噫(ああ)、斗肖(としょう)の人、何ぞ算(かぞ)うるに足らん。
子貢がたずねた。「どういう条件を持てば、士(優れた官吏)と呼べるでしょうか」。先生が言われた。「自己の行動に対して、その行動が羞恥を生むものであるかないかを吟味して、羞恥を生む行動はしない。四方の国々に使者として派遣されれば、出発の際に君主から受けた命令を十分に伝達して、それを辱めることがない。これが士と呼ばれる条件だろう」。子貢がまたたずねた。「その次に来る条件を教えてください」。先生は言われた。「親族一同から孝行者と呼ばれ、郷土の人々から年長者を敬っていると賞されることだ」。子貢はさらにたずねた。「またその次に来る条件を教えてください」。先生は言われた。「言葉に必ず偽りがなく、行動は果敢で迷いがない。ガチガチの小人ではあるが士とは言える」。子貢がさらにたずねた。「今の為政者はどうでしょうか」。先生は言われた。「ああ、升で量れるような器量の小さな小人ばかりで、数え上げる必要もない」。
※浩→子貢が「士(官吏)と言われる条件」について次々とたずねています。まず、羞恥を生む行動をしない。これは孟子になると「羞悪の心」としてより明確になります。外国に使者として派遣されたら、君命を正確に伝え、それを辱めることはしない。日本の「恥の文化」は、この影響を受けているのでしょうか。ルース・ベネディクトの『菊と刀』でそう言われています。キリスト教は「罪の文化」です。さらに、忠孝の徳や孝悌の徳を兼ね備えている者も士であり、固苦しい小人ではあるが、言葉に嘘偽りがなくて思い切った行動ができる者も一応士と言える。孔子はこのように丁寧に答えています。しかしながら、周時代の古礼にのっとった政治を理想とする孔子は、当時の政治家には見るべきものが少ないと考えていたようで、これはまことに、「現代」にも通じると思います。日本では古来、「世間に顔向けできない」とか「世間体が悪い」とか「人から後ろ指をさされないように」とか言って、自分の行動基準を「外側」に置いていました。つまり「恥をかくこと」を避けてきました。ということは、人が見ていなければ、露見しなければ、不道徳なことができるということになります。自分の内的な道徳心にもとづいて行動する人も必ず多数いらっしゃるでしょうが、そちらはほとんど目立たなくて、人目ばかり気にしていたようです。最近は、この「恥」さえも影をひそめて、まさに「破廉恥」の洪水です。日本人はお行儀が良いと言われたのは、昔のことになってきたようです。時代劇を見ていると、襖や障子の開け閉めのは、きちんと座って行なっています。これにはあらためて感動します。取り戻したい礼儀です。ですから、漫画の「サザエさん」が襖を足で閉めるシーンに笑えるのでしょう。
19,樊遅(はんち)、仁を問う。子曰く、居処(きょしょ)は恭(うやうや)しく、事を執りて敬(つつし)み、人と与(まじ)わりて忠あれば、夷狄(いてき)に之(ゆ)くと雖(いえど)も、棄てられざるなり。
樊遅が仁について質問した。先生は言われた。「日常の何くれない生活も恭しく、仕事をするときには慎重で、他人と関わるときには誠実であれ。そういう人なら、たとえ夷狄の住む野蛮な地域に行っても、決して放っておかれないはずだ。
※浩→前に「仁」について質問して、「人を愛す」「人を知る」と答えられて、さっぱり意味がわからなかった樊遅に、ここでは難しいことは抜きにして、手近な起居ふるまい、友人との交際について話しています。「恭」「敬」「忠」の3つの徳です。これらは、文明地域である中国内だけでなく、夷狄の地に行ったとしても忘れてはいけない。吉川幸次郎先生は、かつての西洋諸国や日本の植民政策に、こういう心構えが乏しかった、と指摘されています。「学而篇」の、「曽氏曰く、吾、日に三たび吾が身を省みる。人のためにはかりて忠ならざるか、朋友と交わりて信ならざるか、習わざるを伝えしか」を思い出します。この人は、孔子より46歳年下の門人では最も年少のグループに属しました。そして儒学の正統を継ぎます。その門下の子思(孔子の孫)の孫弟子から孟子が登場もします。この謙虚さはさすがだと思います。私も、たびたび復唱して自戒しています。油断すると“お調子者”の地(じ)がすぐ出てしまいますから。
18,葉公(しょうこう)、孔子に語りて曰く、吾が党に直・躬(ちょく・きゅう)なる者あり。その父、羊を攘(ぬす)みて、子(こ)これを証す。孔子曰く、吾が党の直き者は是れに異なり。父は子の為に隠し、子は父の為に隠す。直きことその中(うち)に在り。
葉公が孔子に自信満々に語って言った。「私の郷土に、正直者の躬という人物がいる。躬の父が羊を盗んだときに、躬は正直に盗みの証人になったのである」。孔子は言われた。「私の郷土にいる正直者はそれとは違います。父は子のために罪を隠し、子は父のために罪を隠す。そういう見かけの不正直の中に本当の正直がこもっているのです」。
※浩→孔子は、「修身・斉家・治国・平天下」という順番で社会秩序は確立されると考えていて、家庭道徳の根本にある「親子の愛(孝)」を最も重要な徳性としていました。葉公が自信ありげに父親の窃盗罪をも隠さずに証言した正直な青年について語ったところ、孔子は、真の正直さとは「父・母を守りたい、子を守りたいという情愛」の中にこそあると語りました。正直さを判定する軸が、客観的な事実(葉公)と主観的な情緒(孔子)とに分かれているところが興味深いです。国家共同の利益を重んずるのは「法家」の思想で、家庭内の愛情を重んじるのが「儒家」の思想と言えますが、その儒家も愛は家庭内に留まるのではなくて、「斉家→治国→平天下」と、社会に拡大していくものです。アドラー心理学の「共同体感覚」のレベルは、例の3つのライフタスク「仕事→交友→愛」の順に高まっていきます。仕事は、永続しない対人関係ですから、勤務時間が終わってまで引きずる必要はないのです。日米で違いがあります。日本では、仕事の同僚は「交友タスク」と考える人が多いですから、職場で対人関係がこじれたりすると、家庭まで引きずって悩まされることがあります。アメリカでは、きっちりと「ビジネス」と割り切りますから、いくら職場でフレンドリーにつきあっていても(いや、そもそもフレンドリーにつきあわないか)、勤務時間が終了すると同時に、さっと別れて、それぞれのコミュニティに引き揚げていき、近隣のファミリーと交友レベルのおつきあいをするそうです。家庭問題が難しくなるのは、「愛のタスク」で、最も多くの協力を必要とするからです。永続し、かつ運命をともにする対人関係ですから。