7,子曰く、魯衛の政(まつりごと)は兄弟(けいてい)なり。
先生が言われた。「魯と衛の政治は兄弟のようなものである」。
※浩→魯の先祖・周公旦と衛の先祖・康叔は、ともに周の「武王」の弟です。魯国を亡命した孔子は、衛国に滞在し、君主や政治家、学者とも親しく交わったので、衛国の事情を手に取るように知っていました。魯も衛も、政治は混乱をきわめていましたが、歴史を遡ると先祖は兄弟で、同じように「周」の文化に浴していました。孔子は、現実の魯・衛から、周の盛時を回想して嘆息したのが、「魯衛の政は兄弟なり」という言葉であったと、新注は解釈しています。「周」の封建制度というのは、周王が一族や功臣、地方の有力な土豪を諸侯として、一定の土地と人民の支配権を与え、統治したシステムを言います。ヨーロッパ中世の封建制度は、血縁でなく1対1の双務契約的な関係からなり、複数の主君に仕える家臣も少なくなかったです。「周」では、諸侯に与えられた地域を「国」といい、諸侯を封(ほう)じて(土地と人民を与えて)国を建てることが「封侯建国」であり、その略語が「封建」です。諸侯は国を支配し、国内の土地を一族や臣下に分与しました。周王と諸侯、諸侯とその家臣である卿・大夫は、擬制的な血縁関係にあり、その基盤には血縁的な宗族によって結びついている氏族社会がありました。同じ親から生まれた兄弟が各地に封じられたのです。兄弟仲がよければトラブルにはならなかったでしょうが、アドラー心理学で言う「きょうだい競合」を考えると、なかなか困難なことであったでしょう。
日本で兄弟仲が良かったのは、豊臣秀吉とその弟秀長でしょうか。奇しくも今年のNHK太ドラマが「豊臣兄弟」です。兄・秀吉とは3歳差で、父親が同じなのかどうかについては、はっきりしていません。当時にしては歳の近い兄弟でしたが、秀吉が十代半ばで家を飛び出したせいか、幼少期のエピソードはないようです。再会するのは秀吉がねねと結婚したあとの永禄五年(1562年)のこと。秀吉が家を出てから、だいたい15年ぐらいあとの話です。秀吉の正妻ねね(寧々・北政所・高台院)は賢夫人で、女癖の悪い夫をどう操作したのでしょうか?秀長は兄が来るまでは、百姓として田畑を相手に暮らしていたようです。22歳になっていたはずですから、当時の社会通念では、とっくに妻を迎えて、子どもの2~3人いてもおかしくないところ。しかし、秀長にはどちらもいませんでした。これがのちに、彼や豊臣家の運命を左右することになります。このころ、秀吉は足軽組頭となり、数十人程度の部下を持っていました。元が百姓であること、何のコネもなかったであろうことを考えれば、これだけでも相当な出世と言えます。しかし、もっと上を目指すのなら、信頼できる家臣を一人でも増やさねばなりません。そこで真っ先に候補に上がるのは血縁者です。秀吉には男きょうだいが秀長しかいなかったので、召し抱えにやってきた……というわけです。
秀長は若いころからもともと温厚な人だったようで、秀吉の部下たちともすぐに打ち解けました。大所帯になると、とかく揉め事が起きやすいもの。ちょっとしたケンカや禄(給料)への不満など、些細な不満が積もり積もって大爆発……などという話は、枚挙に暇がありません。個々人の感情のぶつかり合いは防げませんが、禄に対する不満は主人が解決してやれる可能性があります。給料が高ければ高いほど喜ぶのは、戦国人でも現代人でも同じです。秀吉も秀長もそれをわかっていました。秀吉はエネルギッシュに立ち回って、戦功を挙げて信長から少しでも多く禄をもらい、家臣に分け与えるために、遮二無二動かねばなりません。調略や工作などで、留守にすることも珍しくなくて、細かいところに目が行き届かないことも多々あったでしょう。そういうところのサポートをしたのが秀長であり、この構図は、生涯ずっと続きました。
「太平記」の足利尊氏と直義は、非常に仲の良い兄弟でした。尊氏は政務を直義に任せ(但し、軍事指揮権や恩賞授与の権限は尊氏が保持していたと言われます)、直義のことを想う願文を奉納するほどです。しかし最後には対立してしまいます。その原因は、直義は北条泰時の時代を理想として政治を行い、足利氏の一門を重用したため、これに不満を抱いた高師直(こうのものろお=歌舞伎の仮名手本忠臣蔵では吉良上野介をこう呼ぶ)を筆頭にした外様(とざま)の武将たちが尊氏のもとに集まったことが1つです。本人たちを取り巻く周囲の環境が2人の関係を破壊してしまったということのようです。
同じく忠臣蔵の赤垣源蔵は、討ち入り直前に、兄宅を訪れて心で別れを告げるつもりでしたが、あいにく留守で、やむなく、徳利に兄の羽織を被せて、それを前に、別れの杯を交わします。そして、翌朝が、本懐を果たした義士たちの引き揚げの行列です。この感動的なシーンは、三波春夫さんの長篇浪曲歌謡「赤垣源蔵」でイメージできます。今は、若手の三山ひろしさんが歌っています。三波さんの雰囲気そっくりです。
6,子曰く、その身正しければ、令せずして行わる。その身正しからざれば、令すと雖も従わず。
先生が言われた。「為政者の行いが正しければ、命令を出さなくても実行される。しかし、為政者の行いが正しくなければ、命令しても人民は従わない」。
※浩→為政者である君子自らが襟を正して道徳を実践しなければ、人民は君子の命令に従わなくなってしまう。徳治主義の政治の要諦ではありますが、吉川幸次郎先生はこれは政治の必要条件であるが、十分条件であるかは疑問である、と述べられています。さて、何が加われば十分条件となるでしょうか。やはり「礼」による調整ではないかと思えます。学級経営にも応用できそうです。学校には「校則」というものがありますが、担任自らが「仁徳」を高め、「礼儀正しく」生徒に接すれば、それによって生徒が感化されていくでしょう。権威主義的に上から「校則を守れ」と迫っても、生徒たちは、いかに上手に網の目をくぐって逃げられるかばかりを考えそうです。
5,子曰く、詩三百を誦(しょう)するも、これに授くるに政を以てして達せず、四方に使いして専(ひと)り対(こた)うること能(あた)わざれば、多しと雖も亦(また)奚(なに)を以て為さん。
先生が言われた。「詩経三百篇を暗唱していていっぱしの教養人のように見えても、実際の行政をさせてみるとうまくこなすことができず、外交官として四方の隣国に使者となっても、臨機応変に自己の判断で対応できないとするならば、豊富な教養(詩)を持っていても、何の役に立つか」。
※浩→「詩三百」とは、教養として記憶すべき三百篇の詩のことで、『詩経』はまさに三百五篇あります。孔子は、それらを単純に記憶して理解するだけの能力には意味がないと考えていて、実際の政治戦略・外交実務に生かさなければならないと弟子たちに教えていました。知識のための知識でなくて、目的遂行のための知識にこだわっているところに孔子の政治的なリアリズムが偲ばれます。「詩」の暗誦は“目的”でなく、“手段”です。 そう言えば、アドラー心理学では、学校は“手段”であって“目的”ではない、と考えます。「泰伯篇」に「子曰く、詩に興り、礼に立ち、楽に成る」とありました。「詩」は出発点です。そして、「礼」を実践できてやっと一人前です。さらに音楽を行なえて完成だというのは、まるで野田先生みたいです。それにしても、詩三百とは驚きで、科挙の試験を受ける人は、これくらい暗記するのは、へっちゃらだったのでしょうから、恐るべき記憶力です。私も記憶力に自信がありましたが、詩を三百もとても記憶できそうにありません。でも、詩も音楽も好きですし、「礼」については、他人の無作法が気になるたびに、自分自身はどうか点検するようにはしています。
4,樊遅(はんち)、稼を学ばんことを請う。子曰わく、吾、老農に如(し)かず。圃(ほ)を為(つく)ることを学ばんと請う。子曰く、吾老圃(ろうほ)に如かず。樊遅出ず。子曰く、小人なるかな、樊須(はんす)や。上(かみ)礼を好めば、則ち民は敢えて敬せざること莫(な)し。上(かみ)義を好めば、則ち民は敢えて服せざること莫し。上(かみ)信を好めば、則ち民は敢えて情を用いざること莫し。それ是(か)くの如くなれば、則ち四方の民は其の子を襁負(きょうふ)して至らん。焉(な)んぞ稼を用いん。
樊遅が穀物栽培について学びたいとお願いした。先生は断られた。「とても篤農家には及ばない」。樊遅が今度は野菜栽培について学びたいとお願いした。先生はまた断られた。「とても園芸家には及ばない」。樊遅が出ていってから先生が言われた。「樊須(樊遅の実名)はなんと徳の少ない小人であろう。為政者が礼を大切にすると、人民は彼を尊敬しないものはなく、為政者が正義を愛すると、人民で彼に服従しないものはない。為政者が信頼を尊ぶと、人民には誠実でないものがいなくなる。そのようになると、四方の人民が自分の幼い子を背負って、その為政者のところに集まってくる。どうして、自分自身で農作などをする必要があるのだろうか(君子は本業である政治に専心すべきであるのに)。
※浩→樊遅から農作業の技術について質問を受けた孔子が、農作は君子には些末事で、儒学門徒の本分である礼と義と信が根幹だと説いています。自分を養うための農業ではなく、無数の人民に安全と幸福を与えるための徳治政治を実践するために徳の修養に努めよと孔子は言いたかったのでしょう。樊遅は知力や徳性があまり優れていないような質問をして、やや三枚目な存在だったのでしょう。それでも孔子は、樊遅も一人前の君子として取り扱い、有徳の君子になるための王道について語っています。孔子が若いときは貧乏で、農作に従事したことから、樊遅はたずねたのでしょうが、成人後の孔子は農作から離れて、ひたすら知識人としての生活をしています。そのため、樊遅の質問をはねつけたのでしょう。「君子のやることは他にある」と。これは孔子が農業を軽視しているのではなく、役割分業を言っているのでしょうか。古代ギリシャでソクラテスは、終日アゴラを散策しながら若者たちと問答したというのも、当時は奴隷制で、生産活動を奴隷に任せて、自由市民はスコレー(暇、余裕)を堪能できたことと結びつきそうです。
樊遅は「顔淵篇」で、「仁」について質問していました。孔子は「人を愛す」とだけ答えていますが、それだけでは樊遅は理解できなかったでしょう。このあと、また「仁」についてたずねますが、さて、孔子の回答が気になります。
3,子路曰く、衛の君、子(し)を待ちて政を為さしむれば、子将(まさ)に奚(なに)をか先にせん。子曰わく、必ずや名を正さんか。子路曰わく、是(これ)有るかな、子の迂(う)なるや。奚(なん)ぞ其れ正さん。子曰わく、野(や)なるかな由や。君子は其の知らざる所に於いて蓋闕如(かつけつじょ)たり。名正しからざれば則ち言順(したが)わず、言順わざれば則ち事成らず、事成らざれば則ち礼楽興(おこ)らず、礼楽興らざれば則ち刑罰中(あ)たらず、刑罰中たらざれば則ち民手足を措(お)く所なし。故に君子はこれに名づくれば必ず言うべきなり。これを言えば必ず行うべきなり。君子、其の言に於いて苟(いやし)くもする所なきのみ。
子路がおたずねした。「衛の殿様が先生をお引き留めして、政治を任されることになったら、何から手をつけられましょうか」。先生が言われた、「何よりも混乱した名目を正しくしたいね」。子路が言った。「これだから困りますよ、先生の迂遠なのには。よりによって、何を正しくされるというのですか」。先生が言われた。「相変わらず野蛮だな、お前という男は。君子は自分のよくわからないことは知らん顔をしているのものだ。名目が正しく立っていないと、話の筋が通らない。話の筋が通らないと、政治が成功しない。政治が成功しないと、裁判が公平でなくなる。裁判が公平でないと、国民は手足を伸ばして休息することができない。だから、君子は何かに名をつけるとき、言葉ではっきりわかるようにし、そしてそれを発言すれば、必ず実行できるようにする。君子は何か発言するにあたって、軽はずみなことはしないのだ」。
※浩→子路と孔子の議論を取り上げた章ですが、孔子が国を治めるのにまずは「名目をしっかりと正すこと」を主張したのに対し、弟子の子路が「先生のやることは、相変わらず遠回りですね」と反対意見を返しています。しかし、孔子は「相変わらず野蛮だ」とやさしく叱った上で、「なぜ、名目の正しい定義が必要なのか?」をとてもわかりやすく論理的に解説されます。ヤンチャな子路がかわいいことがよくわかります。そして最終的に「人民の権利を守るためには、君子が有言実行を貫いて名目・言葉を正さなければならない」と説得しています。そう言えば、野田先生は、「信頼を得るには、『言ったことは必ず実行し、実行できないことは初めから言わない』ことだ」とおっしゃっていました。
孔子は、前493年に魯を逃げて衛に亡命しました。霊公39年(前496年)秋、太子の蒯聵(かいがい)は霊公の夫人である南子と折り合いが悪く、南子を殺そうとしました。蒯聵は朝礼の際、仲間の戯陽遫(ぎようそく)にころさせようとしましたが、戯陽遫がためらうので蒯聵はしきりに目配せしました。そうしているうちに南子に気づかれて、父の霊公に知らされ、蒯聵は宋に出奔したのです。霊公42年(前493年)、蒯聵が宋の次に晋の趙氏のもとにいたため、霊公は代わりに子の郢(えい)を太子にしようとしたが断られて、その4月に薨去(こうきょ:皇族または三位(さんみ)以上の貴人の死去すること)してしまった。霊公夫人の南子はふたたび郢に太子になるよう頼みましたが、やはり断られました。そこで郢は蒯聵の子である輒(ちょう)を勧めたため、輒が立って衛公(移行は出公と表記)となりましたった。6月、晋の趙鞅(趙簡子)は蒯聵を衛に入れようとして彼を帰国させた。これを聞きつけた衛は出兵して蒯聵を迎え撃ち、蒯聵は入国できず宿(せき)に入って立てこもります。出公13年(前480年)秋、晋の趙鞅が軍を率いて衛を攻撃しました。孔圉(こうぎょ:孔文子)の没後、孔氏の侍童(貴人のそばに仕える少年。小姓。モーツアルトのオペラ『フィガロの結婚』に登場するケルビーノを連想します)である渾良夫と孔圉の妻である伯姫(蒯聵の姉)が不義密通しました。そこで伯姫は渾良夫を宿(せき)にいる蒯聵のもとへ遣わしました。蒯聵は2人の婚約を認めるとともに、自分を衛に戻すよう頼みました。蒯聵と渾良夫は孔氏の邸に忍び込み、伯姫とともに蒯聵即位を迫ったのですが、この騒ぎを聞いた孔氏の家老の欒甯(らんえい)はすぐさま出公を連れて脱出しました。その直前に食客の子路から「太子は何ゆえ孔悝(孔圉と伯姫のあいだの子で蒯聵の甥)を重用なされるのです。仮に彼が殺害されても、その代わりはいくらでもいますぞ」と諫言したましが、激怒した蒯聵は家臣に命じて、子路を誅さつしました。こうして蒯聵は孔悝によって立てられて、衛君(以降は荘公と表記)となったのです。子路の死を知った孔子の嘆きは、前に書きました。
長い解説をごく簡略にすると、「名(言葉)と実(実在)とが一致することが必要だ」ということです。衛から亡命していた父の蒯聵と、祖父・衛霊公の遺命によって即位した出公・輒とに、それぞれ妥当な「名」つまり称号を与えることによって、内乱を解決しようとしたのです。
2,仲弓(ちゅうきゅう)、季氏の宰と為(な)りて、政を問う。子曰く、有司(ゆうし)を先にし、小過(しょうか)を赦し、賢才を挙げよ。曰く、焉(いずく)にか賢才を知りてこれを挙げん。曰く、爾(なんじ)の知れるところを挙げよ。爾の知らざるところは、人それ諸(これ)を舎(す)てんや。
仲弓が季氏の家宰(奉行)になったので、孔子に政治について質問した。先生が言われた。「部下の役人たちを適材適所に配置することをまっ先にし、過去の小さなあやまちを赦し、優れた才能のある人物を抜擢しなさい」。仲弓がさらにたずねた。「どのようにして優れた才能のある人物を見つけ出し、抜擢したらいいでしょうか」。先生は言われた。「君が知っている優れた人物を抜擢しなさい。君の知らない優れた人物がいたとすれば、他の人々がそれを放っておくはずはない」。
※浩→魯の家老・季氏の領地の奉行となった仲弓が、政治の要諦を問うています。それに対して、自分の知っている範囲でよいから優秀な人材を集めるように勧めています。子路へのアドバイスと比べて、孔子の仲弓への絶大な信頼がうかがえます。資料を探すと、次のような解説がありました。
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孔子が両手放しで褒めちぎった人物と言えば顔回が有名ですが、仲弓も負けていません。仲弓は出自があまり良くありませんでしたが、そのことについて孔子は「まだら牛の子でも、赤い毛並みが揃っていてさらに角まで生えていたら、山や川の神々もこぞってその牛を求めるだろう」と言って仲弓を励ましました。(『論語』雍也篇)
仲弓の人格が大変優れているため、たとえその出自が悪くても必ず見出されて大抜擢されるはずだと孔子は信じていたのです。実際に仲弓は魯の大夫・季氏に抜擢されます。仲弓は孔子の教えを守って、政治では自分に厳しく人に寛大であろうとし、徳によって人々を治めようと努めました。
ここでの孔子の教えのとおりにしています。猪突猛進の子路には、それを戒める助言をしていますが、仲弓には、全面的に自分の判断にもとづいて実行すればいいと言っています。信頼するということは、「任せる」ということです。世の中には「あなたに任せます」と言いながら、結局手出し口出しをする人がいます。これでは信頼しているとは言えません。
「良い人間関係」の4つの柱というのが、アドラー心理学にあります。お馴染みの、「相互尊敬」「相互信頼」「協力」「目標の一致」です。ここでの「相互」は、「まず自分(こちら)から」という意味です。現実には、自分は相手を尊敬も信頼もしないで、相手には尊敬・信頼してもらいたがる人が多いようです。自戒します!
ここから「子路篇」です。
1,子路、政を問う。子曰く、これに先んじこれを労す。益を請う。曰く、倦(う)むこと無かれ。
子路が政治について質問した。先生が答えられた。「人民の先頭に立って働け、そして人民を労(いた)わるのだ」。子路は「もう少し続きを」と言った。先生は言われた。「中途で飽きることがないように」。
※浩→子路が政治の要諦(ようたい)をたずねました。孔子は、子路の熱しやすく冷めやすい飽き性の性格を知っていました。人民の先頭に立って働いたり、人民をねぎらうことくらいでは満足できなくて、「もっと教えて」とせがむ子路に、「途中で飽きて投げ出さないように」と警告しています。微笑ましい師弟の様子がイメージできます。優等生ばかりが礼儀と秩序正しく、静まり返った雰囲気の中で「政治学」を学んでいるのよりも、こういう、やや、やんちゃなお弟子が先生に「もっと教えて」とせがんでいる教室のほうが活気があって、人間らしくて安堵できます。
孔子がいかに子路を愛したかは、次のエピソードでもわかります。衛の高官にとりたてられた子路は蕢聵(かいかい)の内乱で戦死し、その死体は塩漬けにされました。これを聞いた孔子は深く悲しみ、家にあったすべての醢(食用の塩漬け肉)を捨てさせたと伝えられています。いかに子路を愛していたかがわかります。
24,曾子(そうし)曰く、君子は文を以て友と会し、友を以て仁を輔(たす)く。
曾子は言われた。「君子は学問によって友人を集め、友人との交わりによって仁徳を高めていく助けにする」。
※浩→曾子が、悪友ではなく畏友(いゆう:尊敬している友人)を見つけることの大切さを説いた部分で、学問によって知り合った友人であれば相互に仁徳(人間性)を高め合っていける可能性が高いということです。「文」を吉川幸次郎先生はあっさり「文化」と訳されていますが、貝塚茂樹先生は「文」は周代の古典「詩」「書」「礼」「楽」などをさす、とされています。こういう古典の学習によって友と会合することで、確かに互いの人格の向上が実現するということは深く納得できます。実際、アドラー心理学が「ご縁」となって、たくさんの人々との交流ができました。そして、その中で自分も年齢に関わりなく成長を続けることができています。「畏友」という新鮮な響きの言葉をここで知りました。これまでまったく使ったことのなかった言葉です。「畏敬の念」と言いますから、ほんとはもっと頻繁に使ってもいい言葉です。私が無知だったのかもしれません。アドラー心理学が、野田先生のお言葉で言えば「骨がらみ」になるためのプロセスは、「読」「思」「修」で、文献を読んだり、講義を聞いたりが「読」、自分で咀嚼するのが「思」、それを実践するのが「修」です。そして、さらに大切なのは「仲間との交流」です。これをすることで、学んだことが独善に陥ることなく、理論の誤解も、技術の誤用も避けられます。ひとりよがりになるのは「私的感覚」に凝り固まっているからで、「共通感覚」や「共同体感覚」にもとづいた生き方ができるためには、仲間との交流が必須です。「古典」を通じた交流では、かつて高梁工業高校で同僚だった平田信彦先生を思い出します。2018年の暮れに、平田先生とやはり当時の同僚のデザイン科・徳山容(やすし)先生と英語の岡田純爾先生とで飲み会をしました。この方々長く年賀状も交換していました。それでも、2025年を区切りに私も「年賀状じまい」をしました。
「顔淵篇」はここまでで、次回から「子路篇」です。
23,子貢、友を問う。子曰く、忠もて告げ善もてこれを導く。不可なれば則ち止む。自ら辱(はずかし)めらるることなかれ。
子貢が朋友(ほうゆう)について質問した。先生は言われた。「真心をもって話し、善を勧める。しかし、友人が聞かなければそこでやめる。それ以上に出て自己を辱めることになってはいけない」。
※浩→孔子は多弁な子貢が朋友たちにお節介をしかねないので、朋友への忠告にも限度があることを説かれました。「忠もて告ぐ」から、「忠告」という述語が生まれています。友には真心から善を勧めるが、友情には限界があるので、うまく行かない場合は中止する。無理押しして自分を辱めることはないと語っています。「不可なれば則ち止む」というのは、全然中止することではなくて、しばらくやめて相手の反省を待つことだと、伊藤仁斎や荻生徂徠も考えたと、吉川先生は述べられています。交友関係の大事なヒントになります。徂徠の言葉を引用します。「仁斎先生曰く、その人可とせざれば、すなわちしばらくやめて言わず、その自ら悟るを待つと。味わいあるかな。そのこれを言うや、人多くおもえらく、交わりはここにおいてか断つべしと。小人なるかな」。「里仁篇」には、「子游曰く、君に事(つこ)うることしばしばすればこれ辱めらる。朋友にしばしばすれば、それ疎んぜらる」と。『荘子』には、「君子の交わりは、淡きこと水の若く、小人の交わりは甘きこと醴(れい:甘酒か)の若し。君子は淡くして以て親しみ、小人は甘くして以て絶つ。彼の故(ゆえ)無くして以て合する者は、則ち故(ゆえ)無くして以て離る」とあります。君子の交際は水のように淡白だが永い間親しみ続け、小人の交際は甘いためにすぐに途絶える。理由なしに結ばれた者は、理由なしに離れます。
カウンセリングやセラピーに、「抵抗されたら引っ込む」という原則があります。解釈投与したり、助言提示したとき、受け入れられなければ、こちらの誤りだと考えて、無理押ししないで引っ込みます。そうでした。カウンセリングでの来談者と援助者との距離は「交友」のレベルですから、きっちり当てはまります。
22,樊遅(はんち)、仁を問う。子曰く、人を愛す、知を問う。子曰く、人を知る。樊遅未(いま)だ達せず。子曰く、直きを挙げて諸(これ)を枉(まが)れるに錯(お)く。能(よ)く枉れる者をして直からしむ。樊遅退いて、子夏を見て曰く。嚮(さき)に吾(われ)夫子(ふうし)に見(まみ)えて知を問う。子は直きを挙げて諸を枉れるに錯く。能く枉れる者をして直からしむと。何の謂(いい)ぞや。子夏曰く、富めるかな言や。舜、天下を有(たも)ち、衆に選んで皐陶(こうよう)を挙ぐれば、不仁者遠ざかる。湯(とう)、天下を有ち、衆に選んで伊尹(いいん)を挙ぐれば、不仁者遠ざかりぬ。
樊遅が仁について質問した。先生は言われた。「人を愛することである」。知について質問した。先生は言われた。「人を知ることである」。樊遅は意味が十分わからない。先生がさらに言われた。「正直者を取り立てて不正直者の上に置けば、不正直者をまっすぐにすることができる」。樊遅は退席して子夏に聞いてみた。「先ほど先生にお会いして、知について質問しましたが、『正直者を取り立てて不正直者の上に置けば、不正直者をまっすぐにすることができる』と言われましたが、どういう意味なのでしょうか」。子夏が言った。「何と含蓄のある豊かな言葉だろうか。歴史をふり返ろう。舜が天下を統治していたとき、多くの人々の中から正直者の皐陶(こうよう)を司法長官に取り立てた。すると、不仁者つまり愛情の乏しい者が遠ざかった。また湯(とう)が天下を統治していたとき、人々から徳のある伊尹(いいん)を取り立てたた、不仁者は遠ざかった。先生の言葉どおりではないか」。
※浩→樊遅の第一の「仁」についての質問には、ただ「人を愛すること」とだけ答えて、それ以上言わない。第二の「知」についての質問には、「人を知ること」とだけ答えて、それ以上は言わない。あまりにあっさりした回答です。特に「仁」は、儒学の最も重要な徳でありながら、具体的に言われないのは、もしも「ああだ、こうだ」と決めてしまうと、それを聞いて人々はきっと教条的に形式的にそれのみを実行して、「仁をなした」と思い込むでしょうから、それを避けた孔子の配慮でしょうか。
そういえば、アドラー心理学の「共同体感覚」についても、アドラーは「生得的に備わった可能性であるが、育児教育でそれを育成していななければならない」とか、「他者の関心への関心」とくらいしか説明していないのでした。これも同じ配慮ではないかと思えます。アドラーのお弟子が、あるとき「どうすれば共同体感覚を教えられますか?」と質問したのに対して、アドラーは「Live it.」(それを生きて見せろ)と答えたそうです。あなた自身が共同体感覚を生きること、それこそが最良の教育法だということです。「他山の石」という『詩経』の有名なフレーズがありますが、これは本来は、「他の山からもたらされた粗悪な、磨いても玉にはならない石は、然るべき山から産する玉を磨くのに使え」という意味ですが、世間では誤って使われているようです。「他人の良い言行は自分の行いの手本となる」というふうに。「人のふり見てわがふり直せ」も、「他人の好ましくない行動を見て、自分の行動を正す」といういみですから、共同体感覚の育成とは逆のようです。『中庸』だったかに、「思いうちにあれば、色、外に現る」とありましたか。良いモデルでありたいものです。
子夏は樊遅の問いを受けて、「正直者が不正直者を改善させるという故事には、古代の聖王・舜と商の建国者・湯の事例がある」と教えてあげました。ここにも、社会の上に立つ人が有徳者であれば、人民はおのずと徳ある礼ある行動をするということが示されています。日本の現状との大きな落差を感じざるをえません。学校の教師にも当てはまるでしょう。昨今、乱れがあるようですが。