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論語でジャーナル’26

11,斉の景公、政(まつりごと)を孔子に問う。孔子対(こた)えて曰く、君君たり、臣臣たり、父父たり、子(こ)子たり。公曰く、善いかな、信(まこと)に如(も)し君君たらず、臣臣たらず、父父たらず、子子たらずんば、粟(ぞく)ありと雖(いえど)も、吾豈(あに)得て諸(これ)を食らわんや。

 斉の景公が、政治について孔子にお聞きになった。孔子はお答えした。「主君は主君らしく、臣下は臣下らしく、父は父らしく、子は子らしくあれ、ということです」。景公は言われた。「そのとおりであるな。もし本当に主君が主君らしくなく、臣下が臣下らしくなく、父は父らしくなく、子が子らしくないのであれば、米があっても私はそれを食べられなくなるだろう」。

※浩→斉は今の山東省の大部分を領有した東方の大国です。そのころの斉の内政は、矛盾が山積し、危機を醸しつつありました。最大のものは、帰化人の子孫である家老の陳桓が大臣として実権を握っていたことです。やがて、この陳桓の子孫が王位を乗っ取ってしまうそうです。そうした空気の中での問答です。孔子の答えは、君臣父子がそれぞれの持ち分に応じた道徳性を持つことこそ、政治だと答えました。それに対して斉公は「善いかな」と安直に賛成した上、もしそうでなければ、たとえ経済的に豊かであっても、その豊かさを享受することができない、と言っているようです。凡庸な人物は、理想家が理想を説くのを聞いたとき、一知半解に賛成して、低次元の事柄にだけ引き寄せて理解してしまうことが往々にしてあります。この斉公も物質的な私欲にのみ敏感な、凡庸な人物だったようです。フランス革命のとき、王妃マリー・アントワネットが、「人民が食べるパンがありません」と家臣に言われて、「それならお菓子を食べればいい」と答えたというエピソードを思い出します。
 儒学では、社会秩序を維持するために封建主義的な身分制を擁護したとされますが、特に「君臣の義(忠)」と「親子の孝」を最も重要なものと見なしました。道徳観としては、「親子の忠孝」を「君臣の忠義」よりも価値が高いものと考えて、父母と君主が対立したときには父母に仕えることを優先するのが正しいとされたようです。平重盛はこの決断に苦悶しました。ネットから引用します。
 今から約830年前の安元3年(1177年)、「鹿ケ谷の陰謀」と称される事件が京の都で起りました。当時は平清盛が人臣を極めて天下人として世に君臨し、平家一門は“我が世の春”を謳歌していたのですが、平家の専横を苦々しくお感じになった後白河法皇の近臣の藤原成親や僧侶の西光や俊寛(俊寛は歌舞伎でも有名)らが、同年5月、法皇が鹿ケ谷(現在の京都市左京区)にある俊寛の山荘に御幸した際に、法皇の御前にて平家打倒の計画を密かに話し合ったのです。ところが、この計画はとても成功の見込みがないと見切りをつけた多田行綱(多田源氏の嫡流で源頼盛の長男)が、清盛に密告して、首謀者らは直ちに捕らえられ、西光は処刑、他の参加者らは配流されました(藤原成親は備前国に配流後殺害)。これが、「鹿ケ谷の陰謀」「鹿ケ谷の謀議」「鹿ケ谷事件」などと称される、平家に対してのクーデター未遂事件で、計画が実行される前に首謀者らが悉く捕らえられたため結局未遂・失敗に終わったのですが、平家の滅亡はこの事件から始まったとも言われます。
 この事件では、さすがの清盛も後白河法皇に対して処分を科すことは最終的に思い留まったのですが、しかしそれは、長男の平重盛に強く説得されたためであり、謀議が発覚した時点では、怒りが収まらない清盛は法皇を逮捕して幽閉する心算で、実際、北面の武士たちと一戦を交えるため自らも鎧を着て出陣体勢を整えていました。そして、法皇を捕らえるため今まさに出陣をするという、緊迫したその場(清盛の屋敷)に、重盛が武装もせずに平時の服装で現れたのです。重盛は、文武両道に秀で、それでいて温厚・実直で思慮深い性格で多くの人達から厚い信望を集めていました。清盛も、自分の後継者として平家一門を束ねる実力と人望を併せ持った人間は重盛しかいないと認めていました。それだけに、清盛にとって、重盛は自分の息子ながら頭が上がらない人間でした。その重盛が、場違いとも言える平時の服装でその場に現れ、出家している身でありながら鎧を着て殺気立っている清盛と対面したのです。清盛と重盛のこの時のやりとりは、戦前・戦中の歴史教育を受けた人にとっては、「忠ならんと欲すれば孝ならず。孝ならんと欲すれな忠ならず。重盛の進退ここに谷(きわ)まれり」という重盛の名言と共に“知っていて当然”の常識です。戦前の小学校の歴史教科書「尋常小学国史」には次のようにあります。
 『重盛は、はらはらと涙を流しながら、「恩を知つてこそ人といへるので、知らないものは、鳥やけだものと同じです。恩の中でも、一ばん重いのは君の御恩です。まして、わが家は桓武天皇の御末でありながら、中頃たいへん衰へてゐたところ、父上になつて大いに立身出世せられ、われわれのやうなおろかものまでも高い官位をいただいてゐるのは、これ全く君の御恩ではありませんか。今、この御恩を忘れて、天皇の御威光をかろんじ申すやうなことがあつては、たちまち神罰を受けて、一族はやがて滅びてしまふでせう。それでも、なほ父上がお聞入れなさらないなら、私は、兵をひきゐて法皇をお守りせねばなりません。しかしまた、父上にてむかふことも、子として私には堪へられません。それ故、父上がどうしてもこの企を成しとげようとなさるなら、まづ私の首をはねてからにして下さい」と、真心をこめて諌めたので、さすがの清盛も、しばらくは、思ひとどまるやうになつた。重盛のやうな人こそ、まことに忠孝の道を全うした、りつぱな人といふべきである』。
 主君に対する忠誠を貫こうとすれば親の言うことに逆らわなければならず、しかし親に孝行しようとすれば主君に対する忠誠心を捨てなければならない、そのような二律背反の葛藤の中で、重盛は涙を流して「自分を斬ってから出陣されよ」と清盛を強く諌め、おかげで法皇の逮捕・幽閉は阻止されました。
 今の歴史の授業では、こういうエピソードは教わらないのでしょう。「徳育」というと、過敏に反応する人たちがいますが、「なんでもOK」のアナーキズムでは社会を崩壊させていくでしょう。ますますアドラー心理学の「共同体感覚」の重要性が光ります。

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論語でジャーナル’26

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http://www2.oninet.ne.jp/kaidaiji/dai1keiji-02-05.html

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論語でジャーナル’26

9,哀公、有若(ゆうじゃく)に問いて曰く、年饑(う)えて用足らず、これを如何(いかん)。有若対(こた)えて曰く、盍(なん)ぞ徹(てつ)せざるや。曰く、二(に)たりとも吾猶(なお)足らず、これを如何ぞ、それ徹せんや。対えて曰く、百姓(ひゃくせい)足らば、君孰(たれ)と与(とも)にか足らざらん。百姓足らずんば、君孰と与にか足らん。

 哀公が有若にたずねて言われた。「今年は不作で財源が不足しているが、どうしたらよいだろうか」。有若がお答えした。「それならどうして徹の税法(収穫の十分の一を収税する)にしないのでしょうか」。哀公が言われた。「十分の二の税金でも不足しているのに、どうして十分の一の税にするのだろうか」。有若は申し上げた。「人民の生活が満足していれば、主君は誰と一緒に不足していると言うのでしょうか。また、人民の生活が不足していれば、主君は誰と一緒に満足したと言えるのでしょうか」。

※浩→哀公は孔子晩年の魯の君主です。農業の不作によって財源不足に陥ったときに、有若(孔子の弟子のうちの長老)に助言を求めていますが、有若は徳治主義の根本にある「人民の保護の原理」を持ち出して、増税よりも減税によって人民の生産力を養うことを勧めたのです。今のわが国の政治家たちに聞かせたい名言ですが、目前の財政不足を補う政策を持ち合わせていなかったので、ただの“書生論”という批判もあったようです。いつの世でも税制は問題になります。国家も地方も財源は税で成り立っていますから、国民が負担するのは当然ですが、富める者に有利、貧しい者に不利になるのを累進課税制度で防止しているとはいえ、現実は低所得者に高負担になっています。特に、昨今の高齢者への負担増は著しいです。去年、お米の値段が2倍になり、あと物価がうなぎ登りで、そのわりに年金はさっぱり増えませんから、生活はさらに厳しくなりつつあります。

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論語でジャーナル’26

8,棘子成(きょくしせい)曰く、君子は質のみ、何ぞ文を以て為さんや。子貢曰く、惜しいかな夫(か)の子(し)の君子を説くや。駟(し)も舌に及ばず。文は猶(なお)質のごとく、質は猶(なお)文のごときならば、虎豹(こひょう)の鞟(かく)は猶(なお)犬羊(けんよう)の鞟のごときなり。

 棘子成が言った。「君子は実質のみ(質朴さ)が重要で、どうして装飾・形式(文化)などがいるだろうか」。子貢がそれに対して言った。「あの方(棘子成)の君子について語った言葉は、大変残念である。四頭立ての馬車の速度で追っかけても、一度舌の生んだ過失(失言)には追っつかないのだ。装飾は実質のようなものであり、実質は装飾のようなものであり、両者ともに等価値であるとし、一方だけでよいとしてしまうならば、虎・豹のなめし皮が、犬・羊のなめし皮と同じであるようなことになってしまうではないか」。

※浩→国家統治の手段である礼楽を重視する儒教に対して批判的だった棘子成は、「形式的・装飾的な礼の実践は不要だ」と放言しましたが、それに対して孔子門下の子貢は賢く、「実質も確かに大切だが、同様に装飾的な礼も大切である」と反論しました。実質と形式は絶えず相補的でどちらも欠かすことが出来ないという儒教の基本スタンスが現れています。
 孔子は、伝統的な「礼」が形式的になっていることを批判して、「仁」の心からものであるよう主張していました。心を伴わない形式だけの「礼」は、とってつけたようで、真実味がないです。
 アドラー心理学を学び始めたころ、上司とのつきあいに苦慮している同僚への助言として、野田先生は、「幸せは心こもらぬ笑顔(or言葉)から」とアドバイスしてくださいました。具体的な方法は、出張などのとき二百円か三百円程度のお土産を、その上司に、心はこもらなくていいから買ってきてあげることでした。同僚は直ちにそれを実践したところ、その後上司との関係がどんどん改善していって、ついには「心から」尊敬信頼できるようになったそうです。もちろん同僚というのは、児玉先生のことです。
 野田先生に寄れば、「形式」から取りかかるのが実践的です。「心」は、あとから、「遅くなりました」と駆けつけるんだそうです。

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論語でジャーナル’26

7,子貢、政を問う。子曰く、食を足らしめ、兵を足らしめ、民をして信あらしめよ。子貢曰く、必ず已(や)むを得ずして去らば、斯(こ)の三者に於いて何をか先にせん。曰く、兵を去れ。曰く、必ず已むを得ずして去らば、斯の二者に於いて何をか先にせん。曰く、食を去れ。古(いにしえ)より皆死あり、民信なくんば立たず。

 子貢が政治についておたずねした。先生が言われた。「食物を十分にし、軍備を十分にし、人民に信用してもらうことだ」。子貢が質問した。「もし、やむをえない理由で、この3つのうちのどれかを諦めなければならないとしたら、どれを先に諦めましょうか」。先生は言われた。「まずは、軍備を諦めよ」。子貢が申し上げた。「もし、やむをえない理由で、残りの2つのうちのどちらかを諦めなければならないとしたら、どちらを先に諦めましょうか」。先生は言われた。「食物を諦めよ。古来から死は誰も免れることができないが、人民に信頼がなければ国家は成立しないのだから」。

※浩→孔子が子貢の政治についての質問に答えて、「国家成立のための政治の要諦(ようたい)」を3つの原理(食物・軍事・信頼)を通して語ったものです。
 まず軍備を捨てるということを、今ならプーチン大統領やネタニエフ首相やトランプ大統領や北朝鮮のリーダーさんたちに実行してもらいたいところです。もちろん、他の国もそうです。軍備を捨てても、食糧の充足を捨てても、信頼だけは捨てられない。人民に信頼がないと国家は成立しない。ということは、今の日本の人々が政治家をほとんど信頼していないとすれば、国家は成立しないことになります。選挙の投票率はほぼ絶望的でした。高市首相の登場で、少し変化の兆しが見えてきました。このたびの(2月8日)の衆議院選挙の結果が気になります。多くの人が目先の快楽に溺れていて、しかも度重なる自然災害、さらに留まることを知らない物価高…。こうなると必然的にスピリチュアルになりますか?宗教に走る人たちもいるでしょう。
 中央公論社の「世界の名著」~キルケゴールの編集者・桝田啓三郎氏の解説に、今も心に残る箇所があります。それは↓
 小学四、五年のころ、私はよく母に連れられて仏教の講話をききに行ったが、あるとき、次のような寓話をきいた。
 ひとりの旅人が広い野原で猛獣におそわて、とある古井戸の中へ飛び込んだ。さいわいなことに、井戸のなかほどのところに蔦のような植物があって、それにつかまって身をささえることができたが、井戸の底を見ると大蛇が大きい口をあけてひと吞みにしようと待ちかまえている。そればかりか、自分のつかまっている蔦の根元は、何匹もの鼠がたえずがりがりとかじっていて、いまにも切れてしまいそうになっている。井戸の外には野獣が怒り狂ったように井戸をのぞきながらうなっている。もはや絶体絶命、旅人は自分の滅亡を観念しなければならなかった。
 人生とはそういうもので、救いは信心あるのみという主旨の講話であったにちがいないが、前後の話についてはまったく記憶がなく、この寓話だけが幼い心に消えがたい印象を残したのであった。そして講師が、哲学博士という肩書きのある高僧であったこと、講話が『信心銘』という書物からの引用句を中心におこなわれたことが、ふしぎに記憶から消えないでいる。
 中学生になってから読んだトルストイの『わが懺悔』という本にもこの寓話が述べられていて、井戸のなかの旅人が、滅亡に瀕しておりながら、木の葉についている蜜を見つけてなめ、しばし死の恐怖を忘れる、というこの話のつづきのあることを知ったが、この本を読んだことが、幼いころの記憶をいっそう強める結果になって、その寓話が折に触れては思い出されることになった。(引用終わり)

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論語でジャーナル’26

6,子張、明(めい)を問う。子曰く、浸潤(しんじゅん)の譖(しん:そしり)、膚受(ふじゅ)の愬(そ:うったえ)、行われざる、明と謂うべし。浸潤(しんじゅん)の譖(しん)、膚受(ふじゅ)の愬、行われざる、遠しと謂うべし。

 子張が、聡明さについて質問した。先生はお答えになった。「じわじわと浸潤してくる他人の誹謗中傷と、皮膚に直接感じるような無実の罪の訴え、これを受けつけないのが聡明である。じわじわと浸潤してくる他人の誹謗中傷と、皮膚に直接感じるような無実の罪の訴え、これを受けつけなければ、それは単に明であるばかりでなく遠大な未来を見る見識ということになる」。

※浩→「聡明さ」についての子張が質問に孔子が答えています。孔子は「根拠のない誹謗中傷や無実の人を陥れようとする訴えに耳を貸さない態度」を聡明と、さらにはそれを越えた徳である「遠」であると考えていました。
 「浸潤(しんじゅん)の譖(しん)というのは、水が気づかぬうちにだんだんとものを浸していくように、讒言(ざんげん)中傷と気づかれないように、日数をかけて君主の心に食い入る巧妙な讒言のこと。悪知恵の極みというところです。「膚受(ふじゅ)の愬(そ)」は、古注は「皮膚のように浅薄な言葉」、新注は「皮膚にじかに痛みを感じさせる訴え」で、上の解釈はこちらを採用している。いずれにしても、君主のそばに、そうした巧妙な讒言、誹謗中傷が渦巻きやすいものではありますが、それが効をなさない状態、それを「明」と言い、「遠」と言っています。それが効をなすと、“裸の王さま”状態になります。『三国志』で言うと、十常侍と呼ばれる宦官の集団が皇帝に取り入って絶大な権勢を振るったようなことになります。ずっと前の話ですが、学校関係では、校長を取り巻く連中が日夜校長を“よいしょ”して宴会を催し、有力な派閥を形成しました。その後、その中からかなりの人たちが校長に昇進していかれました。その様子を横目に見て、「管理職になるコツは、“酒飲み”“ゴマすり”“恥知らず”」と皮肉をおっしゃる人もいました。そして、心をこめた諌言をする人は誅せられたのです。
 野田先生から、「人類の精神年齢は12歳で止まっている」と聞いたことがあります。大人も精神的には中学生レベルです。1人1人が少しでもほんとの大人に近づいて、人類全体の精神年齢を上げていかないと、未来は危なそうです。
 古い話ですが、1912年4月14日に豪華客船タイタニック号が沈没しました。1500人の犠牲者を出した大事故も、スピード最優先にした人間の愚かさと氷河の危険を知らされながら傲慢に見栄を張ったことに起因するのでしょう。映画は、記録映画ふうの作品と、例のレオナルド・ディカプリオ主演のラブストーリーにアレンジされた作品と観ました。あとのほうは繰り返し観ています。

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論語でジャーナル’26

5,司馬牛、憂えて曰く、人は皆兄弟(けいてい)有り。我独り亡(な)し。子夏曰く、商これを聞く。死生、命(めい)あり、富貴天に在り。君子は敬して失うなく、人と与(まじわ)るに恭(うやうや)しくして礼有らば、四海の内皆兄弟なり。君子何ぞ兄弟なきを患(うれ)えんや。

 司馬牛は憂鬱な雰囲気で言った。「人間にはみんな兄弟がいるというのに、私だけはただひとりだ」。子夏が言った。「私は死生の別も天が与える運命であり、富み栄えるのも天命であるという言い伝えを聞いている。君子が慎み深い態度をとって間違いを行わず、人と親切に交流して礼を失わなければ、世界のすべての人々がみな兄弟になるだろう。君子であるものがどうして兄弟がないというくらいのことを心配するだろうか」。

※浩→前の条で、司馬牛は「君子は憂えず懼れず」と孔子から言われているのに、さっそく憂えています。しかも、兄弟があるなしとか、財を得るか得ないかとかは、天が与える運命であって、人間の努力を超えた問題なのに、憂えていますから、こうなるとやはり「杞憂」ということになりそうです。
 とはいえ、司馬牛の兄は、宋の景公に反乱を企てたり孔子を襲撃したりするなど道徳的に好ましくない人物であり、宋から追放されて衛に亡命した時に兄弟の縁は絶縁状態になっていたことを考慮すると、理解はできそうです。この人はほんとに兄弟がいない別の司馬牛だという説もありますが、ここではその説は採りません。
 兄を失った司馬牛が悲嘆に暮れていたところ、同門の子夏が来て「徳は孤ならず」の同志愛の精神を説いて、兄弟がいないくらいのことを憂う必要はないと励ましました。「君子敬して失なく、人と与(まじわ)り恭しくして礼有らば、四海の内皆兄弟なり」の部分は、人徳によって膨大な数の民衆の支持を結集して安定的に国家を統治するという、儒教の徳治政治の理想につながる部分でもあると言われます。が、条件がついています。「人と与り恭くして礼あらば」です。
 「四海の内皆兄弟たらん」と言うフレーズは、学問だけでなく、宗教や政治・社会の理想を持つ者の同志愛としてよく使われます。特に侠客・土匪や革命運動の団体のような秘密結社の同志愛を表明してよく利用されました。同士は義兄弟の縁を結んで、きわめて強固に団結していました。そうそう、「三国志」の“桃園の誓い”を思い出します。北島三郎さんの「兄弟仁義」にも、「同じ血を引く兄弟よりも……」とありました。歌舞伎では「三人吉三」を連想します。

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論語でジャーナル’26

4,司馬牛、君子を問う。子曰く、君子は憂えず懼(おそ)れず。曰く憂えず懼れず、これこれを君子と謂うべきか。子曰く、内に省みて疚(やま)しからざれば、それ何をか憂え何をか懼れん。

 司馬牛が君子について質問した。先生はお答えした。「君子は心配したり、恐れたりしないものだ」。司馬牛はさらにおたずねした。「心配したり恐れたりしない者は、みんな君子と言っていいのでしょうか?」。先生は言われた。「自分自身を内省してやましいところがないのであれば、いったい何を心配して何を恐れるというのだろうか」。

※浩→司馬牛が今度は君子(紳士)の条件について質問しました。ここと一つ前と、司馬牛は二度とも、孔子の言葉に対して、さらに詳しく問い返しています。なるほど「言多し」の人のようです(笑)。兄の司馬魋(たい)が孔子を襲って危難に遭わせたことを絶えず気に病んでいたらしい。それで孔子が、「自分の過失でないものを気にする必要はない」と言って、この無用の心配を除いてやろうとしたのであろう、と、貝塚茂樹先生が解説されています。
 無用の心配というと「杞憂」です。コロナ蔓延の直前でしたが、卒業間近の男子生徒のカウンセリングをしました。生徒会長を務めたリーダーシップのある男子で、パナ○○○○に就職が決まっていました。成績優秀で生徒会長をりましたから、超人気企業に就職したのも納得できます。その彼が、あることについて「それはキユウですね」と言ったので、感動しました。「漢字、書ける?」と聞いたら、笑って「いいえ」と答えました。字は書けなくてもこの言葉を知っていることに感動しました。私がホワイトボードに「杞憂」と書きました。細かいことを言うと、少しだけ「使い方」が違っていました。正しくはおそらく「あとの祭り」と言うほうが、より的確だったと思います。
 周の時代、杞の国の人が、「天が落ちてきたり地が崩れるのではないか」といつも本気で心配しそのために夜も眠れなかった人がいたことから、「杞人憂天」の四字熟語が生まれました。これを略して「杞憂」という言葉になり「起こることのないことに対して余計な心配をすること」といった意味を持つようになりました。
 司馬牛のは、無用な心配ではあっても、杞憂の人とは違うようです。自分の身内の不祥事を負い目に感じていたのでしょう。孔子は質問攻めに困惑気味ではあっても、丁寧に回答されています。
「内に省みて疚(やま)しからざれば、それ何をか憂え何をか懼れん」というフレーズは、『孟子』の中に、曽子が子襄に孔子から聞いた言葉として、「自ら反(かえ)りみて縮(なお)くんば千万人といえどもわれ往(ゆ)かん」と表現されています。こちらはあまりにも有名です。
 野田俊作先生も講演後の質疑応答はいつも丁寧に、たとえ、それまでに他の人が質問したことであっても、イヤな顔ひとつなさらずに、回答されていました。その厖大な記録を筆者は幸い保存していて、現在もいろいろな場面で役立っています。

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3,司馬牛(しばぎゅう)、仁を問う。子曰く、仁者はその言や訒(じん)、曰く、その言や訒、これこれを仁と謂うべきか。子曰く、これを為すこと難(かた)し。これを言うに訒なることなきを得んや。

#貝塚茂樹先生の訳
 司馬牛が仁の徳についておたずねした。先生は言われた。「仁徳ある人は、言葉がすらすら出ない」。司馬牛はまたおたずねした。「言葉がすらすら出ない人だったら、みんな仁者と呼んでいいのですか」。先生が答えられた。「仁を実践することが難しいのだから、言葉もすらすらいかないではないか」。
#吉川幸次郎先生の訳
 ……孔子は答えた。「仁者は言葉が重々しく、言いよどみがちである」。司馬牛は問い返した。「では、言葉付きが重々しいというだけで、仁と言い切ってよろしいか」。孔子は答えた。「何ごとも、言うのはやさしいが実行は難しい。しからば、ものを言うとき、口ごもらずにいられようか」。

※浩→貝塚先生と吉川先生で、解釈が微妙に違うところが興味深いです。
 司馬牛は、姓は司馬、名は耕または犂(り)、字(あざな)は子牛。宋の貴族です。孔子が、前492年に宋を訪れたとき、孔子を襲って殺そうとした向魋(こうたい)とも言われる司馬魋(たい)は、司馬牛の兄です。孔子が魯に帰国したのち、前484年に、司馬魋は反乱を起こし国外に追放されました。司馬牛は自分の領地を国に返して、斉に亡命しました。
 司馬牛は、ひどく多弁だったので、孔子は彼の質問に対して、このように答えました。司馬牛はさらに、「じゃあ、話が下手でありさえすれば、仁者と言えるか」と反問して、孔子を困らせているようです。この時代には「逆は必ずしも真ならず」という論理学の初歩がよくわかっていなかったらしい、と貝塚先生は述べられます。孔子は直観的には知っていたらしいですが、この難問に正面から解答することはできなかったのでしょう。
 司馬牛のような認識を、われわれもやりそうです。「君子ならば言葉は重々しい」の逆は、「言葉が重々しいならば君子である」です。これは必ずしも真でありません。「雨が降るならば傘をさす」の逆の「傘をさすならば雨が降る」もそうです。たまたま傘をさしたら雨が降ったということはありそうですが、こういう「偶然」は「法則」にはなりません。こんなことをずっと考えていると、夜眠れなくなりそうです(笑)。昔「地下鉄漫才」というのがありました。地下鉄の電車をどうやって地下に入れたかを考えていると、夜眠れなくなるというお話でした。数学では「逆も真」のことがあります。「二等辺三角形は二辺の長さが等しい」の逆の「二辺の長さが等しければ二等辺三角形である」は真です。
 昔、野田先生から「ラッセルのパラドクス」というのを教わったことがあります。親が子どもに「あなたの好きなようになさい」というのはラッセルのパラドクスだと。そう言われた子どもが、もしも「自分の好きなようにした」ら、親の言ったことに従ったのか、背いたのか?親の言ったことに背いて自分のしたいようにしたら、背いたつもりが、親がそうしなさいと言っていたので、従ったことにもなります。このメッセージは実は強烈に支配的で、子どもはどうやっても、親の呪縛から逃れられないのです。一般に日本人は論理的思考が苦手だと言われます。ですからアドラー心理学の「論理的結末」を誤用して、巧みに子どもたちを支配することになるのでしょう。野田先生がたびたび引用されるウィトゲンシュタインの『論理哲学論』はそんなに長くないので、じっくり読み込んでみようと思います(「と思います」です)。まだ読んでいません(笑)。

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論語でジャーナル’26

2,仲弓(ちゅうきゅう)、仁を問う。子曰く、門を出でては大賓(たいひん)を見るが如くし、民を使うには大祭に承(つこ)うるが如くす。己の欲せざるところ人に施す勿れ。邦に在りても怨み無く、家に在りても怨み無し。仲弓曰く、雍(よう)、不敏と雖も請う、斯(こ)の語を事とせん。

 仲弓が仁徳について質問をした。先生はお答えになった。「家の門を出て外へ出たならば、あたかも国賓のような大切なお客に会うときのように敬虔に応対する。国民を使役するときには、国の宗廟の大祭を勤めるような心持ちで厳かに行う。自分がしてほしくないことを、他人にしない。そうすれば、国に仕えていても人に恨まれることがなく、家庭にいても人から恨まれることはない」。仲弓は申し上げた。「私は愚鈍な者ではありますが、先生の言葉を実践させていただきたいと存じます」。

※浩→孔子が弟子の仲弓に仁徳の本質について教えていて、有名な「己の欲せざるところ、人に施すことなかれ」が登場しました。キリスト教の黄金則の「自分がしてもらいたいことを、人にしてあげなさい」の裏返しになっているところが興味深いです。アドラー心理学では、どう考えるでしょうか。少し理屈をこねると、「自分が欲しないこと」も「自分がしてもらいたいこと」も、自分の“私的感覚”にもとづきます。ところが、他者には他者の“私的感覚”がありますから、「自分の欲しないこと」でも相手は欲するかもしれませんし、「自分がしてもらいたいこと」も相手はしてもらいたくないかもしれません。欲しないことをしないのは、相手に何も加えられていないですから、安全に思われます。一方、「自分がしてもらいたい」からと思って、もしも断りもなしに実行したら、相手は「余計なお世話」とイヤがるかもしれません。やはり、相手の意向を確認する必要がありそうです。「~させていただこうと思うんですが、いかがでしょうか?」と言いましょうか。「~させていただいてもいいですか?」と言いましょうか。
 話は変わりますが、最近の人々の会話を聞いていると、自分がしようとすることに関して「~していいですか?」と確認するのではなくて、相手に「ちょっと黙ってもらっていいですか?」とか「もう帰ってもらっていいですか?」とか言っているのを耳にして、違和感を覚えます。ついでに、不祥事を起こして、記者会見などで陳謝するときに、「多大なご心配とご迷惑をおかけしまして、心からお詫び申しあげたいなと思います」のように、多くの人が言います。これも不思議な言い方に感じます。1つは、迷惑はかけられたと思う人はいるかもしれませんが、「心配」したかどうか疑問です。「心配」というのはごく主観的なものですから。人によって違います。もう1つは、これでは“お詫び”を“した”ことになっていないと思います。「申しあげたいな(「な」は不要)と思います(思っている)」、で、「意志」と「思考」が述べられていて、お詫びするという「行為」は行われていません。どうして、きっぱりと「お詫び申しあげます」とか「お詫びいたします」と言い切らないのでしょうか。おそらく、言いたくないんでしょう。あとでもしも、「なぜ謝ったのか?」と責められることでもあったら、「謝っていません。お詫びしたいと思います」と「考え」を述べただけですと、言い訳ができそうです。こんなことを考えているのは私だけでしょうか?暇人なんですね。

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