第十二「顔淵篇」
1,顔淵、仁を問う。子曰く、己に克(か)ちて礼に復(かえ)るを仁と為す。一日(いちじつ)己に克ちて礼に復れば天下仁に帰す。仁を為すは己に由(よ)る、而うして人に由らんや。顔淵曰く、請う、その目(もく)を問わん。子曰く、礼に非ざれば視ること勿(なか)れ、礼に非ざれば聴くこと勿れ、礼に非ざれば言うこと勿れ、礼に非ざれば動くこと勿れ。顔淵曰く、回、不敏と雖(いえど)も、請う、斯(こ)の語を事とせん。
顔淵が仁についておたずねした。先生は答えて言われた。「自分の私利私欲を克服して、人間生活の法則である礼に復帰することが仁の道である。一日でも私利私欲を克服して礼の法則に立ち返ることができれば、天下の人民はその仁徳に帰服するだろう。仁の実践は自己の努力に由来する主体的な道徳で、他人の強制によるものではない」。顔淵がさらに質問をした。「どうか、仁徳の具体的な実践項目について教えてください」。先生はお答えになった。「礼の法則に外れたものに目を向けてはいけない、礼の法則に外れたものに耳を傾けてはいけない、礼の法則にはずれた発言をしてはいけない、礼の法則に外れた行動をしてはいけない」。顔淵が申し上げた。「私は至らぬ者ではありますが、先生の言葉を実践させていただきたいと思っています」。
※浩→「克己復礼」はあまりにも有名なフレーズです。「仁」は主体的な、積極的な道徳ではありますが、ただ「一日」の実践で天下が感動するというのは、いささかオーバーですし、さらに、問いかけが抽象的で、答えも教条的で、こういう形式は「前篇」にはほとんど見られなかったと、吉川幸次郎先生は述べられています。
さらに先生の解説によれば、「礼に復る」の「礼」は、慾望を圧迫し縮小するための法則ではなくて、慾望を黄金律的な形へ拡大する法則である、とも解説されています。
「克」の原義は「敵と戦争して勝利する」ということですから、「己を責める」と訳すこともあるそうです。欲望とは限らないで、むしろ「自我」のことで、小さい自我を乗り越えるとも解釈されます。インドのアートマンとブラフマンを思わせます。アドラー心理学では、「私利私欲」と対をなすのは「共同体感覚」です。価値観で言えば、「私的感覚」と「共通感覚」ですが、「欲望」そのものを否定してはいません。「欲望」を、「ボディ」と「マインド」とに区別しています。「ボディ」はフロイトが言う「イド」で、「マインド」は「エゴ」と言い換えればわかりやすいです。「ボディ」には個性がありません。どの人のボディも、本能的に生存と所属を追求しているだけです。「マインド」は、1人1人違っています。その違いがライフスタイルだそうです。「ボディ」は動物的なものですから、悩むことはしません。欲求不満は持つでしょうが、それは「今ここで」のことであるにすぎず、くよくよ悩む材料にはならないのです。悩みはすべて「マインド」が作り出すトリックです。マインドは、自分をごまかし他人をごまかすために悩みを作り出します。悩みによって、ボディの欲と社会の要求との折り合いをつけようとするのです。その悩み方がひどくなって、現実には達成できていないのに、幻想的にできているような気になっている状態を「自己欺瞞」と言い、「神経症」と言い、「マインド・トリップ」と言います。
「みんなの仲間でいたい」というのはボディの仕事です。しかし、「仲間がいなくなる」、「友だちが離れる」ということに“異常なくらい”恐怖心を持っているのはマインドです。そうして奇妙な神経症症状を出して、幻想の中でだけ目標追求しています。
マインドが悩んでいるときの解決法は2つあります。「俗」アドラー心理学では、より巧妙なマインドを作り出そうとします。「聖」アドラー心理学では、マインドを捨てて大きなものに「お任せ」するように勧めます。どちらを採ってもかまいません。「より巧妙なマインド」は、より問題を深くする気がするのです。だから、マインドを捨てて、しかもボディだけの動物レベルに還るのではなくて、ハートの目覚めた新しいレベルに進むように、人々に勧めています。……と、野田先生が『補正項』に書かれていました。こここで言われている「ハート」が「共同体感覚」か孔子の「仁」に近いような気がしています。先生は、《マインド》によってではなくて《ハート》によって問題を見ると、まったく違って見えてくる。そのことをいちいちの事例について示したいのだ。そうすることで、クライエントにとってよい解決ではなくて、クライエントを含むシステムにとってよい解決を見つけたい。とも書かれていました。
26,子路・曾皙(そうせき)・冉有(ぜんゆう)・公西華(こうせいか)、侍坐(じざ)す。子曰く、吾、一日爾(なんじ)に長ぜるを以て、吾を以てすることなかれ。居れば則ち曰く、吾を知らずと。如(も)し爾を知るもの或(あ)らば則ち何を以てせんや。子路、率爾(そつじ)として対(こた)えて曰く、千乗の国、大国の間に摂して、これに加うるに師旅(りょ)を以てし、これに因(よ)るに飢饉を以てせんに、由やこれを為(おさ)めて三年に及ぶ比(ころ)、勇あり且(か)つ方(みち)を知らしむべきなり。夫子これを哂(わら)う。求よ爾(なんじ)は何如(いかん)。対えて曰く、方六七十、如(も)しくは五六十、求やこれを為(おさ)めて三年に及ぶ比(ころ)、民を足らしむべきなり。その礼楽の如きは以て君子に俟(ま)たん。赤よ爾は何如。対えて曰く、これを能(よ)くすと曰うには非ず。願わくは学ばん。宗廟の事、如しくは会同のとき、端章甫(たんしょうほ)して、願わくは小相(しょうしょう)たらん。点よ爾は何如。瑟(しつ)を鼓(ひ)くことを希(や)め、鏗爾(こうじ)として瑟(しつ)を舎(お)きて作(た)ち、対えて曰く、三子者(さんししゃ)の撰(せん)に異なり。子曰く、何ぞ傷(いた)まん、亦(また)各(おのおの)その志を言うなり。曰く、暮春には、春服既に成り、冠者(かんじゃ)五六人・童子六七人を得て、沂(き)に浴し、舞樗(ぶう)に風(ふう)し、詠じて帰らん。夫子、喟然(きぜん)として歎じて曰く、吾は点に与(くみ)せん。三子者出ず。曾皙後(おく)る。曾皙曰く、夫(か)の三子者の言は何如(いかん)。子曰く、亦各その志を言えるのみ。曰く、夫子何ぞ由を哂(わら)えるか。子曰く、国を為(おさ)むるには礼を以てす、その言(げん)譲(じょう)ならず。是の故にこれを哂えり。求と唯(いえど)も則ち邦(くに)に非ずや、安(いずくん)んぞ方六七十如しくは五六十にして邦に非ざるものを見ん。赤と唯も則ち邦に非ずや、宗廟と会同とは諸侯に非ずして如何。赤これが小相たらば、孰か能くこれが大相と為らん。
子路・曾皙(そうせき)・冉有・公西華が、孔子のおそばに座ってうちくつろいでいた。先生が話し出された。「私が諸君より少し年長だからといって、今日は少しも遠慮はいらない。諸君は平生『自分たちはちっとも認められない』と不平を言っているが、もし誰か諸君を認める者があるとしたら、いったい何をやるつもりか聞かせてほしい」。
せっかちな子路が立ってかしこまってお答えした。「千台の戦車を持つ平均的な国家が、大国の間に挟まれて侵略を受け、おまけに飢饉に襲われたとします。私にその国の政治を担当させたら、三年間のうちに、勇敢で責任感のある国民に仕立ててみせます」。先生は微笑されて、冉求に「お前はどのようにするか」と質問された。冉求はかしこまってお答えした。「私は、方六、七十里か、方五、六十里の小国を担当します。私がその政治を担当したら、三年間で国民の生活を満足なものにしてやれましょう。礼楽などの文化的な面は、立派な方々がいらっしゃいますから、その方々にお願いします」。先生は、公西華に「お前はどのようにするか」と質問された。公西華はかしこまってお答えした。「これから申し上げることは、やりおおせる自信があるわけではありません。学んでそうしたいのです。先祖の宗廟の祭祀や他国の君主との会合において、玄端の衣服をまとい章甫の冠をかぶって、儀礼の進行を司る小相になりたいと願っています」。
先生は、曾皙に「お前はどのようにするのか」と質問された。琴を爪弾きしていた曾皙は、琴をブルンとかき鳴らしてから下に置いて立ち上がり、かしこまってお答えした。「私の考えは、今までの三人の意見とはかなり違っています」。先生は言われた。「他の門弟と意見が異なっていても気にする必要はない。思い思いに自分の希望を述べているのだから」。曾皙はお答えした。「春のおわりごろ、春に着る晴れ着がすっかり仕上がって、冠をかぶった大人の従者五、六人、子どもの従者六、七人を引き連れて、沂水(きすい)で禊(みそぎ)をし、雨乞い台で舞を舞わせて、歌を歌いながら帰りたいと考えています」。先生は「ううん」と唸って感嘆してから言われた。「私は曾皙に賛同する」。
三人が退席して、曾皙が一歩退くのが遅れたので、彼は先生におたずねした。「他の三人の意見をどうお感じになりますか」。先生はおっしゃった。「それぞれの希望を忌憚なく述べたのだから、別に批評することはないよ」。曾皙がさらに聞いた。「先生はなぜ、子路の発言に笑みを浮かべられたのですか」。先生はお答えになった。「国家を治めるには、礼にもとづかねばならない。子路の意見には謙譲の精神が欠けていた。だから笑ったのだ。冉有は、方六、七十里か、方五、六十里の小国といっていたが、いずれにしても国でないものはないのだから大国でも小国でも同じである。公西華も小国といえど国家を対象にしていることに変わりはない。宗廟の祭祀や外国の君主との会同が諸侯のなすべき仕事でないとしたら、国政はいったいどうなるだろうか。公西華が儀礼の進行だけを担当する小相になるのだったら、儀式全体を管理監督する大相には誰がなるというのだろうか」。
※浩→わー、超長い!それもそのはずで、ここは『論語』第一の長文です。
曾皙は名は「点」、字は「皙(せき)」。曽参の父で孔子の弟子でもあります。「率爾として」は、無造作・無作法のさまを言う。そう言えば、時代劇で家臣がもの申すとき、「率爾ながら」と前置きしていました。「会同」の「会」は、2つの君主が会合すること、「同」は多数の国の君主が集会することを言います。「端章甫(たんしょうほ)」の「端」は玄端という赤黒色の礼服、「章甫」は礼式の冠。「小相」の「相」は儀式の介添え役です。「小相」はその補佐役。「大相」は礼の総監督。「瑟(しつ)を鼓(ひ)く」は、琴を爪で軽く低くかき鳴らすこと。「鏗爾(こうじ)」は楽音の形容。「沂」は曲阜の郊外を流れる沂水で、大河ではないが中国の川としては水が澄んでいます。「舞樗(ぶう)」は、雨乞いの祭りの舞いをするための土壇。「風(ふう)」は、体を乾かすことです。
4人の意識する政治の実際の動かし方の違いが明確になっています。
子路の威勢の良い言葉に、孔子は笑いを発したのですが、この笑いは、「大口を開けての朗らかな笑い」か、「微苦笑」か、解釈がわかれます。子路の性格の良い面である積極性の称揚と、悪い面として現れる軽率さに対する、困惑と警告を同時に含んでの笑いでしょう。孔子は曾皙の語った「脱俗的な遊興の境地」に賛同しました。それは最も「人間の実際的な幸福と理想」に近かったからで、子路以下の3人の志は「徳治主義の政治の本質」からやや外れていたからでしょう。曾皙の質問に、「それぞれの意見を述べたのだから、気にしないでいい」と言いながら、おのおのを少しずつ批判しています。
曾皙の語りの部分は、『論語』第一の名文とも言われるそうです。孔子は、道徳堅固な厳粛主義者のようのとられがちですが、曾皙の意見に賛同したように、人生の目的は幸福を求めることにあるとしたのです。まるでアリストテレスの「最高善は幸福」を思わせるようですし、この場の、くつろぎかつアカデミックな対話はプラトンの対話編、そのうちでも『饗宴』を思わせます。『饗宴』では愛の神・エロースの誕生のエピソードが特に美しいです。
「では、いったい、エロスは何ものでしょうか」とぼくはたずねた、「それは死すべき者なのですか?」
「とんでもない」
「でないとすれば、いったい、何なのでしょう?」
「それは、さきほどわたしが言ったものと同様、死すべきものと不死なるものとの中間にあるものなのです」
「ディオティマ(=巫女)、それはいったい、何なのですか?」
「偉大なダイモン(=神と人間の中間に位する霊的なもの)ですよ。ソクラテス。総じて、ダイモン的なものは、神と死すべきものとの中間にあるのでしょう」
で、ぼくはたずねた、
「どんな力を持つものなのです?」
「神々へは人間からのものを、人間へは神々からのものを伝達し、送り届けます。つまり、人間からは祈願と犠牲を、神々からはその命令と犠牲の返しを、というわけです。そして、この両方のまんなかにあって、その空隙を満たし、世界の蛮勇の一つの結合体にしているものです。また、このダイモンをとおしてこそ、すべての卜占術、犠牲、祓い、呪禁(まじない)、さらには、予言と妖術とにたずさわる聖職者の術、これらすべてのことが運ぶのです。もともと神は、直接人間と交わるのではなく、相手の人間が目ざめているとき眠っているときの別なく、その接触と対話はすべてこのダイモンを通じて行われます。
今わたしが言ったようなことがらにおける知者は、ダイモン的な人間なのですが、それとは何か別のことで知者である人は、すべて世俗的な人間です。それが何の技術にかかわることであっても、手先の業のことであっても。
まことに、このダイモンは数も多く、また、ありとあらゆる種類のものがあります。そして、エロスもまた、その中の一員としてあるのです。
「それにしても、その父親は誰ですか」とぼくはたずねた、「そして母親は?」
「長い話になってしまいそうですけれど」と彼女は答えた、「しかし、お聞かせしましょう」
アフロディテがうまれたとき、神々は祝宴を催しました。その席には、ほかの神々と並んで、メティス(=「功知」「才覚」の神格化)の子ポロス(=「才能や資産に富むこと」「行き詰まっても困窮することのないこと」を意味する)も参加していました。で、そのときは大ご馳走の椀飯(おうばん)振る舞いでしたから、その祝宴も果てたころ、ペニア(=「貧困」「欠乏」を意味する)が物乞いにやって来て、戸口のところにいました。一方、ポロスは、まだ葡萄酒もなかったころとて、神酒に酔ってゼウスの園に入り込み、酔い潰れて、眠ってしまいました。そこで、ペニアは、自分が困窮しているから、ポロスの子をもうけようと企み、彼のかたわらに臥して、エロスを身ごもりました。エロスがアフロディテに仕える者となったのは、実に、そういうわけなのです。つまり、彼は、この女神の生誕を祝う宴のさなかに生を受け、生来、美しい事物を恋する者であり、しかも、アフロディテご自身が美しい方であったからです。
また、エロスはポロスとペニアの息子ですから、次のような定めともなったのです。まず第一に、いつも貧しく、人が普通考えるように華奢で美しいというものではないのです。それどころか、ごつごつした体つきで、薄汚く裸足の宿無し者、いつも夜具なしで大地にごろ寝をし、大空の下、戸口や道ばたで横になり、母の性(さが)を受けて常に欠乏と同居する者です。
しかし、他面、父の血を受けて、父と同様に、美しいものと善きものを狙う者、勇気があり、ことにあたって勇往邁進し、懸命に努力する者、手強い狩人、常に何か策略を編み出す者、生涯、知を愛し続ける者、すぐれた魔術師、そしてソフィストです。
また、本性、不死なる者にもあらず、死すべき者にもあらず、ことのうまく運ぶかぎりは日を同じくして命の花を咲かせつつ生きもし、死んでゆきもする。しかし父の性ゆえ、再び生き返るのです。
とはいえ、手に入れるものはいつも手の間から漏れ落ちてしまう。エロスは、けっして困窮しない代わりに、また富んでもいないのであって、さらにまた知と無知の点に関しても、その中間に位するものなのです。
このことのわけは、次のような次第だからです。まず、神々にあっては、神はすでに知者ですから、知を愛することはなく、知者になろうと熱望することもありません。また神以外の者でも、すでに知者であれば、知を愛することはありません。しかし他面、無知蒙昧な者もまた、知を愛することはなく、知者になろうと切望するこものないのです。この、自分は理想的な者でも思慮ある者でもないのに、間然するところのない人間だと自分の目に映ることこそ、無知の厄介なゆえんではあるのですけれど。ともかく、自分に欠けたところがあるなどとは考えない者が、欠けているとは思っていないその当のものを欲求するわけがないではありませんか」
「それならば、ディオティマよ」とぼくは口を挟んだ、「いったい、誰が知を愛するのです?知ある者も、無知なる者も、そうでないとすれば」
「そんなこと、子どもにだってわかりきったことではありませんか」と彼女は答えた、「今言った、両者の中間にある者がそれなのです。そしてエロスも、その中に入っているのです」
そのわけは、言うまでもないでしょう。知は最も美しいものの一つであり、しかも、エロスは美しいものへの恋なのです。だからエロスは、必然的に知ある者と無知なる者との中間にある者なのです。
それに、エロスの場合、その出生が以上のことの原因ともなっているのです。その父親は、知恵もあり、方策にも富む者ですが、母親は、知恵もなく、困窮している者だったでしょう。親愛なソクラテス、このダイモンの本質は以上のごときものなのです。(世界の名著6,プラトン1,「饗宴」から、中央公論社)
「先進篇」のフィナーレは『論語』で最長文でした。このジャーナルもそれにおつきあいして大河ドラマになりました。
25,子路、子羔(しこう)をして費の宰(さい)たらしむ。子曰く、夫(か)の人の子を賊(そこ)なわん。子路曰く、民人あり、社稷(しゃしょく)あり、何ぞ必ずしも書を読みて、然して後、学びたりと為さん。子曰く、是(こ)の故に夫(か)の佞者(ねいじゃ)を悪(にく)む。
子路が、子羔を季氏が管轄する「費」の城主(市長)として採用した。先生が言われた。「あのまだ未熟な若者を、ああした地位につけるのは、本人のためにならない」。子路が答えた。「費の町には、ちゃんと人民がいて、穀物の神を祀る神社があります。統治と奉仕の実践によって、学問ができます。何も書物を読むことばかりが、学問なのではありません。読書による学問が未熟だからといって、市長の資格に欠けるとおっしゃるのは、おかしい」。先生がおっしゃった。「だから、私は、強弁する人間が嫌いだ」。
※浩→季氏の重臣として権勢を高めた子路は、友人ではあるが政治的資質の乏しい子羔(孔子より30歳年下)を軍事的要地である「費」の城主にとりたてました。そして、子羔に市長としての才覚と資質が不足していることを熟知していた孔子は、子路に対して「子羔では十分な務めを果たせないだろう」と苦言を呈したのです。しかし、政治的な実力者となっていた子路は、既に政治の現場から引退していた孔子に向かって、「書物を読む精神的な営みだけが学問ではなく、政治の現場で理想を実現することもまた学問ではないか」と反駁しました。その口達者(強弁)な言い回しをに正面から言い返さないで、『口先で相手を丸め込もうとする人間が嫌いだ」と漏らしたのです。
「費」の邑(しろ)は季氏の本拠となる荘園で、魯国の南方の関門と言うべき要所で、堅固な城が築かれ、多数の兵士が守っていました。あまりに強大な城になったので、城主はたびたび季氏に反逆を企てたそうです。その「費」の城主(市長)に、男気を出した子路が、頼りない子羔(高柴)を任命しました。孔子が「まだ未熟な子羔のためにならない」と言ったのに対して、孔子の若いころの、実践を重んじる持論を引き合いにして反論しました。孔子はすでに現役を引退していましたことでもあるし、口達者な子路を正面から説き伏せるのにタジタジとして、すっかり成長して生意気になった子路に降伏せざるをえなかったのでしょう。顔淵に次いで愛していた子路の反撃が嬉しくもあったのでしょうか。弟子が成長して、師匠を超えることは、“出藍の誉れ”で、喜ばしいのですが、孔子ほどの聖人でも、成長した弟子にやり込められていたとは、むしろ微笑ましいです。私のような凡人は、うかうかすると後輩たちにやりこまれてしまいます。アドラー心理学を学び始めて、既にで35年になりますが、まだまだ新人の気分で、学べば学ぶほど、その奥ゆきに引き込まれています。最近始めた人が、すでに奥義を究めたようにふるまわれるのを見て、あきれることもありますが、その人たちを私が育てたわけではありませんから、関係ないです。むしろ、若い人が学び半ばにして去っていかれることを惜しみます。
24,季子然(きしぜん)問う、仲由と冉求(ぜんきゅう)とは大臣と謂うべきか。子曰く、吾れ子(し)を以て異なるをこれ問うと為せり。曾(すなわ)ち由と求とをこれ問えるか。所謂(いわゆる)大臣なる者は道を以て君に事(つか)え、不可なれば則ち止(や)む。今、由と求とは具臣(ぐしん)と謂うべし。曰く、然らば則ちこれに従う者か。子曰く、父と君とを弑(しい)せんとすれば亦(また)従わざるべし。
季子然がおたずねした。「季氏(自分)に仕えている子路と冉求とは、大臣(=立派な臣下)と言える者たちでしょうか?」。先生は答えられた。「私はもっとあなたが変わった問いかけをすると思っていましたが、子路と冉求について質問されるのですか。いわゆる大臣という者は、道に従って君に仕え、君が道から外れれば諫(いさ)め、その意見が聞かれなければ辞職するものです。現在の子路と冉求は、頭数だけをそろえた臣下(普通の“並び大名”的な臣下)と言えるでしょう」。季子またおたずねした。「それならば、この二人は季氏の命令に何でも従うのでしょうか」。先生が答えられた。「しかし、父親と君主とを殺害するように命じても、その(人倫に違背した)命令に従うことはないでしょう」。
※浩→季氏は魯の家老です。彼は孔子の門下である子路と冉求という有能な君子を家臣にしたことが得意で、それが質問の動機です。孔子は君主を蔑(ないがし)ろにする季氏の専横を快く思っていませんでした。そこで、子路と冉求についてやや厳しめの評価を下しています。
「大臣」という言葉は、『五経』には登場しなくて、『論語』(四書の1つ)のここが最も古い使用例だそうです。孔子の孫・子思の作と言われる『中庸』には、「大臣を敬え」というのが天下国家を治める法則の1つとしてあげられています。その「大臣」は、道に従って仕え、道に合わないことがあれば諫め、それが聞いてもらえなければ辞職するという、高潔の士です。今の政府の関係者はどうでしょうか?総理大臣が間違ったことをしようとしていたら、周囲に諫める人がいるでしょうか?
昔の東映映画に中村(萬屋)錦之助主演の「風雲児・織田信長」というのがありました。名脇役の月形龍之介さん扮する家老の平手政秀は、信長の後見役として信長の初陣を滞りなく済ませるとともに、争い中であった美濃の斎藤道三との和睦を成立させ、信長と濃姫の婚約を取り纏めたりしましたが、信長の放縦ぶりを諫めて、聞き入れられなくて自刃しました。これには信長も堪えたことでしょう。
学校では、校長に部下の先生が諫言することはかなり困難です。職員会議などでも職員は消極的で、提出された議案はおそらく批判を加えられることなくそのまま可決されているのでしょう。野田先生がこのことをよく、「デモクラシー」でなく「アナーキズム」だとおっしゃっていました。朝日新聞のコラム「天声人語」さながら、「人の声は天の声」だということを為政者は肝に銘じていてもらいたいです。
1970年代に天声人語を担当した深代惇郎氏は、根強いファンが多かったです。2年9カ月の短い期間でしたが、読者に深い印象を残しました。残念なことに白血病に倒れ、46歳で逝去されました。出版もされていて、わが家には昭和51年発行の第一巻とその続編があります。第一巻を久しぶりに紐解いてみました。目に飛び込んできたのは、「ノー・サイド」というタイトルでした。引用します。↓
全日本ラグビーが来月、イギリスに遠征する。スクラムの固いOBたちは涙を流してよろこび、二百人の応援団をくり出すほどの興奮ぶりだという。
日本人は長いあいだ、ヨーロッパに片思いをつづけてきた。シャンソンを歌い、スコッチを飲んできたのに、先方は一向にこちらを向いてくれなかった。この片思いの最たるものが、ラグビーだろう。明治以来、黙々と腕をみがいてきたが、日本のラグビーは物の数に入れてもらえなかった。その涙ぐましい努力が七十四年ぶりに実り、招待状がきた。関係者は足の踏むところを知らない。
十年ほど前、筆者がロンドンにいたころ、日本ラグビー育ての親、故・香山蕃さんを発生の町「ラグビー」に案内したことがあった。創立四百年のラグビー校のグラウンドは、霧につつまれて、ぼんやりと青く拡がっていた。香山さんはそこに立ちつくして、いつまでも離れようとしなかった。胸中には、歯を食いしばってイギリスに追いつこうとした感慨が去来していたのだろう。
グラウンドのかたわらに碑があった。千八百二十三年、このグラウンドでフットボールの試合中、エリスという少年がいきなり球を抱えて走り出した。「かくてラグビーはこの地で始まる」と由来記が碑に記してあった。規則違反でラグビーが始まったというのは、ルール尊重のお国柄だけにおもしろかった。
ラグビー、サッカー、ゴルフをみても、イギリス人はルールを作ることでスポーツを完成させる特別の才能があるようだ。そろって雨天決行なのも、コウモリガサとレーンコートのお国らしい。
ラグビーの試合終了を「ノー・サイド」という。戦いが終われば、敵味方の別はないというスポーツマンシップを感じさせてすがすがしい。「我はたたえつかの防衛、かれはたたえつ我が武勇」で、悔いなき激闘を期待したい。(48・8・30)
こういう、簡潔でしかも多彩な引用があり、しかも説得力ある名文を、自分も書けるようになりたいものです。また、機会を見ては、深代淳郎氏の「天声人語」を読み返しましょうか。
23,子、匡(きょう)に畏(おそ)わる。顔淵後(おく)る。子曰く、吾汝を以て死せりと為せり。曰く、子在(いま)す、回何ぞ敢えて死せん。
先生が、匡の地で賊に襲撃されたときに、顔淵が集団からはぐれて遅れてしまった。後で顔淵と再会したときに、先生がおっしゃった。「私はお前が死んでしまったものと思っていた」。顔淵が言った。「先生が生きていらっしゃる限り、私がどうして死ぬことなどあるでしょうか」。
※浩→孔子の一行が、衛の国から陳の国に赴く途中、悪人・陽虎だと人違いされた孔子が暴徒の襲撃を受けて四散してしまいます。最愛の弟子・顔淵は一行から遅れていてその場に居合わせませんでした。やがて顔淵がやって来たとき、孔子は「おお、生きていたか。よかった」と喜びます。顔淵は、「先生が生きていらっしゃるのに、私が死ぬわけにはまいりません」と答えます。ここには宗教的な感情が流れていると、吉川幸次郎先生は解説されます。「子在す」という顔淵の最初の言葉は、無事な先生の姿を確認しての言葉であるとともに、いかなる危機の中にあっても、先生が命を失われることはないという確信の予想を言っているように響きます。顔淵の確信は何によって生まれているでしょうか。慎重な孔子はいかなる危機の中でも慎重に対処するであろうという予想、それがあったとともに、天の加護は常に先生の上にある、つまり「子罕篇」の孔子の言葉「天の未だ斯の文を喪ぼさざるや、匡人其れ予れを如何」と、そうした孔子の自信が、先生の身の上についての顔淵の信念でもあったと響きます。孔子の自信と、その自信に応える天の恩寵、さらには天の恩寵を意識することによって増大した自信、それらがみな顔回の上にも波及しているとも考えられます。このときは、顔回は死ななかったです。でも何年かのち、顔回は孔子に先立って死にます。そのときは、「顔回死す。子曰く、噫(ああ)。天、与(わ)れを喪(ほろ)ぼせり、天、与れを喪ぼせり」と悲嘆に暮れています。
貝塚先生は、再会できた師弟の情宜を超えた同性愛に近いものを感じると書かれています。確かに孔子のたくさんのお弟子の中で、顔回には特別の情を抱いていたように感じられます。「愛弟子」レベル以上のものを。それほどの魅力を顔回は備えていたのでしょう。
そすそう。「師弟関係」というと、かつて野田先生が書かれた小論文があります。引用します。↓
育児あるいは教育をめぐる人間関係には2つの種類があります。1つは、先生teacherと生徒studentとの関係、もう1つは師匠masterと弟子discipleとの関係です。先生-生徒関係は、主に知識の伝達を目的とするもので、必ずしも人格的な触れ合いを前提としません。一方、師匠-弟子関係は、人格的な成長を目的とするもので、知識の伝達は副次的なものです。アドラー的な用語を使うと、先生-生徒関係は社会(ゲゼルシャフト)的、師匠-弟子関係は共同体(ゲマインシャフト)的な関係と言えましょう。両者を比較すると、表のようになります。
先生-生徒関係:師匠-弟子関係
知識伝達が目的:人格的成長が目的
先生のことばを生徒がおぼえる:師匠の行動を弟子が見習う
社会的関係:共同体的関係
契約関係:信頼関係
普通は一時的関係:普通終生の関係
教える-習う:共に学び共に生きる
賞罰による訓練:勇気づけによる育成
仕事のタスク:交友ないし愛のタスク
さて、躾けdisciplineという言葉は弟子descipleという言葉と関係があります。つまり、躾けとは「師匠と弟子の道」なのです。従って、師匠-弟子関係のないところに、本当の躾けはありえません。今、この国で躾けがないのは、親子間であれ師弟間であれ、先生-生徒関係はあっても、師匠-弟子関係がないからです。さらにはその背景である、共同体的人間関係がないからです。
かつては、尊敬される人が人々に推されて教師になりました。今では、尊敬されたい人が教師になって、人々に尊敬を強要しています。尊敬されたいために教師という職業を選択することそれ自体が悪いことだとは言いません。どんな動機であれ、共同体に有益な職業を選択するのはよいことですから。しかし、一旦教育者という職業を選択したかぎりは、いつまでも幼児的な『権力への意志』を追求しつづけるべきではありません。教師には、みずからが人格的に成長して大人としてふるまうことで、生徒たちに大人の問題解決行動のモデルを示す責任があると思います。「教師は労働者か聖職か」というような幼児的な議論ではなく、教育を可能ならしめる基礎としての、教師自身の人格的成長、すなわち共同体感覚の育成が、教育界の目下の急務ではないでしょうか。
教師だけではありません。およそ人の子の親たるものは、すべからくわが子の師であるべきです。もっと正確に言うと、好むと好まざるにかかわらず、わが子の師である他はないのです。悪い師匠の弟子になるのは一生の不幸です。親たちの多くは、師匠としての資格がないままに弟子をとっています。すなわち、ほとんどの親は精神的には、まだ子どもなのに子を産んで育てているのです。子どもが子どもを育てていたのでは、大人が育ってこないのは当たり前です。親がまず大人にならなければ、子どもはいつまでも大人にはなれません。
心構え論としては以上に尽きますが、では実際にはどうすればいいのでしょうか。現在すでにある社会資源を利用するとすれば、スマイル(『パセージ』旧バージョン)や親業などは使えます。これらのコースは、躾けの技法を身につけさせることを目的として作られたもので、私が今ここで言っている、先生から師匠への成長、あるいは、共同体的な教育理念そのものを身につけさせようとするものではありません。しかし、これらのコースによって躾けの技法を学ぶことは、先生-生徒関係を脱却して師匠-弟子関係に入ってゆくための1つのとっかかりになりえます。因習的な躾け法にかわる、より共同体的な躾け法を身につけることで、共同体的なものの見方も育ってゆく可能性があります。
行動が変わればやがてライフスタイル(世間で言う性格のこと)も変わるものですから、それらのコースで躾けについての行動がまず変われば、躾けをめぐるライフスタイルも変わることがありえます。それらを小手先の技巧を教えるだけのものだと馬鹿にすることは当たっていません。はっきりと意識して使われれば、それらは受講者の行動だけでなくライフスタイルをも変えうるのです。
しかし、現状を見ますと、それらのコースの受講は、必要なことではあっても、それだけでは十分ではないように思います。育児・教育についてのちゃんとした考え方なしにただ技法だけ身につけてしまう例がまま見受けられます。これでは本当の躾けはできません。スマイルであれ親業であれ、誤用・悪用しようとすればいくらでもできるのです。親や教師が子どもたちを支配し服従させるための道具としてそれらの知識を使う危険もないではありませんし、不幸にして、実際にそのような例を見聞きしたこともあります。技法の裏づけのない心構え論は、無力ではありますが、少なくとも害はありません。一方、正しいものの見方に裏づけられていない技法は、それはそれとして有効であるだけに、危険でもあり、多くの場合、実際に有害ですらあります。スマイルや親業で身につけた技法は、正しいものの見方に裏づけられてはじめて本当の躾けとして生かされうるのではないかと思います。
躾けの技法はあくまで、共同体的人間関係にもとづく本当の師弟関係、親子関係への道であること、道でしかないことをいつも忘れてはならないと思います。目標がはっきりと意識され、そこに至る道筋をはっきりと知っているとき、人間は、間違わずに生きてゆけます。躾けの目標はいつでも、みんなともにに大人になることにあるのです。子どもたちを大人にしようと思うならば、まず大人たちが本当の大人になるしかありません。
22,子路問う、聞くままにこれ行わんか。子曰く、父兄在(いま)す有り、如何(いかん)ぞ、それ聞くままにこれ行わんや。冉有(ぜんゆう)問う、聞くままにこれ行わんか。子曰く、聞くままにこれ行え。公西華(こうせいか)曰く、由が聞くままにこれ行わんかと問えるとき、子は父兄在す有りと曰(のたま)えり。求が聞くままにこれ行わんかと問えるとき、子は聞くままにこれ行えと曰う。赤(せき)や惑う。敢えて問う。子曰く、求や退く、故にこれを進む。由や人を兼ねんとす、故にこれを退く。
子路が質問した。「(指示を)聞いたらすぐにそのとおりに実行しましょうか?」。先生がお答えになった。「父兄がまだ生きていて心配していらっしゃるのだから、どうしてすぐに実行することができようか」。冉求が質問した。「聞いたらすぐにそのとおりに実行しましょうか」。先生がお答えになった。「聞いたらすぐにそのまま実行しなさい」。公西華がおたずねした。「子路が『聞いたらすぐに実行しましょうか』と聞いたときには、先生は『父兄がまだ生きていらっしゃる』と制止され、次に冉求が『聞いたらすぐに実行しましょうか』と聞いたときには、先生は『聞いたらすぐに実行せよ』とお答えになりました。私はこれを聞いて戸惑いました。どちらが正しい教えなのですか?」。先生はお答えになった。「冉求は慎重で消極的だから、すぐに実行することを勧めた。子路のほうは他人の分まで仕事をしようとする積極性があるので、これを抑制したのである」。
※浩→孔子は門弟たちの個性と長所を的確に把握していて、弟子から同じ内容の質問を受けても弟子のパーソナリティ(個性)に合った回答・アドバイスを臨機応変に与えました。
吉川幸次郎先生の解説では、教条主義は、ただ1つの倫理を、相手構わずに押しつける。孔子はそうでなく、それぞれの相手の性格なり環境をよく考えて、それぞれに適切な教えを与えた。つまり人を見て法を説いた、とあります。
アドラー心理学では、それぞれの「私的論理(価値観)」の違いを考慮して、それぞれに応じた回答をするということになるでしょう。まことに野田先生のなさり方とぴったり一致します。アドラー心理学といっても、初心者と、長く学んでいる人、人を援助する人と、援助される人ととか、それぞれの立場に応じて、違うことを教えられました。私も入門当時は、「あれ、あのときと違うことを言っている」と気づいて混乱したこともありました。「育児講座」に参加する親御さんたちに語ることと、カウンセラーやサイコセラピストを目ざす人に語る言葉は、違って当然です。また、スパルタ式で成長する人もいれば、俗に言う「褒められて」成長する人もいるでしょう。今日の「第一掲示板」のに、野田先生は、カウンセラー養成講座で試験に合格する人と落第する人について書かれています。
ここに登場する、子路・冉有・公西華の3人は、他の個所でもよく一緒に現れます。子路の問いの「何かを聞けば、すぐそれを実行してよろしいか」に対しては、孔子は、「正しいことを聞いても、それを実行するには、父や兄が健在なら、まずその意見を聞いてから行動しなければならない。聞けばすぐ実行など、どうしてできようか」と答えています。一方、冉有の同じ問いには、「正しいことを耳にすれば、すぐ実行したまえ」と、正反対のことを答えます。その理由を公西華が問うと、「冉有は引っ込み思案だから、すぐ実行しろと推進した。それに対して子路は出しゃばりだから抑えた」と答えているのです。ちなみに、子路は長老で、冉有は中年、公西華は若者だそうです。津山工業高校では、子路にあたるのが私だとすると、冉有が児玉先生、公西華は「ともに学ぶ若者」だと思います。そうなると子路にあたる私は、十分気をつけて、自分ひとりの判断で実行しないで、必ず侯経験者の意見を聞いてから実行するという、慎重な態度が求められます。「即断即決即破滅」にならないように。昔に比べれば、かなり改善したように自分では思っています。特に「独断」に陥らないように注意していますから。
21,
古注:子曰く、論篤(ろんとく)なるもの是れ与(か)、君子者乎(か)、色荘(しきそう)なる者乎。
新注:子曰く、論の篤きに是れ与(くみ)すれば、君子者乎、色荘者乎。
・古注:先生がおっしゃった。(前節の「善人」の続きとして)「議論が常に熟慮的である人物か、それは君子らしい者か、荘重な容貌をした者か」。
・新注:先生がおっしゃった。「議論の誠実さだけを頼りにすると、その人が本物の君子なのか、表面的に君子を装っている(うわべ)だけの人なのか区別できない」。
※浩→新旧で、読み方がまったく違います。吉川幸次郎先生は新旧並列され、貝塚先生は「新注」を採用されました。私としては、新注のほうがわかりやすいです。
長らくNHK大河ドラマを見ていませんでした。2025年の「べらぼう」はすべて観ました。その前は2021年の「晴天を衝け」でした。主役の渋沢栄一さんを2019年の朝ドラ「なつぞら」で山田天陽役だった吉沢亮さんが熱演されました。写真で見る実物の渋沢氏より段違いのイケメンで、かっこよすぎます。彼は子どものころから“おしゃべり”で、周囲の大人たちから「子どもは黙っとれ!」と取り合ってもらえなくても、言うべきことは堂々と主張していました。この才能がのちの偉業達成に大いに役立ちます。確かに、「何を持っているがではなくて、与えられたものをいかに使いこなすか」とアドラーが言ったとおりです。日本では古来、「沈黙は金」「饒舌は銀」で、饒舌の評価が低かったのですが、そうとも限りません。私も子どものころからおしゃべりでした。よく鏡の前でアナウンサーの真似をしていました。父の姉(伯母)のうちへ妹とお泊まりに行って、3人が川の字になって寝ていて、伯母さんが「ひろちゃんは大きくなったら何になる?」と聞かれて「アナウンサー」と答えていました。実際にはアナウンサーにはならないで、高校教師になりましたが、おしゃべり上手が役立ったことは言うまでもありません。高校の同期生で演劇部仲間でもあった山県章弘さんは、山陽放送(RSK)のアナウンサーになりました。ちょっとうらやましかったです。彼は美声でした。私は高校時代に合唱ではテノールでしたが、大学でボート部に入って大声を出していて、すっかりダミ声になってしまいました。学校で怒鳴るには迫力はありました。アドラー心理学に出会ってからは、怒鳴るのをやめて、対話を重視するようになりました。
20,子張、善人の道を問う。子曰く、迹(あと)を践(ふ)まず。亦(また)室に入らざるなり。
[古注]
子張(すなわち顓孫子:せんそんし)が善人の道について質問した。先生がお答えになった。「古い慣習に盲従はせず、少しは創造的なところがあること。さればといって、一番深いところにも到達しない」。(吉川幸次郎先生)
[新注]
子張(すなわち顓孫子)が善人の道について質問した。先生がお答えになった。「先人の歩んだ道徳の教えを実践しなければ、奥義の域(部屋)には到達することはできない」(貝塚茂樹先生)
※浩→新旧解釈が正反対のようです。私の感覚では、ただ古いものに盲従するよりも、古礼にのっとりつつも創造的ななことろもないと進歩がないと言っているように思えます。伝統を遵守する復古主義的傾向のある孔子といえども、新しい工夫も必要だと考えていたのではないでしょうか?「善人」は吉川先生によると、「聖人」「君子者」と対比して「善人」が現れるそうで、ある範疇の人間を規定しているが内容はつきとめにくいそうです。「聖人・君子」よりもランクが1つ低いのでしょう。
学校の校則は、時代の変化にともなって価値観が変わり、不合理になっているにもかかわらず、改革など考えもしないで、かたくなに守り続けていることから、多くのトラブルを起こしています。批判を許さないファシズムが学校現場には現存しているようです。
19,子曰く、回はそれ庶(ちか)きか、屡(しばしば)空(むな)し。賜(し)は命(めい)を受けずして貨殖(かしょく)す。億(おく)すれば則ち屡(しばしば)中(あ)たる。
先生が言われた。「顔淵の徳性と学問は完全に近いだろう、しかし、彼は常に貧乏であった。子貢は主君の命令を受けずに商売を営んだ。子貢が儲かると推測したときにはいつも的中した」。
※浩→顔淵は、門弟の中で最も学問に秀で、徳性にも優れていて完全に近い。しかし、いつも経済的に貧窮していて無一物でした。これに次ぐ秀才の子貢は、殿様から命令を受けないで勝手に商売をして大利を得ていました。彼は商売の才覚があって、このビジネスをすれば儲けられるという読みが外れたことがありませんでした。顔淵に対する憐憫の情が溢れています。私も学生時代は貧乏でした。両親の教育方針が異なっていて、父親は私を倉敷工業高校の電気科へ行かせて手に技術を得させようと考えていたのに対して、母親は家に財産がないので、安定した職業として公務員、それも教師を望んでいました。そのためには大学進学の必要があったので、母は私を連れて家を出て、兄が開業医をしている実家へ帰ったり、従姉(いとこ=久保田のおばちゃん)のアパートに同居して、彼女とともに、和服の仕立てをして学費をまかなってくれました。足りない分を、私は家庭教師のアルバイトを多いときは4~5件掛け持ちして埋めました。そういう状況で、ボート部に入ったものですから、合宿費や遠征費用を捻出するのは至難の業でした。しかも大食いをするので合宿費はバカにならない金額でした。納入を延滞し続けていると、1年先輩の藤原潔先輩が、立て替えてくださったり、冬の防寒コートを私が持っていないと、立派なオーバーコートを貸してくださったり、それはそれは大事にしてくださいました。クルーのメンバーたちはそれぞれ良家のご子息たちでリッチでした。授業が終わると直ちに合宿所へ移動して、水上練習にかかれるのですが、私は途中で家庭教師を二軒ほどすませてから遅れて駆けつけると、いつも、艇庫前の階段で、水野久隆氏、三宅一雄氏、ドロンこと今村穣氏とコックスの真谷くんが待っていました。全員イヤな顔ひとつしないで、「さ、いこう!」とかけ声をかけて、愛艇のシェルフォアは岸を離れました。このクルーが昭和37年に全日本選手権で準優勝し、同年の関西選手権で優勝しました。藤原先輩には当時の額で4000円ほどの借金が残りましたがいまだに返済していません。すでに時効です(笑)。
18,柴(さい)は愚、参(しん)は魯、師は辟(かざ)り、由は喭(いや)し。
子羔(しこう)は愚直、曽子は遅鈍、子張は誇張、子路は粗暴。
※浩→「柴」は高柴、字は子羔。「参」は曽参、字は子輿(しよ)。「師」は顓孫師(せんそんし)、字は子張。「由」は仲由、字は子路です。
ここには、頭に「子曰く」がないため、誰が言った言葉かわかりません。孔子には珍しく、門弟たちの改善すべき欠点・短所について厳しく指摘しているという解説もありますが、貝塚茂樹先生が次のような解説をなさっています。
この言葉は独立していて、誰の言った言葉かわからない。弟子たちを呼び捨てにしている点から、孔子の言葉らしく見える。しかし、孔子は弟子たちの長所短所をよく見分けて、短所を指摘するとともに、それを矯(た)めて、長所を伸ばす教育方法をとっていた。この文章のように、弟子たちの短所だけをえぐり出すことはなかったようだ。吉川幸次郎博士の説かれるように、次の顔淵と子貢との比較論の前文が、分離独立したのであろう。おそらく子張・曽子などに対する評言があまり辛辣すぎたので、『論語』のこの部分が編集されたころ、この弟子たちの門弟の手前もあり、「子曰く」を略して、孔子の批評と見えないようにしたのではなかろうか。孔子だってときにはこんな残酷な批評をしたこともあったのである。
アドラー心理学では、短所は長所の裏返しだと考えます。孔子が、長所を伸ばす教育をしていたことと通じるようです。「愚直」は“バカ正直”ということですから、“バカ”を取り除けば“正直”ということになって、これだと長所です。「遅鈍」は“のろま”ですから、“ゆったりしている”ことになります。「辟」は“奇矯・誇張”ですから、裏返せば“めりはりがしっかりしている”ことになります。そして、「喭(がん)」は古い言葉で多義ですが、総合すれば“強情粗暴で、やんちゃで、はったりで、無作法”ということになるそうです。前に登場した、元気モリモリの子路ですから、「即断即決即破滅」みたいです。長所にすれば“やんちゃでかわいい”ということになるのでしょうか。孔子だって、時にはこう言う残酷な批評をしたこともあったのでしょう。『こち亀』の両津さんなら、「人に厳しく、己にやさしく」で「厳しく罵れ他人の失敗、笑ってごまかせ自分の失敗」でしょうが、これは両津さんだからユーモアですまされるのでしょうが、一般には逆です。ただ、あまりにも厳ししく自分を責めると、鬱になりますから、ほどほどに。