17,季氏、周公より富めり。而(しこ)うして求(きゅう)はこれが為に聚斂(しゅうれん)して附益(ふえき)す。子曰く、吾が徒(ともがら)に非ざるなり。小子(しょうし)鼓(こ)を鳴らして攻めて可なり。
家臣の季氏一族は主君(魯の周公)よりも裕福であった。そういった状況があるのに、弟子の冉求(ぜんきゅう)が季氏の利益のために徴税の業務を行なっている。先生がおっしゃった。「冉求はわれわれの同志ではなくなった。諸君、鼓を鳴らして(批判精神を発揮して)攻め立てていいよ」。
※浩→儒家思想は、家臣は主君に対する「忠孝の義」を踏み外してはならないという封建主義的な道徳規範の根拠になった教えでもあります。“忠信孝悌”と言います。それなのに孔子の門弟の冉求が、主君の財産を増やすのではなく、家臣の季氏の財産を積極的に増やす徴税行為をしているのを見て、孔子は激しい義憤に駆られました。それで他の門弟たちに、戦で太鼓をたたいて襲いかかるように、冉求を厳しく批判してよいと語って、冉求の不忠な行為を改めさせようとしたのです。実際に内乱を始めよと言っているのではありません。軍隊に喩えて冉求を批判し、彼の政策を改めさせよと言っているのです。
周王朝創業の英雄・周公旦の後裔は2つに分かれました。1つは主君・魯の公室で、1つは周の家老で、ここでの周公は後者だとされています。
封建道徳に関しては、現代にマッチしない点がありますが、愛する弟子ではあっても、道理に反する行為をすれば、このように厳しく叱責して戒める孔子の“やさしく、きっぱり”の態度がこの条からうかがえます。アドラー心理学の「勇気づけ」という技法は、ただ相手を気持ち良くさせることではなくて、自らの責任を果たすように、ものごとに建設的に、自他に有益に行為できるように援助することです。あるとき、野田先生に、「最近イヤなことが続いたので落ち込んでいます。先生、私を勇気づけてください」とお願いした人がいました。先生は、「いいけど、私が勇気づけると、もっと落ち込むかもしれないよ」とおっしゃいました。「勇気づけ」を誤解しているが人が多いですから、自己点検を怠らないように注意しないといけません。
16,子貢問う、師(=子張)と商(=子夏)と孰(いず)れか賢(まさ)れる。子曰く、師は過ぎたり、商は及ばず。曰く、然らば則ち師愈(まさ)れるか。子曰く、過ぎたるは猶(なお)及ばざるがごとし。
子貢がおたずねした。「子張と子夏とではどちらが優れていますか?」。先生がお答えになった。「子張は行き過ぎであり、子夏は不足している」。子貢がさらに聞いてみた。「そうであれば、子張のほうが優れているということですね」。先生は答えられた。「程度が行き過ぎているものは、不足しているものとまあ同じである(どちらも程よくバランスの取れた中庸から外れている)」。
※浩→孔子は「中庸の徳」の実践を重んじ、才智や能力が極端に行き過ぎているものも、才智が劣っているものと同様にバランスが崩れていると考えていました。常識的には、平均的な能力・知性よりも極端に優れた人物の評価は高いはずですが、安定的な持続性と人格的な徳性を大切にした孔子は、「過ぎたるはなお及ばざるがごとし」と警告しています。
日常よく使われる教訓で、ここが出典です。日常生活でも「中庸」を実践していれば過ちを犯すことは少ないです。「中庸」は、洋の東西を問わず、大切な概念です。アリストテレスは、「知性的徳」を理論の「知恵」と実践の「思慮」に分けました。「知恵」は観想を楽しむ哲学的態度で、「思慮」は行動に「中庸」を命じます。これに従うことで「習性的(倫理的)徳」が実現します。「中庸」というと硬いですが、“やまとことば”では「ほどよい」がふさわしそうです。歌舞伎の台詞に「ほどがよい」というのが出てきます。「伊勢音頭恋寝刃」でしたか。また「ほどほどに」という良い言葉もあります。出過ぎ・やり過ぎを本来日本では好みません。日本では「謙虚」はだいたい好感を持たれます。「出る杭は打たれる」と言われます。そういえば、人にものをあげるとき、「つまらないものですが」と言います。西洋では、「つまらないもの」を人にあげるのは失礼だと思われるでしょう。徳川家康の遺訓で、「及ばざるは過ぎたるよりまされり」と言われているように、「控えめ」が好まれました。今はそういう雰囲気はほぼ消えてしまってようです。「やり過ぎ」「出過ぎ」「言いすぎ」が横行していて、要するに“品がない”。
家康の遺訓は次のとおりです。
人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし。急ぐべからず。
不自由を常と思えば不足なし。こころに望みおこらば困窮したる時を思い出すべし。
堪忍は無事長久の基、いかりは敵と思え。
勝つ事ばかり知りて、負くること知らざれば害その身にいたる。
おのれを責めて人をせむるな。
及ばざるは過ぎたるよりまされり。
徳川家康の旗印ですか、「厭離穢土、欣求浄土」は、何か「劣等な位置」から「優越な位置」を欣求するというアドラー心理学ふうの態度に思えて、好感が持てます。
15,子曰わく、由(ゆう)の瑟(しつ)、奚為(なんすれ)れぞ丘(きゅう)の門に於いて為(な)さん。門人、子路を敬わず。子曰く、由は堂に升(のぼ)れるも、未だ室に入らざるなり。
先生がおっしゃった。「子路の琴の弾き方であれば、何も私に入門して学ぶいみがないではないか」。この言葉を聞いた門人は、子路を尊敬しなくなった。先生はそこで言われた。「子路は既に殿上にはのぼっている(表座敷に通る資格はある)が、まだ廊下にいて、奥の部屋には入れていないだけなのだ」。
※浩→詩を習うときには、普通、瑟(しつ)という二十五絃の琴で弾き語りをしました。礼楽の道を重視した孔子が、冗談のつもりで子路の無骨な弾き方をからかったのでしょうが、それをユーモアと理解しないで真面目に受け取った門人たちは、子路に敬意を寄せなくなってしまいました。「こりゃいかん、やり過ぎた」と反省した孔子は、子路の政治や学問における実力の高さに注目して、琴の腕前についても、座敷の喩えを引いて「もう一歩上達すれば十分」と持ち上げました。弟子たちは互いに先生の愛情を独占しようと競争していたのです。まるで、アドラー心理学で言う「きょうだい競合」のようで、微笑ましくはあります。われらが師匠・野田先生のお弟子さんたちはどうだったでしょうか。90年代で思い出すトップは萩昌子さんです。それから中島弘徳さんに鎌田穣さんと名越康文さんでした。そしてアドラーギルドという本拠地の事務所には高橋さと子さんや田中貴子さんがいらっしゃって、この方々はいわば大御所のような存在でした。翻訳では、故・宮野栄さんが光っていました。この方々は、私がアドラーの世界に入るよりずいぶん以前から野田先生に師事されていました。そして、お師匠さまが他界された現在、宮野さんはすでに故人となられ、名越さん、鎌田さん、田中さんはアドラーを去られて、とても淋しくなりました。2010年を過ぎると、野田先生を取り囲む人々から男性が次第に消えて、ふと気がつくと、“おばさま”(失礼、女性)ばかりになっていました。しかも「理事さん」のほとんどが女性で、会長も女性が継承して「女系家族」が続きました。今は、かつて一度会長をされた梅崎一郎さんが再任されて、男性会長が復活しています。ただ、野田先生亡きあと5年が経過して、どんどん「野田カラー」が薄れているように感じます。これは別に「野田信仰」を望んでいるわけではありませんが、野田先生から教わった、アドラー心理学のアイデンティティを外さないように、特に実践面でさらに発展させていくという決意を固持したいのです。
14,魯人(ろひと)、長府を為(つく)る。閔子騫(びんしけん)曰く、旧貫(きゅうかん)に仍(よ)らばこれを如何(いかん)、何ぞ必ずしも改め作らん。子曰く、夫(かの人は言(ものい)わず、言えば必ず中(あ)たる。
魯国の人が長府という倉庫を建設した。閔子騫が言った。「旧来の慣習に従ったらどうだろうか。どうして旧来の慣習を捨ててすべての組織・建物を新しく作る必要があるのだろうか。先生がおっしゃった。「あの人は普段はあまり話さないが、話すと必ず的確な発言をする」。
※浩→伝統文化や旧来の慣例を重視する儒学は、基本的に保守主義のエートス(行動様式)にもとづいている。「温故知新」と言われるように、古いものを捨てて安易に新しいものに乗り換えることに危惧していた孔子は、「旧来の慣習を重視せよ」という閔子騫の発言に賛同の意を示したのです。現代的な観点からは、過去の規範やシステムをただ維持し続けようとする保守主義が必ずしも正しいとは言えないでしょう。時代が変化して不合理になったものは改めないといけません。「過てばすなわち改むるに憚ることなかれ」とは、まさに『論語』の言葉です。この復古主義は日本の幕末の王政復古の理論的根拠ともなったと言われています。保守派がよく引用する個所でもあるそうです。要は、「保守派がどうの、革新派がどうの」ではなくて、「ことの内容」が重要なのではないでしょうか。与党も間違うことがあるし、野党も正しいことを言っていることもあります。「中る」を「あたる」と読むことがここでよくわかりました。そういえば、歌手に「中(あたり)孝介さん」という人がいます。「命中」の「中」もなるほど「あたる」と関係あります。
「普段はあまり話さないが、話すと必ず的確な発言をする」というと、私が岡山工業高校在職中に、私の赴任後お二人目の校長・和田道男先生から「大森さんはサイレントマンですね」と言われたことがありました。そういえば、当時は授業でも関係ないことはほとんど黙っていて、あらかじめ準備しておいた精密な手作り教材(ワーク形式)を配布して、低音ヴォイスで指示だけして、あとは黙々と机間巡視をしていました。その寡黙な私が、ある校務分掌の名称を変更することになったとき、職員会議で、有名な「マルチン・ニューメラー牧師の告白」を引用して反対意見を述べたことがあります。この会議のあと、私は校長室へ呼ばれて、「大森さん、今回はまいりました」と、その名称変更は延期されることになりました。これはこれで良かったのですが、和田校長の次に赴任された片山博美校長のとき、あっさり変更されてしまいました。いつもおしゃべりだと、「またか」ということで、迫力がありませんが、たまにきちんと発言すると、迫力があります。それにしてもその反動でしょうか、今はしゃべりすぎです(笑)。
12,季路(きろ)、鬼神に事(つか)えんことを問う。子曰く、未だ人に事うる能(あた)わず、焉(いずく)んぞ能(よ)く鬼に事えんか。曰く、敢えて死を問う。曰く、未だ生を知らず、焉んぞ死を知らん。
季路すなわち子路(実名は仲由)が、死者の霊魂へのお仕えの仕方を聞いた。先生がお答えになった。「生きている人間に仕えることが十分でないのに、どうして死者の霊魂などにお仕えすることができるだろうか?いや、できない」。子路はさらに、死について質問した。先生は言われた。「まだ生について十分なことを知らないのに、どうして死について知ることができるだろうか?」。
※浩→子路は果敢な弟子で、行動ばかりか思考も果敢でした。「鬼神」の「鬼」は厳密には、人間が死んで霊になったもので、「神」は天の神です。ここでは漠然と「神々」のことを言っているのでしょう。孔子は人智を超越した「天」が徳の高い「人」に天下統治の命令を下すという天命思想を信じていましたが、(形而上学的な)目に見えない怪・力・乱・神について大袈裟に語ることを好みませんでした。「死後の世界」について想像だけで適当に解説することを拒否していたのでしょう。現実主義者であり現世の生活や政治を優先する孔子は、人間では手の打ちようのない死後の世界の問題や死者の霊魂へのお勤めを心配する時間があるのであれば、「今・ここ」にある自分の課題に集中せよと言いたかったのではないでしょうか。「今・ここ」というと、「瞑想」と関係がありそうです。『論理哲学論』のウイットゲンシュタインは、「語りえぬことについては、沈黙しなくてはならない」と、著書の最後に述べています。野田先生もたびたびこのフレーズを引用されました。先生は、これをさらに発展的に解釈されて、「ということは語りうることについては、きちんと語らないといけない」とおっしゃいました。人間関係の多くのトラブルが、このことと関係があるかもしれません。きちんと伝えていれば誤解が避けられ、トラブルはなかっただろうということです。こちらはきちんと伝えたつもりでも、相手に伝わっていないことがしばしばあります。こういう意味でも、「相手の関心に関心を持つ」とか、「問題の共有」とかいうことの大切さがよくわかります。よく「刑事ドラマ」などで、人を殺したあと、その理由が自分の誤解であることを知るという話があります。「取り返しのつかないことをしないように」充分配慮して生きたいものです。「安全運転」や「火の用心」もこのことに通じます。極端に臆病になってもいけませんが。
7,季康子(きこうし)問う、弟子(ていし)孰(たれ)か学を好むと為す。孔子対(こた)えて曰く、顔回という者あり。学を好みしが、不幸、短命にして死せり、今や則ち亡(な)し。
季康子が質問をされた。「弟子の中で誰が一番、学問が好きであろうか?」。孔子はお答えになった。「顔回という人物がいました。学問を非常に好んでいましたが、不幸なことに短命で死んでしまいました。ですから、今ではもう彼のような学問好きはいません」。
※浩→孔子が最も愛して目をかけていた顔回は、弟子たちの中でも「学問第一」として知られていましたが、孔子の願いも虚しくあっという間に夭折してしまいました。
このあとしばらく、顔淵の死を悼む追悼文が続きます。
8,顔淵死す。顔路(がんろ)、子(し)の車を以てこれが椁(かく)を為(つく)らんと請う。子曰く、才あるも才あらざるも、また各(おの)おのその子を言うなり。鯉(り)や死す。棺ありて椁なし。吾(われ)徒行(とこう)して以てこれが椁を為(つく)らず。吾大夫(たいふ)の後(のち)に従うを以て、徒行すべからざるなり。
顔淵が死んだ。父の顔路が、孔先生の車を使って外側の棺桶(立派で高価な棺)を作りたいとお願いした。先生が言われた。「才能のある者とない者との差があっても、自分の子のためという思いは同じである。私の子の鯉(り)が死んだときにも、外側の棺桶(椁)は作らなかった。自分の車を壊して徒歩で歩くことになってまでは、子の棺桶を作らなかったのである。私も(身分の高い)大夫の末端にいる者なので、車を使わずに徒歩で移動するというわけにはいかないのである」。
※浩→顔淵が死んだとき、経済力がなかった顔淵の父・顔路は「孔子の馬車を壊して、息子のための立派な棺桶を作ってくれないだろうか」と懇願しました。しかし、大夫の礼制として馬車に乗って移動することは必須の作法だったので、孔子はその申し出を苦渋の思いで断わりました。
9,顔淵死す。子曰く、噫(ああ)、天、予(われ)を喪(ほろぼ)せり、天、予を喪ぼせり。
顔淵が死んだ。先生が言われた。「あぁ、天が私を滅ぼされた、天が私を滅ぼされた」。
※浩→最も深い愛情と期待を寄せていた弟子の顔回が突然の死に襲われたことで、孔子は持って行き場のない強い悲嘆と後悔の思いを「無情な天」にぶつけました。孔子の顔回を失ったことのショックの大きさを偲ばせます。
10,顔淵死す。子、哭(こく)して慟(どう)す。従者曰く、子、慟せりと。子曰く、慟することありしか、夫(か)の人の為に慟するに非ずして誰が為にか慟せん。
顔淵が死んだ。先生は霊前において大声を上げて泣いて深い悲しみを表現された。従者が申しあげた。「先生は先ほど、泣き崩れられましたね」。先生はおっしゃった。「泣き崩れる場面があるとして、あの人のために大声で泣かずに、いったい誰のために大声で泣くということがあるだろうか(そんな相手は他にいない)」。
※浩→古代の服喪儀礼の一つとして、親愛なる死者のために捧げる「慟哭」がありましたが、孔子はその喪の儀礼を逸脱するほどの大声を上げて泣き崩れたので、(いつにもない取り乱しようを見た)従者がその悲哀の気持ちの強さに驚きました。
11,顔淵死す。門人厚く葬らんと欲す。子曰く、不可なり。門人厚く葬る。子曰く、回は予(われ)を視(み)ること猶(なお)父のごとくなり。予は視ること猶子のごとくするを得ざるなり。我には非ざるなり。夫(か)の二三子(にさんし)なり。
顔淵が死んだ。門人たちが身分を越えた手厚い葬儀をしたいと申しあげた。先生が言われた。「それはよくない」。しかし、門人たちは顔淵を儀礼を越えて盛大に葬った。先生が言われた。「顔淵が私に接する姿はまるで父に対するもののようであった。しかし、私は顔淵に対して我が子のように慎ましやかに温かく葬ってあげられなかった。これは私の責任ではない。門人たちが勝手にしてしまったことなのだ」。
※浩→孔子は最愛の弟子である顔淵の死に臨んで、礼制にのっとった分相応の葬式を執り行おうとしましたが、孔子の悲哀の気持ちを恣意的に忖度した門人たちが、顔淵の葬儀を盛大に行い過ぎてしまいました。生前、顔回と孔子との間には、虚礼も遠慮もなく、実の親子のような精神の触れ合いがありました。それなのに、門人たちは、静止したにもかかわらず過分な葬礼をしました。孔子の憤りはいかばかりであったことでしょう。
6,南容(なんよう)、三たび白圭(はくけい)を復(ふく)す。孔子、その兄の子を以て、これに妻(めあわ)す。
南容は、『詩経』にある「白き圭(たま)の玷(か)けたるは、尚(なお)磨くべきなり その言の玷(か)けたるは なすべからざるなり」という言葉を一日に三度復唱していた。孔子は、このことを知って、自分の兄の娘を南容に嫁がせたのである。
※浩→南容が『詩経』にある詩「白き圭(たま)の玷(か)けたるは…」を繰り返し読んでいましたが、その詩の内容から南容の人格の卓絶した徳性を見抜いた孔子は、自分の兄の娘を嫁にしたという話です。これは「公冶長篇」の「子、南容を謂わく、邦に道有れば廃(す)てられず、邦に道なければ刑戮より免れんと。その兄の子を以て之に妻(め)あわす」の別の言い伝えです。公冶長には自分の娘をやり、南容には兄の娘をやったということは、兄の娘のほうを大切に思っていたからだと言われています。これは、弟が兄を敬う「悌」の実践ということでしょう。親孝行の「孝」と兄弟愛の「悌」は「仁」のもとだと有子は言っていました。「肉親の情」が最近怪しく感じられるようになりました。親子・きょうだい間の血なまぐさいトラブルがあとを絶ちません。これは今に始まったことではなくて、古今東西、きょうだいにまつわるトラブル・悲劇は枚挙に暇がありません。日本ではすでに古代に「壬申の乱」がありました。天武天皇元年6月24日~ 7月23日(ユリウス暦672年7月24日~ 8月21日)に起こった古代日本最大の内乱です。天智天皇の太子・大友皇子に対し、皇弟・大海人皇子(後の天武天皇)が兵を挙げて戦いが勃発しました。反乱者である大海人皇子が勝利するという、日本では例を見ない内乱でした。他に、頼朝vs義経、足利尊氏vs直義、徳川家光vs忠長……。アドラー心理学も、性格形成への「きょうだい競合」の影響を考慮しますから、驚くことではないかもしれません。
孔子のお弟子さんたちの「きょうだい愛」は美しいですが、皮肉な見方をすると、老子が言ったように、「大道廃れて仁義あり、……六親(りくしん)和せずして孝慈(こうじ)あり」で、父母・兄弟・夫婦の仲が悪くなると、親孝行な息子や慈悲深い父などが目立つようになるということかもしれません。エーリッヒ・フロムの名著『愛するということ』で、兄弟愛は次のように書かれています。
↓引用
あらゆるタイプの愛の根底にある最も基本的な愛は、兄弟愛である。私の言う兄弟愛とは、あらゆる他人に対する責任、配慮、尊敬、理解(知)のことであり、その人の人生をより深いものにしたいという願望のことである。「汝のごとく汝の隣人を愛せ」という聖書の句が言っているのは、この種の愛のことである。兄弟愛とは人類全体に対する愛であり、その特徴は排他的なところがまったくないことである。もし愛する能力が十分発達していたら、兄弟たちを愛さずにはいられない。人は兄弟愛において、すべての人間との合一感、人類の連帯意識、人類全体が一つになったような感覚を味わう。兄弟愛の底にあるのは、私たちは一つだという意識である。すべての人間が持つ人間的な核は同一であり、それに比べたら、才能や知性や知識の違いなど取るに足らない。この同一感を体験するためには、表面から核まで踏み込むことが必要である。もし私が他人の表面しか見なければ、違いばかりが眼につき。そのために相手と疎遠になる。もし核まで踏み込めば、私たちが同一であり、兄弟であることがわかる。表面と表面の関係ではなく、この中心と中心との関係が「中心的関係」である。
シモーヌ・ヴェイユはこのことを次のように見事に表現している。「同じ言葉(例えば夫が妻に言う『愛しているよ』でも、言い方によって、陳腐なセリフにも、特別な意味を持った言葉にもなりうる。その言い方は、何気なく発した言葉が人間存在のどれくらい深い領域から出てきたかによって決まる。そして驚くべき合致によって、その言葉はそれを聞く者の同じ領域に届く。それで、聞き手に多少とも洞察力があれば、その言葉がどれほどの重みを持っているかを見極めることができるのである」。
兄弟愛は対等な者どうしの愛である。しかし実際のところは、対等な者も、常に「対等」というわけではない。人間である限り、誰しも助けを必要とする。今日は私が、明日はあなたが。ただし、助けが必要だからといって、その人が無力で、相手方に力があるというわけではない。無力さは一時的な状態であり、自分の足で立って歩く能力は、人類に共通の持続的な力である。
とはいえ、無力な者や貧しい者やよそ者に対する愛こそが、兄弟愛の始まりである。身内を愛することは別に偉いことではない。動物だって子どもを愛し、世話をする。また、無力な者が力在る者を愛するのは、彼の生活がその力在る者に依存しているからであり、子どもが親を愛するのは親を必要としているからだ。自分の役に立たない者を愛するときにはじめて、愛は開花する。意義深いことに、旧約聖書において、人間が主に愛するのは貧乏人、よそ者、寡婦、孤児、そして国の敵であるエジプト人やエドム人である。また、自分自身を愛することは、助けを必要としている不安定で脆弱な人間を愛することでもある。同情には理解と同一化の要素が含まれている。旧約聖書曰く、「汝らはエジプトの地でよそ者であったがゆえに、よそ者の心を知る。……それゆえ、よそ者を愛せ」。(エーリッヒ・フロム「愛するということ」、鈴木晶訳、紀伊國屋書店)
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引用終わり
きょうだいが力を合わせて、大事業を成功させ例はあるでしょうか?日本では「曾我兄弟の仇討ち」を思い出しますが、少ないようです。私が知らないだけかもしれません。兄弟が強力し合ってことを成し遂げた例は、ライト兄弟などでしょうか。そういえば、今年の大河ドラマは「豊臣兄弟」でしたか。兄・秀吉と弟・秀長のお話です。秀長の優秀さは、昔の「おんな太閤記」で知っていますが、惜しくも早くに亡くなります。それ以後秀吉が猛進したのかもしれません。今度の大河ドラマを観る気はありません。配役がいまいちなじめないです。
5,子曰わく、孝なるかな、閔子騫(びんしけん)、人その父母昆弟(こんてい)を間(かん)するの言(こと)あらず。
先生が言われた。「閔子騫は親孝行であるな。他の人が彼の父母や兄弟を悪く言う言葉を聞いたことがない」。
※浩→閔子騫は、両親に対する忠孝の徳において特に優れていたとされる弟子です。閔子騫は、自分の継母から激しいイジメや嫌がらせを受けたのですが決して継母を恨むことはありませんでした。そもそも再婚したのは子騫を育てる母親が必要だったからで、それが実現しないなら離婚しようと言い出した父親に対して、離婚を思い留まるように懇請しました。最終的には、継母も後悔して、家族関係が改善しました。
親孝行か……。野田先生の親孝行のご様子をたびたび取り上げますが、実家へ帰られたときは、高校生のころの食欲を基準に作られるお料理を間食するために、朝から絶食されたそうです。それに引き換え、私はまことに親不孝でした。お刺身が好きでしたので、母はたびたびお刺身を用意してくれていました。それなのに、「そんなに刺身ばかり食べられない!」と不平を言っていました。母は加齢でそろそろ記憶が怪しくなっていたのでしょう。刺身を買ってはいけないことを忘れてまた刺身を買い、帰宅して台所で「あ、いけない」と気づいて、そのうち、買ってきた刺身を隠すようになりました。母の死後、片づけをしていた妹は、押し入れやあちこちから刺身のミイラが出てきたのを発見しました。私は、心が張り裂ける思いでした。この失敗を相棒の児玉先生にお話すると、彼は去年までは、ご実家に帰られると母上の手料理をしっかり食べて、岡山に帰ると、体がひとまわりふっくらしていました。親孝行したいときに親がいらっしゃる人は幸せです。その児玉先生は、この年末年始は暮れの25日から鹿児島の実家へ帰られて、90歳前後のご両親の介護に専念されています。普段は近所にお住まいの妹さんが大奮闘されていますが、お母様が手のかかる状態で、ご自身も体が不自由になられたお父様を困らせていました。児玉先生が帰省されて、援助の力が倍増以上になりました。お元気な児玉先生も60歳を越えられて、世間で言われる「老老介護」になりそうでですが、さすが児玉先生!この困難なタスクに前向きに取り組まれています。とてつもなく大きな「愛の力」で。
4,子曰く、回や我を助くる者にあらず、吾が言において説(よろこ)ばざるところなし。
☆古注
先生が言われた。「顔回は私の協力者ではない。私の言葉に対し、何を言っても、彼が理解しないものはない」。
★新注
先生が言われた。「顔回(顔淵)は、私の学問を助ける者ではない。私の言う言葉を(批判的に吟味せずに)喜んで聞いているだけだから」。
※浩→新旧で解釈が逆です。「説」を、古注は「解く(理解する)」と読み、新注は「悦」(喜ぶ)と読んでいるからです。吉川幸次郎先生は古注の立場、貝塚茂樹先生は新注の立場です。私は、どちらかと言えば、貝塚先生のほうが好きです。顔回は孔子最愛のお弟子さんで、随所で褒めちぎられていますが、アドラー心理学的には、人間は不完全な生き物だと考えますから、やはりいくらか欠点のあるほうが現実的で人間的だと思います。顔淵は孔子の理想とする境地と同じ境地に立っていたので、孔子の主張や思想に対して批判的な解釈をすることがなかった。そのため、孔子と顔淵が議論しても「弁証法的な発展(定立・反定立・統合)」をすることができず、そのことを孔子は学問的な立場から物足りなく感じてしまったのでしょう、という解釈があります。弁証法的な発展という表現がまた刺激的です。ソクラテスは若者たちとの「対話」を通して「真理」を醸し出していきました。あらかじめ「これが真理」と決まっているのではなく、「ああだ、こうだ」と意見を出し合い、批判し合い、また新たな意見を出し、これをを繰り返していくうちに、「正→反→合」というプロセスで「真理」が導き出されるということです。これはアドラー心理学の「価値相対主義」の立場とも通じそうです。野田先生は、プロには厳しかったですが、初心者や努力家にはとてもやさしかったです。孔子は最愛の弟子・顔回をこの場面では珍しく叱咤激励しているのかもしれません。