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第四十四話 戦争と俳句

世界中のほとんどの人達が反戦ムード一色の中、日本時間の3月20日正午、アメリカとイギリスがイラクを攻撃して、ついに戦争が始まってしまいました。日本のトップも、国民の声を無視して、アメリカに同調する声明を発表しました。

戦争に賛成して経済的な支援をすると言うことは、そのお金が銃弾やミサイルになろうとも、戦後の復興のために使われようとも、結局は人殺しに使われることに変わりはないのです。

湾岸戦争の時は、何十兆円と言うあたし達の税金が、人殺しのために使われました。それだけのお金があれば、世界中の飢えている人達に食べ物を与え、治療を受けられずに死んで行く病気の人達を救うことができるのです。

今、第三世界では、30秒に1人、飢えや病気で子供達が死んでいると言うのに‥‥。
さて、戦争が始まり、当事国のアメリカやイギリスはもとより、日本やフランスなど、ほとんどの先進国で戦争に反対するデモが起こり、警察と衝突しています。
アメリカやイギリスでは、一般人のデモの他にも、有名なミュージシャン達が各地で反戦コンサートを行い、一刻も早く戦争を止めるようにと訴えています。マドンナは、新曲のプロモーションビデオの中で反戦を訴え、全米ツアー中のブルース・スプリングスティーンは、コンサートのオープニング曲を反戦歌に変更したそうです。また、シェリル・クロウは、ギターのストラップに「NO WAR」のメッセージを入れ、反戦グループを結成しました。三人とも、アメリカを代表するトップミュージシャンです。

ロンドンでは、オノ・ヨーコの平和を訴えるビデオメッセージが流れ、昨日のイギリスの世論調査では、戦争に反対する人の数が90%に達したそうです。
連日、世界中で反戦デモが起こっていますが、実際にデモに参加できない多くの人達も、ほとんどは戦争反対の意志を持っているようで、様々な媒体を通じて反戦のメッセージが飛び交っています。

日本でも、瀬戸内寂聴さんが戦争反対の新聞広告を出すなど、有識者の多くは、いち早く自分の見解をそれぞれの媒体で発表しています。

でも、あたしは俳人なので、俳句と言う自分の媒体では、戦争反対を訴えることができません。何故なら、俳句と言う詩型は、自分の考えや意志を伝えるためのものではないからです。

川柳や短歌、自由詩などであれば、いくらでも「戦争反対!」と叫ぶことができますが、俳句は、主観を削ぎ落とし、見たままを詠う詩なのです。「戦争反対!」と叫ぶのは主観の極致であり、最も俳句的ではないことなのです。
唯一、俳句と言う詩型にできることは、戦場まで出かけて行き、戦場カメラマンのように、自分の目の前で起こっている状況を主観を介入させずに、そのまま写し取ることだけなのです。そして、その句を読んだ人達が、「戦争など起こらないほうがいい」と思っても「場合によっては戦争もしかたない」と感じても、それは読み手それぞれの感性に委ねるしかないのです。

戦争が始まった日、「俳句deしりとり」でも、多くの戦争に関する句が生まれました。あたしも何句も詠みましたし、それはもちろん、戦争などすぐに止めて欲しいと言う願いからです。でも、これは川柳と言うジャンルの仕事であり、あたしはしりとり上で「川柳モードに突入」と発言してから詠みました。

あたしが遊びに行く他のサイトのしりとり俳句でも、たくさんの戦争に関する句が詠まれています。
やわらかく戦争をイメージさせるような句、自分が戦争に反対していると言う意志をハッキリとアピールしている句、人類の愚かさを指摘している句、かつての第二次大戦の悲劇を詠った句など、様々なパターンがあります。

あたし自身、戦争の句など詠むのは初めてなので、試行錯誤しながら、俳句と言う詩型でどこまでのことができるのかと模索しました。

しかし、辿り着いた結論は、やはり「俳句と言う詩型は時事的なことを詠うのには適していない」と言う、あたしが以前から思っていたことでした。

ブッシュがどうの、フセインがどうのと詠えば、完全に川柳のジャンルになってしまいますし、だからと言って、あたしが先ほど言ったように、戦争の状況を客観的に詠うにしても、テレビやラジオからの間接的な情報だけでは、正確に写生することはできません。
そして今回、一番感じたのが、「しりとり俳句」と言う媒体に戦争を題材にした句を書くことに、果たしてどんな意味があるのか?と言うことでした。

みんな、戦争に反対しています。その気持ちは、誰もが同じでしょう。そのような場で、これでもか、これでもかと戦争の残酷さや悲しさを詠い続けることに、何か意味があるのでしょうか?

サイトにアクセスした人達は、それらの句を読み、みんな重たい気持ちになり、句をつなげられなくて、無言で去って行くだけです。

ここで、ハッキリと言います。

俳句と言う詩型を志すあたし達にできることは、戦争を詠うことではなく平和を詠うこと、血だらけの戦場を詠うことではなく美しい自然を詠うこと、失われて行く命を詠うことではなく生まれて来る命を詠うことなのです。

これが、俳人の仕事ではないでしょうか?
海の向こうで恐ろしい戦争が起こり、罪の無いたくさんの人達が殺されようとしていて、その残虐な行為にあたし達の国も加担しています。そんな状況下で、ノンキに蝶や土筆などを俳句に詠むことなど、とんでもないと思う人もいるかも知れません。

でも、たくさんの人達の命が危険にさらされている状況だからこそ、たった一匹の蝶の命をいとおしむ心が大切なのではないでしょうか?人間のエゴと利権のために、広大な自然が焼き尽くされようとしている時だからこそ、大地から必死に顔を出す一本の土筆を詠むべきなのではないでしょうか?

直接的に戦争を詠うことは、それに適したジャンルの文芸に任せ、あたし達俳人は、今こそ、自然を慈しむ心、小さな命をいとおしむ心、人を愛する心、そして、すべてのものに感謝する心を詠うべきなのです。

それが、あたし達俳人の「戦争反対」と言うメッセージなのです。

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第四十三話 本物の俳句の力

「良い俳句」って、どんな俳句なのでしょうか?

その答えは、俳人の数だけあります。

俳人であれば、誰でも「良い俳句」を作ろうとしているわけですし「こんな句を作れるようになりたい」と思う、目標とする作品があるはずです。

床の間の掛け軸に書いてあるような、解読不可能な文字で書かれてるような俳句を良いと思う人もいるでしょうし、使い古された言葉や手垢のついた言い回しを使った、カビ臭い俳句を良いと思う人もいます。理屈っぽくて人を唸らせるような俳句を良しとする人もいますし、何も言っていないようなボーッとした俳句が良いと言う人もいます。主宰にホメられることを目的に俳句を作っている人達なら、主宰がホメてくれた俳句が「良い俳句」と言うことになり、主宰の作品モドキを作ることが目標なのでしょう。
あたしから見ればアホみたいなこれらの俳句でも、俳句は自分のために作るのですから、どんな形であれ、自分が満足できれば良いわけです。

でも、せっかく俳句と出会い、俳句を勉強して、俳句を作り続けているのに、その成果が「自己満足」だけと言うのもちょっと悲しい話です。

あたしは、俳句を作ることを目的にはしていません。あたしの目的は「生きる」ことであり、俳句を作ると言うことは自己探求の手段なのです。
「生きる」と言うことは、死ぬまで自分自身を模索し続ける旅なのです。本当の自分を探す旅においては、いついかなる時でも、自分自身を客観的に見ることが必要であり、自己の主観や観念に縛られた考え方しかできない人は、何百年生きたって何も見えて来ないでしょう。
俳句を作ることによって、自分や周りのものを客観的に見る力を養い、五感や第六感に作用する対象の奥に隠された真実を見つけて行くこと。これが、あたしが俳句を作る理由です。

だから、掛け軸の読めない俳句も、カビ臭い俳句も、主宰にホメられるために作った俳句も、まったく興味がありません。前回の俳話「オヘソでカプチーノ」で取り上げた、山口青邨のインチキ写生句なんか、完全に論外です。

作句姿勢とは、その作者の生きざまです。頭の中だけで「虚」の句を作り続けている俳人は、他人の目や評価ばかりを気にした人生を歩んでいますし、主観や観念を全面に出した句を作っている人は、やたらと自己主張が強く、ホメられることは好きでも批判されることを嫌います。こう言う人達は「人にホメられる俳句を作ること」を目的としていますので、一生俳句を続けても何も見えて来ないでしょう。
趣味のひとつとして俳句を選び、仲間と楽しい時間を過ごしたいだけなら、それでも構わないと思います。一生をかけて、モノも見ずにそれらしい俳句を作る技術だけを学び、人間的には何も成長せずに死んで行けば良いのです。たかが趣味なんだから、多くを望む必要などありません。

結社の主宰や総合俳句誌の選者にも、こんな人はゴロゴロしています。子規にヘチマで叩かれても、虚子に頭突きを食らっても、草田男にバケツで水をぶっかけられても、爽波に火のついた茅の輪を投げつけられても、耕衣に正座させられて6時間説教されても、何も分からない人達です。
そして、死の間際に、自分が作り続けて来た「偽りの世界」を振り返った時に、とても虚しい気持ちになることでしょう。
このような人達がやっている「趣味の俳句ごっこ」ではなく、本物の俳句、すなわち「客観写生俳句」は、突き詰めて行くと、宗教よりも神に近づくことができ、哲学よりも真実を知ることができます。そして、科学よりも神秘的で、物理よりも絶対的なものです。また、音楽よりも心に響くリズムを持ち、絵画よりも対象を切り取る力を持っています。

一字一字に神々の宿る「ひふみ48字」を使い、対象の本質に迫り、真理を導き出す。それが客観写生俳句の持つ力であり、作品自体を目的としない特殊な文芸である所以なのです。

人間の外側の宇宙も内側の宇宙も、森羅万象のすべてを表現できる無限の17音の世界。

あなたは、苦しみながら技術だけを学びますか?それとも、楽しく遊びながら真理を追究しますか?

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第四十二話 オヘソでカプチーノ

現在発売中の「俳句研究」4月号に「旅と俳句」と言う鼎談が特集されています。いつも「リレー俳句」でお世話になっている浦川聡子さんと、「白露」同人の福田甲子雄氏、「春耕」副編集長の棚山波朗氏によるもので、「旅」と言う言葉からイメージする10句を各自が選び、様々な旅と俳句との関わりを話しています。

正直な感想としては、各話題の堀下げ方が浅く、少し物足りない面もありましたが、企画の特性を考えると仕方ないことでしょう。

さて、この鼎談の中で、読んだ瞬間に呆れ返って、オヘソでカプチーノを沸かしちゃった「棚山氏の問題発言」がありましたので、今回の俳話で取り上げてみたいと思います。

それは、福田氏の「地名のもっているイメージみたいなものが各自にあると思うんです。
それは全然知らない地名であっても、その句にぴったり調和して、その地名を取っては成り立たないという句がいくつかあるじゃないですか。」を受けての棚山氏の発言です。以下、全文を記します。

「たとえば山口青邨の、

  みちのくの淋代の浜若布寄す

この句の場合、「みちのくの」という上五がありますから、だいたいあの辺りかなという想像はつきますが、「淋代(さびしろ)」だけではなかなかわかりにくいでしょう。青邨のこの句は、句会で「若布」の題が出たので、それで作った句だそうです。この句を作ったとき、まだ淋代には行ったことがなかったようです。そういう意味では想像の句です。「名前の哀れさが私にまざまざと思い描かせた」ということをおっしゃっています。淋代という地名のイメージがこの句を作らせたのではないかと思います。
それと、淋代では若布は採れないんじゃないかという人がいたようですが、採れても採れなくてもいいわけです。淋代というだけで若布が採れるだろうという思いが湧いてきた、それはそれでいいんじゃないでしょうか。」

おいおいおいおい!マジで!?
結社誌ならともかく、みんな読んでる総合誌で、こんなテキトーなこと言っちゃっていいの?ある意味、チャレンジャー!(笑)

さて、せっかく沸かしたカプチーノを冷めないうちに飲んでから、ゆっくりとツッコませていただきましょう♪

まず1点、「そう言う意味では想像の俳句です」と言う発言。

現実に行ったことの無い場所の俳句なんか作ったら、そういう意味でもどういう意味でも、すべて想像の句であり、作品上の描写は作者の観念によるものです。
それなのに、棚山氏のこの発言は、その土地へ行っていないと言う物理的な意味においては想像だが、この句を形成するそれ以外の部分は想像ではない、と言うように解釈できます。もしもそうであれば、観賞者として大きな勘違いをしているだけではなく、創作者としての自身の資質をも問われる発言です。

そのように思われたくなければ「そういう意味では」などと言う逃げ場を作った発言などせずに、ハッキリと「想像で作った句」と言い切るべきです。

2点目は、「淋代という地名のイメージがこの句を作らせたのではないかと思います。」‥‥って、だから本人が「名前の哀れさが私にまざまざと思い描かせた」って言ってんでしょ?自分で青邨の言葉を引用しといて、なんでわざわざ自分の発言に置き換えて繰り返す必要があるワケ?
‥‥なんて、どうでもいいような前菜は軽くあしらい、さてさて今夜のディナーのメインディシュに行きますか♪(笑)

全国のたくさんの人達のオヘソでカプチーノを沸かさせ、日本中をシナモンの良い香りに包んでしまった棚山氏の呆れ返る問題発言、「採れても採れなくてもいいわけです。」(爆)

「旅と俳句」と言う鼎談の主旨を根本からひっくり返すような、棚山氏の最終兵器が炸裂したって感じです。

行ったこともない土地の名前を使い、想像だけでデタラメな句を作っても、著名俳人の作品なら非難されるどころか名句になるのでしょうか?

その上、作者の知識不足から、その土地で採れないものを詠み込んでしまったこのインチキ写生句に対しての「あの辺りではワカメは採れないのでは?」と言うゴモットモな周りからのツッコミに、「(ワカメなんか)採れても採れなくてもいいわけです。」
さすがのあたしも、この発言には開いた口が塞がりませんでした。読み手をバカにするのもいいかげんにしろ!って感じです。

日本海にマグロが水揚げされ、北海道にハイビスカスが咲き、沖縄で雪祭りが行われても、著名俳人の作品であれば許されるのでしょうか?

これはもはや、棚山氏個人の発言ではなく、棚山氏が副編集長をつとめる「春耕」と言う結社の作句姿勢、方向性と理解されてもしかたがないでしょう。

俳句って何?
写生って何?

こんな考えの人間が、結社の重要なポストにつき、総合俳句誌で無責任な発言をするとは、雲の上の子規も虚子も草田男も爽波も、みんな揃ってオヘソでカプチーノを沸かしていることでしょう。

自分の実体験の中での発言をする聡子さんと、一貫性のある自分の考えを述べる福田氏に対して、時代錯誤もハナハダしい水原秋桜子なんかの言葉を引用したり、前出のようなトンチンカンな発言をしたりの棚山氏からは、終始、リアリティよりも作品としての完成度を優先する姿勢がうかがえました。

すわっニュータイプの縄文式俳人か?と思った矢先、棚山氏のトドメの一発が、あたしの頭上で炸裂したのでした。

福田氏が芭蕉の「おくのほそ道」に対して「(前略)よく読んで研究すると、おもしろいことがもっともっと隠されているかもしれない。」と発言したのを受けて、「まことに「おく」が深いということですね(笑)」‥‥と来たもんだ!(寒っ!)

せっかくカプチーノで体が温まったとこだったのにぃ~!(笑)

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第四十一話 俳句が生まれる場所

吟行会や即吟の句会では、その場で俳句を作りますし、ネットでしりとり俳句をやっている時も、その場でどんどん作ります。しかし、それ以外の日常生活の中では、皆さんは、どんな場所で俳句を作っているのでしょうか?

あたしは、お風呂の中、ベッド、そして車の運転中です。俳句に限らず、詩でも小説でも何かの創作をする場合、湯舟に浸かりながら色々と思いを巡らせる人は多いと思います。また、お布団に入って寝るために電気を消すと、不思議と言葉が浮かんで来て、また電気をつけてメモに書いた、なんて経験のある人も多いのではないでしょうか?

あたしは、眠りにつく瞬間の、思考が停止するギリギリの時に、ふっと言葉が降りてくることが多く、ベッドサイトのティッシュの箱などは、裏までメモだらけです(笑)
ですから、ひと言で「俳句を作る場所」と言っても、ベッドは「心に降りて来た言葉をメモする場所」、お風呂は「でき上がった俳句を推敲する場所」であり、俳句が生まれる場所としては、車の中がメインになります。

あたしは、毎日、車を運転しています。でも、車で会社に通勤してる人のように、毎日同じ道を走るのではなく、職業がら、日によって目的地が違います。

お台場のテレビ局や横浜の撮影スタジオに向かう時は、遥か海の彼方まで一望できる、レインボーブリッジやベイブリッジを走ったりします。眼下の海上には、埋立地が幾何学的に組み合わさり、その間を大小様々な商業船が、真っ白な水尾を曳いて行き交っています。
お天気の良い日には、丹沢の山々の真っ黒な稜線の上に、雪化粧した富士山を望むこともできます。
空にはゆりかもめが舞い、その上空をエアバスが飛び、360度一大パノラマの世界です。
また、都内の中心にあるテレビ局やスタジオに向かう時は、大渋滞を避け、裏道の更に裏道の、猫が通るような路地を走ったりもします。
東京の真ん中の赤坂や六本木でも、そんな路地には古い日本家屋が残っていて、狭い庭には梅が咲き、野良猫が屏の上を歩き、夏には簾(すだれ)が掛かり、風鈴が下げられるのです。とても生活感に溢れ、思わぬ季語に出会うこともしばしばです。

あたしの車は左ハンドルなので、道路の左側にピッタリ寄せて駐車すると、ドアが開けられなくなり、外に降りられません。だからいつも、必死で室内を移動して、助手席のドアから降ります。タイトスカートの時は、まるでプリンセス・テンコーのイリュージョンみたいなポーズになってしまいます(笑)
それでも、何か興味のあるものを発見した時は、車を停め、必死に身をよじらせて助手席から降り、実際に近くで見たり、触ったり、匂いを嗅いだり、食べてみたり、そこにいる人に聞いてみたりします。そして、車に乗り込み、目的地に向かう間に、今体験したことを俳句にまとめます。

車の運転中は、安全確認や渋滞情報、ねずみ取りなど、色々なことに神経を使っていますので、お部屋でボーッとしている時に比べ、何倍も脳内麻薬のアドレナリンが分泌されています。その上、色々なことを同時に考えているため、俳句のために割り当てている脳みその一部にまで、主観などの味付けをする余裕が無くなっています。

つまり、俳句を作る上では、車の運転中と言うのは、ワリと良い条件が揃っている状態なのです。
真っ暗なベッドの上で、眠りに就く間際の聖なる時間に、心に降りて来た数々の言葉。それらを頭の引き出しに仕舞って家を出る。
そして、車の運転中に体験した現実の世界を俳句へと昇華させて行く作業の中で、引き出しを開けて、響き合う言葉を探し、融合させて行く。

運転と言う特殊な状況下で主観が押し殺され、脳内麻薬の作用で過敏になった感覚が言葉を選んで行くので、通常では見逃してしまうような繊細な部分にも神経が行き届く。そして、ケータイの音声メモに録音しておき、その夜、湯舟に浸かりながら推敲して行く。

何かを見た瞬間、何かを感じた瞬間に、ふっと心に浮かんで来る言葉、それが初めから17音になっていて、どんなに推敲しても、結局は最初の形が最高であった場合、これが一番良い俳句の生まれ方です。
そのために、いつ出現するか分からないこの瞬間のために、ふだんから頭ではなく体に俳句のリズムをしみ込ませておくことが大切なのです。

しかし、このような素晴らしい瞬間は、一年に一度あるかないかなので、それ以外の俳句は、あたしはベッドと車の中とお風呂と言う、必然的に生み出す状況で作っているのです。

夢中になって「俳句deしりとり」で遊んでいると、脳内麻薬が分泌され始め、車の運転中に俳句を作っているのと近い状況になって来ます。そして俳句のリズムが体にしみ込んで来るので、それまで頭だけで俳句モドキを作っていた人も、主観のフィルターを通さずに、心の言葉をダイレクトに表現できるようになって来ます。

「きっこのハイヒール」の「ハイ」は、俳句の「俳」であるとともに、ハイテンションの「ハイ」でもあるのです。
自らのテンションを高める状況を作り、その中で遊ぶことにより、知らず知らずのうちに感覚が研ぎ澄まされて来るのです。そうすると、意識的には決して覗くことのできない深層心理の扉が開き、潜在的な能力が発掘、開花するのです。

あたしは、眠る間際の聖なる時間に「言葉が降りて来る」と言いました。良く、ミュージシャンが「音楽の神様が降りて来た」とか、お笑い芸人が「笑いの神様が降りて来た」とか安易な表現をしますが、あたしの言っているのは、そんな他力本願なものではありません。もし仮に「俳句の神様が降りて来て、素晴らしい俳句を授かった」としたら、そんなもの、あたしの作品ではありません。
あたしの言っている「言葉が降りて来る」と言うのは、自力では開けることのできない深層心理の扉が、何かのタイミングで少しだけ開いた瞬間に、その隙間から漏れてくる言葉、すなわち「自分の心の言葉」のことなのです。
人間の心は、宇宙を飲み込んでしまうブラックホールと同じで、無限のキャパシティーを持っています。そして、誰の心の中にも、何千、何万と言う「自分の心の言葉」が浮遊しています。

人の俳句を読んで、感動したり、共感したり、心を動かされたりする人は、自分の心の中にも、その俳句を形成している言葉と同じ感覚を持っているのです。だから、全くの他人が作った俳句なのに、自分の心に響いて来るのです。つまり、人の俳句に感動できる人は、それと同じか、それ以上の俳句を作れる感性を持っているのです。

すべての人の心の中にある言葉、しかし、自由に使うことのできない言葉。
それらを常に意識し、少しでも引き出せる状況下で作句する。これが、あたしの場合は、車の運転中であり、しりとり俳句なのです。

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第四十話 言わなくてもいい言葉

17音しかない俳句と言う短詩型において、音数のキャパシティー以上のことを詠うためには、言わずに感じさせる「省略」と言うことが必要になって来ます。しかし、省略と言うテクニックを使う前に、まずは「言わなくてもいい言葉を言わないようにする」ことが基本となります。

俳句の中に「白梅」と言う言葉が出てくれば、それだけで「白梅の咲いている様子」を表していますから、「咲く」と言う言葉は言わなくても良いことになります。また、作者がその白梅を見て俳句を作ったことも分かりますので「見る」と言う言葉も必要ありません。白梅が咲けば美しいに決まっていますので「美しい」と言う言葉もいらないでしょう。そして「白梅」と言う季語には「香り」も含まれていますので「良い香りがした」と言う描写も、ただ季語の説明をしているだけなので不要となります。

つまり、通常の文章では「美しい白梅の花が咲きました。」と言うことを俳句では「白梅」と言う単語だけで表現しているのです。

さらに、「庭の白梅がきれいに咲きほこったので、庭に降りて見に行きました。そうしたら、とても良い香りに包まれ、心が洗われるような気持ちがしました。」と言う70音もある文章は、「白梅や」と言う、たった5音が表してくれるのです。
これは「白梅」と言う単語が、「咲く」「香り」「美しい」などの白梅に関する情報をすべて含んでいて、さらに季語の本意として「清楚」「慈しみ」「気品」なども含み、そしてそれらすべてに、切れ字の「や」が詠嘆を与えているからなのです。

名詞とは、通常の文章に使う場合は、ただ単に「対象を特定する記号」なのですが、俳句に使う場合は、同じ名詞であっても、多くの情報や本意を含み、その言葉の深さが全く違って来るのです。
通常の文章の中に「白梅」と言う名詞が出て来ても、それはただ、1種類の植物を特定しているだけで、「白梅を見た」とか「白梅が咲いている」と言わない限り、ただの単語でしかないのです。しかし、俳句の場合は、「白梅」と言った瞬間に、もう句の中に美しい白梅が咲き、作者はそれを見て、そして香りに包まれているのです。

これは、季語に限ったことでなく、すべての名詞に対して言えることなのです。

俳句の中に「ラーメン」と言う食べ物の名詞が出てくれば、わざわざ「食べる」と言わなくても、すでに作者は、熱々の湯気の立つラーメンをふうふうと食べているのです。

このように、花に対して「咲く」、食べ物に対して「食べる」、飲み物に対して「飲む」、音楽や鳥の声に対して「聞く」などは、すべて「言わなくてもいい動詞」なのです。
そして、美しいものに対して「美しい」、美味しいものに対して「美味しい」、重たいものに対して「重い」などは、すべて「言わなくてもいい形容詞」なのです。

このような「言わなくてもいい言葉」を排除すると、そのぶんの音数を使って、描写を緻密にしたり、他のことを詠ったり、一句の表現する世界を大きく広げることができるのです。また、無駄な言葉を省くと句にゆとりが生まれ、季語や切れ字、描写などがさらに輝き出すのです。

最後に例として「言わなくてもいい言葉」を使った句と、それらを削り落とした句をあげてみます。順番に読み、目をつぶって頭の中に景を思い浮かべ、どちらがイメージに広がりがあるか比べてみて下さい。

  美しき白梅の咲く庭の隅

  白梅や庭の硝子戸開け放つ

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第三十九話 続・俳句deしりとり

今、「俳句deしりとり」が熱い!

何日か前の俳話に「俳句deしりとり」のことを書いたら、たくさんの人が参加して下さるようになって、12日の夜から13日の夜にかけては、ナナナナナント!500句近い書き込みがありました。このサイトは、携帯電話からでもアクセスできるようになっているので、お昼休みやお仕事の合間などに気軽に書き込んでくれる人や、龍吉さんやひろみさんのように、お仕事よりも「俳句deしりとり」を優先(笑)してくれる人もいて、なんだか盛り上がっています。

12日、最高に白熱したのは、夜の10時頃から11時過ぎまでの1時間です。それまでポツポツつなげていたところに、「楽・ら句・俳句」のかほりさんと、浦川聡子さんのサイトの「リレー俳句」でご一緒している美和さんが乱入(笑)し、座は一気にヒートアップしました。
もともと座にいたのは、あたし、さんちゃん、遊起さん、ハジメさん、ひろみさんの5人と、あとは時々顔を出してくださる人達が数人でした。

参考のために、参加者の俳句歴を簡単に紹介しておきます。

かほりさんは、結社「鴫(しぎ)」の同人で、俳句歴10年以上の大ベテラン。ご自身のサイト「楽・ら句・俳句」には、3つもしりとり俳句のコンテンツがあります。また、美和さんも、浦川聡子さんの「リレー俳句」で日夜腕を磨いているテダレの俳人です。ハジメさんとひろみさんも、それぞれ結社に所属して、きちんと勉強をしています。
一方、さんちゃんは何ヶ所かのネット句会の経験があるだけで、遊起さんと同様に、初心者の部類に入ります。

そして最後にあたしですが、俳句歴17年、これまでにいただいた賞は、角川賞、俳句研究賞、俳壇賞、俳句界賞、俳句四季賞、俳句朝日賞、飯田蛇笏賞、深吉野賞、
‥‥などには目もくれず、伊藤園の「お~いお茶」の佳作が1回と言う、ノンキなマイペース俳人です(笑)

さて、それまで3~5分に1句と言うスローペース(あたしにとって)でつなげていた座に、かほりさんと美和さんと言う強力な「しりとリスト」(笑)が2人も参入して来たため、必然的に投句スピードが上がって来ました。
2分で1句、1分で1句‥‥。

投句した瞬間に書き込み画面に切り替え、自分の名前を書き込みながらつなげる言葉を選び、打ち込みながら俳句を作って行き、5秒で推敲して送信、この作業をえんえんと繰り返して行きます。

それでも、送信した句がアップされた時には、もう他の人の句に埋もれています。あたしの脳みそからは、脳内麻薬のアドレナリンがどんどん流れ出し、ますますヒートして行きます。

45秒で1句、30秒で1句‥‥。
あまりの白熱ぶりに、ADSL以外の接続はアクセス不良を起こし、サーバーが落ちかけます。もしも「俳句deしりとり」の3月12日22時からの過去ログをご覧になる方がいらっしゃいましたら、各書き込みの時間をチェックしてみて下さい。その、白熱した死闘の様子が伝わると思います。

この約1時間の間に、あたしは50句近く、かほりさんは30句近く、美和さんは25句ほど、この3人だけでも100句を越えています。予想を遥かに超えてがんばったのが、10句近くを投句したさんちゃんです。遊起さんも、洪水のような句の流れに、必死について来ようとがんばってくれたし、ひろみさんは携帯と言うハンデがあり、サーバーが重たくてなかなかアクセスできませんでしたが、美女に囲まれたたった一人の男性、ハジメさんは、量より質とばかりに、マイペースで楽しんでいました。
結局、あたしは、他の数ヶ所のサイトのしりとり俳句も回ったりしていたので、1日で200句近くを作ったのでした。でも、あとから過去ログを見てみると、季語を忘れてたり仮名を間違えてたりとサンザンでした(笑)

しかし、しりとり俳句と言う遊びは、体に俳句のリズムをしみ込ませることが一番の目的なので、句のデキなんかは二の次で、とにかく作る!考えてるヒマがあったら作る!考える前に作る!

頭の中に主観が湧き出て来る前に17音にまとめるこの遊びは、客観写生を志す者にとっては、とてもいい訓練になるのです。

もちろん、四六時中こんなバトルをしているワケではなく、昼間の時間帯は、他のサイトのしりとり俳句のように、のんびりとしたペースで続いています。
でも、やっぱり、俳句のリズムを体にしみ込ませ、そして、俳句のシャッタースピードを上げて行くためには、なるべく、アクセスしてから5分以内に投句するように心がけて行くべきでしょう。
5分以内に投句できるようになったら、次は3分、そして2分、1分と縮めて行くのです。

1日に3句だった人は、5句、10句と増やして行きましょう。
アクセスしても誰も来ていなければ、自分の句にどんどんつなげて行けばいいのです。
しりとり俳句を始めると、それまでなかなか俳句ができなかった人も、毎日たくさんの句を作れるようになって来ます。
なかなか投句ができない人は、良い句を作ろうとしすぎているのです。前の俳話にも書いたように、575で季語さえ入っていれば、どんなにヘタクソなものでも、意味不明なものでも、最初は何でも構わないのです。大切なのは、まず一歩を踏み出すことなのです。
あたしの句なんて、デタラメもいいとこです。

  この子猫どこの子猫か猫の子か

  食べ終はるやいなや飛びつくぶらんこへ

こんなのを作ってるんですから!(笑)

こんなのでいいから、とにかく作る!何でもいいから、どんどん作る!作って作って作りまくって、体に俳句のリズムをしみ込ませることが何よりも大切なのですから。

さあ!あなたもどんどん「俳句deしりとり」に参加して、ハートに刻め!俳句のビート!(笑)

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第三十八話 仰臥漫録

誰でも知ってる「アンネの日記」から、一部のマニアしか知らないあたしの「きっこの日記」(※図書館註:現在は「きっこのブログ」として2005.01.13「きっこ的ワラシベ長者?」から2022.01.01「新年、明けましておめでとうございます♪」までが無料で閲覧出来ます。それ以降は有料の「きっこのメルマガ」に引き継がれ益々パワフルで繊細なブログを継続しています)まで、世の中には書物やホームページなどで、一般に公開されている日記は、山ほど‥‥いや、この表現は陳腐だから、星の数ほど‥‥いや、この表現は月並みだから、ヘラブナのエラの中のサイハの数ほど‥‥って、これじゃあ分からないから‥‥とにかく、いっぱいあります(笑)

それらの中で、俳句を志す者なら避けては通れないのが、正岡子規の「仰臥漫録(ぎょうがまんろく)」です。

何年も俳句をやっている人なら、以前紹介した「俳諧大要(はいかいたいよう)」と同様にほとんどの人が読んでいると思いますが、今回の俳話は、まだ読んだことがない初心の方々のために、この本を紹介したいと思います。

正岡子規は、脊髄カリエスと言う病気により、36才と言う若さで亡くなっていますが、この日記は、明治34年9月から死の直前の35年9月までの1年間を書き綴ってあります。

自力では、体を起こすことも寝返りを打つこともできず、ただただ仰向けに寝ていることしかできなかった子規は、そのままの状態で、半紙を綴じて作ったノートに、病気による苦痛と闘いながら、文章や俳句、絵などを記して行ったのです。

明治三十四年九月二日 雨 蒸暑し

庭前の景は棚に取付てぶら下がりたるもの夕顔ニ、三本、瓢(ふくべ)ニ、三本、糸瓜(へちま)四、五本、夕顔とも瓢ともつかぬ巾着(きんちゃく)形の者四つ五つ

日記の1日目は、この文章に、夕顔や糸瓜などの絵が添えられて始まります。
この日記を書き始めた時点で、子規の肺は左右ともにほとんど空洞になっており、医者からは「生存していること自体が奇跡」と言われていました。
読み進んで行くと誰もが驚くのが、とても病人とは思えない子規の食欲です。ある日の食事を例にあげてみましょう。

朝 粥(かゆ)三椀 佃煮 茄子と瓜のお新香 ココア入り牛乳五勺 塩せんべい三枚

昼 かつおのさしみ 粥三椀 みそ汁 西瓜二切 梨一つ

間食 菓子パン十個 塩せんべい三枚 茶一杯

夕 栗飯三椀 焼き魚(さわら) 芋煮

ほとんど毎日、このくらいの量の食事をしているのです。特に驚くのは、おやつの菓子パン10個です。たぶん、ひと口サイズの小さなものだと思いますが、それにしてもお昼ごはんを食べて数時間で、良くこれだけのものが食べられると関心してしまいます。
あたしには、子規のこの異常にも思える食欲が、生きることへの執念のように思えてなりません。

日記には、その日の食事の他に、自分の病状や連日尋ねて来る来客のこと、そして俳句など様々なことが書かれています。

体の激痛、頭痛、発熱、吐き気、動くことのできない子規を次々に襲う病魔‥‥。

それでも子規の作る俳句は、病気の句の合間に、作者の苦しみなど感じさせない写生句が並んで行きます。

  秋の灯の糸瓜の尻に映りけり 子規

もしも、あたしが死の淵にいたら、こんな句が詠めるかと、いつも考えてしまいます。

2週間目の9月14日の日記には、あまりの苦しさに「絶叫号泣」と記されています。それでも、少しでも痛みが去ればまた筆を取り、仰向けのままで日記を書き、絵を描き、俳句を作り続けます。
比較的病状が安定している日には、書生時代の旅行の思い出や病床で思うことなどを随筆的に書き綴り、来客の持参したお見舞いの品々を見て俳句を作ります。

しかし、腹部の包帯を替えるごとに、わき腹に開いた患部の穴は大きくなって行き、子規を絶望の底へと突き落とします。

そして、大雨の降る10月13日、あまりの苦しさに頭がおかしくなって来た子規は、「さあたまらんたまらん」「どーしやうどーしやう」と連呼し、老母に頼んで弟子を呼びに行かせます。その間、ひとりになった子規は、手元の硯箱(すずりばこ)にある小刀と千枚通しに目をやり、いっそこれを使って死んでしまえば、この苦しさから開放される、と言う思いと格闘するのです。

しかし、子規の本当にすごいところは、このあとなのです。
激痛が治まり平静な精神状態に戻ってから、この時の様子を冷静に日記に書き、さらには、自分の命を終らせようとした小刀と千枚通しをスケッチしているのです。
これこそ、究極の客観写生ではないでしょうか?

そして、この日記は、10月末の子規の36才の誕生日をもって、病状の悪化により一時中断します。

翌年の3月から再開しますが、激痛を和らげるために麻痺剤を服用し始め、ほとんど毎日、苦しさに泣いています。

7月を過ぎると、いよいよ誰の目にも最期だと言うことが分かり、弟子の虚子、碧梧桐、鼠骨(そこつ)などが、当番制で毎日訪れるようになります。

7月以降は、衰弱により日記を綴ることもできなくなりますが、それでも意識のもうろうとする中で必死に筆を取り、死の間際の9月初旬まで、植物を写生しています。

そして、9月19日、絶命します。

子規の生きざまは、まさに命を賭けた客観写生そのものなのです。

※図書館註:子規の四大随筆は『松蘿玉液』『墨汁一滴』『病牀六尺』『仰臥漫録』で、最後の『仰臥漫録』は公開を前提にはしていないため献身的な妹律への非情の言葉も書き留められています。なお、「青空文庫」で『俳諧大要』『墨汁一滴』『病牀六尺』は公開されていますが、『仰臥漫録』は作業中ですので、御覧になりたい向きは岩波文庫をお求め下さい。角川ソフィア文庫版がカラー写真や読みやすい文章で推奨本でしたが、現在は絶版になっているようです。表紙の子規が泥棒顔だと揶揄したのが難を招いたとすれば冗談でしたので口は災いの元となりました。山口亜希子様、ごめんなさい。

編集・削除(編集済: 2022年08月31日 00:46)

第三十七話 俳句deしりとり

この「きっこのハイヒール」に、新しく「俳句deしりとり」と言うコーナーが生まれました。さっそく、こうさん、ひろみさん、はなさん、ナナさん、さんちゃん、まるとさん、水星人さんなどが参加して下さって、じわじわと盛り上がりつつあります。

実はこのコーナー、パクリです(笑)

色々な俳句のサイトに「しりとり俳句」のコーナーがありますが、前の句の下5を次の人がそのまま上5にもって来るものや、お題で詠みついで行くものなど、そのルールは様々です。

このサイトの「俳句deしりとり」は、ルールは浦川聡子さんのサイトの「リレー俳句」や井上かほりさんのサイトの「しりとり575」と同じで、前の句の中の好きな言葉を抜き出して繋いで行くスタイルをパクリました。タイトルは、宙虫さんのサイトの「折句deリレー」のパクリです。
聡子さんにもかほりさんにも宙虫さんにも無許可でパクっているので、いつ怒られるかとヒヤヒヤしている今日この頃、いかがお過ごしでしょうか?(笑)

なんて冗談はさておき、今回の俳話は、「マイケル・ジャクソンの整形疑惑」‥‥じゃなくて、「俳句deしりとり」と言うコンテンツを作ったイキサツについて書いてみたいと思います。

俳句をやっていると、時々スランプに陥ることがあります。それまでは、ワリと簡単に575を作ることができていたのに、急に言葉が出て来なくなったり、思いついたことが575にまとまらなくなったりするのです。
そして、投句のシメキリが近づいて来て焦りはじめ、歳時記とにらめっこしてウンウン唸り、考えても考えても同じ場所をどうどう巡りしてしまい、苦しみ、悶え、のたうちまわり、自分には才能が無いのだと悲観し、諦め半分で納得できない句を投句してしまうのです。

そして自己嫌悪に陥り、妖しげな爽やか青年に誘われてウサン臭い自己啓発セミナーに連れて行かれ、号泣しながら自分を責めたてるのです(笑)

ここで断言しておきますが、俳句を作るのに才能なんか必要ありません。
ってゆ~か、「俳句の才能」なんて言うもの自体、初めから存在しません。
俳話の他の項でも度々書いているように、俳句と言うものは、「自分が見て、自分が感じたことを、自分の言葉で表現する」文芸です。ですから、たとえそれがどんなに拙い作品であっても、それは世界でたったひとりの、その作者にしか作れない詩なのです。

もし俳句に「才能」と言うものがあるとしたら、それは「いつでも自分らしくある」と言うことだけです。芭蕉だって子規だって虚子だって、あなたの代わりにあなたの想いを詠うことはできないのですから。そして、あとは少々のテクニックがあれば良いだけです。

縄文式結社の縄文式主宰に洗脳され、古めかしいものを「俳句らしい俳句」と思い込まされてる縄文式俳人達は、今日もセッセと使い古された言い回しやサビの浮き出た言葉を使い、自分を殺した表現で、類想類句の山を築いています。

縄文式結社では、よく「立派な俳句」と言いますが、あたしに言わせれば、こんなアホな言葉はありません。俳句とは作者の心の言葉なのですから、人間的に立派な人が作らなければ、本当に立派な俳句なんか生まれるワケがありません。

主宰にホメて欲しくて主宰好みの句ばかり作っているような人達は、どんなに立派に見える句を作ったって、たとえそれが主宰に認められたとしたって、あ~た~し~は~絶対に認めません!(爆)

そう言う人達って、小学校の時にクラスに必ず一人か二人いた、先生の顔色をうかがってゴキゲン取りばっかりしてる、点取り虫の優等生野郎のナレノハテです。
きっと、死ぬまで俳句を続けても「誰のために俳句を作っているのか」と言う、一番大切なことに気づかない気の毒な人達でしょう。

さて、本物の俳句を作る上で大切なことのひとつに、「シャッタースピードの速さ」があります。

芭蕉は「物のみえたる光、いまだ.消えざるうちに言ひとむべし」と言っています。

またまた渋谷の女子高生に登場してもらい、現代語に訳してもらうと「マックってさぁ~買ってすぐに食べればそこそこイケルんだけどぉ~時間がたって冷めちゃってからだとぉ~マズくて食べらんないって感じぃ~!」って具合です(笑)

ようするに、自分が感じたことは、その感動が薄れないうちに切り取れ、と言うことです。
そんなワケで、俳句のシャッタースピードを養うためには、頭の中にある「言葉の引き出し」をいつでもパッと開けられるように訓練をしておく必要があるのです。

でも「訓練」なんて言っても、俳句は決して苦しんでやるものではありません。どっかの縄文式結社みたいに「鍛練会」だとか「寒稽古」だとか「ナントカ合宿」だとか言って、まるで、時代遅れの体育会かカルト宗教みたいなことをやってるのは、勘違いもハナハダシーってゆ~か、完全にイカレてる集団です。いっぱいコードのついた変なヘルメットみたいなのかぶらされてるんじゃないの?って感じです(笑)

とにかく、俳句をどんどん後退させて行く縄文式結社や、主宰絶対主義の北朝鮮結社がやってることは、主宰のコピーを製造しているだけで、「自分らしくある」と言うことの正反対のことなのです。

俳句って言うのは楽しんでやるものですから、みんなで楽しく「俳句遊び」をしながら、知らず知らずのうちに力がついて行く、そして自分の作句スタイルが出来上がる、と言うのが理想的なのです。
そのための遊びのひとつが「俳句deしりとり」なのです。

最初は細かいことなど気にせずに、575で季語さえ入っていれば何でも構いません。前の人の句の中に使いたい言葉が見つからなければ、その前の句から持って来たっていいでしょう。二人同時に投句してしまい、カブったりしたって気にすることはありません。次の人は、どちらかの句から繋げればいいだけです。

色々と考えてるヒマがあったら、とにかく何でもいいから作ってみましょう。お遊びなんですから「いい句を作ろう!」なんて考える必要はありません。

「俳句deしりとり」のコーナーにアクセスしたら、絶対に1句書き込む!そうしていると、知らず知らずのうちに575のリズムが体にしみ込み、余裕が出て来ると、2つの言葉を詠み込めるようになったり、前の人の句にアイサツを返したりできるようになって来ます。

あたしは、客観写生こそが最強の俳句だと思っていますので、常に観念を削ぎ落とすように、自分の主観と戦いながら作句しています。でも、ひとりで俳句を作っていると、どんどん主観が湧き出て来てしまいます。

そんな時、浦川聡子さんや井上かほりさんのサイトにおじゃまして、「リレー俳句」や「しりとり575」で遊ばせていただくと、主観などに構っていられなくなり、自分でも思いがけない句が生まれて来ることがあるのです。それは、主観と言うフィルターを通さずに、記憶の引き出しからダイレクトに出て来た言葉なのです。

しりとり俳句に参加する上で、一番いけないことは、せっかくアクセスしたのに、前の人の句を見ても繋げる句が浮かばなかったからと言って、そのまま立ち去ってしまうことです。例えば、平仮名1文字だけ繋げる句でもいいから、どんなに変な句でもいいから、とにかく作る!
「俳句deしりとり」に毎日3回アクセスして、その都度、どんな句でもいいから必ず書き込むようにすると、少しづつ俳句のリズムが体にしみ込み、心臓の鼓動も575を刻み始める‥‥ってゆ~のはウソだけど(笑)、何かを見て俳句を作ろうとした時に、確実にシャッタースピードが速くなっているはずです。

何かを見て、自分が感じたことを俳句にしようとした時、なかなか言葉が出て来なかったり、自分の想いを17音でうまく表現できない‥‥。こんなに切ないことはありません。
あなたも「俳句deしりとり」で楽しく遊んで、芭蕉並みのシャッタースピードを手に入れてみませんか?

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第三十六話 俳壇なんでだろ~?

なんでだろ~?なんでだろ~?俳人なんでだろ~?

正岡子規の写真は横向きばっかりなのなんでだろ~?なんでだろ~?

前から見ると美空ひばりの息子の「マネーの虎」に出てる加藤和也にソックリなのなんでだろ~?なんでだろ~?

高浜虚子はチビなのに顔だけデカいのなんでだろ~?なんでだろ~?

虚子の俳句はすごいのに息子の俳句はイマイチなのなんでだろ~?なんでだろ~?

さらにその子供の俳句は赤いセーターを着たくなっちゃうほどヘタなのなんでだろ~?なんでだろ~?

「沖」の林翔は「さよなら、さよなら‥‥」の淀川長治にソックリなのなんでだろ~?なんでだろ~?

「馬酔木」の水原春郎は「いや~映画って本当にいいですね♪」の水野晴郎に名前が似てるのなんでだろ~?なんでだろ~?

「対岸」の今瀬剛一はいっこく堂の腹話術の人形に似てるのなんでだろ~?なんでだろ~?

「鷹」の藤田湘子は顔の半分がオデコなのなんでだろ~?なんでだろ~?

「運河」の茨木和生の髪型はバックトゥザフューチャーのドク博士と同じなのなんでだろ~?なんでだろ~?

「海程」の阿部完市はいつでも岡本太郎みたいに目を見開いてるのなんでだろ~?なんでだろ~?

「藍生」の黒田杏子はいつも作務衣なのなんでだろ~?なんでだろ~?

「豈(あに)」の筑紫磐井はいつもサングラス外さないのはなんでだろ~?なんでだろ~?
なんでだろ~?なんでだろ~?結社のなんでだろ~?

どの結社にも必ず世話好きオバサンがいるのなんでだろ~?なんでだろ~?

そのオバサンを中心に小さなグループができてるのはなんでだろ~?なんでだろ~?

そう言うオバサン達って俳句を作ることよりも会員を増やすことに情熱を燃やしてるのなんでだろ~?なんでだろ~?

若い人が入会すると最初は喜ばれるのに俳句がうまかったりすると煙たがられるのなんでだろ~?なんでだろ~?

会員数の多い結社ほど真剣に俳句に取り組んでる俳人が少ないのなんでだろ~?なんでだろ~?

あんなに薄っぺらなのに結社誌が1000円もするのなんでだろ~?なんでだろ~?

手弁当で編集の手伝いしないと結社内で出世できないのなんでだろ~?なんでだろ~?
俳句がヘタでも長いこと結社にいれば自動的に同人になれるのなんでだろ~?なんでだろ~?

結社の収支決算って絶対に公表されないのなんでだろ~?なんでだろ~?

どこの結社もいつも赤字だ赤字だって言って何かにつけて寄付を募るのなんでだろ~?なんでだろ~?
なんでだろ~?なんでだろ~主宰のなんでだろ~?

主宰の句ならどんなひどい句でもホメなきゃならないのなんでだろ~?なんでだろ~?

主宰の言うこと何でもありがたがるのなんでだろ~?なんでだろ~?

地方の会員って年に一度主宰が来ると天皇陛下が来たみたいに感激するのなんでだろ~?なんでだろ~?

主宰が句会で表記ミスしても誰もツッこまないのなんでだろ~なんでだろ~?

俳句のヘタな主宰ってすぐに古語や旧漢字を使ってごまかすのなんでだろ~なんでだろ~?

主宰は人の句集をちゃんと読まないで書評を書けるのなんでだろ~?なんでだろ~?

大きい結社の主宰に句集の帯文を依頼するととんでもないギャラが発生するのなんでだろ~?なんでだろ~?

俳句は17音って決まってるのにヤタラと前書きばっかりつけたがる主宰がいるのはなんでだろ~?なんでだろ~?

主宰が会員の投句を勝手に添削して掲載しちゃうのはなんでだろ~?なんでだろ~?

主宰はモノを見ないで俳句作ってるクセに会員には写生写生って言うのなんでだろ~?なんでだろ~?

主宰は講演会のお車代や添削料を申告しないでポケットに入れちゃうのなんでだろ~?なんでだろ~?

主宰は句会よりパーティを優先するのってなんでだろ~?なんでだろ~?

それで主宰の代わりに同人がピンチヒッターで指導に来ても同じ句会費を取られるのなんでだろ~?なんでだろ~?

なんでだろ~?なんでだろ~?俳句誌のなんでだろ~?

「角川俳句」は同じ特集を使い回してるワリに値段が高いのなんでだろ~?なんでだろ~?

「俳句朝日」はさらに紙質まで悪いのに同じくらい高いのなんでだろ~?なんでだろ~?

「俳句研究」は俳句の研究を全然してないけどなんでだろ~?なんでだろ~?

そう言えば「俳壇」って言う雑誌も昔あったけど最近見かけないのなんでだろ~?なんでだろ~?

「俳句あるふぁ」の若い編集部員の態度がヤタラと威圧的なのなんでだろ~?なんでだろ~?

「俳句界」とか「俳句四季」ってどこにも売ってないけどなんでだろ~?なんでだろ~?

読者投句欄の選者が全作品に目を通さずに選句してるのなんでだろ~?なんでだろ~?

年取った女性俳人の写真って何十年も前のを使うのなんでだろ~?なんでだろ~?

「角川賞」や「俳句研究賞」の選者たちって自分の結社の会員にばっかり点を入れるのなんでだろ~?なんでだろ~?ななななんでだろ~?

なんでだろ~?なんでだろ~?ななななんでだろ~?

さあ!皆さん、ご一緒に!

なんでだろ~?なんでだろ~?俳壇なんでだろ~?(爆)

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第三十五話 俳句のリフォーム

俳句と言う詩型を形成するのは、定型、季語、切れ、俳言性(はいごんせい)の4本の柱です。しかし、俳言性と言うのは、俳話の「自分の言葉」の項で書いたように、あたしの作句理念の中心となる俳論であり、あたしの造語です。そして、現代俳人の多くは、残りの3本の柱だけで「俳句もどき」を作っているので、古い材木で建てた家のような、足場のグラグラした俳句ばかりが溢れているのです。

今回の俳話は「自分の言葉」の項で俳言性について読んでいただいたと想定して、残りの3本の柱について書いて行きたいと思います。

まず「定型」と言う柱についてですが、ハッキリ言ってこんなもの、わざわざ書くほどのことではありません。

長い日本の詩の歴史において、本来「詩」と言うものは全て「定型」だったのです。
一般の文章と違い、575なり、57577なり、言葉と言うものは、定型と言うリズムを与えられて初めて詩となりえたのです。つまり「定型である」と言うことは、日本の全ての詩の絶対条件であり、前提以前のことだったのです。ですから、あえて定型を唱う必要などなかったのです。

しかし、明治時代以降、文明開花とともに文語の自由詩が誕生し、そして口語の自由詩へと発展して行きました。

そして、自由詩との差別化をはかるために、それまでは当り前だった「定型」と言うことをわざわざ口にしなくてはいけなくなったのです。

続いて「季語」と言う柱ですが、こちらも明治時代になってから作られた言葉で、それまでは「季の詞」とか「季の題」とか呼ばれていました。

連句の発句から生まれた俳句には、「自分の言葉」の項で書いたように、発句のルールがそのまま受け継がれています。
その中のひとつが「季の詞」ですが、こちらは「定型」や「切れ」ほどの強制力はなく、実際に芭蕉も多くの無季の句を詠んでいます。

連句では、絶対に季語を入れなければならなかったわけではなく、詩が季感を持っていれば良かったのです。

それが、明治時代になり、頭角を表して来た自由詩との差別化のため、旗印のひとつとして「季語」と言う新語を作ったのです。そのために、あたかも「俳句には季語がなくてはならない」と言うイメージができ上がってしまったのです。

当時の俳人達も、自由詩との違いをアピールするために、あやふやな季感などではなく、誰が見てもハッキリ分かる季語をこぞって詠み込んだのです。これが、季語を俳句の絶対条件へとまつりあげる原動力となったのです。
ちょっと余談になりますが、次の句をご存知でしょうか?

  階段を濡らして昼が来てゐたり

知る人ぞ知る、今は亡き攝津幸彦の代表句‥‥ってあたしが勝手に思ってるんだけど、子宮の奥がジーンとして来るほど、たまらなく好きな句です。言葉としては矛盾してしまいますが、観念的客観写生とでも言うべき作品で、季語を使わずにこれほど季感のある句は、あたしは他には知りません。

この句の描写が表す季節は、もちろん「夏」であり、そう感じることのできた人は、俳人としてちょっとは見込みのある人です(笑)

季語を絶対条件とした現在の俳句では、この句は認められませんが、芭蕉の時代なら立派な俳句でしょう。

さて、本題に戻り、3本目の柱「切れ」についてです。
明治時代に自由詩が生まれたことにより、あえて言うようになった「定型」や、それまでの「季感」が道を間違えて生まれてしまった「季語」などと違い、「切れ」と言う柱にはとても古い歴史があります。

室町時代に書かれた宗祇の連歌論集「宗祇袖下」の中にも「切字(きれじ)」と言う言葉が書かれています。これは、今から500年以上も前の書物です。

さらに150年遡った1349年の「連理秘杪」と言う二条良基の連歌論集の中にも、次のような記載があります。

「かな、けり、常の事也。この他、なし、けれ、なれ、らん、又常に見ゆ。所詮、発句はまづ切るべき也。切れぬは用ゐるべからず。」

つまり、明治時代に生まれ100年ちょっとの歴史しかない「定型」「季語」に比べ、「切れ」と言う柱は、650年もの歴史がある、まさしく俳句の大黒柱なのです。
さて、この「切れ」に用いる「切れ字」ですが、室町時代から江戸時代にかけては「切れ字18種」と言って、「かな、もがな、し、じ、や、らん、か、けり、よ、ぞ、つ、せ、ず、れ、ぬ、へ、け、いかに」これらの18種類のみと決められていました。
しかし、芭蕉は、自らの俳諧の可能性を広げるために、ベルリンの壁のようなこのガンコな決め事を大きなハンマーで打ち崩したのです。それが、去来杪の中のあまりにも有名な次の一節です。

  先師曰、切字に用いる時は、四十八字皆切字也。用ざる時は一字も切字なしと也。

分からない人のために、渋谷のセンター街でヒマそうにしている女子高生に、現代語に訳してもらいました。
「ってゆ~かぁ~昔の偉い人かなんかが言ってたみたいなんだけどぉ~あたしが切れ字だって言ったらぁ~どんな字だってぜ~んぶ切れ字だしぃ~切れ字じゃないって言ったらぁ~どれも切れ字じゃないみたいな感じぃ~あははははぁ~♪」
よけいに分からなくなったりしてぇ~♪
あ!伝染(うつ)っちゃった!(笑)

とにかく、芭蕉の振り下ろしたハンマーは、400年の歴史を誇っていた切れ字と言うベルリンの壁に大きな穴を開け、その穴から自由と言う新しい風が、俳諧と言う湿った四畳半へと吹き込んで来たのです。

芭蕉の俳論によって、お相撲の決め技やセックスの体位だけじゃなく、俳句の切れにまで「四十八手」が使えるようになり、お相撲観戦とセックスと俳句しかレクリエーションのなかった江戸庶民は、東京ドームの1塁側のスタンドで、大きなウェーブを起こしたのでした。めでたし、めでたし。
‥‥なんて終わるわけには行きません(笑)

この芭蕉の切れ字論のおかげで、一句一章を良しとしていた古臭い俳諧は、17音の中に立体的な世界を映し出す、二元的な取り合わせの俳句へと進化して行くのです。

  初しぐれ猿も小蓑をほしげ也 芭蕉

例えば、この句の場合、それまでの切れ字の考え方から読めば、句末の「也(なり)」だけが切れ字なので、「初しぐれが降っている中に猿がいて、小さい蓑(みの)を欲しがっているように見える」と、一枚の写真を見るような、一元的な読み方しかできません。

しかし、芭蕉の考え方で読めば、「初しぐれ」で一度軽い切れが生じ、そして一拍おいてからそのあとの描写へと流れて行きます。つまり、読み手は、初しぐれに煙る遠景の写真と、雨に濡れた猿のアップの写真とを順番に見ることになるのです。
読み手の頭の中のスクリーンには、まず、初しぐれの降る景色だけが映し出されます。そしてカメラがゆっくりと回って行くと、岩の上に何か黒い影が見えて来ます。ズームで寄って行くと、雨に濡れた猿が寒そうにしています。

このように、写真であるはずの俳句が、2枚の写真で情景を立体的に読み取るため、映像のように映し出されるのです。

今でこそ当り前になった取り合わせの句も、芭蕉の斬新な切れ字論が出発点なのです。

それまで平坦な読みしかできなかった一元的な俳句は、松葉くずしや帆掛け舟などの新しい体位‥‥じゃなくて(笑)、名詞切れや「て」切れなどの新しい切れを手に入れたことにより、立体的な読みの世界へ進化したのです。
そして「初しぐれ」の句のように、ひとつの世界を二元的に表現する俳句から、さらには、別のふたつのものをぶつけ合うことにより第三の世界へと飛躍させる「二物衝撃」の俳句へと進化して行ったのです。

一番初めに、俳句の4本の柱として、定型、季語、切れ、俳言性をあげましたが、あたしの考えを正しく表現するとすれば、俳句と言うものは、まず「俳言性」と言うしっかりとした土台があり、その上に太くて立派な「切れ」と言う大黒柱が立っていて、そしてそれらを「季語」と言う屋根が覆っている、と言ったイメージなのです。「定型」は、俳句と言う家を建てるための設計図であり、あって当り前、無かったら家は建ちません。
つまり、俳言性のない俳句は土台のないグラグラの家、切れのない俳句は大黒柱のない頼りない家、季語のない俳句は屋根のない雨ざらしの家、定型を無視した俳句は設計図のないデタラメな家、と言うことなのです。

さあ、あなたも、吉幾三のリフォームの歌を口ずさみながら、崩れかけた自分の俳句を早いとこ頑丈に建て直しましょう!

北朝鮮からテポドンが飛んで来る前に!(笑)

編集・削除(編集済: 2022年08月30日 22:46)
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