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裏第十七話 意識の共有

朝起きて、お仕事に行って、夜帰って来て、寝る。もしくは主婦だったら、家族の食事の世話をして、お洗濯をして、お掃除をして、寝る。毎日毎日、おんなじことの繰り返しです。

偉い俳人の大先生方は、口を開けば「感動」「感動」と言いますが、普通の毎日を普通に生きていて、そんな日常の中に、感動することなんかあるのでしょうか?

日常に感動が無いからこそ、映画やテレビドラマなどの「作られた感動」や、プロ野球やサッカーなどの「他力本願な感動」に人々が群がるのです。 去年のワールドカップで、それまではサッカーのサの字も口にしたことのないような人達が、こぞってニワカサッカーファンになり、おそろいのブルーのユニフォームを着て、街中でハタ迷惑な大騒ぎしていたことを思い出します。いつもは平気で道路にゴミを捨てたり、自分の思い通りにならないと短絡的に人を殴るような自分勝手な若者達が、急に日本の代表みたいな顔をし始め、サッカーなんかに興味のなかったあたしは、そいつらから非国民呼ばわりされました(笑)

そいつらは今、どうしているのでしょうか? また次なる他力本願な感動を求めて、道路にゴミを捨てながら、街を彷徨っているのでしょうか?

最近、あたしが感動したのは、ロッテの「パイの実」のパイナップル味と「ヌーブラ」です。パイの実のパイナップル味は、夏だけの期間限定で、もともとのチョコ味も美味しいけれど、このパイナップル味の美味しさには感動しました。たった2センチほどの厚みの中に、62層ものパイ生地が重なり、そしてほど良い甘さと酸味のパイナップルクリーム。この二つが折り成す世界は、まさに二物衝撃!
特に、冷蔵庫で冷やすと美味しさ倍増で、キットカットのパイナップル味、コアラのマーチのピーチヨーグルト味などにガッガリさせられたあたしにとって、この夏のお菓子の救世主となったのです。

あたしは、この感動を誰かに伝えたくて、お友達に電話しまくりました。そして、パイの実を食べたお友達から、「感動した!」と言うお返事がたくさん届き、歓びを共有したのです。

そして、そのパイの実の何倍も感動したのが「ヌーブラ」です。ヌーブラとは、巷で話題の新型のブラジャーです。ストラップなどのないカップだけのブラで、シリコンでできていて、直接バストに貼りつけて使います。

春先から仕事場でモデルさん達が使い始め、その評判を聞いて欲しくてたまらなかったのですが、1万2千円と言う高額のため、ずっとガマンしていました。それを先日、数量限定のネットオークションで競り落とし、何とか手に入れることができたのです。

実際に自分が使ってみると、その素晴らしさは評判以上で、本当に感動してしまいました。ここは俳句のサイトなので詳しいことまでは書きませんが、今までのブラの全ての欠点を解消し、さらに何倍も素晴らしく、24時間つけていても全く疲れないどころか、快適なのです。まさしく、21世紀のブラジャー革命!(笑)

あたしは、この感動を誰かに伝えたくて、お友達に電話しまくりました。そして、ヌーブラを手に入れたお友達から、「感動した!」と言うお返事がたくさん届き、その歓びを共有したのです。

この「共有意識」こそが俳句の目的であり、それは歓びだけでなく、悲しみや切なさでも同じなのです。自分勝手なニワカサッカーファン達のその場だけの共有意識などとは違い、俳句の持つ本物の共有意識は、時空を超えて感動を伝えます。300年前の芭蕉の想いや100年前の子規の感動が、句を読んだ瞬間に目の前に現れるのです。

対象の本質よりも外見的な美しさを重要視し、常に他人の目にどう映るのかと言うことばかり気にしていた水原秋桜子などは、本当は感動なんかしてないクセに感動したフリ、本当は何でもないことなのに大げさな虚飾による嘘の美を追求しました。つまり、彼は俳句ではなく、十七音の映画や季語を使ったテレビドラマを作っていたのです。こんな作られた感動などに涙するのは、ニワカサッカーファンくらいでしょう。

本当の感動など知らない秋桜子ですから、「(俳句は)いちばん感動するところまでじっと待って、作ったほうがいい。」なんて言うトンチンカンなことを平気で口にできるのです。感動は、常に目の前にあるのです。気づかないのは、感性が鈍いからなのです。

さて、あたしは冒頭で、「おんなじことの繰り返しの日常生活に、感動などない」と言うようなことを書きましたが、これは本心ではありません。これは、俳句や、俳句に代わる何かとまだ出会っていない、毎日の生活に疲れて感動に飢えているOLや主婦の気持ちを代弁したものです。

客観写生を実践していれば、日常生活は小さな発見や気づきに満ち溢れており、大きな感動はなくとも、毎日がキラキラと輝いているのです。それは、庭の梅の木に小さな実がついたことや、水槽のメダカが卵を産んだことなど、全ては季節からの贈り物なのです。

そう言った小さな発見や気づきに感動し、季節への挨拶として俳句を作った素十、それを評価した虚子、そして、それを「草の芽俳句」とさげすみ、虚飾への道を選んだ秋桜子‥‥。

俳句は人それぞれであり、秋桜子のような嘘で塗り固めたウサン臭い一大スペクタクル大感動俳句であろうと、類想類句を量産するだけの時代遅れの縄文式俳句であろうと、自分が良いと思えば、それを実践すれば良いのです。

あたしにとっての俳句とは、ただの滝を大げさに轟かせて虚飾の群青世界を作り出し、他人に感動を強要するような非日常的なものではありません。パイの実のパイナップル味やヌーブラに感動し、それをお友達に伝えたいと思う気持ち、これがあたしの俳句です。
客観写生の目で見れば、毎日が小さな発見や気づきの連続です。

俳句とは、感動を始めとする意識を「共有する文芸」であり、本当の共有を目指すのであれば、大げさな表現など全く必要ありません。

見たものをそのまま詠む、と言う客観写生を積み重ねて行くことが、共有への一番の近道なのです。

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裏第十六話 写生の嘘と対象の本質

  体温計口にくはへてアロハシャツ きっこ

これは、ある俳句サイトのしりとり俳句のコーナーで、前の人の句から「体」の文字をいただき、あたしが作った句です。あたしは、客観写生を志していますので、たとえしりとり俳句と言えども、自分の体験などを思い出し、そして句を作ります。すべて想像だけで句を作ったりすることは、特別な状況以外にはありえません。

でもこの句、2つも嘘をついているんです。体温計は、口にくわえていたのではなく、脇にはさんでいたのです。そして、アロハシャツではなく、アロハみたいに派手なパジャマだったんです。

先日、検査入院した時、隣りのベッドの女性が、ものすごく派手なパジャマを着ていて、「そのパジャマ、まるでアロハみたいだね!」って言ったら、「だって、もう夏だもん♪」って言われたんです。あたしより年下のその女性は、長期入院なのに、とても明るくて楽しい人でした。

しりとり俳句で、前の人の句の中に「体」と言う文字を見つけ、「体温計」と言う言葉を連想した時、すぐにこの人の笑顔と派手なパジャマを思い出したのです。

ですから、正確に言えば、これは嘘の句と言うことになります。

あたしは、客観写生を志していますが、主観、客観に関わらず、写生と言うのは対象を見て、そのまま写し取ることです。絵画の写生で、目の前にないものを想像で描き足したら、それは写生画ではなくなってしまいます。

しかし、俳句の写生と言うものは、そうではないのです。俳句の写生とは、対象の表面的な部分を写し取るのではなく、対象の本質的な部分を写し取る作業なのです。見たものをそのまま写し取ると言うことはとても大切で、とにかく初心の頃は、見たものをそのまま言葉に変換して行く作業をコツコツと積み重ねて行くことが、何よりも本物の俳句への近道なのです。
この作業は、俳句の基礎体力がつくばかりでなく、俳句にとって一番重要な、対象の本質を見抜く力をつけてくれるのです。見たものをそのまま写し取るだけなら、使い捨てカメラの「写るんです」を持って歩いていれば十分ですが、対象の本質は、カメラのレンズでは写し取ることができないのです。

一般的には嘘と言われることでも、対象の本質を浮き彫りにするための必然であれば、それは嘘にはなりません。それどころか、それこそが真実となりえるのです。

山道を歩いていて、美しい桔梗(ききょう)を目にしたとします。それからしばらく歩いて行き、見晴らしの良い場所に出ました。美味しい空気を胸いっぱいに吸い、素晴らしい風景を眺めているうちに、ひとつの想いが言葉になったとします。でも、今、目の前に見える風景の中には、その言葉にピッタリの季語が見つかりません。そんな時、先ほど目にした桔梗のことを思い出しました。風に揺れる紫の桔梗は、今の自分の心象にピッタリだと感じました。そして、桔梗と言う季語と、心から湧いて来た想いが結びつき、ひとつの詩になるのです。

目の前に桔梗は咲いていないのですから、これも嘘のひとつでしょう。

  赤い椿白い椿と落ちにけり 碧梧桐

作者の碧梧桐によれば、実際は、白い椿のほうが先に落ちたそうです。しかし、対象とする椿を見続けるうちに、その本質が見えて来て、このような句が完成されたそうです。全く何も見ずに、1から10まで想像で作ったような句は、ただの自己満足の世界ですが、自分の見たもの、感じたことなどの実体験をベースとし、その本質を引き出すためであれば、そこに嘘があったとしても、それは写生なのです。

あたしが病院で出会った女性は、もう一年も入院していて、今年の夏も病院で過ごすそうです。
一番遊びたい年頃なのに、海に行くどころか、街を歩くこともオシャレすることもできず、そして病気と闘っています。それなのに精一杯明るく「だって、もう夏だもん♪」と言った彼女にとって、その派手なパジャマは、まさしくアロハシャツだったのです。

これが、対象の本質と言うことであり、そこを写し取ることこそが、俳句における写生なのです。

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裏第十五話 今どき第二芸術論(笑)

あたしの俳話集は、基本的には、俳句に興味を持ち始めた人から、俳句を始めて数年の人たちに向けて書いています。ですから、波多野爽波の「俳句スポーツ説」など、長年俳句をやっていれば、誰でもが知っているようなことも、あえて書いたりしています。

そんなワケで今回は、現代俳句をやって行く上で避けては通れない、桑原武夫の「第二芸術論」について、簡単に書いてみたいと思います。

俳人の中には、俳句を作ることよりも、屁理屈をこねて議論したりすることを生きがいにしているタチの悪い人たちもいて、特にネットの世界では、そう言った人たちが多く見られます。それは、ネットと言う相手の顔の見えない世界では、テキトーなハンドルネームを使い、他人の掲示板で言いたい放題に騒いでも、何にも罪にならないばかりか、自分の正体を隠し続けることができるからです。あたしのように客観写生を志している現代俳人に対して、そう言ったヤカラがネット上で議論を仕掛けて来る場合、自分の屁理屈が行き詰まって来ると、必ずバカのひとつ覚えのように口にするのが、この「第二芸術論」なのです。

この「第二芸術論」とは、昭和21年、桑原武夫が総合雑誌「世界」に発表した「第二芸術」と言う、現代俳句を批判した文章のことです。

自分の考えなど全くなく、全て他人のウケウリで、顔の見えないネット上で、屁理屈で人を凹ますことを生きがいにしているようなニセ俳人たちにとっては、この「第二芸術」と言う文章は、とても心強い味方であり、ファイナルウエポンなのでしょう。でも、あたしに言わせれば、世の中は21世紀だって言うのに、こんな時代背景の全然違ってた50年以上も前の文章なんか引っ張り出して、バッカじゃないの?って感じです。でもまあ取りあえず、知らない人のために、簡単に説明しておきましょう。

「第二芸術論」とは、

①現代俳句は、作品自体に芸術性価値がなく、芸術品と呼ぶには未完結性のものである。

②俳句における芸術家としての地位は、その作品ではなく、弟子の数などの俗なことで決まる。

③俳句は日本だけのものであり、西洋を詠むことができない。

これらの理由から、俳句を第二芸術と呼び、他の芸術とは区別するべきだ、と言うものです。

50年以上も昔はどうだったか知らないけど、こんなくだらない理論、21世紀の現代では全く通用しません。

まず①の未完結性のものは芸術でない、なんて考え、今どきこんなこと言ったら、世界中から笑われてしまいます。今や全ての芸術は、完結と言うワクの中に終焉を迎え、新たなる可能性を求めて、未完結の世界へと足を踏み出しているのです。

それから②ですが、これは、その通りです(笑) 芭蕉や子規の言葉が全く届いていない、赤いセーターのオバサンやパセリのオジサンが、今でも俳壇を牛耳ってるのだからしかたありません。

だからこそあたしが、このセクシーなクチビルにランコムの新色のリップグロスをたっぷりと塗って、何度も何度も「縄文式結社こそが俳句を衰退させている元凶だ!」と叫んでいるのです。だから俳話の「俳壇クエスト」の巻で、ダコツの洞窟まで、こいつらを倒しに行ったのです(爆)

最後に③ですが、これこそ屁理屈の極みでしょう。
俳句とは、日本で生まれた日本の詩です。日本の四季を肌で感じて育った人が、日本人特有のワビやサビと言った感性を使い、日本語で書く詩です。つまり、俳句とは、日本と言う風土に根ざした文芸であり、それを否定すると言うことは、世界中に数え切れないほどあるであろう、その土地土地に根ざした風土性豊かな芸術を全て否定することになるのです。

言葉も育った環境も感性も全く違う、全世界の人が全て理解できるものしか芸術と呼べないと言うのなら、本当の芸術なんて、この世に存在しないでしょう。

そんなワケで、もしもどこかの俳句サイトの掲示板で、屁理屈好きの文学ヲタクに議論をふっかけられたら、そいつの口から「第二芸術論」と言う言葉が出た瞬間に、「ああ、コイツは相手にしても時間の無駄だな」と思って下さい。
今どき、屁のツッパリにもならない「第二芸術論」なんかを振りかざすのは、縄文式俳人ならぬ、縄文式評論家なんですから(笑)

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裏第十四話 タマちゃんとゴロー

今や「タマちゃん」と言えば、多摩川に迷い込んで来たことからその名がついた、アゴヒゲアザラシのタマちゃんのことでしょう。
「タマちゃんを見守る会」だとか「タマちゃんのことを想う会」だとか、本人、否、本アザラシからしてみれば、迷惑この上ない、ワケの分からない団体の出現により、ヒマ人っていっぱいいるんだなぁ~って言うか、アメリカがイラクにウラン爆弾を投下して無差別殺人を繰り返してる時に、日本人のオメデタさ加減を世界中に露呈したのが「タマちゃん騒動」です。

でも、アザラシのタマちゃんが現れるまでは、タマちゃんと言えば、日曜日の夕方6時からのアニメ「ちびまる子ちゃん」に出てくる、まるちゃんの親友、タマちゃんや、そしてそのあと6時半からの「サザエさん」に出て来る、猫のタマを思い浮かべるのが一般的でした。サザエさんと言えば、あたしが生まれるずっと前からやっているマンガです。猫のタマがいつ頃から登場したのかは分かりませんが、それなりに歴史のあるキャラクターなのでしょう。

この「タマ」と言う名前は、犬の名前の「ポチ」と同じように、日本の猫の代表的な名前とされています。犬のポチは、フランス語の「かわいい」と言う意味の「プチ」を語源としているそうですが、猫のタマは、「玉のように丸くかわいい」と言う、とても日本的な語源を持っています。

さて、玉のようにかわいくて、あたしの大好きな猫ですが、俳壇での「タマちゃん」と言えば、何と言っても橋本多佳子でしょう。

無類の猫好きで、その生涯、常に猫をそばに置いていた多佳子ですが、そんなことよりも何よりも、多佳子と言うのは俳号で、本名は「多満(たま)」と言うのです。
幼い頃は「タマ、タマ」と呼ばれることが、猫を呼んでいるようでとても嫌だったそうですが、それが転じて、無類の猫好きになってしまったのです。

  乳母車夏の怒涛によこむきに 多佳子

など、母性を強く感じさせる句の多い多佳子ですが、赤ちゃんと同じように、玉のようにかわいい猫も、多佳子の母性本能を喚起させるのに十分な魅力を持っていたのでしょう。

多佳子の愛した猫は、初代が「パン」と言う名のトラ猫、2代目が外国人から貰った「ピエドロ」、3代目が真っ黒な毛並みが美しかった「クロ」、4代目が「シロ」、そして5代目の「ゴロー」と言うアカトラが、17年も多佳子とともに暮らした一番の愛猫です。
このゴローは、とっても大きな猫で、特にその顔の大きさはハンパじゃありませんでした。色々なところに発表されているので、見たことのある人も多いと思いますが、多佳子が縁側の座布団に正座して、膝に大きな猫を抱いている写真があります。
その猫こそが、ゴローなのです。あまりの顔の大きさから、西東三鬼はゴローに「おにぎり」と言うニックネームをつけてしまったほどです。

人見知りなど一切しないどころか、来客があれば誰の膝にでも平気で乗ってしまうゴローは、西東三鬼だけでなく、平畑静塔、右城暮石、永田耕衣、古屋秀雄、波止影夫、榎本冬一郎、松本清張、沢木欣一、細見綾子、桂信子、津田清子.などの膝の上に、その大きくて重たい体を預け、目を細めてごろごろと喉を鳴らしたのです。今だかつて、これほどの俳人たちの膝に乗ったことのある猫がいたでしょうか。
多佳子の晩年を17年間もともにした猫、ゴロー。

初代のパンから数えて5代目の猫に「ゴロー」と名づけたのは、多佳子がそれまでの猫たちのことを忘れずに、心から愛していたと言う証でしょう。ゴローを抱く多佳子の心には、それまでの4匹の猫たちへの愛も満ちていたのです。

そして、このゴローは、多佳子が昭和38年に64才で亡くなった1年後、まるであとを追うかのように、この世を去ったのです。

  垂直に崖下る猫恋果たし 多佳子

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裏第十三話 心のしりとり

あたしが16日に倒れて病院に運ばれてから、26日に退院して来るまで、サイトにアクセスすることもお友達に連絡することもできず、本当にたくさんの人たちに心配をかけてしまいました。その間、皆さんは「俳句deしりとり」をつなげながら、あたしの帰りを待っていてくれました。

ゆうべ、その10日間の「俳句deしりとり」のログを全部読み、皆さんの書き込みや俳句に、あらためて胸がいっぱいになりました。しりとり俳句は、ただ俳句をつなげて行くだけではなく、人と人の心もつなげるのだと知り、涙が止まりませんでした。
素晴らしい句がたくさんあったので、一句一句かみしめながら、ノートに書き写しました。

     《秀逸》

  朝凪の磯に白鷺ふとりゆく ナナ

  なりわいの音遠ざけて苔の花 ナナ

  釣堀の動かぬ人や昼の月 ナナ

  遠嶺より雨雲きざす新茶かな ナナ

  牛舎から牛舎へ源氏蛍かな かほり

  座布団を運ぶ筍流しかな かほり

  抜歯後の足を卯波にあづけをり かほり

  分度器の目盛の薄し火取虫 かほり

  雨降って雹降って後夏の雲 ふじけん

  浴槽の隅に必ず女郎蜘蛛 ふじけん

  藪北の新茶地球を半周す ふじけん

  蕗の穴覗けば夕日ま半分 かもめ

  看護士の太き腕やゆすらうめ かもめ

  救急車近くで止まる薄暑かな かもめ

  青梅の落ちたるものに日のあたる 龍吉

  足音のひとつを聞きし青時雨 龍吉

  山の湯にのぼせてみたり青大将 ゆま

  ままならぬことの数々日雷 ゆま

  ふるさとに居てふるさとの花蜜柑 かへで

  葉の上の水吸う蝿の緑色 かへで

  夏木立静かなバッハ聴いてをり 遊起

  木漏れ日のぴかぴかの葉に毛虫かな 遊起

  泣くときはみんなで泣かう雨蛙 ハジメ

  夏蝶の外階段を上りをり 哲仁

  ハイヒール手に持ち走る驟雨かな じゅんこ

  夏帽子ふはりかの人つれてきて ハワハワ

これらの秀句の他にも、あたしのことを心配して下さった呼びかけの挨拶句や書き込みなどに、胸がジーンとしてしまいました。
熊本のかもめさんや大阪のナナさん、カナダのふじけんさん、そしてたくさんの人たちが、同じ座であたしのことを心配してくれていたことに、いつまでも涙が止まりませんでした‥‥。
皆さん、本当にありがとう♪
俳句って、なんて素晴らしいものなのでしょう♪

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裏第十二話 プロの仕事

あたしの職業は、ヘアメークです。ひと言でヘアメークと言っても、街の美容室やサロンなどで一般の人を対象にするものから、タレントの専属ヘアメーク、舞台のお芝居やミュージカルなどを専門とする舞台メーク、コレクションショーや雑誌などでモデルさんを担当するヘアメークなど、様々なジャンルがあります。
あたしはフリーの「なんでも屋」なので、ポスターやパンフレットなどの商業広告を主体に、結婚式のブライダルメークから雑誌のグラビアのモデルやテレビ番組のタレントのメークまで、何でもこなします。

一般の人でお寿司を握れる人はなかなかいませんが、お寿司屋さんはプロですから、もちろん上手にお寿司を握ることができます。でも、あたしの職業の「メーク」は、一般の女性が誰でもすることですし、中には、そこらのプロよりも上手な人もたくさんいます。
それでは、一般の女性が自分でするメークと、あたしたちプロのメークとは、どこが違うのでしょうか?

一般的に「お化粧」と言うと、顔の欠点をカバーするものだと思っている人が多く、実際に、お化粧する女性の大半が、毎朝必死になって、細い目が少しでも大きく見えるように、低い鼻が少しでも高く見えるようにと、自分の欠点をカバーするために時間をかけています。

でも、あたし達プロのメークは、根本的な理念が違うのです。プロの仕事とは、欠点をカバーするのではなく、その人の一番魅力的な部分を引き出すものなのです。

どんな人にも、必ず本人の気づいていない魅力的な部分があります。そこを見つけ出し、その魅力を前面に引き出したメークをすると、欠点など気にならなくなってしまうのです。

場合によっては、本人が欠点だと思っている部分が、逆に魅力だったりすることもあります。
自分のポッチャリした顔が嫌いな人は、何とか顔の輪郭を隠そうと、ホホからアゴにかかるように両サイドに髪を下ろしている場合が多いのですが、顔にかかる髪の重たい印象のせいで、せっかくの顔の中のチャームポイントまでが隠れてしまっているのです。その上、欠点を隠そうとする行為自体が自分の積極性にもブレーキをかけてしまうので、性格も消極的になりがちなのです。

そう言った女性の場合は、髪を軽めの色にカラーリングして、サイドとバックにシャギー(髪のボリュームを減らすカット)を入れ、うっとうしいバングス(前髪)もサイドに流し、顔全体がちゃんと出るようにします。そして、眉と目を中心としたメークで、眠っていた魅力を引き出してあげます。すると、目や鼻や口などの各パーツの印象が強調され、顔の輪郭など気にならなくなります。このように変身した女性は、性格的にも明るくなり、とても積極的になります。

ヘアメークの知識がほとんどない男性は、「お化粧」と言うと、なにやら顔にベタベタと塗りたくり、別の顔に「化ける」と言うイメージを持っているようですが、あたしのお仕事は、その人の持つ本当の魅力を引き出し、外見だけでなく、心も美しく豊かにする力を持っているのです。

これは、俳句にも通じることなのです。対象物の中に隠された本質を引き出す、と言う作業は、まさしく客観写生俳句と言えるでしょう。

主観に偏った写生俳句と言うものは、細い目を大きく見せるようにメークしたり、顔の輪郭をヘアスタイルで隠したりするのと同じで、対象の本質を引き出すどころか、主観と言うファンデーションやアイシャドウを塗りたくり、そのものの持つ本来の美しさを消し去ってしまうのです。

  滝落ちて群青世界とどろけり 秋桜子

  冬菊のまとふはおのがひかりのみ 秋桜子

これらが、その最たるものです。

せっかくの滝の荘厳さ、冬の菊のはかない美しさが、分厚く塗りたくった主観と言うファンデーションによって、台無しになっているのです。

いくら客観写生と言ったって、対象を見て、それを言葉にするのは人間の脳みそなのですから、多かれ少なかれ主観が働いてしまうのは仕方ありません。しかし、前出の2句のように、読み手に感動を与えようと言うスケベ根性から、対象の本質を無視し、新装開店のパチンコ屋みたいに、主観の大出血サービスなんかされちゃったら、読み手はシラケちゃうだけです。

だいたい、こんな大それた表現が許されるのは、ヨハネパウロの爺ちゃんやマザーテレサ、ブッダくらいではないでしょうか?
人間とは思えないような残酷な手口で野良猫を殺すような秋桜子が、何言ってんだって感じです。

秋桜子に代表されるような主観を売り物にした句は、作者の目方を超えた大げさな表現が鼻につき、それが「リアリティーの欠如」を増幅させています。俳句には、目に見える実(じつ)の世界と頭の中で想像する虚(きょ)の世界がありますが、俳句における芸術性を高めようとして、目に見えるものまでも虚の世界として表現しようとしたのが、秋桜子の失敗の原因でしょう。

人間の目に見える実の世界は、人間の主観を働かせて見たら、美しいものばかりではありません。しかし、この世に生まれて来た全ての生命の本質は、全て美しいものなのです。主観を捨て、見たままを切り取れば、どんなに醜いものでも、美しく光り輝くのです。
これこそが、対象の本質を引き出す作業であり、あたしたちプロのヘアメークの仕事と共通している部分なのです。

主観を厚塗りして対象の本質を隠してしまう秋桜子のような俳句は、細い目を大きく、低い鼻を高く見えるようにしているシロートのメークと同じです。

せっかく俳句と言う素晴らしい詩と出合ったのですから、いつまでも主観に頼ったシロートメークなどしていないで、客観写生によって、対象の本質を引き出すプロの力を身につけるべきなのです。

それが、対象の魅力だけでなく、自分自身の魅力をも引き出すことにつながるのですから。

編集・削除(編集済: 2022年09月20日 23:27)

裏第十二話 子宮筋腫

気がついたら、病院のベッドだった。

16日の仕事中に倒れ、2日間意識が戻らず、気がついたのは18日。検査の結果、子宮に大きな筋腫ができていて、すぐに摘出手術をしたほうがいいと言われた。

今月に入ってから2度も貧血で倒れ、なんかおかしいと思ってたんだけど、こんなに大変なことになっていたとは‥‥。

あたしには、肉親は母さんしかいないので、心配かけたくなかったんだけど、母さんに連絡して手術の同意書をもらわないといけないと言われ、お医者さまに手続きをしてもらった。

そして20日の火曜日、手術をすることになった。

筋腫の癒着がひどければ、子宮ごとの摘出になる。あたしは、お医者さまの説明を聞きながら、不安で涙が止まらなくなった。手術の前夜、ケータイで友達にメールしようとしたら、料金の支払いが遅れていて止められていた。怖くて心細くて色んな想いが頭の中を巡り、涙が止まらない。

そして手術の日の朝を迎えた。

結論から言うと、筋腫の癒着はそれほどでもなく、手術は筋腫の摘出だけで済み、子宮は無事だった。

でも、おへその下に15cmほどの醜いキズが残った。

主観だらけで、とても俳句とは呼べないけど、手術後の病室で詠んだ句を書いておこうと思う。推敲もしてないひどい句ばかりだけど、これが裸のあたしです(笑)

これからしばらくは、36万円もの手術代+入院費をどうするか、真剣に悩みつつ、客観写生に精進いたしますぅ~(爆)


    子宮筋腫  18句

  煌々として梅雨寒の手術室

  夏蝶の飛んで全身麻酔かな

  怖いよ…母さんはどこ黒揚羽

  短夜や悲鳴を上げてゐる子宮

  夏の夜の子宮筋腫を産み落とす

  麻酔より醒めて五月の浜辺かな

  海岸へゆくたましひや鉄線花

  点滴の海に溺れて熱帯魚

  夕焼やティッシュ一箱ぶん泣いて

  病窓に小さき聖母や青葉潮

  新緑や聖書の影を胸に抱き

  痛みとは命の証かすみそう

  病室に夏の月光満たしけり

  たましひもからだもひとつ水中花

  生かされてゐる柿若葉椎若葉

  とうすみのちぎれるほどに交みけり

  耳奥に五月の波音届きをり

  もうビキニ着れぬ体となりにけり

編集・削除(未編集)

裏第十一話 ビールと枝豆

あたしたち俳人にとって歳時記と言うものは、クリスチャンにとっての聖書のようなもので、「俳人のバイブル」と呼んでも過言ではありません。歳時記と言うバイブルの中に掲載されている季語のひとつひとつは、まさしく神の言葉であり、それらは俳人にとっては絶対的なものなのです。

それなのに、嗚呼それなのに、それなのに‥‥クリスチャンが聖書を理解できずに悩むように、あたしも歳時記を読んで悩んでしまいます。特に、毎年夏を迎えると‥‥。

ビンボーなあたしのヒソカな夏の楽しみは、お仕事から帰って来て、お風呂で「汗」を流し、お風呂上りに「水着」に着替え、「冷蔵庫」からキンキンに冷えた「ビール」代わりの発泡酒を出して、どこのファンとは言いませんが、首からオレンジ色のメガホンを提げ、両側にジャビット君を座らせ、テレビで「ナイター」を見ることです(笑)
「ビール」とくれば、オツマミはもちろん「枝豆」です。世の中のほとんどの人たちは、何のタメライもなく、冷えたビールと枝豆を用意して、テレビの前に座るはずです。

しかし、俳人であるあたしは、ここで悩んでしまうのです。
「汗」「水着」「冷蔵庫」「ビール」「ナイター」と、すべて夏の季語なのに、オツマミの「枝豆」だけが、歳時記を見ると秋の季語に分類されているんですぅ‥‥。

そしてあたしは迷える子羊となり、夏なのに秋のオツマミを食べてしまった罪悪感にさいなまれ、次の日曜日に、近所の教会へとザンゲに行くのです(笑)

あたしはお着物が大好きで、俳句を作る早さとお着物の着付けのスピードは、波多野爽波にも負けません。特に浴衣が大好きで、夏になると、用事もないのに浴衣でウロウロしたりもします。多摩川の「花火大会」や町内の「盆踊り」にも、必ず「浴衣」で出かけて行きます。

しかし、ここでもあたしは悩んでしまうのです。着ている「浴衣」も帯に挿している「団扇(うちわ)」も道の両側に並ぶ「夜店」も全部夏の季語なのに、カンジンの「盆踊り」が、秋の季語なんですぅ‥‥。

そしてあたしは迷える子猫となり、夏なのに秋の盆踊りを踊ってしまった罪悪感にさいなまれ、教会へザンゲに行くと、神父さまから「子猫は春の季語です!」と、さらにツッコまれてしまうのです(笑)

夏と言えば「海水浴」です。あたしは海が大好きなので、仲間と海に行き、海面に油が浮くほど「日焼け止め」を塗って、「ビーチパラソル」の下で「お昼寝」したり、「海の家」で「かき氷」や「冷し中華」を食べたり、夜には浜辺で「花火」をしたりして楽しみます。海水浴での一番の楽しみと言えば、何と言っても「スイカ割り」です。みんなでワイワイ騒ぎながらスイカを割って、砂がついたところは海で洗うと、塩味がちょうどいいんです♪

しかし、ここでもあたしは悩んでしまうのです。フンパツして買った今年のモデルの「ビキニ」を着て、鼻緒にハイビスカスがついたかわいい「ビーチサンダル」を履いて、お気に入りの「サングラス」をかけてるのに、目の前の美味しそうな「西瓜(すいか)」だけが、秋の季語なんですぅ‥‥。

そしてあたしは迷える子豚となり、もう神父さまに合わせる顔もなくなり、「炎天下」の街をさまよい歩いて行くのです。すると、真っ白なシャツを着た集団を発見しました。「白シャツ」と言うのは夏の季語、あたしはワラにもすがる思いで、その白装束の集団のほうへと進んで行きました。

すると、その中の一人があたしに向かって叫びました。「おい!ここはスカラー波が出ているから、近づいたら危険だぞ!」

何を言ってんだか良く分かんないので、電子辞書でスカラー波って調べてみたら、な~んだ、「静電気」のことじゃん!バッカみたい!(笑)

「静電気」と言えば、冬の季語。もう夏だって言うのに、「静電気(冬)」だとか「アザラシ(春)」だとか、他の季節の季語にばっかり捉われているイカレタ集団なんかほっといて、あたしは現実世界に舞い戻って来ました。

夏も盛りになると、ほうぼうから「暑中見舞い」や「お中元」が送られて来ます。ほうぼうから、と言っても、魚のホウボウから送られて来るワケじゃなくて、ちゃんとした人間からです(笑) ちなみに、魚の「ホウボウ」は冬の季語です。
そんなことはどーでもいいんだけど、ここでまた、あたしは悩んでしまいます。だって、夏の暑い日に、同時に届いたのに、「暑中見舞い」は夏の季語で、「お中元」は秋の季語なんですぅ‥‥。
それなのに、秋の季語であるお中元を開けてみると、中から出て来るのは、「水ようかん」や「素麺」、「ビール券」などなど、みんな夏のものばかりです。

そしてあたしはノイローゼの子羊となり、もう歳時記なんか信じられなくなり、神父さまに背を向け、怪しげな自己啓発セミナーに参加し、変な宗教で壺を買わされ、変な俳句結社に入信し、主宰と同人に洗脳され‥‥なんてことは無いけど、とにかく困ってしまうのです。

これらの他にも、子供の頃、夏休みに観察日記を書いた「朝顔」も、7月7日の「七夕」や「天の川」「流れ星」も、みんな秋の季語です。蝉は夏の季語なのに、蝉の中で「つくつく法師」だけが秋の季語なのです。いくら陰暦によって作られているとは言え、7月7日って言ったら、まだ夏休みも始まっていないのに、なんでもう秋なの?

俳句の季語と言うものは、季感を表現することが本意なのに、これじゃあメチャクチャです。

あたしの大好きな松田聖子は、数年前に、聖子と言う芸名にちなんで、「バイブル」と言うタイトルのベストアルバムをリリースしました。このアルバムは、ファンのアンケートによって選ばれた楽曲だけで構成されていて、どの曲も誰でもが知っている大ヒット曲ばかりで、申しぶんの無い内容です。

そして、このアルバムが発売されてから1ヶ月も経たないうちに、「バイブルⅡ」と言うアルバムが発売されました。最初のアルバムに収めきれなかった曲を集めたものだと誰もが思いましたが、裏面のクレジットを見てみると、驚いたことに収録曲の9割近くが、「バイブル」と重複していたのです。
これは、「バイブル」がファンのアンケートによって作られたのに対して、「バイブルⅡ」は、松田聖子自身のセレクトによる編集、と言うことだったのです。

たった数曲がどうしても納得できなかった松田聖子は、それだけのために新しい聖書を作ったのです。

聖書にも「旧約聖書」と「新約聖書」があるように、松田聖子のベストアルバムにも「バイブル」と「バイブルⅡ」があるように、あたしたちのバイブルである「歳時記」にも、そろそろ今の季感に従い、枝豆や西瓜、盆踊りや七夕を「夏」とする「歳時記Ⅱ」が現れても良いのではないかと、21世紀の到来とともに解散してしまった「聖飢魔Ⅱ」のデーモン小暮閣下とともに、願ってやまない今日この頃です(爆)

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裏第九話 タマゴで産みたい?

先日、「船団の会」代表の坪内稔典さんの「三つの視点から」と言う現代俳句論を読んでいて、驚いたことがありました。坪内さんの俳論は、他の作家たちとビミョーに違った観点からのものが多く、なかなか造詣も深いので好きなのですが、今回は「アレ?」って感じでした。

他の作家などが避けて通る攝津幸彦などにスポットを当て、立体的に解析して行く現代俳句の構造はとても面白かったのですが、後半、「あぶらののった今日の俳人」として、自分の結社の会員、鳥居真里子を取り上げ、作品5句を紹介していました。

次の句が、その中の一句です。

  玉子にて娘産みたしさくらの夜 真里子

この句に対して、「(前略)玉子の娘を産みたいとかいう発想がとてもユニーク。」と言う解説。

おいおいおいおい!マジで?
女優の秋吉久美子が、「子供はタマゴで産みたい!」と言う名言を吐いたのは、今から20年くらい前です。各ワイドショーなどで取り上げられ、その年の流行語大賞にもノミネートされたほどの名言で、今でも覚えている人も多いでしょう。

鳥居真里子は、昭和23年、東京生まれ。テレビから新聞、雑誌に至るまで、当時、あれほどマスコミで取り上げられた秋吉久美子の名言を知らないはずがありません。これは、明らかに確信犯です。

日本中で知らない人はいない山口百恵の国民的大ヒット曲「プレイバック・パートⅡ」の歌詞から「まっ赤なポルシェ」をパクる黛まどかもスゴイけど、こちらも同じくらいスゴイ!

秋吉久美子の名言を忘れていた人も、この句を読んだ瞬間に20年前にタイムスリップして、「子供はタマゴで産みたい!」を思い出したことでしょう。
まあ、主観を使った観念句しか作れない俳人は、すぐにネタが無くなり、身近なところからネタをパクッてくるなんてことは日常茶飯事だと思いますが、これほど有名な言葉をパクるなんて、読み手をナメてるとしか思いません。

でもまあそれはいいとして、あたしが驚いたのは、坪内さんが、この句を紹介し、先ほどの解説を添えた行為です。

坪内さんと言えば、あたしの大好きな俳人のひとりで、「三月の甘納豆のうふふふふ」や「たんぽぽのぽぽのあたりが火事ですよ」など、個性的な作品で有名な作家です。俳句だけに留まらず、各メディアの情報にも精通しており、流行語などに関しては、たぶん俳壇一敏感な人ではないでしょうか?

仮に百歩譲って、鳥居真里子がテレビも見ず、ラジオも聞かず、新聞も週刊誌も読まず、女友達とも会話せずに生きて来て、秋吉久美子の名言を知らなかったとします。それでも、坪内さんがパクリ句であることに気づき、紹介は差し控えるのが普通です。

と言うことは、坪内さんも、テレビも見ず、ラジオも聞かず‥‥なんてワケはないでしょう。

秋吉久美子の発言以降に生まれた、中学生や高校生ならともかく、当時20代、30代だった人が、日本中に流行した言葉を二人揃って知らないなんて、ロト6でキャリーオーバーの1等を当てるくらいの確率です。

結局は、たまたま他人の句に似てしまったら大騒ぎするクセに、黛まどかの前例のように、他のジャンルからのパクリには不思議なほど寛容な俳壇と言うファッキンなシステムの中では、子供でも分かるような一般常識が通用しないと言うことなのです。
これで誰かが、「子供はタマゴで産みたい」と言う内容の句を発表したら、鳥居真里子はどっかの誰かみたいに、自分のオリジナルだと主張するのでしょうか?あたし自身、「子供はタマゴで産みたい」と思ったことがあるし、その気持ちを句にしようとしたこともあります。でも、秋吉久美子の名言があるので諦めたのです。
「子供はタマゴで産みたい」と思ったことのある女性はとても多く、試しにネットで検索してみたら、秋吉久美子の名言の他にも、個人のHPの日記の中に同様のことを書いている人や、産婦人科のサイトにまで、同様の書き込みがありました。

つまり、「子供はタマゴで産みたい」と言う発想は、女性にとってはそれほど特別な感覚ではなく、女性俳人の中にも、あたしと同じように句にしようと思った人が多いはずです。そして、その人たちは、やはりあたしと同じように、秋吉久美子の名言のパクリになるからと、句にすることを諦めたはずです。これが、普通の感覚です。ですから、坪内さんの「玉子の娘を産みたいとかいう発想がとてもユニーク」と言う解説は全くの的外れで、あたしに言わせれば、「こんな皆が知ってる名言を平気でパクれる神経がとてもユニーク」と言うことになります。

今回の坪内さんの俳論は、「全人格をかけて」俳句に向かう、と言うことをベースに書かれており、とても充実した内容なのですが、いくら自分の結社の会員だからとは言え、鳥居真里子のパクリ句を取り上げてしまったことにより、一気に信頼性が無くなり、その全編の内容までもが希薄になってしまいました。
とても残念でなりません。

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裏第八話 俳号と言う虚の客観性

松尾芭蕉と言えば、俳句に詳しくない人でも、その名前くらいは知ってると思うし、また、その「芭蕉」と言う名前が、本名じゃなくて、俳句を作る上での名前、俳号だってことも、たいていの人は知っているでしょう。

それでは、芭蕉の名前を知っている人たちが皆、芭蕉の本名を知っているかと言うと、そうではないのです。俳人の中にも知らない人がいるほどで、ようするに、俳号のほうが本名を超えてしまっているのです。

芭蕉は、生まれた時の名前を「金作」と言います。それから、「藤七郎」「甚七郎」「忠右衛門」「宗房」などの名前に変って行きます。芭蕉が、「芭蕉」になる前は「桃青」と言う俳号だったことは有名ですが、その他にも、「風羅坊」「泊船堂」「釣月軒」「栩々斉」「夭々軒」などの別号を名乗っていたり、また、本名の「宗房(むねふさ)」を「そうぼう」と読ませて、これも別号にしていました。芭蕉は、本名と俳号を合わせて、こんなにたくさんの名前を持っていたのです。

現代では、ワリと本名で俳句を作る作家が増えて来ましたが、これは、現代俳句の王道が客観写生になったため、リアリティーを追求する詩において、俳号などと言う「虚」の名前など必要無い、と言う風潮も一因しているのでしょう。

しかし、芭蕉の時代の俳諧から、昭和の近代俳句に至るまで、やはり俳句は「風雅の誠」であり、それは「虚」と「実」の混在する世界であったのです。そのため、俳句を志すのであれば、まずは俳号と言う「虚」の名前を名乗り、浮世の世界に実在する本名の自分とは、別の人格になる必要があったのです。つまり、いかに風流な俳号を名乗るか、と言うことが、俳人としての第一歩だったのです。ここまで読むと、多くの現代俳人と同じく客観写生を志すあたしは、俳号と言う「虚」の名前を名乗ることを不要だと思っているようにとられそうですが、それは逆なのです。あたしの考え方では、客観写生を志す者ほど、俳号が必要になるのです。

客観写生とは、自分の主観や観念を捨て、対象を見ることです。しかし、どんな人間でも、自分の主観や観念を主軸として、日々の生活を送っているのです。そんな人間が、俳句を作る時だけ、客観的なモノの見方をすると言うのは、なかなか難しいことです。そんな時、別の名前を名乗ると、頭の中のスイッチ.の切り換えがしやすくなるのです。

たとえば、「昇」と言う人がいたとします。昇クンは昇クンの主観によって生きているので、花を見ても鳥を見ても、昇クンの主観でそれらを感じます。特に自分自身を見る場合は、昇クンが昇クンを見るワケですから、極めて主観的になってしまいます。しかし、俳句を作る時だけ「子規」と言う俳号を名乗ることにしたとします。そうすると、ふだんの日常生活をしている昇クンとは、心構えの上で一線を引いた感覚となるのです。
いつもの昇クンの主観が薄れ、子規と言うもう一人の俳句用の自分が現れ、そして花や鳥を見るのです。自分自身を写生する時は、子規が昇クンのことを客観的に見るようになるのです。

ですから、現代俳句においては、「浮世を離れる」と言うよりも、「より客観に近づくため」のひとつの手段として、俳号を名乗るべきなのです。

俳句の仲間と会うと、句会以外でも俳号で呼び合いますし、句友と一緒にいる時間は、ずっと「俳号と言うもうひとりの自分」でいることができ、自分自身のことも、とても客観的に見ることができます。だいたいあたしは、10年以上も付き合っているのに、本名を知らない句友がたくさんいますし、句友のほうも、あたしの本名を知らない人たちのほうが多いはずです。

あたしの本名は「きみこ」ですが、お仕事では、名字に「ちゃん」を付けて呼ばれるか、仲の良いスタッフからは「きっこ」と呼ばれています。もちろん、俳号で呼ぶ人なんかいないし、あたしが俳句をやっていることすら、仕事関係の人たちはほとんど知りません。

でも、俳句仲間たちと集まると、すべての人たちがあたしのことを俳号で呼び、「きみこ」や「きっこ」なんて言う人はひとりもいません。それどころか、ほとんどの人が、あたしの本名を知らないのです。

あたしの俳号は、ある魚の名前なので、すべての俳句仲間が、その魚の名前に「ちゃん」か「さん」を付けて呼ぶのです。ですから、俳句仲間といる時間は、あたしは完全に「きっこ」ではなくなり、俳句用の自分になっているのです。

あたしは現在、結社には所属していませんが、過去に数ヶ所の結社に所属していて、それらすべてで現在と同じ俳号を使って来ました。このネットと言う相手の顔が見えない特殊な場で、あたしが俳号を名乗ると言うことは、良い面もありますが、同時に悪い面もあります。

過去の結社の中には、あたしのことを良く思っていない人たちもいますし、あたしが無所属になった一番大きな理由が、結社内の人間関係によるものなので、それをネットの世界にまで介入させたくないのです。そのためにネットでは、仕事上での「きっこ」と言うニックネームで俳句を作る、と言う、あたしの理論に反することをやっているのです。

このサイトを作る時、初めはネット用の俳号を作ろうかとも考えました。でも、10年以上も使って来て、完全に「もうひとりのあたし」になっている俳号以外に、また別の俳号を付けることに抵抗もあったし、とりあえず「きっこ」で始めてみたのです。そうしたら、今では仕事上の「きっこ」とは別の、ネット上で俳句を作る「きっこ」と言う人格ができ上がって来たので、「めんどくさいから、このままでいいや!」と言うことになったのです(笑)

ですから、これから俳句を始めたい人や、俳句を始めたけれど、まだ本名を使っている人は、客観写生を目指したいのであれば、なるべく早く俳号と言う、とても便利な別人格を手に入れることをお薦めします。

俳号と言うものは、ネット上に書き込む時のハンドルネームなどと言う薄っぺらなものと違い、確実にその人の客観性を高め、それまで自分の気づかなかった潜在的な能力を引き出してくれるのです。

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