現在、俳句をやっていると思っている人の多くは、「俳句」ではなく、実際は「俳諧」をやっています。それは、正しく俳句を理解していない指導者や結社から、間違った指導を受けているからです。
ですから本当は、「俳人」ではなく「俳諧師」と名乗らなくてはなりません。
俳句結社の主宰や、俳句総合誌の選者などにも、自分では俳人だと思い込んでいる「俳諧師」がたくさんいます。
それでは、俳句と俳諧はどのように違うのでしょうか?
俳句とは、皆さんご存知の通り、正岡子規が定義したものであり、それ以前の芭蕉や蕪村、一茶が作っていたものは、「俳句」ではなく、すべて「俳諧」なのです。
江戸末期の俳諧は、それはもうヒドイありさまでした。
蕪村の没後あたりから、全国各地に「我こそが芭蕉の弟子」「我こそが真の俳諧師」と名乗る偽者宗匠が雨後のタケノコのように現れ、せっかく芭蕉が築き上げた「風雅の誠」の世界は、見る見るうちに後退して行きました。そして、次第に通俗性が極まって行き、和歌から俳諧が生まれた頃に戻ってしまったのです。
江戸末期の俳諧は、作品の質はとても低く、低俗な内容を小理屈や技巧で表現するものばかりであり、現代で言えば、三流週刊誌などのサラリーマン川柳と同じようなレベルの世界でした。頭の中だけで考えた低俗な世界を口先だけで表現し、読み手に「巧い!」と言わせることを目的とした「左脳俳諧」、平凡な季題趣味と小手先の技術だけに頼った「月並俳諧」は、もはや文芸と呼べるようなシロモノではありませんでした。
低俗、通俗を題材にすることは、まったく問題が無いどころか、それこそが俳諧の俳諧たる所以です。ですから、問題なのは、その対象ではなく、方法論なのです。
芭蕉の方法論は、対象が低俗、通俗であれ、それを文芸の域へと高めました。しかし、江戸末期のインチキ俳諧師たちによる、小理屈や技巧を眼目とした点取り俳諧の蔓延により、風雅の塔は崩れ去ってしまったのです。
そして明治になり、堕落しきった俳諧を芭蕉の高みにまで戻すため、子規が立ち上がったのです。
まず子規が決めた定義とは、それまでの俳諧の主流であった「小主観と小理屈」の排除です。小主観と言うのは、個人的なつまらない思いつき、小理屈と言うのは、一句上における因果関係のことです。
ようするに、読み手に「巧い!」と言わせたくて作る句には、必ず、このどちらかが関わっていたのです。子規は、それまでの俳諧の両翼であった「小主観と小理屈」こそが俳諧を堕落させた元凶だとして、その翼をもぎ取ったのです。そして、その代わりに子規が与えた翼が、絵画の基本的な技術であった「写生」なのです。
頭であれこれと理屈を考えたりせず、自分の目で見たものをそのまま十七音に写し取る。そこには、一枚の絵を見るような風景が浮かび上がり、そしてその絵の中には、作者の複雑な心象をも表現することができる。これが、子規の考えでした。
そして、子規によって、新しい「写生」と言う翼を与えられた十七音は、「俳句」と言う名を得て、大空へと飛び立ったのです。
それから100年、俳句には色々な亜流が生まれたり、消えたりして来ましたが、連句の発句を「俳句」と命名し、その定義を決めたのが子規である以上、その子規の定義から外れたものは、あたしは俳句とは認めません。現在の俳壇は、一見「写生俳句」が主流のように見えますが、総合誌を見ても主要結社誌を見ても、読み手に「巧い!」と言わせることが目的の「小主観と小理屈」の写生風俳諧ばかりで、本物の俳句のいかに少ないことでしょうか。
現在の俳壇に紛れ込んでいる、多くのニセ俳人、平成の俳諧師たちの名前を列挙してもいいのですが、人からどう見られるかと言うことばかり気にしているような、俳句の定義も解かっていないヤツラなんかに構っているヒマはありません。
何故なら、子規や虚子の方法論を後世へと伝えて行かなくてはならないカンジンのホトトギスが、現在あのアリサマですから、代わりにあたしが、正しい俳句の普及をしなくてはならないからなのです(笑)。地球人になりすまし、あちこちの国に紛れ込んでいるインベーダーのように、日本人になりすまし、国家ぐるみの犯罪を繰り返す北朝鮮の工作員のように、本来、俳人だけで構成されるはずの俳壇に、俳人になりすまして紛れ込み、俳句を後退させようともくろむ平成の俳諧師たち。
ある者は総合誌の選者になり、ある者はテレビの俳句番組に出演し、そして、俳句を志す人たちを次々に洗脳し、自分の結社を大きくして行きます。
比喩や言い回しなどの技巧で読み手を唸らせたり、解かりずらい古語などを使って知識人ぶったり、一句上でウンチクを語ったりするものなど、子規が定義した「俳句」とは似ても似つかぬ世界であり、それこそが、芭蕉の理念を地に落とした、江戸末期のインチキ俳諧師たちのやっていたことと同じなのです。子規が、それまでの俳諧から俳句へと引き継いだものは、「定型、季語、切れ、俳言性」の4本の柱だけであり、十七音を形成する基本的な方法論は、「写生」以外の何ものでもないのです。
それなのに、左脳ばかりが巨大化した平成の俳諧師たちは、100年以上も前に子規がゴミ箱へ投げ捨てた「主観」や「理屈」に今だとらわれ、読み手を唸らせるためにはいくらでも嘘をつき、日々、俳句の後退運動に明け暮れているのです。
俳諧の「俳」は、おどける、ふざける、「諧」は、たわむれ、冗談、と言う意味を持っています。
だからと言って、たった一度きりの人生で、自分の見栄のために、ふざけて、たわむれて、嘘をつき続けるなんて、なんて悲しい人たちなのでしょう。
やませ来るいたちのやうにしなやかに 佐藤鬼房
これは、あたしの大好きな句です。知らない人のために簡単に書いておきますが、鬼房(おにふさ)は「小熊座」と言う結社の主宰で、去年(平成14年)の1月に亡くなってしまいました。
鬼房は、あたしの好きな俳人のひとりで、たくさん好きな句がありますが、その中でも飛び抜けて好きなのがこの句です。一応、説明しておきますが、「やませ」と言うのは、5月から6月にかけて東北一体に吹く冷たい山風のことで、冷害をもたらすために、農民から忌み嫌われているものです。
あたしは、「~のやうに」「~の如く」と言った直喩の見立ての句は作りません。作る場合は、暗喩の句だけです。何故かと言うと、直喩の句は、この鬼房の句で極まったと思っているからです。子規や虚子の雑な見立てを中央に置き、その周りで、数え切れない俳人たちが数え切れない見立ての句を作って来ましたが、その8割は類想句であり、眼目であるはずの見立て自体が、ありふれたものばかりなのです。
残りの僅かな句の中には、なかなか良い句もありますが、それらが束になってもかなわないのが、この鬼房の句なのです。ですから、あたしは、この句以上の見立てを思いつかない限り、直喩の句を発表する気はありません。
さて、この句の眼目と言えば、もちろん「いたちのやうに」と言う見立ての部分ですが、その比喩を不動のものにしているのが、「しなやかに」と言う巧みな措辞の下五への配置によるものです。この「しなやかに」は、「いたち」を形容しながら、そのいたちの姿を通して「やませ」をも形容しています。この句の場合は、いたちは比喩に使われているだけで、実際には登場しませんが、もともとは目に見える動物です。そして、やませは、目に見えません。つまり、この「しなやかに」は、目に見えるものと見えないものを同時に形容しているのです。
それでは、次の句はどうでしょうか?
猫の尾のしなやかに月打ちにけり 金子敦
この句の「しなやかに」は、「いたち」と同じように、目に見える猫の尾の動きを形容しています。そして、この「しなやかに」と言う表現は、ただ尾の動きを形容しているだけでなく、その猫が、スタイルの良い美形の猫だと言うことも伝えてくれています。そして、多くの読み手の脳裏に、影絵を見ているような、月明かりをバックにした、なめらかな猫のシルエットが浮かび上がるのです。目に見えるものを「しなやかに」と形容した句は、他に次のようなものがあります。
すみれ踏みしなやかに行く牛の足 秋元不死男
児を産みて踊れる手足しなやかに 品川鈴子
しなやかに指組みませり睡蓮花 伊藤敬子
これらの句の「しなやかに」は、それぞれが別のしなやかさであり、そして、目に見えるものを形容しながら、猫の尾の句と同じように、プラスアルファの表現をしているのです。
また、次のような句もあります。
しなやかに青藺田の端乱れけり 八木林之介
この句も同じく、目に見える青藺田(あおいだ)のことを形容してはいますが、少し方法を変え、本来は「しなやかに」とは形容しない「その乱れた様」を指しています。ようするに、純粋な写生ではなく、表現上のレトリックにより、読み手に「巧い」と言わせたい句でなのです。
あたしから見れば、「しなやかに乱れる」と言う表現は、「いきいきと死んでいる」と同列の、作意が見え見えの嘘臭い表現でしかありません。この程度のレトリックに騙されるのは、それなりの読み手だけなのです。
同じ藺田を詠んだ句なら、次の句のほうが何倍も優れています。
藺の水に佇めば雲流れけり 大橋越央子
さて、話を「しなやかに」に戻しますが、それでは、次の句はどうでしょうか?
ぬばたまの夜をしなやかに弥生くる 鈴木茂雄
この句は、今までの句とは逆に、「やませ」のように目に見えないものを対象としています。それどころか、やませは目には見えなくとも肌で感じることができますが、この句の「弥生」は、人間の五感には作用しない、まったくの漠然とした存在なのです。
その掴みどころのないものの存在、そしてその接近を作者は五感を超えた第六感で感じとり、「しなやかに」と言う表現で見事に捉えたのです。
この句に近い感覚で「しなやかに」を使っているのが、次の句です。
しなやかに刈干草の夜となれり 猪俣千代子
この句の「しなやかに」は、もちろん「夜」に掛かっています。しかし、その「夜」を通して「刈干草」の姿にも反映されています。つまり、「やませ」の句とは逆のパターンなのです。
これらの句を読み、同じ「しなやかに」と言う言葉が、これだけ多様に使われていることが分かったと思います。通常の文章や日常会話などで「しなやかに」と言った場合には、その言葉だけの意味しかありません。
しかし、俳句の場合には、そんなに単純なことではないのです。対象が目に見えるものの場合には、その対象が「しなやか」なのは当然であり、それ以上のプラスアルファの部分にこそ、その言葉を斡旋した意味があるのです。そして、対象が目に見えないものの場合には、目に見える「いたち」の姿を借りて、対象である「やませ」への措辞としたり、また、研ぎ澄ました第六感により、漠然とした「弥生」と言う存在を捉えたりと、とても高度な技術力、斡旋力、センスが要求されるのです。
ふだんの会話などでは、まったく意識せずに使っている形容詞も、俳句に使う場合は、季語の斡旋と同じく、十分に考え抜いた上で、絶対に妥協せず、最高の言葉を選択しなくてはならないのです。
「俳句朝日」の9月号を読んでいたら、カラーグラビアのあとの「心の小窓」と言うコーナーに、気になる句がありました。「心の小窓」は、著名俳人の書き下ろしの7句を発表するコーナーですが、今回は後藤比奈夫の「時計草」と言うタイトルの7句でした。「時計草」と言うタイトルなのに、時計草を詠んだ句は1句だけで、あとの6句は関係無い句です。その上、句の下のエッセイも時計草のことが書いてあるので、その1句が何よりの自信作なのでしょう。それが、次の句です。
ローレックスより垣を這ふ時計草 比奈夫
ここまで読んだアナタは、あたしがこの句に厳しいツッコミを入れると思うでしょうが、正直言って、一般誌などに発表されるこんなレベルの句にいちいちツッコミを入れてたら、寝る時間も無くなっちゃいます。ツッコミどころは満載の句ですが、あえてツッコまず、今回も読者のタメになる俳話を書いて行きましょう。
さて、この句を読んであたしが気になったのは、何と言っても「ローレックス」です。
ローレックスって何? ロレックスの間違いじゃないの?
そう思ったあたしは、色々と調べてみました。そして分かったのですが、今から何十年も前には、ロレックスのことをローレックスと間違った呼び方をしていた時代があったそうです。
後藤比奈夫は、わざと古い「間違った呼び方」をすることにより、そのロレックスが古い時計であることを表現しようとしているのかな? と、あたしにしては、すごく親切な解釈をしてあげようと思いました。しかし、エッセイの中にも「私の腕にもローレックス。」と言う一文があるのです。つまり、何の考えもなく、ただ単に間違った呼び方、そして表記をしているだけなのです。
お年寄りが外来語に疎いのは分かりますが、俳句として発表する以上、表記は正しくあるべきです。この後藤比奈夫の原稿を受け取った時点で、なぜ編集部員は教えてあげなかったのでしょうか?相手が相手だけに、言い出せなかったのでしょうか?
あたしが電話で問い合わせをした、ロレックス社の日本の代理店の広報部は、次のように言っていました。
「本当に困るんですよね。今だにローレックスって思い込んでるご年配の方々には‥‥会話の中で言われるぶんにはまだ良いのですが、多くの人が目にする活字媒体で間違った表記をされるのは‥‥」固有名詞を間違えて表記すると言うことは、人の名前を間違えることと同じであり、自分が恥をかくだけでなく、相手に対してとても失礼なことなのです。
後藤比奈夫の句は、正しく表記すれば、上6の字余りも解消できますし、ロレックス社の関係者達に対しても失礼にならないでしょう。
こう言った片仮名表記の間違えって、ワリと多く目にします。例えば、「コーラ」を「コーラー」、「ソーダ水」を「ソーダー水」と書いている句もたまに見かけます。
ソーダー水洒落つ気なしの亡母偲ぶ 松村多美
この句なども、正しく「ソーダ水」とすれば、字余りでなくなります。この句は、今から8年ほど前に「角川俳句」に発表されたものですが、それより何十年も前の星野立子や加藤楸邨だって、ちゃんと「ソーダ水」と表記しています。固有名詞でない片仮名語になると、その表記は、より、いい加減になります。
エープリルフールなればと思ふこと 稲畑汀子
「エープリル」ではなく「エイプリル」です。
寸鉄のヘヤピンを挿し炎天へ 鷹羽狩行
「ヘヤピン」ではなく「ヘアピン」です。
炎帝やベーブリッヂを眼下にす 高橋静女
「ベー」ではなく「ベイ」です。
シェープアップ水着に身体納むこつ 穐山珠子
「シェープアップ」ではなく「シェイプアップ」です。
これらは、たまたま手元にあった俳句総合誌2冊をパラパラとめくって、目についたものです。しかしこれらは、ただの間違い、勘違いの類なので、まだマシです。もっとひどいのは、音数合わせのために、ワザと間違った表記をするケースです。
例えば、上五や下五に置くために、「エレベーター」を「エレベータ」などと書く人がいますが、こう言った確信犯は最悪です。定型に当てはめるために言葉をねじ曲げるなんて、ジグソーパズルに、合わないピースを無理矢理ねじ込むのと同じです。知恵の輪を力まかせに引きちぎるのと同じです。
本来ならば、「エレベーター」と言う6音を中七におさめたり、句またがりで処理すべきなのに、自分にその能力が無いからと言って、自分勝手に言葉を切断してしまうなんて、たった1音でも絶対に許されません。どうしても推敲できなければ、堂々と上六や下六の字余りにすべきなのです。また、あくまでも定型にこだわりたいのなら、「昇降機」と言う言葉を使えば良いのです。日本語の表記に対しては、必要以上にうるさい俳人の多くが、なぜ、外来語、片仮名語の表記には無頓着なのでしょうか?
それは、心のどこかで外来語を軽視しているからなのです。稲畑汀子などは、「バレンタインデー」を「ヴァレンタインデー」と表記する細かさと、「エイプリルフール」を「エープリルフール」と表記する大ザッパさが混在し、まるで一貫性がありません。今だに、何十年も前の歳時記に書いてある間違った表記をそのまま使用しているなんて、言語に対する向上心と言うものがまったく感じられません。
俳句に使う以上、どんな言葉であっても、ひとつひとつに魂の宿る大切な言の葉なのです。俳人たるもの、もっと大切に扱って欲しいと思います。
先日のNHKの「俳句王国」で、あたしの句が主宰特選に選ばれました。
どんな句かと言うと、こんな句です。
瓜蝿が瓜蝿を呼ぶ雨催 横山きっこ
どんな意味か分からない人は、「俳句質問箱」のほうに書いてありますので、そちらをご覧下さい。*図書館註:消失不明。
なんてことはど~でも良くて、それよりも何よりも、今回の俳話は、この句のことじゃなくて、この句のあとの部分、そうです!あたしの名前の話なんです!
今回のテレビで、あたしの名字が知られてしまったため、各方面で、色々な女性週刊誌的憶測情報が飛び交っているのです。
それは、「きっこは、ひこばえの主宰、横山美代子の孫じゃないのか?ひこばえは、師系が蛇笏だし。」
「いやいや、あの毒舌キャラは、どう考えても横山やすしの隠し子に違いない。」
「でも、あの逆セクハラまがいの言動は、横山ノックの血を引いてる可能性もあるぞ。」などなど‥‥(笑)
その中でも、なかなかスゴイのが、「きっこは、どうやら横山白虹の孫らしい。」と言うウワサです。
横山白虹と言えば「自鳴鐘(じめいしょう)」の主宰で、ずいぶん前に亡くなり、今は奥さんの横山房子が後を継いでいます。
‥‥ってコトは、横山房子があたしのおばあちゃん?(笑)
さらには、寺井谷子があたしの母さん? そしたら、あたしの名字は寺井じゃん!(爆)
(知らない人のために書いておきますが、寺井谷子は横山白虹と房子の子供で、自鳴鐘の編集長で、次期主宰です。)
分かりやすくするために、ここから先の話は、事情通のS氏とT氏の対話形式で書いて行きます。
S「いやいや、きっこは寺井谷子の子供じゃないんだよ。横山白虹には俳句と関わっていない長男がいて、きっこはその長男の一人娘なんだよ。」
T「だけど自鳴鐘って福岡の結社だろ?」
S「その長男は大学卒業とともに上京して、東京の商社に就職して、社内恋愛で結婚して、それで生まれたのがきっこなんだよ。」
T「じゃあ、きっこが俳句を始めたきっかけは?」
S「それはな、きっこが中学の時、福岡のおばあちゃんが俳句をやっていることを知って、その影響で俳句を始めたんだ。」
T「だけど、自鳴鐘って、もともとは無季俳句の結社だろ?きっこの俳句は有季定型の客観写生、つながりがないじゃん!」
S「それが大アリなんだよ!自鳴鐘の師系は無季俳句の吉岡禅寺洞だろ?きっこの家の洗濯機も、全自動なんだよ!」T「な~るほど!」(笑)
S「横山白虹が亡くなったのは、きっこが小学生の時だけど、それまでは毎年、夏休みになると家族三人で、福岡の実家に里帰りしてたんだ。」
T「ふんふん。」
S「白虹は、小倉で外科病院を開業していて、地元ではなかなかの名士だったんだ。地位も名誉もお金もあり、その上、俳句結社の主宰でもあったからな。」
T「ふんふん。」
S「そんな白虹が、目の中に入れても痛くないほど可愛がっていたのが、孫のきっこなんだ。白虹の作品の中に、夏休みに遊びに来たきっこが、庭で泥んこ遊びしている景を詠んだ句があるんだ。」
T「どんな句?」
S「秋あつし亀甲泥をのせて這ふ 白虹」(爆)
たまには、こんな俳話でも、おアトがよろしいでしょうか?(笑)
近年、少しは見直されて来た虚子だけど、あたしが俳句を始めたころは、まるでプロレスのヒール(悪役)みたいに、ほとんどの俳人からブーイングを浴びていました。なぜかと言うと、あまりにもワンマンで、デタラメで、自分勝手な嘘つきオヤジだったからです。
ここで断っておきますが、あたしは虚子が好きです。と言うより、虚子の句が好きです。
でも、よく勘違いされるのが、虚子が好きって言うとホトトギス派だと思われるんです。俳句を知らない人は、すぐに短絡的に「虚子=ホトトギス」って思うみたいだけど、現在のホトトギスを見ると、主宰から一般会員に至るまで、誰ひとり虚子を理解していないんだから、そろそろこんな見方をするのはやめて欲しいと思います。現在のホトトギスは、赤いセーターのオバサンが経営する、ただの俳句カルチャースクールなんですから。虚子の虚は虚言の虚、口偏をつければ「嘘」と言う字になります。
その名に恥じないように、虚子はたくさんの嘘をついて来ました。花鳥諷詠の嘘、客観写生の嘘、芭蕉に対する嘘、子規に対する嘘‥‥。
それらのすべては、自分の理論を正当化するためのものであり、デタラメにも保土ヶ谷バイパス‥‥じゃなくて、ホドがある!って感じです(笑)
だけど、虚子のスゴイところは、どんなにデタラメなことを言っても、誰にも文句を言わせないほどの素晴らしい俳句を作っていたので、黒いものを白と言っても、それなりの説得力があったのです。
虚子の終生のライバルと言えば碧梧桐ですが、花形満が星飛雄馬に勝てなかったように、力石徹が矢吹丈に勝てなかったように、ベジータが悟空に勝てなかったように、主人公ってもんは、どんなにデタラメなことをしたって、最後には勝つようにできてるんです。幼稚園児レベルの虚子のデタラメ理論に対して、大学院レベルのキチンとした理論で対抗した碧梧桐だけど、いかんせん実作がマッタクともなってなかったから、誰がどう見ても虚子のストレート勝ちになっちゃったんです。
ようするに、どんなに素晴らしい理論を並べた立てたって、実作がともなわなければ全く評価されないのが俳句の世界なのです。小泉は政治家だから良かったけど、もし俳人だったら、支持率0%でしょう(笑)
なんて、笑点の歌丸みたいな軽い政治批判もはさみつつ、虚子の大嘘のひとつ、「花鳥諷詠の嘘」について、じんわりと、やんわりと、現在のホトトギスが推奨する「使い古された表現」を使えば、真綿で首を締めるように書いて行きたいと思います。
この部分にツッコミを入れると、花鳥諷詠をよりどころにしてる現在のホトトギスの存在理由が消失しちゃうんだけど‥‥
ホトトギスなんか、消失したほうが俳壇のためになる結社だから、気にせずに話を進めます。
まずは、虚子のこの言葉。長いんだけど、正確を期するために、あたしのパールホワイトのマニキュアが乱反射する白魚のような指で、全文書き写します。
「俳句といふものが始まつて以来、宗鑑、守武から今日迄三四百年の間に種々の変遷がありましたが、終始一貫して変らぬ一事があります。それは花鳥風月を吟詠するといふ事であります。元来我等の祖先からして花鳥風月を愛好する性癖は強うございます。万葉集といふやうな古い時代の歌集にも、桜を愛で、ほとゝぎすを賞美し、七夕を詠じた歌は沢山あります。下つて古今、新古今に至つても続いて居ります。足利の末葉に連歌から俳諧が生れて専ら花鳥を諷詠するやうになりました。殊に俳諧の発句、即ち今日云ふ処の俳句は全く専門的に花鳥を諷詠する文学となりました。」
どっひゃ~~~!
こんな大嘘をついて、いいの? マジで?
って、読んでるあたしが心配しちゃうほどのデタラメ!
個人的な見解とかなら、多少の嘘をついたっていいけど、歴史的な事実をねじ曲げちゃうなんて、デタラメにも保土ヶ谷バイパス!‥‥って、コレはさっき言ったか(笑)
万葉からの和歌の世界は、確かに花鳥風月を詠ったものもありますが、それは決して本流では有馬温泉‥‥じゃなくて、ありません!
え? しつこいって?
この俳話、泡盛を飲みながら書いてて、そろそろ1本が空きそうなんで、カンベンしてね♪(笑)
万葉からの和歌の世界は、花鳥風月、つまり四季の移り変わりなどとは関係なく、人情を主軸にした世界であり、言葉の言い回しのテクニックによって、それぞれの作者が自分の知的センスを表現するものでした。
ましてや、連歌の発句から俳諧が生まれたのは、連歌のそれまでの花鳥風月に対して、もっと低俗で人間味あふれる世界への飛躍であり、初期の俳諧などは、現在のサラリーマン川柳に近い内容のものが主流だったのです。
なぜ、虚子がこんなデタラメをノタマッタのかと言うと、それは全て、自分の推奨する花鳥諷詠を正当化するためなのです。そのために、「万葉の時代から日本の詩歌の本流は花鳥諷詠だった」と言う大嘘をつき、花鳥諷詠こそが日本の伝統的な歌であり、それを推奨する自分こそが、日本の詩歌の正統な後継者である、と言うことを印象づけたかったのです。
だいたい、「花鳥諷詠」なんてテキト-な言葉を作ったのだって虚子なんだし、自分でも良く分からないデタラメな造語だから、あとから色んな嘘をついて、実態の無かったデタラメな言葉をオミコシに乗せて担ぎ上げようとしたんです。
その嘘にマンマと騙されて、今だにその邪魔くさいオミコシを担がされてる赤いセーターのオバサンと、その御一行様(笑)
そんな、お疲れ様って感じの人達はほっといて、話を進めましょう。
虚子をホトトギスの後継者にしようと考えた子規は、虚子に対して、俳句だけじゃなくて、もっと文学史の勉強をするように、何度も何度も何度も何度も口をスッパクして言ったんだけど、勉強嫌いで要領の良かった虚子は、ナンダカンダと逃げ回っていました。ようするに虚子は、正しい文学史などを学び、自分の考えに反する事実などを知ったところで、何の役にも立たないと思っていたのです。
虚子にとっての文学史とは、自分を正当化するための背景にしか過ぎず、嘘をつこうがデタラメを言おうが、まずは「自論ありき」だったのです。自論を正当化するためには、芭蕉の言葉から子規の言葉、そして、歴史的な事実までもねじ曲げ、嘘に嘘を重ねて来た虚子。
まさに、虚子の虚は虚言の虚なのです。
そして、自分の理解を超えたことに関しては、絶対に触れないようにして、自分のボロが出ないように、器用に立ち回って来たのです。
顔はデカイが背は低い、やることなすこと自己中心、その上、聞いてるほうが恥ずかしくなるような、すぐにバレる嘘を平気でつけるツラの皮の厚さ!
でも! でも! でも! 俳句はスゴイ!
それが、虚子なんです‥‥。
最後にもう一度言っておきますが、あたしは、虚子が、否、虚子の句が大好きなんです、悔しいけど‥‥(笑)
図書館註:再掲載に当たっては全俳話で誤字の校正と見易さの編集はやらせていただいていますが、原文の修正は基本的に行いません。しかしこの俳話だけは作者が「泡盛を飲みながら書いてて、そろそろ1本が空きそう」と泡盛は新酒が30度、古酒(クース)が43度とアルコール度が高く、作者が酩酊状態のため、晩年の武者小路実篤のように同じことを繰り返しているため(武者小路氏はしらふという違いはありますが)、図書館側で重複部分を削除しております。
なお、きっこさんの「大好きな虚子の句」は岩波文庫から『虚子五句集』(上下二冊)が刊行されています。虚子は生涯二十万句を詠んでいますが(時雨舎の山口亜希子代表が角川ソフィア文庫から虚子の俳句入門や子規の『仰臥漫録』を出してくれて、その時に虚子の20万句全句集を作るのが大前提と壮大な夢を語ってくれて応援していましたが「ホトトギス」が及び腰なので難しいでしょうね)、これは『五百句』(昭和12年)『五百五十句』(昭和18年)『六百句』(昭和22年)『六百五十句』(昭和30年)『七百五十句』(昭和39年、高濱年尾と星野立子編集の遺句集)に付録として『慶忌贈答句抄』が付いています。今井肖子さんは母の今井千鶴子さんから虚子の句集だけを読んでいればいいと言われたそうで、わたくしはきっこさんから『ホトトギス雑詠選集』だけを読んでればいいと言われたと、お互いに仏壇に入る前に俳壇に立ち寄ったのが同じだと笑いあいました。
なお、虚子は「選は創作なり」として生涯に亘り大正四年から『ホトトギス雑詠集』とそれらを精選した『ホトトギス雑詠全集』や『ホトトギス雑詠選集』を倦むことなく編み続け、戦前の昭和20年3月までの精選で虚子の死によって終わるのですが、昭和26年3月から高濱年男選に引き継いでからも『ホトトギス雑詠選集』は出ており、ハイヒール図書館では虚子選の雑詠集は大正4年の初版から全44巻、および高濱年尾選の昭和26年3月から五年分の『ホトトギス雑詠選集』まですべて所蔵しています。大正13年のアルス版『子規全集』全15巻も所蔵しています。ただし、毎日新聞社の『高濱虚子全集』全16巻は抄録が多く全集ではなく選集であり、東日本大震災で津波が浚って行きましたが惜しいとは思いませんでした。手抜きの全集は虫唾が走ります。不思議なことに『子規全集』は無傷でした。『ホトトギス雑詠選集』も東京の書庫に預けていたのでこれも無事でした。またチーム長は鎌倉在住でしたので、虚子や立子はじめホトトギス関連の古書も収集しており、特に虚子の欠陥全集を買う必要もありません。20万句に及ぶ虚子の俳句や雑詠全集や俳話集も新しく興さず、星野立子の全集の未完のままといい、なぜ「ホトトギス」は偉大な先達の伝統の遺産すらまともに継承できないのか不可思議な結社ではあります。そう言えば丸の内の「ホトトギス」をフリーパスにするから編纂やってよと言われたこともあったような・・・。
それはさておき、虚子と碧梧桐が対立した「虚碧対立時代」と言われた中でももっとも有名な虚子の俳論「現今の俳句界」(明治36年10月「ホトトギス」)の最後の「附言」を虚子がどのような俳句の未来を望んでいたのか参考のために引用します。本文は碧梧桐の「温泉百句」を完膚なきまでに失敗作として批判しているもので、百句すべてに「温泉」を入れて詠むこと自体無謀なので碧梧桐の勇み足なのですが、最後に虚子が言う「渇望に堪えない句」が虚子の呪術として俳句の未来の結界を作っているほど有名だからです。この結界にチャレンジしているひとりが岸本尚毅です。なお、原文は旧字旧仮名で新字新仮名でわかりやすく途中まで直してありますが、重要な部分は旧字旧仮名のままです。(文責猫髭)。
高濱虚子「現今の俳句界」附言
明治三十年頃であったと思うが、或る日、句会の席上で子規からこういうことを言われた。とかく天(特選)にする句は、初めはほんの候補作くらいに思って取った句か、もしくは句数が足りなくてあとから取り足した句などに多い、と。句会で高得点を得る句が極めて派手な句、どこかにすぐ人目をひくような強い動詞、珍しい名詞、巧みな語法などの句であることと照らし合わせてこの言葉を味わうと面白い。一流の句、飽きの来ない句、品格のよい句というのは何百句という句会のなかにあっても決して人目をまどわすような特異の光彩を放っているものではない。人目をまどわす特異の光彩には画家のいわゆる生(なま)の色が多い。上っ面がてかてかするものが多い。おとなしい色、底光りのするものはすぐには目に付かない。しかし長く見ているうちに一方は飽き、一方はますますおもむきを増す。子規の言ったことはこの間の消息を説明しているものである。
上手に使われた技巧は巧みにさまざまな色を織り合わせた織物のようにいわゆる底光りの部類に入るが、下手な技巧はてかてか光るだけのたぐいが多い。これが技巧の弊害である。
今の俳壇に欠けているところはてかてか、なまなまのたぐいが多くて底光りの少ないことである。碧梧桐の如きはもとよりよくこの間の消息をわかってはいるが、往々にして失敗の作がないとも言えぬ。まして碧梧桐を模倣して流れを追う者のうちなどにはてかてか、なまなまで持ち切りになるような者も見受けられる。猛省すべきことであろうと思う。
碧梧桐の句にも乏しいやうに思はれて渇望に堪へない句は、單純なる事棒の如き句、重々しき事石の如き句、無味なる事水の如き句、ボーツとした句、ヌーツとした句、ふぬけた句、まぬけた句等。
前に舉げた「鎌倉江の島漫吟」(頼朝墓 楠椿槙の大樹や露時雨 碧梧桐)及「日本」(鳴く鹿の聲山莊の障子かな 彩雲)の俳句の如きは比較的今の俳壇にあつて意の確かな重みのある句である。以て今の俳壇にも亦た棒の如き句、意志の如き句ありとして大に滿足を表すべきであるわけぢや。唯惜しむ處ははなやかな方面には是があるが淋しい方面には是が無い。うきやかな方面には是があるが沈んだ方面には是が無い。同じ棒でも鐵の棒はあるが杉丸太のやうな棒はない。きちんとした水晶のやうな石はあるが、ぶざまな御影石のやうな石は無い。ボーツとした奴は無い。ヌーツとした奴は無い。ふぬけた奴は無い。まぬけた奴は無い。
碧梧桐にはかつて三度ならず以上のことを陳べたことがある。碧梧桐はよく余の言を容れて拒まない。かつてこれを見るたびに不満を感じた「日本」の俳句が近日はしばしば満足を与えるものとなった。子規のいわゆる「常にいくらかの変化を為す」碧梧桐の進み具合が今後どの方面に向かうかは余の楽しみに待つところである。
註:「再び現今の俳句界に就て」(明治36年10月「ホトトギス」)が碧梧桐の反論を受けての弁論がありますが、技巧の解釈の違いなどが論じられており、「渇望に堪へない句」に比べて特に見るべきほどのことはありません。
俳句は、一年に一作だけ発表するような高尚な芸術などではなく、庶民が日常の生活を詠う日々の文芸です。ファッションに喩えるなら、フォーマルな「よそ行き」ではなく、カジュアルな「ふだん着」なのです。でも、毎日のふだん着だからこそ、逆にそのコーディネイトが難しいのです。
結婚式やお葬式、パーティなどのフォーマルな場なら、吊るしの礼服やレンタルドレスなど、上から下までその場に合わせたお決まりのファッションで済みます。だから、何も考えることはありません。
それに比べ毎日のファッションは、フォーマルな席と違い「決まり」がありません。だから、何を着たって自由な反面、その人のセンスだけでなく、人柄や主張までもが表れます。
街を歩いていると、「この人、一体どんなつもりでこんな変なカッコしてるんだろう?」って人がいっぱいいます。
でも、その人にしてみれば、そのカッコがその人自身であり、そのファッションセンスが、他の人たちにおかしなイメージを与えているのです。
そんなワケで、今回の俳話は、あたしのふだんのファッションを例に上げて、俳句のツボをクイクイッと押してみたいと思います。
あたしのふだんのファッションは、「外し」のテクニックが基本です。若い女性なら誰でも同意見だと思いますが、計算通りのカジュアルほどカッコ悪いものはありません。
Tシャツとジーパンだからスニーカー、フェミニンなブラウスとスカートだからかわいい靴、こう言うコーディネイトは、無難だけれども何の個性も無く、俳句で言えば、どこにでもあるような類想類句と同じです。
「外し」のテクニックと言うのは、行動的なTシャツとジーパンに、あえて華奢なパンプス、フリルのついたフェミニンなブラウスとスカートに、わざとワイルドなウエスタンブーツ、こう言うふうに、上からするすると下りて来たファッションを足元で崩すことなのです。
これは、季語の斡旋と同じです。「Tシャツとジーパン」と言う描写に「スニーカー」と言う季語を取り合わせれば、キレイにまとまりますが、そこら中に溢れていて、例えば俳句にしてみると、次のような句になります。
巻尺の一気に戻り運動会
しかし、ヒールの華奢な「パンプス」と言う季語を取り合わせると、月並みだった「Tシャツとジーパン」と言うファッションが、グッと個性的になります。
ここで気をつけるポイントは、外すと言ってもデタラメに外すのではなく、どこかに微妙につながりを持たせると言うことです。
上が白のTシャツ、下が普通のジーパンなのに、そこに紫のパンプスを持って来たら、もうバラバラで、これならスニーカーのほうがマシになってしまいます。俳句にすると、次のようになります。
巻尺の一気に戻り女郎花
このような場合は、帽子とか、リボンとか、アクセサリーとか、どこかにもう一ヶ所、パンプスと同じ紫を持って来るとまとまります。しかし、実際のファッションの場合や、詩でも音数の多い短歌ならそう言うこともできますが、俳句の場合は「もう一ヶ所、紫色を置く場所」がありません。
俳句は5・7・5、つまり、Tシャツ・ジーパン・靴、ですから、他のものを組み合わせる余裕はないのです。それでは、どのように外せば良いのでしょう。
例えば、黒地にピンクのロゴが入ったTシャツに、ピンクのパンプスを合わせる、ジャングルをイメージさせるような柄のTシャツに、ヒョウ柄やゼブラ柄のパンプスを合わせる、これが本当の「外し」なのです。
巻尺の一気に戻り流れ星
描写と季語は、一見全然関係ないように思えますが、シュルシュルと巻き上がる巻尺のスピード感と、一瞬で消えて行く流れ星とか響き合っているのです。これで、やっと人前に出せる俳句になりました。
しかし、この程度のファッションセンスは、あくまでも外を歩ける最低のラインなのです。ここから、さらに磨いて行かないと、そこらの「ちょっとセンスのいい人」で終わってしまいます。あたしの場合は、黒地にピンクのロゴが入ったTシャツに、ピンクのパンプスを合わせるところまでは、他の人と一緒です。でも、同じファッションの人と一緒に、誰かのお部屋にオジャマした時に、その違いが現れるのです。
同じようなピンクのパンプスでも、玄関で脱いでみると、もう一人のパンプスは中が白一色です。あたしのは、白地にピンクの水玉模様なのです。
ようするに、表面の17音だけからは見えない部分まで、ちゃんとコーディネイトさせているのです。
そして、お部屋に案内されるもう一人の足元は、どこにでもあるベージュのストッキング、あたしの足元は、Tシャツの色と合わせた黒の網タイツなのです。
ここまで考えてコーディネイトすると、先ほどの句は、こうなります。
巻尺の一気に戻り盆の市
「運動会」よりも離れていて、「女郎花」よりも近いのです。そして、「流れ星」のような単純な響き合いでなく、巻尺のスピード感と、お盆ののんびりした感じが、相対的に響き合っているのです。しかし、ただの「お盆」でなく「盆の市」としたことで、のんびりした中にも、大勢の人たちの動く姿があるため、裏だけでなく、裏の裏でも響き合っているのです。これが、パンプスの内側のデザインや網タイツなのです。
そして、現実的でありながら多読性のあるイメージを喚起するのです。これが、細部にまで気を配った、ひと味違う「外し」のコーディネイトなのです。
俳句は、ふだん着です。だから、「何でもいいや!」って思って、毎日同じジャージで過ごしたって、みんなと同じにTシャツ、ジーパン、スニーカーで出かけたって、別に構いません。また、ファッション誌の受け売りでグラビアのモデルとまったく同じカッコをしたって、上から下までブランド品で揃えたって、誰も文句は言いません。
でも、不特定多数の人たちに自分の姿を見せ、そのファッションで何かを伝えたり、自分を表現しようと思うのなら、徹底的にこだわるべきなのです。
ふだん着は、フォーマルな服装の何倍も、その人の心を表すのですから。
普段着に潮の匂ひ喪正月 花尻万博
普段着の心大切利休の忌 阿波野青畝
ふだん着でふだんの心桃の花 細見綾子
赤瀬川原平さんと言う芸術家がいます。誰でも呼び捨てのあたしが、人の名前に「さん」をつけるくらいだから、どれほど尊敬しているかが分かると思います(笑)
原平さんは、尾辻克彦と言うペンネームで芥川賞なども受賞していますが、小説はあくまでもお遊びの範疇で、基本的には絵描きのはずです。しかし、ここ数年は、ラクでお金になるエッセイだとか写真だとかの仕事ばかりしていて、前衛芸術家だった若かりし頃の面影は、もう無いと思います。
最近では「老人力」のヒットで印税ガッポリだし、今までに書いた本も全てが文庫本になっているので、それらの印税だけでも左ウチワなので、今さらバカバカしい前衛芸術なんかに体力を使うより、膝に猫でも乗せて、お気に入りのライカのコレクションでも磨いていたほうが良いのでしょう。
何らかの形で芸術と関わった生活をして来た人たちは、ひと昔前の「トマソン」で原平さんの名前を知り、そうでない人たちも、少し前の「老人力」で名前を知ったと思います。
そんな原平さんが、まだ若くて、チャレンジ精神が旺盛で、胃腸が弱くてもまだ覇気があった頃(笑)、「宇宙の缶詰」と言う作品を作りました。これは、鮭缶の外側を一周しているラベルを剥がし、中身を出して、そのラベルを缶の内側に貼り直したものでした。
ラベルと言うものは、瓶にしろ缶にしろ、「その容器の内側に存在するものの固定」と言う概念を持っていますので、缶の外側に鮭の絵の描いてあるラベルが貼ってあれば、缶を開けなくとも、中に調理された鮭が入っていると言うことが分かります。
原平さんは、そのラベルと言う紙の輪を 缶の内側を固定するものではなく、缶の内側の世界と外側の世界を切り離すための封印と考えたのです。
つまり、目の前に、通常の形でラベルの貼ってある鮭缶がひとつ置いてあれば、それは一枚のラベルによって、缶の内側の世界と、それ以外の外側のすべての宇宙とに分断されている、と言う考え方をしたのです。
そして、缶の内側にラベルを貼ることにより、缶の外側のすべての世界がラベルの輪の内側、つまり缶詰の中に入ってしまうと言う「宇宙の缶詰」を作り出したのです。
発想のレベルとしては、逆立ちをして「地球を持ち上げたぁ~!」とか言ってる小学生と変わりませんが、重要なことは、それを誰よりも先にやったと言うことなのです。メビウスの帯にしろ、クラインの壺にしろ、誰でも簡単に思いつく発想ですが、それを最初にやったと言うことが素晴らしいのです。さて、毎度オナジミの長~い長~い前置きも終わり、いよいよ浅間山荘、じゃなくて、本題へと突入しましょう♪
今回の俳話は、簡単に言えば、「俳句と川柳の違い」についてです。先日、某俳句サイトの掲示板で、俳句と川柳の違いについての話題が出ていて、あたしはビックリしちゃったんだけど、俳句と川柳の違いについて、キチンと説明できる人が全然いなかったのです。挙句の果てには、「最近は俳句とも川柳とも理解できるグレーゾーンの作品が多くなって来た。」とかお茶を濁して、自分がキチンと説明できないことをゴマカす始末。俳句と川柳の違いも説明できないような人間が、平然と俳句を作ってることの不思議、ってゆ~か、そんなテキト-な人間だったら、その人の作ってるモノ自体、俳句なんだか川柳なんだか分かんないじゃん!(笑)
多くの川柳作家は、自分の実践している川柳と言う詩型をキチンと理解し、そして対岸の俳句のことも理解し、その上で作品を作っています。
ですから、俳句と川柳の違いについて問えば、皆さんキチンと説明してくれます。
それに比べ、俳人の意識の何と低いことでしょう。川柳に比べ、いくら俳句のほうが構造的に単純だとは言え、それを作り出す俳人までもが「俳句」と言う名前の上にアグラをかき、自分の作っているモノに疑問すら持たないほど単純になってしまっては、それこそ本末転倒です。
あたしは、表の俳話「俳句と川柳」の項で、「俳句は、自分の外側の世界を詠むことにより、自己の内面を表現するもの、そして川柳は、自分の内面を詠むことにより、外側の宇宙を模索するもの」と説明しました。
これは、簡単に言えば、「俳句はタダの客観、川柳は主観に基づいた自己客観」と言うことです。
もちろん、これがすべてではありませんし、例外も色々とありますが、この時は、俳句と川柳の違いを明確にすることではなく、本当の川柳を知らない俳人が、滑稽な句や低俗な句を目にした時に、安易に「川柳的な句だ」と発言することに対する啓発が俳話の主旨だったので、この程度の説明に留めたのです。
ここらでそろそろ、長かった前置きと長かった本文が、「釣りバカ日誌」のハマちゃんとミチコさんみたいに合体しますが、ようするに、「鮭缶が川柳、宇宙の缶詰が俳句」と言うことなのです。つまり、ラベルが貼ってあって中身が分かるほうが「川柳の缶詰」で、内側にラベルが貼ってあるために外からは中身が分からないほうが「俳句の缶詰」なのです。
ここで考えて欲しいのは、作者、つまり自分の立ち位置です。どちらの場合も、作者は缶詰の外側にいます。川柳の場合は、缶詰の中を詩の対象とするのですから、自分を含めた対象以外のすべてのものは、外側から傍観する形になります。例えば、自分の心象を詩にしたい場合は、その部分だけを缶詰の中に入れ、誰にでも分かるように「心象」と言うラベルを貼り、そして缶の内部を切り取るのです。
しかし、俳句の場合は、ラベルを内側に貼ったことにより、缶詰の外側にある、自分を含めたすべての世界が、実は缶詰の内側と言うことになります。ですから、空も海も鳥も花も自分も、みんな同じ「宇宙の缶詰」の中に混在しているわけで、空を写生することも花を写生することも、煎じ詰めれば自分自身を写生することに繋がるのです。
しかし、その詩を読む者からは、作者が一番伝えたいこと、つまり「ラベルの文字」が見えないために、自分の舌で味わい、何の缶詰なのかを推測しなくてはならないのです。
そして、人間の舌は十人十色ですから、読み手によって解釈の幅が生じて来るのです。
しかし、この考え方を実作にあてはめて検証すると、俳句と川柳との間に、類句が生まれる可能性があります。
俳人は、俳句の世界の中だけで類想類句を論じますが、俳句の世界には類句が見当たらないような、ちょっと個性的で主観的な句ほど、川柳の世界を覗くと、類句がザクザク出て来るのです。
実際、似ているとかのレベルではなく、あたしは過去に、有名な川柳と一字一句同じ俳句を句会で目にしました。もちろんその人は「俳句」として作ったのですが、結果、先に発表されていた川柳とまったく同じものになってしまったのです。それでは、その一字一句同じな十七音の詩は、俳句なのでしょうか?それとも川柳なのでしょうか?
答えは簡単です。俳人の作ったほうは俳句で、川柳作家の作ったほうは川柳なのです。ようするに、まったく同じ作品であっても、作者が俳句として作れば俳句、川柳として作れは川柳になるのです。
つまり、俳句と川柳の違いとは、作品ではなく、作句の過程なのです。結果として同じ作品が生まれてしまったとしても、缶詰のラベルが外側に貼ってあり、その中に対象を置き、それを切り取れば川柳となり、ラベルが内側に貼ってあり、自分と同じ外側の世界にある対象を切り取れば俳句となるのです。
そして、一字一句同じ詩であっても、川柳のほうにはラベルが貼ってあります。先ほど、あたしが知っていると言った作品は、ある花を詠んでいました。ですから、川柳として作られたほうの作品は、その花の名前がラベルとなり、缶詰の中にはその花が入っています。
作者は、缶詰の中の花を詠むことにより、そこに外側の自分を投影し、二次的に自分の心象などを表現しているのです。
しかし、俳句として作られたほうの作品は、読み手にはラベルが見えませんので、作者が一番伝えたいことは分かりません。作者は、ラベルの外側と言う無限の缶詰の内部から、ひとつの花を選び、自分と同次元にあるその対象をただ単に詠んだだけあり、ラベルに書かれた文字は、読み手ひとりひとりがイメージするのです。
結論として、まったく同じ詩であっても、その作品が俳句として提示された場合と、川柳として提示された場合では、読み方も違って来ますし、解釈も違って来るのです。
俳句と川柳の違いを論じる時に、季語の入っている川柳と無季の俳句などを一緒に並べ、その違いを説明しろなどと言うくだらないことを言い出す人がいます。
そんなもの、あたしに言わせれば、今どき第二芸術論を引っ張り出すのと同レベルのピント外れのことで、自分の無知を晒すだけのまったく無意味な行為です。俳句と川柳の違いとは、あくまでも作句過程における違いであり、読み手が作品だけから判断できるものではないのですから。
川柳作家の多くが分かっているこんな当たり前のことを 初心者ならともかく、何年も俳句をやっている人間にも分かってない人がいるとは、まったく開いた口が塞がらないダッチワイフみたいなもんです(笑)
近年、俳句と川柳のボーダーラインがあやふやになって来たと言われるのは、100%俳人側に責任があることなのです。
自分の実践する詩型を正しく理解し、そして俳句のことも理解している川柳作家たちは、いつの時代も川柳と正しく向かい合っています。
しかし、悲しいことに、俳句と川柳の違いも分からない俳人たちは、どんどん内側の世界へと進んで行き、外側にラベルを貼った缶詰を積み重ねているのです。
あたしが客観写生を提唱しているのは、俳句が俳句として存在するための、最も重要な作句過程、作句姿勢の問題なのです。
一番伝えたいことは言わないように、と言っているのは、缶詰のラベルを内側に貼れ、と言うことなのです。それは、対象と自分とを缶の内と外とに二元的に置かずに、常に対象と同じ世界に自分の足をつけていろと言うことなのです。
この基本中の基本ができなければ、俳句は限りなく川柳に近づいて行ってしまうのです。ですから、客観写生を否定する俳人は、明日から川柳作家に転身するべきだと思っています。マジで!(笑)
松尾芭蕉の結社(笑)である「蕉門」の俳人、ようするに門弟は、公称2000人と言われています。しかし、実際には、430人余りしかいませんでした。それも、現代と違って交通の便が悪かったため、地方には、死ぬまで一度も芭蕉と会えずじまいだった門弟たちもたくさんいたのです。ですから、芭蕉から直々に指導を受けられた本当の門弟の数は、さらに少なくなり、一説には数十人だったと言われています。
現代の俳句結社、特に中堅結社も、実際には200人くらいしか会員がいないのに、公の場には300人とか500人とか発表して見栄を張っています。そんなインチキ、結社誌の雑詠欄の人数を見れば一目瞭然なのに、「投句をしない購読のみの会員が多いのです」なんてバレバレの嘘をつく始末。結社の主宰が外ヅラばかり気にするのは、芭蕉の時代からの伝統なのでしょうか?(笑)
芭蕉って、300年も経った今だからこそ、俳聖だとか何だとか、まるで悟りを開いたスゴイ人みたいに言われてるけど、所詮はタダの遊び人です。
仕事もしないで皆からお金や食べ物をもらい、住むとこまで提供させ、毎日俳句を作ったり旅行をしたりして遊んでたワケですから。
芭蕉の時代は、俳諧と言えば道楽の極みで、商人の奥さんなどは、ダンナに、「アナタ!毎晩飲みに行っても女遊びしてもいいから、お願いだから俳諧にだけは手を出さないでちょうだいね!」なんて言ってたくらいなのです。つまり、現代の「酒、女、ギャンブル」が、この時代には「酒、女、俳諧」だったワケです。
奥さんたちが必死になって止めるほど、俳諧と言う遊びは底無し沼で、一度足を踏み入れたが最後、一生懸命に稼いだお金をどんどん主宰に貢ぎ、そのうち仕事なんかホッポリ出しちゃいます。
挙句の果てに家庭まで捨て、主宰のために人生を捧げてしまう人たちが続出したのです。
つまり、捨てられた家族たちにしてみれば、芭蕉と言うのは、大切な一家の大黒柱を俳諧と言う堕落の道へと引きずり込んだ悪の権化で、金を吸い取るだけ吸い取り、金が無くなれば身の回りの世話をさせたりと、まるで新興宗教の教祖みたいな存在だったのです。
まあ、芭蕉の場合は、そう言ったことが許される時代背景があったワケですが、現代社会において、芭蕉と同じように仕事もせずに俳句だけで生活してるような主宰は、完全に新興宗教の教祖と同じで、俳句の実力よりも、どれだけ会員を洗脳できるかと言う口先の技術がモノを言っているのです。
遊び人の芭蕉は、現代の主宰たちと同じに、とても外ヅラを気にする見栄っぱりでした。それで、自分の門弟の数をいつも気にしていました。
そして、自分の門弟たちをピラミッド型に並べ、その頂点に自分が君臨していると言うことを遊び感覚で楽しんでいました。
その遊びのひとつとして、芭蕉の俳諧番付と言うものがあります。全国の門弟たちを東と西に分け、二つのピラミッドを作り、その両方のさらに上のお山の大将が自分である、と言う番付遊びです。杉風を東三十三ヶ国の俳諧奉行、去来を西三十三ヶ国の俳諧奉行として、その下に順列をつけて門弟たちを配し、その図を見てゲラゲラと大笑いした芭蕉。まるで、青っ鼻を垂らしたガキ大将です。そして、そのピラミッドの中で少しでも上に行きたくて、芭蕉にお金や物をプレゼントしまくる門弟たち。
う~ん、素晴らしい低俗性! さすが、俗の文芸! これぞ、俳句! あんたの結社と同じじゃん!(笑)
芭蕉がタダの「をぢさん」なら、門弟たちだってタダの「あんちやん」です。
色々な文献などに、其角だ嵐雪だなどと名前が出て来ると、勝手に作り上げたイメージだけで、何だか偉そうでスゴそうな人たちだと思っていませんか?
これから、門弟たちの本当の姿を紹介しますので、「な~んだ!そこらのあんちゃんたちと一緒じゃん!」てな感じで、もっともっと親近感を感じて欲しいと思います。なんたって、俳句は通俗の極みを目指した庶民の文芸なんですから♪
芭蕉が江戸へ出て来た延宝の初期に弟子になったのは、其角、嵐雪、杉風、桃隣、嵐蘭などで、貞享に入ると、去来、杜国、越人、曾良、路通などが弟子になり、そして元禄になって入門した、惟然、北枝、支考、野坡、凡兆、丈草などが有名な門弟たちです。
のちに、活躍した弟子を10人挙げて「蕉門十哲」と言うようになりましたが、そのメンバーは、選ぶ人によって少し違って来ます。
蕪村があげているのは、其角、嵐雪、去来、丈草、支考、北枝、許六、曾良、野坡、越人の10人ですが、他の人は、越人の代わりに杉風を選んだり、野坡を外して越人と杉風を入れたりしている人もいます。
結局のところ、其角、嵐雪、去来、丈草、支考、北枝、許六、曾良と言う不動の8人と、野坡、越人、杉風と言う3人の補欠からなる11人を蕉門を代表する門弟と考えれば良いでしょう。
この11人と、芭蕉に一番嫌われていた路通を入れた12人をこれから紹介して行きます。年代も書いておきますので、芭蕉(1644~1694)と照らし合わせながら読んで下さい。
◆宝井其角(たからいきかく) 1661~1707◆
江戸生まれで、14才の時に芭蕉に入門した最古参の門弟です。何よりも酒と女を愛した豪快な遊び人でした。
連日のように潰れるまで大酒を飲み、ゲロを吐き、遊女のところをハシゴしたツワモノ。「酒、女、俳諧」と言う、この時代に「人生を棒に振る」と言われていた遊びをすべてやり尽くした道楽者です。
大酒に起てものうき袷かな 其角
暁の反吐は隣かほとゝぎす 其角
などの句を読み、その自堕落な生活態度も含め、去来からは「華やかなること其角に及ばす」とイヤミを言われたほどです。それでも芭蕉からは、その俗な人間臭さを評価され、一番かわいがられていました。
門弟一の快楽主義者で、芭蕉の没後はサッサと談林風に戻り、享楽的な句ばかり作り、洒落風と言う下品で低俗を売り物にした江戸座一派の元祖となります。芭蕉にしてみれば、かわいがった弟子がこのありさまじゃあ、これがホントのキカク倒れ?(笑)
◆服部嵐雪(はっとりらんせつ) 1654~1707◆
江戸に生まれ、30年近く武家奉公をしていましたが、元禄3年(1690)に武士を辞め、俳諧師へと転身します。俳諧へ身を移してからは、それまでの厳しい生活からの反動からか、ソッコーで其角の遊び仲間となり、連日一緒に飲み歩き、一緒に遊廓に通い、快楽の世界へと現実逃避を繰り返します。女好きは其角以上で、遊女や湯女(ゆな)を次々と妻にしちゃいます。現代で言えば、遊女は本番アリのソープ嬢、湯女は本番ナシの風俗嬢ってとこ。しかし、芭蕉からは、「門人に其角、嵐雪あり。」と評されるほどかわいがられ、大切な門弟の双璧とされていました。あたしから見ると、「嵐雪」って言うより「乱摂」って感じだけど(笑)
でも、俳句は門弟の中ではトップクラスでした。
うめ一輪一りんほどのあたゝかさ 嵐雪
この句のように、だらしない生活ぶりとはウラハラに、シャープで洗練された句を詠み、対象を切り取るセンスの良さは蕉門一です。芭蕉の没後も、嵐雪の雪門は後々まで続いて行きました。
◆向井去来(むかいきょらい) 1651~1704◆
長崎に生まれ、8才の時に京都へと引っ越し、その後、公家に仕えていましたが、すべてを捨て、芭蕉の門人となった人です。天文学、暦学に精通し、武芸にも長け、文字通りの文武両道のスーパー俳人。其角や嵐雪とは正反対に、とてもストイックで、女遊びも一切せず、志も高く、本当に立派な人ですが、それが欠点でもあります。タバコが大嫌いで、今では当たり前の嫌煙権を300年以上も前に主張し、句会では、絶対にタバコを吸う人の隣りには座りませんでした。まるで、結社「K」の「N・Tさん」や、結社「O」の「K・Hさん」みたいです(笑)
去来は、嵯峨に落柿舎と言う別荘を持っていて、時々芭蕉を招いたりもしていました。
凡兆とともに「猿蓑」の編者に抜擢されたほど人間性を買われていて、「去来抄」などの執筆でも知られています。師を思う気持ちは杉風以上で、終生芭蕉に尽くし、芭蕉の臨終の時もずっとそばを離れませんでした。
誰よりも芭蕉を尊敬していたので、良いか悪いかは別として、その作風も芭蕉に酷似しています。
湖の水まさりけり五月雨 去来
◆内藤丈草(ないとうじょうそう) 1662~1704◆
尾張(愛知)生れで、犬山の武士の家を継ぐはずだったけれど、出家して琵琶湖のほとりに小さな庵を構えます。
幼い頃に母が死に、継母は7人も子供を産んだため、8人兄弟のうち自分だけ仲間はずれで育ちます。
丈草は「白粥の僧正」と呼ばれるほど病弱、そして貧困で、その生涯も43年と短いものでした。作る俳句も作者そのもので、継母や異母兄弟に対する感情や病気、貧困などを詠ったものが目立ちます。
着てたてば夜のふすまもなかりけり 丈草
「ふすま」と言うのは襖ではなく、パジャマのことです。ようするに、たった一枚の服しかなく、寝ても起きても着たきり雀ってことです。
芭蕉の没後も、ノミやシラミと闘いながら、清貧な生活を送ります。
◆各務支考(かがみしこう) 1665~1731◆
美濃(岐阜)に生まれ、19才までは僧侶を志して大智寺で修行しました。しかし、禅による悟りに限界を感じ、乞食僧となって諸国を行脚します。この間に学んだ文字、能文、漢籍、神学、儒学などの技術や知識が、のちに芭蕉の門弟となってからは大いに重宝がられます。
屁理屈に関しては門弟一で、頭の回転も早いが調子も良く、芭蕉の身の回りの世話をして取り入ろうとしますが、結局はその人間性を見抜かれ、最後まで信頼されませんでした。
自分を死んだことにして生前葬をあげ、そのあと別名で本を出してみたりと、まるで保険金サギみたいなこともしちゃいます。
芭蕉が病床についてからは口八丁手八丁で根回しに走りまわり、作戦通りに、芭蕉の遺書の代筆と言う大役を任されます。そして、芭蕉の没後は、達筆にモノを言わせて芭蕉の偽書を作ったり、詭弁で人を騙したりして、美濃派のドンとなる変わり身の早さ。門弟一の腹黒男です。
あふむくもうつむくもさびしゆりの花 支考
この句なども、その人間性を知ってから読むと、何だかウサン臭さがプンプンです(笑)
◆立花北枝(たちばなほくし) ?~1718◆
加賀百万石の城下町、金沢で刀の研ぎ屋さんをやっていた人です。「おくのほそ道」の道中の芭蕉と出会い、兄と一緒にその場で門弟になり、そのまま福井の松岡まで同行しちゃった行動派です。のちに北陸蕉門の重鎮となります。
さゞん花に茶をはなれたる茶人哉 北枝
しぐれねば又松風の只おかず 北枝
などの句を見れば分かるように、良く言えばテクニシャン、悪く言えば技巧派‥‥って、同じ意味かも?(笑)
◆森川許六(もりかわきょりく) 1656~1715◆
近江の彦根藩の藩士で、「猿蓑」などの選集を読み、コツコツと独学で蕉風を学んだ勉強家です。実際に門弟となったのは、芭蕉の最晩年の元禄5年です。絵画に関しては素晴らしい知識と才能を持っていたので、芭蕉も許六を師と仰いでいました。
ですから、芭蕉と許六は、師弟関係というよりも、良き芸術的理解者として、相互に尊敬し合っていたのです。
うの花に芦毛の馬の夜明哉 許六
この句のように、詩にも絵心がうかがえます。
◆河合曾良(かわいそら) 1649~1710◆
信州の上諏訪の出身で、伊勢長嶋藩に仕えていましたが、のちに浪人となって江戸に上ります。貞亨早期に入門した江戸蕉門の古参の一人です。「鹿島紀行」にも同行しましたが、何と言っても「おくのほそ道」の同行が有名でしょう。深川芭蕉庵の近くに住んで、芭蕉のパシリとして活躍し、とても重宝がられます。調子に乗った芭蕉は、5尺ほど先にある紙や筆を取るのにも、曾良をアゴで使いました。
曾良は、地誌や神道などにも詳しく、実は江戸幕府の御庭番(スパイ)だったと言う説もあります。
よもすがら秋風きくや裏の山 曾良
こんな句を見ると、ナニゲにスパイっぽい怪しさを感じます(笑)
芭蕉が忍者だったなんて言うトンデモナイ説もあるくらいだから、案外ホントかも?
◆志太野坡(しだやば) 1662~1740◆
越前(福井)出身の両替商三井越後屋の番頭です。今で言えば、三井住友銀行福井支店の支店長ってとこです。
現代の俳壇も、金子兜太に代表されるように、ケッコー銀行関係の俳人が多いのですが、来る日も来る日も金勘定ばかりしていると、浮世離れしたくなっちゃうのでしょうか?
でも、結局は野坡も、仕事を捨て、俳句の底無し沼へと沈んで行くのです。その時、きっと家族は「ヤバッ」と言ったことでしょう(笑)
そんなヘビーな野坡ですが、作風は蕉門随一の「軽み」の使い手であり、とても才能のある若手でした。
さみだれに小鮒をにぎる子供哉 野坡
猫の恋初手(しょて)から鳴て哀(あわれ)也 野坡
う~ん、軽いこと、軽いこと(笑)
◆越知越人(おちえつじん) 1656~?◆
名古屋の染め物屋のダンナで、もとから酒と女には目が無い遊び人です。酒も女もその道楽の粋を尽くし、最後の道楽として芭蕉に弟子入りして俳諧を学びます。
「更科紀行」に同行し、仕事をホッポリ出して、そのまま江戸までお伴をしちゃいます。名古屋に戻ってからも、2日働いたら2日遊び、3日働いたら3日遊ぶと言った具合で、仕事なんかやる気まったく無し!(笑)
金払いがいいので芭蕉に大切にされ、酔って芭蕉に歌を聞かせたりと、芭蕉の良き飲み友達でもありました。
「笈の小文」の旅で、芭蕉のお伴で伊良子へ杜国を訪ねた時なんかは、馬に乗りながらお酒を飲んでて、ベロベロに酔っぱらっちゃいます。今だったら完全に免許取り消しでしょう(笑)
行としや親に白髪をかくしけり 越人
なんて平気で「や・けり」の句を作っちゃうのも、昨夜のお酒が抜けてないからですね、きっと!(笑)
◆杉山杉風(すぎやまさんぷう) 1647~1732◆
江戸日本橋の魚問屋「鯉屋」のダンナで、談林風の俳諧から、芭蕉に入門した人です。自分の深川の別荘を芭蕉庵として提供したナンバーワンのパトロンで、愛する主宰のためなら、いくらでもお金を出した男なので、通称「オスギ」と呼ばれていたとかいないとか(笑)
だから、当然のことながら、弟子の中でも特別扱いを受けます。
現代の結社でも一番大切にされるタイプで、実力が無いのに結社賞を貰ったりするため、地方の会員からは不思議な目で見られちゃう。どこの結社にもいるはずです、俳句がヘタクソなのに、いっつも結社誌の上のほうに載ってる人(笑)
杉風は、俳句はイマイチだけど性格だけはとても真面目で、芭蕉からの信頼も厚く、結局は金の力で芭蕉の後継者となりますが、芭蕉の没後もその蕉風の作句スタイルを守り抜いた真面目さを考えると、結果論として、芭蕉の選択は間違っていなかったことになります。
あさがほや其日其日の花の出来 杉風
この句からも、バカ正直で利用されやすいタイプだと言うことが分かります。
余談ですが、手賀沼の魚鳥捕獲権を持っていたので商売は順調だったのに、貞享4年(1687)の綱吉の生類憐みの令によって魚を捕ることを禁じられ、大打撃を受けちゃいました。
◆八十村路通(はそむらろつう)◆
蕉門十哲には数えられませんが、芭蕉の門弟を語る上では絶対に外せないキャラクターの持ち主です。
近江の三井寺に生まれ、古典や仏典に精通し、乞食僧侶としてあちこちを放浪します。
蕉門一の奇人で、何より素行が悪く、芭蕉がゴミ箱に捨てた失敗作の句をそっと盗み出し、勝手に発表しちゃったりもします。ですから、芭蕉だけでなく、他の門弟たちからも嫌われ、女性誌「アンアン」の「抱かれたくない男ナンバーワン」に輝いちゃったりもします(笑)
いねいねと人にいはれつ年の暮 路通
この句などからも、路通がどれほど仲間から嫌われていたのかが分かります。
※「いねいね」とは「去ね去ね」と言うことです。
芭蕉からは、いつも怒られていて、説教入りの句を渡されたりもしています。
そんなに嫌われていたのに、「おくのほそ道」では、芭蕉を敦賀で出迎え、それからしばらくは芭蕉に同行して、翌年の年明けまで京都や大阪での生活を共にしたり、貞亨5年頃からは、深川芭蕉庵の近くに住んだりと、ケッコーくっついて回っているのです。
これで、芭蕉の門弟たちのズッコケぶりが分かったでしょうか?
こうしてみると、なんてバラエティーに富んだメンバーなんでしょう。まるで、「たけし軍団」のようです(笑)
大酒飲みの其角は、生ビールをピッチャーのまま何杯も飲んじゃう「グレート義太夫」、女好きの嵐雪は、道玄坂の風俗店に通いまくる「そのまんま東」、真面目で融通の利かない去来は、言われた仕事なら何でもやる「ラッシャー板前」、裏表のある策略家、支考は、軍団一の世渡り上手の「ガタルカナル・タカ」
絵の才能がずば抜けていた許六は、放送作家としての才能にたけしも一目置いている「ダンカン」、芭蕉のゴーストライターとしておくのほそ道を執筆した曾良は、第二の松尾芭蕉と言うことで「松尾伴内」、金勘定が得意な野坡は、何事にも計算高い「水道橋博士」、ハレンチなことこの上ない越人は、どこでもハダカになっちゃう「井出らっきょ」、病弱の丈草は、影が薄くているんだかいないんだか分からない「つまみ枝豆」、その経済力で芭蕉の後継者となったパトロン杉風は、父なべおさみの金で大学に裏口入学しようとした「なべやかん」、素行の悪い路通は、ヤルことナスことデタラメな「玉袋筋太郎」、こんな凄まじいメンバーの上にふんぞり返っていた「たけし」‥‥じゃなくて、芭蕉!(笑)
こんなメンバーが集まり、普通の人たちが一生懸命に働いている時間に、昼間っからお酒をガブガブ飲みながら句会をやってたんだから、さぞかし楽しい毎日だったことでしょう。
まあ、芭蕉の場合は江戸時代だったからイイってことにしても、現代の主宰たちは、ちゃんと仕事をして自分の生活費くらい自分で稼いで下さいね。
会員たちを洗脳して、貢がせたお布施で生活なんかしてたら、芭蕉どころか、二枚舌の支考を超えることもできないでしょうから(笑)
図書館註:柴田宵曲『俳諧随筆 蕉門の人々』(岩波文庫)は名著です。
インターネットで俳句を作ったり読んだりする上で、一番困ることが、パソコンは「横書き」だと言うことです。
俳句には、季語や定型などのいくつかのルールがありますが、そのうちのひとつとして「表記上のルール」があります。それは、「俳句は縦書きで、升目を空けずに一行で書く」と言うことです。
サザンが夏の季語でユーミンが冬の季語だとかヌカして、「おーいお茶」みたいなシロモノを平然と横書きして、それで俳句を作ったつもりになってるどっかの俳句ごっこのB面結社。シンナー中毒の中学生の歯みたいに隙間だらけで、クロスワードパズルと見間違えそうな「分かち書き」とかを無理強いし、桂信子にも見捨てられちゃった、大阪の森重久弥によく似た主宰の結社。
これらは、自由律や無季と同じように、俳句のルールに反しているのですから、当然のことながら俳句とは呼べません。
新聞記事や書類、レポートなどの文章は、「読み手に内容を正しく伝える」と言うことが何よりも優先されます。ですから、現代においては、縦書き、横書きはどうでも良く、そして、新仮名を使い、当用漢字を使い、漢字に変換できる言葉は、特別な場合を除き、基本的には全て漢字で表記しています。例えば、「あおいそら」と書く場合は、必ず「青い空」と表記するはずです。
しかし、俳句は「詩」なのです。それも、たった十七音しかない世界最短の定型詩なのです。ですから、縦書きか横書きか、漢字か平仮名か、旧仮名か新仮名か、などの表記の違いが、作品のイメージを大きく変えてしまいます。
俳句が詩である以上、内容を正しく伝えることも重要ですが、それと同時に「作者の感じたイメージを伝える」と言うことが大切になって来ます。
そのために、季語や切れ字、省略やオノマトペなど、作者は色々な技法を使い、17音と言う定型の枠を少しでも広げる努力をしているのです。
それらの技法の中で、季語の斡旋や切れ字の使い方などに比べ、格段に軽く扱われているのが、今回の俳話で取り上げた「表記上の技法」なのです。
俳句で「青い空」と書く場合は、新聞記事などと同じように、そのまま「青い空」と表記する他にも、「蒼い空」「蒼い宙」、または平仮名で「あおいそら」「あをいそら」、漢字と平仮名を組み合わせて「蒼いそら」など、複数の表記の仕方があり、どの表記を選ぶかによって、読み手に与える青空のイメージが変わって来るのです。
どの表記を使用するかは作者のセンスによって決まり、自分の見た、感じた青空のイメージに一番近い表記を選ぶわけです。
そして、自分のイメージに近いものが読み手に伝われば、表記の選択が正しかったことになります。
もちろん、どんなに完璧な表記を選んだところで、カンジンの俳句そのものが良くなければ、あまり意味の無いことなのかも知れません。しかし、自分の想いを伝えるために、作品を磨いて磨いて磨き抜く作業が推敲なのですから、内容だけでなく、表記にも細心の注意を払い、もっともっと時間をかけるべきなのです。
俳句の推敲は、経験や技術だけでなく、作者のセンスが物を言う世界です。そして、季語の斡旋と同じくらいのセンスが問われるのが、「表記」における技法なのです。
大きな結社誌の同人欄などを見ると、何十年も俳句をやっているのに、表記のセンスの悪い俳人がやたらと目につきます。
例えば、「途切れ途切れ」を「途切れとぎれ」、「流れ流れて」を「流れながれて」と、バカのひとつ覚えみたいに書いてる人たちがいますが、こんなものあたしに言わせれば、「○○の如く」と同じくらいにカビ臭い技法です。
たぶん、脳に青カビの生えた時代遅れの主宰が、「同じ言葉を繰り返す場合は、あとの言葉を平仮名にすると、表現に立体感が生まれます。」とか何とか無責任な指導をして、良く分からないままに言われた通りにしているのでしょう。
今どき、「漢字と平仮名のリフレイン」や「○○の如く」なんて俳句、前方後円墳の中を掘ったって出てきやしません。
さて、インターネットの問題に話を戻しましょう。なぜ、横書きだと困るかと言う問題です。
例えば、「木」「山」など、書き出したらキリがありませんが、左右対称の漢字があります。
トメやハネなど、厳密に言えば対称ではありませんが、これらの漢字は、毛筆で書いた場合、シンメトリー(左右対称)による独特の美しさを生み出します。また、これらの漢字があるからこそ、その他のアシンメトリー(左右非対称)の漢字や平仮名の美しさも引き立つのです。
しかし、これらはすべて、縦書きによって初めて感じることができるものなのです。
短冊に一句を縦書きして、短冊の真ん中に上から下まで一本の線を引いてみます。その線を軸にすると、「木」や「山」などの文字が左右対称になるでしょう。
しかし、横書きにした場合は、中心線は左から右へと走るため、「木」や「山」などの文字は上下に二分割され、シンメトリーは生まれないのです。
あたしは、俳句にとって、表記の生み出す視覚的な効果をとても重要視しています。
そのために、しりとり俳句をしていても、作った句を頭の中で一度縦書きにして、全体の姿を見てから、漢字にするか平仮名にするか、複数の漢字表記がある場合は、どの漢字を使うか、と考えます。
また、ネット句会などで選句する場合も、一句一句、いちいち頭の中で縦書きの姿をイメージして、そして鑑賞しなければならないため、とても時間が掛かるのです。
でもこれは、困ると言っても、ただ自分が大変なだけで、時間を惜しまなければ良いことです。本当に困るのは、あたしの句を読む側の人たちが、果たして縦書きに置き換えて読んでくれているのか、と言うことなのです。
場合によっては、横書きなら平仮名のほうが良いけれど、縦書きにしたら、漢字で表記したほうが美しく、そして想いも伝わる句もあるのです。
いくらあたしが、縦書きを想定して表記の選択に時間をかけても、カンジンの読み手が横書きとしてしか読んでくれなければ、全く意味がないどころか、逆効果になる場合もあるわけです。
先日、多摩川に鮎釣りを見に行った時の句をまとめ、WEB句集に「鮎の川」として発表しました。そして、色々な感想をいただきました。
最後に、その中で一番嬉しかった感想を転載して、今回の俳話を終わりたいと思います。
三伏の川面に紅を塗りなほす きっこ
飯田龍太「一月の川一月の谷の中」は一の寂しさでもあるわけですが、きっこさんの三と川は縦書きにした場合この二字がビミョーに響きあっています。紅を塗り直す気分は残念ながらわからないのですが、酷暑にこそ紅赤が際立つことでしょう。
俳句にハマればハマるほど、俳人は、俳句のことを考えている時間が長くなって行きます。俳句をやらない人と普通の会話している時でも、相手のセリフの中に俳句のネタになりそうな単語やフレーズが出てくれば、その瞬間に頭の中のメモ帳にキープしちゃったりします。テレビを見ていても、本を読んでいても、俳句に使えそうな物や言葉を発見したとたん、そのネタをキープしちゃうようになります。見ていたテレビや本をそこで中断し、そのまま作句に突入しちゃうツワモノどもが夢の跡‥‥じゃなくて、そんなツワモノどももいます(笑)
俳句を始めるまでは、何も気にもしないで歩いていた通勤や通学の道。でも、俳句を始めてからは、人の家の庭を覗いてみたり、ノラネコに声を掛けてみたり、道端の雑草の前にしゃがんでみたりと、まるで子供の道草のように、やたらと色々なものが気になり始めます。
どこかに出かけても、何かをしていても、色々なものに興味を持ってしまいます。
今までは、好きなものや関心のあることにしか目が向かなかったクセに、俳句を始めてからは、嫌いだったものや関心のなかったことにまで興味が湧いて来て、やたらとキョロキョロしちゃいます。
もちろん、これは良いことです。俳句を作ることに貪欲になり、様々なものに対して子供のような好奇心を持つことは、とても素晴らしいことです。
芭蕉が「俳諧は三尺(さんぜき)の童にさせよ」と言ったのも、子供のような好奇心を持ち、子供のような純粋な目で見るべし、と言うことなのです。
しかし、客観写生を提唱している俳人のほとんどが、残念なことに、コレを勘違いしているのです。
多くの俳人たちは、「俳句を作るためにモノを見ている」のです。
ようするに、対象を見ながら「俳句のネタ探し」をしているのです。
何かの目的のために対象を見るのであれば、いくら「子供のような好奇心」を持って見ようとも、その目は「子供のような純粋な目」ではなくなります。
例えば、夏の夜、蝉の羽化を目撃したとします。純粋な子供の目であれば、その神秘的な光景をただじっと見つめるだけでしょう。そして、子供の心は自然と一体化して、「自然の声」を聞くことができるのです。
しかし、常に「俳句のネタ探し」をしている俳人は、これは素晴らしいネタに出会ったと思い、「俳句を作るため」に脳みそをフル回転させながら、その光景を見つめます。ですから、蝉の羽化が終わるまで、頭の中には様々な言葉が次々と現れ、それらの言葉を組み合わせたり並べ替えたりと大忙し。これでは、「自然の声」など聞こえて来るはずがありません。
吟行会などでも、ほとんどの俳人は、「俳句のネタ探し」をしながらキョロキョロと歩き、これは!と思うものを見つけると、「何とかこのネタで一句モノにしよう!」となってしまいます。
投句数や投句時間に追われ、頭の中は雑念だらけ。「俳句を作る」と言う目的のために、脳みそは季語や単語やフレーズなどでパンパンなってしまい、カンジンの「自然の声」など聞こえるワケがありません。
本人は客観写生したつもりになっていますが、対象の声を聞かず、本質を写し取ることができていないのですから、テレビの画面で同じ光景を見て作句しているのと何も変わりません。
ほとんどの俳人は、こんなレベルの写生しかしていません。それは、結社誌や総合誌に発表される毎月の類想句の山を見れば一目瞭然です。
その句が写生句だと言うための大義名分を作るために、わざわざ現場まで足を運んでいるだけで、あたしに言わせれば、交通費や時間をムダにしているだけなのです。
雑念を捨て、目で見るだけではなく五感のすべてを研ぎすます。そして、対象を通して自然の声が聞こえて来るまで、静かに感じ続ける。
これが、客観写生を行なう上での「モノの見方」です。
とても難しそうに感じるかも知れませんが、あるコツさえ掴めば、ワリと簡単にできるようになります。
そのコツと言うのが、「見てから作る」と言うことなのです。
冒頭に書いたように、俳人と言うものは、何でもすぐに俳句のネタとして考えてしまいます。少し作句力がついて来ると、何も感じていないのに、見たものや聞いたことをネタに、ポンポンと句ができるようになって来ます。
ですから、吟行などで写生をする時でも、対象をネタのひとつとして見てしまい、自然の声が聞こえて来る前に、対象を見ながらサッサと作句してしまうのです。
俳句を作るためにモノを見ていたら、いつまで経っても本当の客観写生などできません。蝉の羽化を目撃した時に、この光景を何とか俳句に収めよう、何とか上手に十七音で表現しよう、と思いながら見続けていても、その気持ち自体が雑念となり、蝉の羽化の表面的な部分しか切り取ることができないのです。
俳句を作ろうと思うのは、見終わってからで良いのです。対象を見ている間は、俳句のことは頭から消し、子供のような純粋な目にならなくてはいけません。
それが、「見ながら作る」ことをやめ、「見てから作る」と言うことなのです。