古池や蛙飛びこむ水の音 芭蕉
この前の「ニイニイゼミ」の俳話が好評だったので、お約束通り、今回は、この句の「カエル」について、と言うか、この句についてのお話を書いてみたいと思います。
この句に登場するカエルは、何ガエルなの?
この古池って、どんな池なの?
「古池に」じゃなくて、なんで「や」で切れているの?
などなどの疑問が一発で解けちゃう今回の「トリビアの泉」‥‥じゃなくて「きっこの俳話」、とったもタメになるはずですよん♪
さてさて、前回のニイニイゼミの句は、即吟、つまり、おくのほそ道の道中、立石寺に立ち寄った際、その場で詠んだものですが、こちらのカエルの句は違います。
深川の芭蕉庵で、庭に背を向けてボケーッと横になっている時に、カエルが水に飛び込む音が聞こえ、それで「蛙飛びこむ水の音」と言うフレーズだけが生まれました。そして芭蕉は、そのフレーズをしばらく温めていたのです‥‥って言うか、上5が思いつかなくて、そのままにしていたのです。
時は貞亨3年(1686年)、芭蕉43才、おくのほそ道へと旅立つ3年ほど前のことです。
芭蕉庵って言うのは、もともとは、芭蕉の俳句仲間、杉山杉風の別荘なんです。日本橋に住んでいた杉風は、普段あまり使っていなかった深川の別荘を住むところの無かった芭蕉にタダで提供してあげていたのです。
あたしも、誰かがお部屋をタダで貸してくれたら、もっと俳句に没頭できるのになぁ‥‥(笑)
さて、その芭蕉庵の庭先にあった「カエルが飛びこんだ池」って言うのは、ホントは池なんて言う風流なものじゃなくて、魚のイケスだったんです。
これは、杉風が、大川(隅田川)で捕って来た川魚を入れて、飼ったり養殖したりするために使っていたのです。
それでは、その古池ならぬイケスは、どのくらいの大きさだったのでしょうか?
「火事と祭りは江戸の華」なんて言うけど、この句が生まれる4年ほど前、駒込のお寺から出火した大火事があって、その時、この芭蕉庵も類焼してしまったのです。燃えさかる庵から命からがら逃げ出した芭蕉は、このイケスに頭から飛び込んで、何とか難を逃れたのです。ですから、それなりの大きさのイケスだったことが推測されます。
もう一丁ついでに推測しちゃうと、もしかするとこの時、芭蕉は、『古イケス芭蕉飛びこむ水の音』 な~んて一句詠んでたかも?(笑)
さて、軽い「ギャ句゛」もはさんだことだし、ここでちょっと、今回の主役である「カエル」が、芭蕉以前には、歌の世界ではどのように扱われていたのか、少しルーツを探ってみましょう。
和歌の世界では、カエルは「カエルと言う生き物」としてではなく、ウグイスなどと同じように、その美しい「鳴き声」として詠まれています。
紀貫之は、「花に啼く鶯、水に棲む蛙の声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける」と言って、カエルの鳴き声をウグイスと並ぶ美声として絶賛しています。
つまり、和歌の世界で「かはづ」と言えば、青空球児好児みたいにゲロゲ~ロって鳴くカエルじゃなくて、美しい声のカジカガエルのことであり、そしてその声を指していたのです。
そして、カジカガエルは、ヤマブキの咲く場所に多く見られると言うことから、カエルを詠む時にはヤマブキを取り合わせる、と言うひとつのスタイルが出来上がったのです。
この時代の和歌を調べてみたら、「蛙」と「山吹」を取り合わせてある歌は、200首近くもありました。
この、「カエル=鳴き声」と言う解釈は、和歌から俳諧へと引き継がれて行きます。例えば、芭蕉以前の俳諧では、次のような句があります。
手をついて歌申しあぐる蛙かな 宗鑑
この山崎宗鑑の句は、和歌のようにカエルの歌声自体を詠んだものではありませんが、「手をついたカエルの姿が、まるで歌を歌っているようだ」と詠んでいるので、そこに和歌の流れが感じられます。
さて、話を貞亨3年の芭蕉庵に戻しましょう。
芭蕉庵には、杉風、其角、路通などの他に数人が集まり、恒例の句会が行なわれていました。その座の中で、芭蕉は、「蛙飛びこむ水の音」と言うフレーズを作ったのだが、なかなか上5が決まらない、どうしたものか、と句会のメンバーにアイデアを募りました。
そこで其角は、「古今集にも〈蛙なく井出の山吹ちりにけり~〉と言う有名な歌があるように、昔から、きっこと言えばルイ・ヴィトン、蛙と言えば山吹です。ですから上5は〈山吹や〉としたらいかがでしょうか。」と提案しました。
それに対して芭蕉は、「確かに、きっこさんにヴィトンのバッグはとても良く似合いますが、蛙に山吹と言う取合せは、ただ美しいだけで、逆にそのわざとらしい美しさがリアリティーを欠くことにつながってしまいます。」と言って、「古池や」と言う案を出したのです。
「それじゃあ当たり前すぎて、全然面白みがない。」と言う数人に向かい、芭蕉はこう言いました。
「蛙は、古く和歌の時代から〈鳴き声〉としてしか捉えられていませんでした。しかし私は、その鳴き声ではなく、水に飛びこんだ音を聞いた時に、そこに〈生〉を感じたのです。その音は、まさしく〈自然の声〉であり、静寂の中にその音が現れ、そしてまた静寂へと戻るほんの一瞬の間、私は〈自然〉と一体化したのです。〈山吹や〉と言う五文字は、風流で華やかですが、〈古池や〉と言う五文字は、質素だけれども〈実〉があります。」
こうして芭蕉は、叙情よりもリアリティーを選んだのです。
和歌の時代から、生命の歓びとしてではなく、風流な鳴き声として捉えられてきたカエル。そのカエルを生き物として捉え、鳴き声ではなく、水に飛びこんだ音を詠んだ芭蕉。
つまり芭蕉は、「蛙」と言う叙情だけだった季語に命を吹き込み、平面の世界から立体の世界へと、カエルをジャンプさせたのです。
そこには、生命の歓びとともに、季節に対する芭蕉の心があるのです。
それが、「古池や」なのです。
この古池‥‥とは言っても、ホントはイケスだけど(笑)は、決して、「古くひなびた池」と言う意味ではないのです。これは、新米が出回ったとたんに、それまでのお米が「古米」と呼ばれてしまうのと同じ解釈なのです。
つまり、季節が変わり、新しい春を迎えたことにより、そこにある池は「古池」と呼ばれてしまうのです。
そして、そこに春の生命であるカエルが飛びこんだことにより、その古池も、新しい春を迎えるのです。
ですから、「古池や」と上5を「や」で切り、詠嘆を与え、「前のシーズンの池」に対しての感慨を表し、そして一拍おいてから新しい春の使者、カエルを飛びこませることによって、その池も、ようやく春を迎えたと言うことを表現しているのです。
もしもこの句が「古池に」であれば、池もカエルも前のシーズンのままであり、新しい春はやって来ないのです。
さてさてさてさて、それではいよいよ本題の、このカエルは何ガエルだったのか?と言う疑問の解明へと突入いたしましょう♪
ど根性ガエルのピョン吉は、「トノサマガエル~アマガエル~カエルに色々あるけれどぉ~こ~の~世~で1匹っ! 芭蕉に詠まれたぁ~××ガエルぅ~♪」って歌っていますが、このチョメチョメの部分を解明すればいいのです。
これは、ニイニイゼミの時と同じように、生物学的にキチンと検証しなければなりません。
当時、芭蕉庵があった場所に分布していたカエルは、トウキョウダルマガエルとツチガエルの2種類しかいません。トウキョウダルマガエルは、トノサマガエルに良く似た外見をしていて、平均体長は、オスが60mm、メスが67mmです。
一方、ツチガエルは、体中にイボ状の小さな突起があることから、通称イボガエルと呼ばれており、平均体長は、オス41mm、メス50mmと、トウキョウダルマガエルよりも、ひと回りほど小さいのです。そして、その個体数としては、トウキョウダルマガエルの5倍以上も生息していました。
このあたりから推測すると、古池に飛びこんだのは、ツチガエルであった可能性が高いのです。
小泉八雲が、この古池の句を英訳してアメリカに広めた時、このカエルは「Frog」なのか「Frogs」なのか、つまり、一匹なのか複数なのか、と言うことで議論になりましたが、結局は一匹であった、と言う結論に達しました。
それは、「芭蕉は、とても小さい一瞬の音を聞き、そしてそれを〈自然の声〉と解釈し、新しい春の訪れを実感した。」と言うことからなのです。
300年以上も前のことだし、何よりも芭蕉自身が飛びこんだカエルを見ていないのですから、「絶対に××ガエルだった」と特定することはできません。
しかし、今まで述べたすべての状況から総合的に判断すると、生息数も多く、体の小さかったツチガエルである可能性が極めて高いと言えるでしょう。
芭蕉によって、和歌と言う閉鎖的な檻の中から開放されたカエルたちは、俳諧と言う自由な古池へピョンピョンと飛びこみ、元気に泳ぎまわることができるようになったのです。
春雨や蛙の腹はまだぬれず 蕪村
痩蛙まけるな一茶是にあり 一茶
青蛙おのれもペンキぬりたてか 龍之介
甕の水澄むや蛙の数匹の瞳 かな女
睡蓮の葉よりも青き蛙かな みどり女
青蛙ぱつちり金の瞼かな 茅舎
水中に逃げて蛙が蛇忘る 暮石
露の結界のどふくらかな青蛙 節子
あまがへる仏足石の凹みへぴよん きっこ
昨日、7月17日、井上かほりさんのHP「楽・ら句・俳句」が閉鎖しました。
あまりにも突然のことで、一番好きなHPだったので、あたしは言葉にできないほどのショックを受けています。
あたしと「楽・ら句・俳句」の出会い、と言うより、かほりさんとの出会いは、数ヶ月ほど前に遡ります。
色々な俳句のサイトを渡り歩いていたあたしは、ほうぼうで嫌な思いをしていました。あるサイトでは「句歴の長い人は、良く問題を起こすから」と言う理由で句会の参加を拒否され、またあるサイトでは、他人の句に対して、思ったことをストレートに言い過ぎたために反感を買い、吊るし上げられました。
あたしの覗いたほとんどのサイトが、歯の浮くような言葉でお互いの句を褒め合う馴れ合いサイトで、真剣に俳句をやりたいあたしにとっては、どこも時間の無駄でしかありませんでした。
そんな時、どこかのサイトのリンクから「楽・ら句・俳句」を知ったのです。
あちこちのサイトで嫌な思いをしていたあたしは、とても臆病になっていて、最初の書き込みをするまでに、2週間近くかかりました。その間、サイト内のすべてのコンテンツをくまなく見させてもらいました。初心者に対する、とても温かくて、それでいて適切な指導、掲示板における親切なレス、毎日のマメな更新‥‥。
そして、そのサイトの管理人の俳句に対する想い、人柄が見えて来たのです。
あたしは、匿名可の掲示板に、「こちらの句会は、投句せずに選句だけすると言うことはできますか?」と書き込んでみました。それは、あるサイトで、俳句歴が長いと言う理由で、投句を拒否された経験からでした。
こんなぶしつけな匿名の質問に対しても、管理人さんは、とても丁寧に答えて下さいました。それが、かほりさんとの出会いでした。
かほりさんの人柄を表すエピソードとして、こんなことがありました。
ある日、どこかのHPの宣伝コピーが、かほりさんの掲示板に貼り付けてありました。まったく俳句に関係ないHPのもので、無差別にペーストして回っていることが一目瞭然のコピーなのに、かほりさんはわざわざ相手のサイトを訪ね、キチンと中を見て、その感想まで書いていたのです。
あたしだったら、一読で削除してしまうような失礼なペーストに対してまで、ちゃんと対応していたのです。
しかし、どんなに人柄が良くても、俳人として尊敬できなければ、交流を持っても意味がありません。
あたしは、別にネットの「お友達」を探していたワケではなく、お互いに刺激し合い、磨き合い、勉強し合える俳人のいるHPを探していたからです。
そして、かほりさんのWEB句集「跣足の母」を読み、その感性の豊かさと俳諧性の高さに感動し、病気のお母さんをずっと看ていると言う背景があたしと同じなので、親近感まで持ってしまったのです。
インド象見てぶり返す春の風邪 かほり
恋猫の浅き眠りを跨ぎけり
たんぽぽや石の近くに火をおこす
ひりひりと昼の深まる蝉の殻
はめ外すかも重ね塗る寒の紅
三日月へ父の鉄砲たてかける
すべすべの穴より見れば月に黴
毛糸屋へ明るい電車乗り継いで
ががんぼに遊ばれてゐる目鼻かな
本降りとなる佐保姫のふくらはぎ
猫の子の跨いでゆきし通信簿
物申す胸に鴬餅の粉
鶏頭のぐらりと真昼ひき返す
故郷へわづか近づく栗拾ひ
八月の潮の匂ひや床柱
鶏小屋にすこし風ある雪月夜
こほろぎの顔羊羹に優る艶
春の野のわたしの羽化を見においで
鉢巻をほどけば葱の長さなり
砂に描く跣足の母を乗せる舟
まだまだ他にも、たくさん好きな句はありますが、一部だけ抜粋させていただきました。
どんなに疲れていても、毎日毎日、睡眠時間を削ってまでも大切に育てて来たHP、かほりさんの俳句に対する想い、そして集まって来る人たちに対する愛情がいっぱい詰まったHP、それが「楽・ら句・俳句」だったのです。
どんな事情があるにせよ、こんなに大切なHPを閉鎖しなくてはならないなんて、かほりさんの心情を想うと、切なくて涙が止まらなくなります。
「楽・ら句・俳句」と出会い、かほりさんをはじめ、たくさんの素晴らしい人たちと出会い、しりとり俳句やチャットなど、楽しい思い出もいっぱい作ることができました。
かほりさん、そして、「楽・ら句・俳句」と言う素晴らしい座に対して、心から「ありがとう!」
「楽・ら句・俳句」の復活を心待ちする会会長・きっこ
図書館註:井上かほりさんの「楽・ら句・俳句」を開くまでの十年間の句集は美しいPDFで保存しているのですが(おどろおどろしい「百物語」も)、まだリンクする方法を作成していないので、出来次第アップさせていただきます。
ここいらが江戸の中心豆をまく 井上かほり
まず、次の句を読んで下さい。そして、句の景を頭の中にイメージしてみて下さい。
海を見てそれからと言ふ初詣
さて、どんな景をイメージしたでしょうか?
あたしは、若いカップルが大晦日から元旦にかけてドライブして、海の近くの神社へと初詣に行った景をイメージしました。そして、初詣に向かう車内での、恋人どうしの会話のように感じました。
あたしと似たような景をイメージした人もいると思うし、全く違う読み方をした人もいると思います。
この句の作者は、石井則明さんと言う、ある結社の会員の方です。名前を伏せたのは、作者が男性か女性かと言うことによる、句に対する先入観を無くすためです。
俳人の夏井いつきさんも、何の予備知識も無くこの句を読み、あたしとほぼ同じ景をイメージしました。
そして、「新鮮で明るい句」だと思ったそうです。
いつきさんは、稔典さんの「船団の会」の同人で、自らも俳句集団「いつき組」を作って組長をハッている元気なお姉さんです。高校生たちに俳句の指導をしたりもしているので、他の俳人よりは、若い感性の句をたくさん読んでいるはずです。
つまり、いつきさんは、キャリアの面でも状況の面でも、俳句を鑑賞する力は申しぶんないはずです。
さて、それでは、この句の作者、石井則明さんの背景を紹介しましょう。石井さんは、千葉県の館山で、海辺の民宿を営んでいて、船で漁に出る漁師さんでもあるのです。この予備知識を持って、もう一度この句を読んでみて下さい。
海を見てそれからと言ふ初詣 石井則明
作者の背景を知ってから読むと、ペチャクチャとおしゃべりする若いカップルの楽しそうなドライブ風景は消え去り、初漁のために海の様子を気にかける、無口で無骨な漁師の表情が浮かんで来たでしょう。そして、「初詣」と言う季語の持つウエイトも、神様などたいして信じていない若いカップルの軽々しいものから、誰よりも信心深く、海に命を賭ける漁師の厳粛なものへと変わったはずです。
俳句は省略の文芸ですから、ある程度は、読み手によって違ったイメージに読まれてしまってもしかたありません。しかし、ここまで作者の意図したものと違った読み方をしてしまったと言うことは、作品の作り方に問題があるのでしょうか?
しかし、作者は、何の他意もなく、自分の心情を素直に句にしただけであり、そしてこの句は、この結社誌で、とても高く評価されているのです。
と言うことは、あたしやいつきさんの句を読む力が不足していたと言うことなのでしょうか?
岩鼻やここにもひとり月の客 去来
「去来抄」によると、この句の「月の客」とは、作者の去来は「他人」を詠んだと言っていますが、この句を読んだ芭蕉は、「作者自身」である、と解釈しています。
この例に対して、「去来の句がヘタクソなのだ」「いやいや、芭蕉の句を読む力が足りないのだ」などと議論できるでしょうか?
俳句とは、作者の意図に反した解釈が許される唯一の文芸なのです。つまり、初詣に行ったのは若いカップルでも漁師でも良く、月の客は他人でも作者でも良いのです。
素麺のからんからんと来たりけり きっこ
これは、先日、あるネット句会に出したあたしの句です。
その句会の主宰には、「(前略)素麺を提げて人が訊ねてきた、ということ。「からんからん」はさしずめ下駄の音あたりです(後略)」と解釈されました。
しかし、あたしは、お蕎麦屋さんで注文したお素麺が運ばれて来る時の氷の音を詠んだのです。正しく伝わらなかったのは、「からんからん」と言うオノマトペが失敗したわけではなく、「来たりけり」に問題があるのです。ただ「来た」ではなく、「運ばれて来た」とすれば、句意は正しく伝わったでしょう。
もちろん、投句する前に、この形では正しく伝わらない可能性が高いと思い、色々と考えてみました。
素麺のからんからんと運ばれり
こうすれば、お素麺の状態は分かりやすくなりますが、お素麺はあたしのところじゃなくて、よそのテーブルへと運ばれて行ってしまいます。
素麺のからんと運ばれ来たりけり
これでは、眼目の「からんからん」が消えてしまう上に、中8の字余りになってしまいます。字余りの句では、涼しさが半減してしまいます。
素麺のからんからんと運ばれ来
句意は正しく伝わりそうですが、切れ字による余情がなくなってしまいます。
そして、違った解釈をされる可能性があっても、あえて最初の形で投句したのです。なぜなら、あたしが一番伝えたかったことは、自分のところに「涼しさ」がやって来た、と言うことであり、「素麺」と「からんからん」だけを言っておけば、どのように解釈されようとも、その想いは伝わると判断したからなのです。
実際に、「下駄の音を鳴らして、素麺を提げた人が訪ねて来た」と読まれても、その想いは伝わっていると思います。
俳句では、「情報を正しく伝える」と言うことも大切ですが、それ以上に、「想いを正しく伝える」と言うことが大切なのです。
「情報」は十七音の言葉として、どの読み手の目にも見えるものですが、言葉にしていない作者の「想い」は、その十七音を手がかりにして、読み手に感じとってもらうしかないのです。
俳句は新聞記事とは違うので、極論で言えば、作者の意図した景とかけ離れた解釈をされても、その根底にある「想い」が伝われば、それで良い文芸なのです。
初心のうちは、自分の見たもの、感じたことなどを正しく伝えるために言葉を選び、省略し、推敲をしていますが、ある程度の作句力がついて来たら、今度は「自分の想いを伝えるための作句」を身につけて行くことが、次のステップなのです。
閑や岩にしみ入蝉の声 芭蕉
この句はとても有名なので、俳句をやっていない人でも、知っている人は多いでしょう。そして、俳句をやっている人なら、たぶん知らない人はいないと思います。
俳人ならば知っていて当然のこの句ですが、それでは、この句の中の蝉は、どんな声で鳴いているのでしょうか?
ミーンミーンミーン、ジージージー、それとも、オーシーツクツク、でしょうか?他にも、色々な蝉の鳴き声があります。
斎藤茂吉は、この蝉をジージージーと鳴くアブラゼミだと言いました。それに対して、小宮豊隆は、ニイニイニイと鳴くニイニイゼミだと反論しました。血気盛んな二人は、お互いに一歩も譲らず、口角泡を飛ばしながら、大論争を繰り広げました。
ジージーだ!いや、ニイニイだ!と言う、この子供のケンカみたいな、否、ジーさんとニイちゃんのケンカみたいな言い争いは、収拾がつかなくなり、結局、芭蕉がこの句を詠んだ時期に現場まで行き、実際に調べてみることになりました。
芭蕉がこの句を詠んだのは、元禄2年(1689年)5月27日、新暦に直すと7月13日になります。おくのほそ道のちょうど折り返し地点、尾花沢で紅花畑を見て、そのあと地元の人たちと句会をひらき、それから大石田までの山道の途中、立石寺(りっしゃくじ)で詠んだ句です。今で言えば、宮城県から山形県へ向かう山越えルートで、やっと山形に入った辺りです。
そして、7月13日、山形県の山奥にある立石寺まで足を運んだ斎藤茂吉は、その時期、関東以南では当たり前のアブラゼミが、まだ涼しいその地域には全然いないのだと言うことを知ったのです。
しかも、アブラゼミが一匹もいなかっただけじゃなく、茂吉の頭上では、小宮豊隆の勝利を祝福するかのような、ニイニイニイニイと言う大合唱が‥‥。
と言うワケで、芭蕉の「閑や~」の句に出て来る蝉は、ニイニイゼミなのです。この話、「トリビアの泉」に送ったら、「75へぇ~」くらい貰えるでしょうか?(笑)
さて、この茂吉と豊隆のセミバトルは、負けたほうがセミヌードになって、渋谷の駅前の電柱に上り、セミの鳴きまねをすると言う罰ゲームがありました。そのため、負けた茂吉は、男らしくフンドシ一丁で電柱に上り、渋谷の駅前交番のお巡りさんに、こっぴどく叱られたとか叱られなかったとか(笑)
こんな話、知らなくたって、俳句を鑑賞することはできるぞ!‥‥と言う人もいると思いますが、それでは、次の句を読んでみて下さい。
蝉の声怒る茂吉を敬はむ 波郷
この石田波郷の句は、もちろん二人のセミバトルを踏まえた上で、詠まれた句なのです。そして、当初は頭から湯気を立てて、部屋の湿度を保ちつつ、カンカンに怒っていた茂吉が、ちゃんと現場検証をして、自分のほうが間違っていたと分かったら、キチンと罰ゲームを受けたと言う潔さを讃えているのです。
俳句と言う底なし沼は、一度足を踏み入れると、なかなか抜け出すことができません。あたしみたいに首まで埋まっていると、二度とシャバには戻って来れません。
でも、底なし沼に埋まった全身の毛穴から、俳句に関する全てのことを吸収し続けているので、前出の波郷の句を見た瞬間に、「あっ!これは茂吉と豊隆のセミバトルのことだな♪」って、すぐに分かるのです。
こんな楽しいことがあるから、ますます沼から出られなくなっちゃうけど、泥はお肌にいいって言うし、美容のためにも、まだまだ俳句の底なし沼に埋まっているつもりです♪
さて、芭蕉と言えば、もう一句、俳人じゃなくても知っている有名な句があります。
古池や蛙飛び込む水の音 芭蕉
「閑や~」の蝉がニイニイゼミなら、この「古池や~」の蛙は、何ガエルなのでしょうか?
これにも、ヒキガエル説、ウシガエル説、アマガエル説などがありますが、こちらの句に関しては、まだ解明されていないのです。
ちなみにあたしは、環境カウンセラーの田中進氏のツチガエル説を支持していますが、このお話は、また次の機会に♪
俳句とは、もともと連句から発生したものなので、随所に連句の流れをくんでいます。それは、季語や切れ字などの作句上の決め事だけでなく、俳句を作る「座」と言うスタイルにも受け継がれています。
俳句が他の詩型と違い、詠み手と読み手がいないと成り立たないと言われているのは、つまりは「座の文芸」だからであり、それは、詩型のスタイル以上に連句の流れをくんでいる部分なのです。
しかし、座のメンバーが心をひとつにして一巻の歌仙を巻いて行く連句の共同作業と違い、俳句の座は、隣の席の俳人がライバルだったりします。月例句会ともなれば、周りは全員敵ばかり、と思っている気の毒な俳人もいるほどです。
と言うワケで、今回の俳話は、「現代俳句の座」と言うものについて、チャーリーズ・エンジェルきっこが、今日もフルスロットルで書いて行きたいと思います。
連句の座では、皆で協力して大きなパッチワークを作るように一巻の歌仙を巻いて行くので、同じ色や似たような柄の生地が並ばないように、常に心がけなくてはなりません。連句で一番重要なことは、なるべく前の句から転じ、どんどん新しい世界へと変化して行くこと、つまり、Like a rolling stone! 常に転がり続けよ! と言うことが命題となります。
連句を知らない人のために簡単に説明しておきますが、連句、つまり歌仙を巻く座では、参加者の出した句を「捌(さば)き」と呼ばれる審判役の人が選び、575、77、575、77と、次々につなげて行きます。連句のルールにのっとり、前の句から転じた句を参加者が短冊に書き、テーブルの真ん中にどんどん出して行き、その中で一番良いものを捌き役の人が選ぶのです。選ばれる句は、もちろん1句だけなので、テーブルの上の残りの句は、全部捨てられます。
そして、その次の句へと進んで行きます。
俳句の座で、この連句の句作に一番近い状況と言えば、席題を出された題詠の即吟でしょう。座に集まったメンバーが、同じ題で、その場で句を作り、そして選者が甲乙をつけるのです。
しかし、ここに、連句と俳句の決定的な違いがあるのです。連句は、出来上がった一巻の歌仙が参加者全員の作品となるわけですから、例えばある場所で自分の句が選ばれなくとも、悔しく感じたりすることはありません。それどころか、別のメンバーが自分よりも何倍も素晴らしい句を作り、捌きがその句を選べば、その歌仙自体の作品としての質が上がるので、自分も嬉しいのです。
俳句の場合は全く反対で、他の参加者が素晴らしい句を作り、それが選者の目に止まれば、「ヤラレたっ!」と思うでしょう。
そして、もう一点、座における違いがあります。それは、選句です。
俳句の場合は、もちろん選者の好みや感性にもある程度は左右されますが、基本的には、優秀な句が選ばれます。これは、俳句に限らず、他の世界でも同じことでしょう。
しかし、連句の場合は、必ずしも優秀な句が選ばれるわけではありません。連句では、一句一句は、まだ作品ではありません。一巻の歌仙が出来上がり、初めて作品となるのです。
前の句やその前の句との兼ね合い、バランス、それまでの流れなどを考えて、捌きが次の句を選んで行きます。ですから、どんなに素晴らしい句があったとしても、その句が選ばれるとは限りません。
発句から挙句まで、全てナンバーワンの句を選んで行ったら、起伏のない、息の詰まった歌仙になってしまいます。やわらかい句があるから強い句が引き立ち、俗語の句があるから古語を使った句を雅やかに感じるのです。
ですから、常に全力で自分らしい句を作っていればいい俳句の座と違って、連句の座では、それまでの流れを読みつつ、時には50%の力で作句したり、自分のスタイルと違う句を作ったりと、俳句の何倍ものフレキシブルな創作能力が必要となります。そうでなければ、どんどん前の句から発想を転じて、新しい世界へと進んで行くことなどできないのです。
この、連句の付け合いを次々と転じて行くためのポイントを、「七名八体(しちみょうはってい)」と言って、連句の座では、参加メンバーはもちろん、メンバーの膝の上で眠っている猫でも知っているほどの常識です。
「七名」と言うのは、句の構想の立て方のポイントで、有心、向付、起情、会釈、拍子、色立、遁句の七つから成り立っています。また「八体」と言うのは、七名に基づいて実際に句を作る方法で、其人、其場、時節、時分、天相、時宜、観相、面影の八つで構成されています。
連句の座では、この七名八体をベースにして、捌きと言う水先案内人を先頭に、参加者全員が力を合わせ、歌仙と言う海を渡って行くのです。
この七名八体をひとつひとつ説明してたら、それだけで俳話が終わってしまうのでトットと先に進みますが、俳人のあなたは、ここまでの話から、「連句って大変そう!俳句にしといて良かった!」ぐらいのことを学べば良いでしょう(笑)
さて、あたしは最初に、「連句は自分の句が選ばれなくても、悔しくはない」と書きましたが、実は、必ずしもそうではありません。もちろん、一巻の歌仙として素晴らしい作品を完成させることが大前提ですが、やっぱり人間ですから、自分の句が選ばれるに越したことはありません。
連句は連歌をルーツとしていますが、連歌の座の基本は、「風雅を基調とした連帯感」でした。
しかし、雲の上の貴族たちのお遊びである連歌に、中指を立てて、ツバを吐き、庶民の娯楽へと引きづり降ろしたものが俳諧、つまり連句ですから、使う言葉だけでなく、その座のあり方にも「通俗」が見られるようになって来ます。それが、メンバー同士での付け句の優劣の競い合いなのです。
「皆で力を合わせ、一巻の歌仙として良い作品を完成させる」と言う概念は、詩型のスタイルから生まれる必然と言うだけではなく、古く連歌の流れを引いたスピリチュアルな部分でもあるのです。
その反面、各個人が自分の句を選んでもらおうと競い合う、通俗的な精神は、そのまま俳句へと流れて行ったのです。
つまり、より良い付け句を作るために考えられた「七名八体」は、視点を変えて見れば、座のメンバー同士が競い合うために生まれた方法論であり、風雅が通俗へと変化して行く過程での副産物だったのです。結論として、「座」のあり方として捉えた場合には、風雅の極みであった連歌の座から、風雅を残しつつも「七名八体」と言う通俗が介入して来た連句の座、そして、人と競い合うことを主軸とした、通俗の極みである俳句の座へと変化して来たのです。
芭蕉は「風雅の誠」を唱え、芭蕉以降の俳人たちもそれぞれにご立派なことを口にして来て、現在では、「趣味は俳句です」なんて言うと「ほほう!」なんて感心されちゃう世の中になったけど、その俳句が、「他人と競い合う」と言う、風雅とはほど遠い、通俗の極みの座で作られてるなんて、当の俳人本人も気づいてなかったりして!(笑)
俳句のルーツは、貴族たちの連歌に中指を立てた俳諧なわけだし、その俳諧の通俗性をさらに突出させたものが俳句なんだから、その俳句が生まれる座が通俗の極みであることは、当たり前のことなのです。ですから、嘘や嫉妬が渦巻く句会と言う座に通い、二枚舌の主宰のもと、自分の通俗性を極めて行けば、現代俳句と呼ばれている虚の世界へと行き着くことができるのです。
あたしは、芭蕉を師だと思っているし、作句の基本を「不易流行」と定めているので、そんな結社はトットと辞めちゃったけど(笑)
お風呂に入って、顔を洗い、体を洗い、髪を洗ったら、濡れた体にバスタオルをくるっと巻き、冷蔵庫へ。
フリーザーから、凍らしてあるロックグラスとビーフィーターのジンを取り出し、大きめの氷をひとつ入れ、とろとろに冷えているジンを半分ほど注ぐ。冷蔵庫のドアポケットからライムを出して、ジンの半分ほどの量を注ぐと、濃いめのジンライムの完成だ。
短夜やライムの底にジンの揺れ きっこ
急いでバスルームに戻り、バスタブのお湯をぬるめにして、通常の三倍ほどのバスクリンを入れる。そして、照明を消し、ブラックライトに切り替える。ブラックライトは、システムごと買うと高いので、東急ハンズで部品を買って来て、自分で組み立てたものだ。
まっ暗なバスルームの中で、バスクリンを入れたお湯だけが、ブラックライトの効果で、蛍光塗料のように発光し始める。その光る液体の中へ、ゆっくりと体を沈める。
青白きブラックライトといふ白夜 きっこ
防水のためにジブロックに入れてあるリモコンを操作して、MDを動かす。バスルームの中に、フェイ・ウォンの「夢中人」の広東語バージョンが、大きな音で流れ始める。英語よりも、フランス語よりも、日本語よりも、やっぱり広東語が一番美しいと思う。
発光する生ぬるい液体に胸まで浸かり、グラスの氷を指で回し、キンキンに冷えたジンライムを喉に流し込む。グラスをバスタブの縁に置き、肩まで体を沈め、目を閉じる。リピートボタンを押してあるので、「夢中人」が何度も繰り返される。
三度ほど繰り返されたところで頭の中の雑念が消え、心の中のさざ波が、静かな凪へと変わって行く。
夕凪や十分間のキスの果て きっこ
バスルームの棚から綿棒を取り、たっぷりとシーブリーズを染み込ませ、耳そうじをする。残りのジンライムを飲み干し、またバスタブに肩まで浸かり、目を閉じる。スースーする両方の耳の穴に、天使のようなフェイの歌声が吸い込まれて行く。
もはや、バスタブの中は羊水となり、あたしは胎児となって、プカプカと浮かんでいた。
羊水に揺られて夏の果実かな きっこ
フェイの歌声に包まれながら、あたしは、この世に生まれてから今までのことを早送りで感じ、そしてそのイメージは現在を通り越し、自分が死に、そしてまた別の命に生まれ変わり、また死に、また生まれ変わり‥‥
そのまま、どれくらいの時間が過ぎただろうか。
ハッと我に返ったあたしは、リモコンの入ったジブロックを手に取り、MDをEnya(エンヤ)のアルバムに変えた。Enyaの曲は、加速していたあたしの前頭葉を少しづつ通常の速度に戻してくれる。
そして、断片的な過去の記憶がジクソーパズルのように組み合わさり、現実の世界へと戻って来る。
夏の夜の港へ帰り来し湯舟 きっこ
それなりに名前の残っている俳人は、その作品だけでなく、それなりの俳論を残しています。まあ、たいていは自分の先生のウケウリだったり、自分も実践できてないことを偉そうに書いてみたりって感じで、その俳人の作品と俳論を並べて見てみると、ガクッと来ちゃうことが多いんだけど、中には、ちゃんと自分の理論を実践している俳人もいます。そう言った俳人の俳論は、一応はスジが通っているので、目を通しておくべきでしょう。
とは言っても、俳句を始めたばかりの人たちには、どれが本物の俳論で、どれが実践のともなわない偽者の俳論か分からないと思うので、俳壇のチャーリーズ・エンジェル、きっこが、ビルの上から爆風でふっ飛ばされながら、解説しちゃいましょう♪(笑)
とゆーワケで、今回の俳話は、そこそこタメになる秋元不死男の「もの説」について、サクサクッと書いてみたいと思います。
秋元不死男と言えば、俳話「不死の男」でも紹介したように、「天才バカボン」の赤塚不二夫、「ドラえもん」の藤子不二雄とともに、「文学界の三大フジオ」と呼ばれています。
ちなみに「日本の三大祭り」と言えば、青森のねぷた、博多どんたく、そして、ヤマザキ春のパン祭りですが、あたしは今年もシールを25点集めて、白いお皿をもらいました♪
さて、毎度おなじみのクダラナイ前置きで、頭の準備運動が済んだと思うので、そろそろ本題に入りたいと思います。
不死男の「もの説」とは、「俳句」誌の昭和29年9月号に発表された6ページほどの俳論で、その主軸となるものは、冒頭の文章を引用すると、「俳句は、ものに執着しないと崩れてしまう」と言う考え方です。
この「もの」と相対するのが「こと」であり、不死男は、俳句と言う短詩型においては、「こと」、つまり「ことがら」を詠むのではなく、そこに存在する「もの」自体を詠まなければならない、と言っているのです。
その理念を実証する分かりやすい例として、不死男は次の自句を挙げて説明しています。
少年工学帽かむりクリスマス 不死男
時代背景の違う現代の人たちには、何のことだかサッパリ分からないと思うので、簡単に句意を説明しましょう。
当時は、学費が払えずに学校を辞め、働きに行かなければならない子供たちがたくさんいたらしいのです。そして、この少年も、家が貧乏なために、学業が続けられず、工場に働きに行くことになりました。
しかし、道行く人たちにはそれを悟られたくなくて、学校に通っているフリをするために、学帽をかぶって工場に通っていたのです。現代よりも貧富の差が激しく表れる「クリスマス」と言う季語が、そんな少年の姿をより一層感慨深いものにしています。
この句は、初めは次の形でした。
少年工学帽古(ふ)りしクリスマス
この句を師の西東三鬼に見せに行ったところ、風邪をひいて寝ていた三鬼は、水枕からガバリと起き上がり、こう言いました。
『学帽を「古りし」などと言ったら、学帽をかぶっているのか、手に持っているのか、壁に掛けてあるのか、読み手には全く分からない。「古りし」などと言う「ことがら」を詠んで自分の思いを伝えるのではなく、そこに何が見えたのか、その「見えたもの」をそのまま詠めばいいのだ!なのだったら、なのなのだ!』
そして不死男は、目からウロコとソフトコンタクトが落ちてしまったのです。
実際に、その少年の学帽はボロボロだったのかも知れません。しかし、その学帽の古さを言葉にすると言うことは、その少年に対する作者の必要以上の思い入れであり、つまりは読み手に対して、作者の主観を押し付けることになってしまうのです。
そしてそれが、結果として、状況を湾曲して伝えることにもなってしまうのです。
作者の目に映った「もの」、それは、ただ「学帽をかぶって工場へ通う少年」であり、その学帽が「古びている」と言うことは、その「もの」にまつわる「こと」なのです。
この一例から不死男は、短詩型において「こと」で概念を説明していたら、時間ばかりかかってしまい俳句の形が崩れてしまう、一瞬を切り取る俳句では「もの」に執着せざるをえない、と言う「もの説」を導き出したのです。
そして、その「もの説」を原稿用紙に書く時に使ったのは、もちろんトンボ鉛筆の「モノ」なのです(笑)
不死男が、この「もの説」に辿り着いた背景には、若い頃から思い入れの強い主観的な句ばかりを作り、さらには「読み手を感動させよう」などと言う水原秋桜子バリのスケベ根性があったため、平畑静塔に「秋元不死男の俳句は舞台を演出して作っている」と批判されたことが挙げられます。
まあ、不死男の場合は、秋桜子と違い、早い時期に自分の方法論の間違いに気づき、サッサと軌道修正したので、良い作品をたくさん残せたし、とても良かったと思います。
左脳を使って想像で作る俳句は、「何がどうしてどうなった」と理屈に流れやすく、つまりは「ことがら」を詠んだ「こと俳句」になりがちです。また、目の前の対象を見て作る写生句でも、主観や観念のフィルターを通して写生していれば、偏った観察眼による「ことがら」が発生し、作者の思い入れに味付けされた「こと俳句」になってしまうのです。これらの「こと俳句」は、作者の観念が邪魔をするため、読み手がイメージ化しにくく、句意すら伝わらない場合もあります。
それに比べ、目の前の「もの」を客観的にそのまま切り取る「もの俳句」は、読み手にも景がハッキリと見え、ゆるぎないリアリティーを持ち、そして、季語や描写の中の「もの」などが、ちゃんと作者の思いを伝えてくれるのです。
「もの俳句」を読んでも何も伝わって来ないと言う人は、残念ですが、まだまだ俳句を読む力、つまりは作る力も足りないと言うことなのです。
三月やモナリザを売る石畳 不死男
人間の大脳は、右脳と左脳に分けられますが、それぞれに機能が分担されています。右脳は、音楽や図形などに関するイメージ機能をつかさどり、感覚的、直感的、具体的なアナログシステムです。そして左脳は、計算や分析などに関する言語機能をつかさどり、観念的、理論的、抽象的なデジタルシステムです。
日常生活では、右脳と左脳を適度にバランス良く機能させていますが、どちらかの脳だけをフル回転させる場合もあります。
例えば、デザイナーが図案を考えている時は、芸術的な右脳の活動が極めて活発になります。そして、出来上がったデザインを持ってクライアントのところへ行き、プレゼンテーションする時には、今度は理論的な左脳が大活躍するのです。
このように人間の思考システムは、その時の状況によって、右脳と左脳をうまく使い分けているのです。
しかしそれは、意識して切り替えられるものではなく、自動的に状況に対応しているのです。
俳句は詩、つまり芸術でありながら、五七五の定型に収めたり、季語と描写のバランスを考えたりと、パズルのような数学的要素を多分に含んでいます。そのため、右脳の機能を中心として作る音楽や絵画と違い、右脳も左脳も同じように機能させて、初めて一句が生まれるのです。つまり、俳句と言う定型短詩は、他の創作活動とは、少し異質なものと考えられます。
この、左右の脳を使う特殊な創作活動には、長所と短所があります。
良く「俳人は長生きする」とか「俳句はボケ防止に良い」とか言われていますが、これは右脳も左脳も平均して使う俳句を続けていれば当たり前のことであり、80代、90代の俳人たちの頭の回転の速さ、切り替えの速さ、適応力などは、どれをとっても素晴らしいものがあります。
しかし、他の創作と違い、観念的、理論的、抽象的な左脳も活躍する俳句の創作では、ちょっと器用な人なら、右脳を使わずに、左脳だけで俳句を作ることが可能なのです。これは、他の創作活動では考えられないことであり、これが左右の脳で創作する詩の持つ短所なのです。
俳句の創作は、両方の脳を使うと言っても、対象を見て、感じて、頭の中にイメージを描くと言う一番大切なことは、他の創作と同様に右脳を使います。そして、そのイメージを十七音にまとめる段階で、左脳を使うのです。
しかし、器用な俳人は、本来は右脳の仕事である「頭の中にイメージを描く」と言う部分までも左脳に任せているのです。つまり、何も見ず、何も感じていないのに、器用に左脳を使い、まるで見たような、感じたような虚のイメージを頭の中に描き、そしてそれをまたまた左脳によって、十七音にまとめるのです。
こう言った「左脳俳人」は、初心者から結社の主宰、月刊俳句誌の選者に至るまで、呆れるほどたくさんいます。しかし、一番多いのが、俳句を始めて数年の俳人たちなのです。それは、左脳俳句ばかり作っていると、最長でも10年くらいで、自分の続けて来た自慰行為に虚しさを感じ始め、やっと客観写生に目覚めるからです。とは言え、筋金入りの自慰野朗は、結社の主宰になっても、まだ左脳の中で右手をシコシコと動かしてますけど(笑)
世の中には、器用な人と不器用な人がいます。それは、手先の細かい作業であったり、初めての場所に順応する能力であったり、様々な方面に及んでいます。そしてもちろん、俳句の世界にも、器用な人と不器用な人がいます。
器用な人の多くは、自分が器用であると言うことを分かっていて、一歩間違えると、「自分は他人よりも優れている」なんて思ってる人もいるのです。
そう言う自信過剰の左脳俳人たちは、他人からの評価をとても気にしています。ですから、俳句に興味を持ち、俳句の結社に入ったりすると、とても熱心に勉強します。しかしそれは、俳句の技術的なことや、どうしたら主宰に評価されるか、と言った、俳句の本質から外れたことばかりなので、結社内では短期間で評価されるようになりますが、あたしに言わせれば、まだ俳句の階段の一段目にも足が掛かっていないのです。
左脳だけで俳句を作る器用な左脳俳人たちは、あまり長い期間ひとつの結社に在籍せず、たいていは数年で辞めてしまいます。それは、自分では色々とモットモらしい理由を述べますが、ようするに俳句の本質から外れたレールを進んでいるために、結社での創作に限界を感じてしまうからなのです。
そして、自分の方法論に疑問など持たない自信家の左脳俳人は、同じ左脳俳人たちと、左脳だけで俳句を作る座を作ります。
左脳俳人たちのスゴイところは、吟行に行っても左脳で俳句を作るのです。目の前に対象があっても、それを見て感じる過程において、それらの視覚的、聴覚的な情報は、カンジンの右脳を素通りし、左脳へと流れます。そして、「高得点を取るためには」「人をアッと言わせる言い回し」などのフィルターを通り、せっかくの一期一会の現実風景が、虚の左脳俳句へと変換されてしまうのです。
左脳俳人にとっては、目の前にある風景や植物も、ただの記号でしかありません。「ただ、そこに、それが、あった」と言う記号として捉え、その情報はデジタル化され、左脳へと送られます。ですから、吟行に行っても歩くのが速く、一ヶ所に長時間立ち止まることはありません。
左脳俳人の多くは、山頭火や放哉が好きです。有季定型俳句を実践しながらも、無季や自由律にも造詣が深く、客観写生をどこかで小バカにしています。
しかし、頭の良い彼らは、正面から客観写生を否定して、むやみに敵を増やすようなことはしませんし、それどころか、お得意の左脳をフル回転させて、山口青邨のように見て来たようなウソの写生句を器用に作ります。また、有季定型の句会にワザと自由律気味の句を投句して、座の様子をうかがってみたりもします。
これも、観念的で理屈好きの左脳俳人ならではの、子供じみた楽しみのひとつなのです。
左脳俳人は、普通の俳人よりも何倍も器用だし、語彙も豊富だし、頭の回転も速いのです。だって、それが彼らの武器ですから。
だから、何も見ずにポンポンと面白い俳句を作ることができるのです。
ネットでも、左脳俳人の集まるサイトは、面白い句がたくさんあり、似たような句ばかりの写生句のサイトなどよりも、覗き見すると楽しめます。
普通の生活をしていたら、数年に一度くらいしか出会わないような珍しい出来事が、左脳俳句の世界では、連日起こっているのです。
ですから、どんなにキチンと作られていてもリアリティが感じられず、どんなに立派に見えても軽薄で、ようするに「お~いお茶」の俳句ごっこに毛が生えたような俳句モドキばかりで、とうてい詩と呼べるシロモノではありません。
それは、俳句の本質、詩の本質が全く分かっていないからであり、彼らの俳句に対するスタンスは、アニメヲタクが実際の恋愛の代償行為として美少女フィギアを溺愛するのと同じレベルなのです。
しかし、加速度的に衰退して行く俳句界の中で、唯一増殖し続けているのが、清水哲男さんの「増殖する俳句歳時記」と、俳句の本質から外れた左脳俳人たちだけなのです。何度も言うように、左脳俳人たちはとても器用なので、様々な姿に化け、色々な場所に潜んでいます。
世を忍ぶ仮の姿として客観写生を提唱する結社に所属し、左脳をフル回転させて、行ったこともない場所や見たこともない花の句を作ったりしている左脳俳人もたくさんいます。
俳句には「実」も「虚」もありますから、左脳だけで虚の句を作ることが悪いことだとは思いません。しかし、「実」の世界があるからこそ「虚」の世界もあるわけで、虚の句だけを作り続ける、つまり、バーチャルリアリティーの世界に身を置き続けると言うことは、ただの現実逃避であり、所詮は自慰行為なのです。
あたしが客観写生を提唱し続けているのは、ひとりでも多くの俳人が、左右の脳をバランス良く使った健全な俳句の道へと進んで欲しいからなのです。
衣食住や音楽、絵画などの世界だけでなく、俳句の世界にまで左脳俳人と言うセイヨウタンポポが増殖し始めた昨今ですが、あたしは、いつまでもヤマトタンポポでありたいと思います。
《恒例のおまけコーナー(笑)》
左脳俳人の作った写生句と、左右の脳をバランス良く使って作った本物の写生句を比べてみたければ、現在発売中の「俳句あるふぁ」6・7月号の29ページを参照して下さい(笑)
図書館註:2003年(平成15年)6月7月号の『俳句αあるふぁ』の29頁を掲載。ルビは原文のまま。俳句七句に短い吟行の様子が付いているが、作品のみ全句掲載で最小限どこで詠まれたかのみ付記。
雲南(うんなん) 中原道夫
耕して天を降り来るところかな
春逝かぬ国なり天蚕糸(てぐす)垂らしをり
嶺々(ねね)斑雪(はだら)酸素買ふとは思はざり
西蔵(チベツト)はすぐそこ雪嶺阻(はば)めども
茎立(くくたち)やあくがれ出づる都はも
バスガイド麗日よどみなくつかふ
碩学(せきがく)や田螺(たにし)に顎(あぎと)遣はるる
中国雲南省は麗江(れいこう)・大理(だいり)標高二千米の海外吟行。
斑雪山(はだらやま) 辻桃子
斑雪山種屋の前でバス待つて
笹起きて鳥見るための椅子一つ
雪解や鶫(つぐみ)の胸の白と黒
ゆかるみをゆく白鳥のところまで
貝焼の火を点け小さく風起こる
不器男忌は今日であつたか小雪飛ぶ
またもとの椿の下で別れけり
三月十日、南津軽。
俳句を書く場合の平仮名は、「あいうえお」の現代仮名遣い、つまり新仮名と、「いろはにほへと」の歴史的仮名遣い、つまり旧仮名があります。これは、どちらを使っても構いませんが、どちらかに統一しなくてはなりません。同じ作者が、句によって新旧の仮名を使い分けたりすることは許されませんし、ましてや、一句の中に両方の仮名が混在するなどと言うことは、言語道断、傍若無人、焼肉定食、麻婆豆腐って感じです(笑)
俳話の「神々の宿る言葉」の項に書きましたが、新仮名は46文字、旧仮名は「ゐ」と「ゑ」が増えて48文字ですが、たった2文字の違いが格段の表現力の違いにつながるので、あたしは旧仮名を使っています。
好きで新仮名を使っている人は、別にそれで良いと思いますが、本当は旧仮名を使いたいのに、難しそうだから、良く解からないから、と言う理由で仕方なく新仮名を使っている人も多いと思います。
今回の俳話は、そう言った人たちのために、『ネコにも解かる旧仮名講座』をお届けしましょう♪
まずは、旧仮名にしかない「ゐ」と「ゑ」についてです。同音の「い」と「え」は「あ行」、つまり「あいうえお」に含まれていますが、「ゐ」と「ゑ」は「わ行」、つまり「わゐうゑを」に含まれています。
動詞に使うのは、「ゐ」は「用ゐる」「率ゐる」の二つだけ、「ゑ」は「植ゑ」「飢ゑ」「据ゑ」の三つだけ、これ以外の動詞には使いませんので、この五つだけ覚えておけば完璧です。
ね!ネコにも解かりそうでしょ?(笑)
続いては、一番間違いの多い「追い」→「追ひ」などの「あいうえお」が「はひふへほ」に変化するものについて、「はひふへほ」の権威、和田アキ子さんとアシスタントのバイキンマンさんに説明してもらいましょう。
「追ひ」は正解だけど、「老ひ」は間違いです。「老い」は旧仮名でも「老い」なのです。そのままでいいのか、それとも「は行」に変わるのか、簡単に見分ける方法は、活用形を変化させてみれば良いのです。
たとえば「追い」の場合は、「追う」「追え」となります。つまり、「い・う・え」と言う「あ行」の活用形なので、「追ひ」「追ふ」「追へ」と、どの形でも「は行」に変化できるのです。でも「老い」の場合は、「老う」とは言いません。「老ゆる」となります。これは「やいゆえよ」の「や行」の活用形ですから「は行」には変りようがないのです。
ひとつの動詞が、活用形によって「は行」に変ったり変らなかったりすることはありませんから、解からない場合は、他の活用形にしてみれば良いのです。
「老い」は、ちょっと難しく言うと「や行・上二段活用」と言う活用形に分類され、この仲間は、他に「悔い」と「報い」だけなのです。
この他に間違えやすいのは「や行・下二段活用」のグループです。たとえば「冷え」「消え」「見え」などですが、これらは「冷やす」「冷ゆる」「冷える」のように、「あいうえお」でなく「やいゆえよ」と変化しますので、旧仮名でもそのままで良く、「はひふへほ」に変えてしまったら間違いになります。他にも「甘え」「絶え」「萌え」などがこのグループで、全て変化しません。たまに「消へる」「萌へる」などと書いている人がいますが、これは間違いです。
つまり、「あいうえお」と変化して行く「あ行」の活用形のものは、すべて「はひふへほ」に変わり、「わ行」のものは「ゐ」と「ゑ」に変わり、それ以外の活用形のものはそのまま、と言うワケなのです。
でも本当は、一番良いのは、解からなかったり自信がなければ、そのつど辞書を引くことです。たいていの国語辞典には、旧仮名で変化するものには、「追う(オフ)」と書いてありますので、何度も辞書を引いているうちに、自然と覚えて行きます。
さて、続いては、名詞です。俳句を書く上で名詞と言うものを考えると、季語と季語以外のものに大別することができます。季語の場合は、歳時記を見れば、「紫陽花/あじさい/あぢさゐ」「鬼灯/ほおずき/ほほづき」などのように、漢字、新仮名、旧仮名と全て書かれているので、すぐに分かります。問題は、季語以外の名詞の場合です。旧仮名での表記は、国語辞典には動詞や形容詞だけ、歳時記には季語だけしか載っていないので、それ以外の名詞などを調べる場合には、古語辞典が必要になります。
古語辞典は、国語辞典と同じくらいの価格で、小型のものでも1500円から2000円程度します。ですから、もし購入するのなら、絶対に古本屋さんがオススメです。
あたしは10年以上前に、高円寺の古本屋さんで300円で買いましたが、今でも町の古本屋さんなら300円から500円、チェーン店のBOOK OFFに行けば、程度の良いものが500円から700円で手に入ります。
古語辞典は、もちろん辞書としての活用が目的ですが、歳時記と同じように、読み物としても面白いのです。パラパラとめくっていると、昔の面白い言葉が色々と出て来て、俳句のネタになるのです。
「ちょうちょう」が「てふてふ」、「しずか」が「しづか」くらいは、別に旧仮名を使っていなくても知ってると思うけど、旧仮名で俳句をやっていても、多くの人が勘違いしている言葉もあるのです。たとえば、「かおり」を「かほり」と書く人を良く見かけますが、「ら句・楽・俳句」の井上かほりさんには申し訳ないのですが(笑)、正しくは「かをり」と書くのです。
ですから、手元に古語辞典を置き、分からなければすぐに引く、ヒマさえあればパラパラを踊る‥‥じゃなくて、パラパラとめくる、と言うクセをつけておくと、旧仮名がどんどん身について行く上に、勘違いして覚えていた旧仮名表記に気がついたり、思わぬ俳句のネタを拾ったり、現代生活を送っていては絶対に出会わないような語彙が増えて行ったりと、いいことづくめなのです。
それにしても、『ネコにも解かる旧仮名講座』とか言っておきながら、結局は古語辞典を買って自分で調べろって言うんだから、あたしって、ヤッパ無責任なのでせうか?なんて、最後だけ旧仮名で書いてみたりして♪(笑)
《おまけコーナー》
今回の旧仮名については、やはり文章だけだとなかなかうまく説明できなかったので、この裏俳話集の下に「旧仮名の基礎知識」をリンクしました。とても解かり易いので、覗いてみて下さい。
※「旧仮名の基礎知識」の中の新仮名→旧仮名の対比表で、「坊っちゃん」→「坊つちゃん」となっていますが、これは間違いで、正しくは「坊つちやん」です。
図書館註:「旧仮名の基礎知識」はサイト消滅のせいか見当たらないので、撫子司書推薦の『簡単に覚えられる歴史的仮名遣ひ』のサイトを御紹介します(下のきっこの隣の矢印をクリック)。しかし、きっこさんも言っていたようにつど辞書で確かめるのが一番間違いがありません。
俳句は、ただ作ればいいってもんじゃなくて、多少は過去の俳句のことを勉強しなくてはなりません。それは、第一に「俳句は温故知新の文芸である」と言う観点からで、第二に「定型短詩の宿命である類句を避ける」ためなのです。
とは言え、芭蕉の時代からのことを全て勉強していたら、自分が俳句を作る時間もなくなっちゃうので、賢明なる皆様は「きっこ俳話集」を読んで、楽しくお勉強しましょう♪
さて、現代俳句を語る上で避けては通れないもののひとつに、「昭和の四S」があります。これは、すっごくクダラナイんだけど、山口誓子(せいし)、水原秋桜子(しゅうおうし)、阿波野青畝(せいほ)、高野素十(すじゅう)の四人の名前の頭文字をとっただけと言う安直なネーミングで、ホトトギスの第二期黄金時代を築いた四天王を表しているのです。このあとに、松本たかし、川端茅舎(ぼうしゃ)、中村草田男(くさたお)などが頭角を現して来て、この三人の頭文字をとって「TBK」と呼ぼうとしたのですが、どっかのエステサロンと間違われそうなので、ヤメにしました(笑)
なんて上段の構えから「面~!」‥‥じゃなくて、なんて冗談は置いといて、とにかく「四S」の名前くらいは暗記しとくように!ココ、試験に出ますからね!(笑)
さて、バカな前置きはこれくらいにして、今回の俳話は「四S」じゃなくて「四T」について書いてみたいと思います。
ナンでもカンでもジャンル分けするのが大好きだった、顔のデカいオッサンは、四Sに続いて四Tを作りました。それは、橋本多佳子、三橋鷹女(たかじょ)、中村汀女(ていじょ)、そして自分の娘、星野立子(たつこ)の四人です。女性のグループと言えば、2人ならピンクレディー、3人ならキャンディーズ、そして4人なら、何と言ってもMAXです。そう、顔のデカいオッサンがプロデュースした「四T」とは、言うなれば、俳句界のMAXだったのです。
俳句と言う形式を重んじながら、その中で自分を表現し続けた多佳子は、MAXで言えばリーダー格のナナ、時には形式を崩すことによって、自己の潜在的な部分を表現した鷹女はレイナ、普遍的な日常を自分の目の高さで詠み続けた汀女はミーナ、そして親の七光りで自由奔放にやりまくってた立子はリナ。
まさしく、俳句界のMAXと呼べるでしょう。(ちなみに、現在のMAXはミーナが脱退し代わりにアキが入っていますが、今回の俳話では、歌ダンスともに最高水準だった初代MAXを例に挙げて書いています。)
さて、この四Tと言う俳句界のMAXのメンバーは、作品だけでなく、その活動においてもそれぞれの個性が顕著でした。
自由奔放な立子が、実力も伴なっていないのに、親の七光りで「玉藻」と言う結社誌を創刊したのは、昭和5年のことです。これは、俳句史上、初めての女性主宰と言うことになります。
それに比べ、しっかり者の汀女は、自他ともに認める実力がついた昭和22年に「風花」を創刊します。そして、翌23年、多佳子の「七曜」が創刊されます。さすが、俳句界のナナさん!自分の結社の名前に、ちゃんと「七」を入れてるとこがニクイですねぇ~(笑)
ともあれ、立子、汀女、多佳子の三人は、それぞれの結社を持つことになったのです。しかし、十七音に収まりきらないマグマを胸の内に秘めていた鷹女は、決して自分自身を不自由にしてしまう結社などは持たずに、活動を続けていました。
さすが、俳句界のレイナちゃん♪
権威主義に流れてしまった他の三人と違い、常に自分の創作活動を第一に考えていたので、富沢赤黄男や高柳重信の「薔薇」にゲストとして参加することはあっても、基本的には自由でいたのです。
ですから、鷹女に憧れて、彼女の作品を読んだりマネしたりする追っかけファンの女性はたくさんいましたが、彼女が自ら弟子をとって指導するようなことはありませんでした。あたしがMAXのレイナちゃんに憧れて、ヘアメークやファッションをマネしたり、あちこち追っかけまわしたりはしても、直接ダンスを指導してもらえないのと同じです(笑)
それぞれが好き勝手にやっていた四Tですが、それでも当時の俳壇に与えた影響は、とても大きかったのです。四Tが登場するまでは、所詮、俳句は男性のものであり、まだどこかに「女は短歌でもやってろ!」って言う、時代錯誤の風潮が残っていました。
その男尊女卑の最たるものが、ホトトギスの「台所雑詠」です。
顔のデカいオッサンが、女性の俳句を奨励するために、大正5年にホトトギスの中に作った女性用の投句コーナー、それが「台所雑詠」です。主旨は素晴らしいですが、そのネーミングたるや、現代だったら差別用語ギリギリのラインで、たけしのTVタックルの田島陽子にぶっ飛ばされることウケアイでしょう(笑)
そんな虐げられた女性俳人達を狭い台所から広い世界へと解き放ってくれたのが、何を隠そう、俳句界のMAX「四T」だったのです。
彼女達の活躍が、女性俳人の社会的地位を確立し、それまで家人に見つからないように、コソコソと俳句を作っていた女性達が、人前で堂々と句帳を広げられるようになったのです。
しかし、その四Tが活躍できた陰には、それ以前に、虐げられた状況下で必死に俳句を作って来た、阿部みどり女、長谷川かな女、杉田久女、竹下しずの女などの、素晴らしい先達の努力があったからこそなのです。
そして、戦前から戦後にかけての四Tの活躍が、細見綾子や野澤節子、桂信子や津田清子などの大作家の輩出へとつながったのです。
多佳子、鷹女、汀女、立子の四Tが初代のMAXなら、綾子、節子、信子、清子の四人は、ニ代目MAXと呼べるでしょう。この四人の活躍が、「女流俳句」などと言う時代錯誤の差別用語を平気で口にする男性俳人の数を激減させた功績は、閉鎖的な俳壇の歴史の中でも、突出したものだったのです。
とは言え、ニ代目MAXのメンバーも、皆、大正生まれ。ひとり、ふたりといなくなり、残ったメンバーも80才以上です。
つまり、21世紀を迎えた今こそ、次世代へと本物の俳句を伝えて行くために、三代目MAXの登場が待たれているのです。
とりあえず、レイナちゃん役はあたしがやるとして、残りのメンバー、ナナ、ミーナ、リナを誰にするのか?
MAXのナナの本名は奈々子、ミーナの本名は美奈子、リナの本名は律子なので、名前で選ぶとしたら、ももすももの池上奈々子、沖の辻美奈子、同じく沖の藤野律子あたりにするか。でも、そしたら、レイナちゃんの本名は、そのまま玲奈だから、あたしじゃダメじゃん!俳壇で一番レイナに近い名前って言ったら‥‥豈(あに)の編集の高山れおな‥‥って男じゃん!(爆)
やっぱり、レイナちゃん役はあたしだな。でも、いくら俳句とは言え、仮にもMAXを名乗るんだから、俳句の実力だけじゃなく、ビジュアルも大切だ。そうなると、あたしと美奈子以外は、問題アリ?(笑)
ここはひとつ、オーディションでもやるしかないな。「容姿に自信があり、歌って踊れる女性俳人求む」なんて言って、黛まどかが来ちゃったらどうしよう!しかたないから身長で落とすか!(爆)
なんてタチの悪い冗談はサテオキ、絵画や音楽など、他の芸術の世界には、女流画家とか女流演奏家などと言う言葉はありません。
それなのに、いくら俳句界の初代MAXや二代目MAXががんばってくれても、時代錯誤もハナハダシイ総合俳句雑誌は、今だに一年に数回は「女流俳人特集」だとか「現代女流俳句の傾向」だとか、縄文時代の企画をやっています。
これは、戦前のホトトギスの「台所雑詠」、つまり「女は台所の隅で俳句を作ってろ!」と言う風潮が、言葉を変えただけなのです。
21世紀にもなって、まだこんなことをやってるようじゃ、本当にあたしが三代目MAXを結成しなくちゃならないかな?なんて思う今日この頃です。
昭和9年3月、改造社から「俳句研究」が創刊されました。改造社は、昭和4年からの「子規全集」全22巻、7年の「俳句講座」全10巻、8年の「俳諧歳時記」全5巻などを次々と刊行し、俳句関連の書物に力を入れていた出版社で、「俳句研究」と言う名前は、「俳句講座」の月報の名前からとったものなのです。
昭和7年には、「俳句研究」に先がけて「短歌研究」が創刊されていましたが、その意気込みには格段の差がありました。
それは、創刊号の「刊行の言葉」に表れています。
「東洋精神とか、民族精神とか、そんなむづかしいお説法はぬきにして、真にいい句作を見るため、いい批評に自分等の詩の頭を肥やすため、この雑誌をつくつた。(中略)ただ、俳諧の興隆に熱中するあまり、他を罵り、自らを誇り、党をくみ、きたなき派心の虜となつて本来の芸術心を低めるが如きには絶対にくみすることができない。」
これは、あたしがいつも俳話集に書いていることと同じで、俳句そのものを後退させている、俳壇の閉鎖性や結社主義、派閥意識に対する宣戦布告だったのです。
初代編集長は、「俳諧歳時記」の菅沼純次郎、編集は石橋貞吉(後の山本健吉)と言う、怖いもの知らずのコンビでした(笑)
創刊号の特集記事は盛りだくさんで、タイトルだけをザッと挙げてみると、
「奥の細道」書画巻に就いて/河東碧梧桐
自由律俳句の道/荻原井泉水
連作俳句論/水原秋桜子
発句道の人々/室生犀星
女性と俳句/長谷川かな女
おヘソでカプチーノ/ハイヒール・きっこ
シャネルで一句/ハイヒール・モモコ
と、こんなにも豪華な顔ぶれでした(笑)
これらの評論や随筆の他に、作品としては、ハイヒール・きっこの50句を巻頭に置き、続いて、大谷句仏の35句、そして、松瀬青々、中塚一碧楼、富安風生、村上鬼城、松根東洋城、星野立子、前田普羅などの作品が並んでいました。
さて、これらの作家の顔ぶれを見ると、ひとつの方向性が垣間見られます。
当時は、俳句と言えばホトトギス、ホトトギスと言えば俳句、と言った具合で、ホトトギスを抜きにしては、俳句は語れない時代でした。今と違って(笑)
そんな時代だと言うのに、立子や風生の名前は見られるものの、それ以外は全て反ホトトギス派の俳人ばかりで、これほど本格的な俳句雑誌の創刊だと言うのに、虚子を始め、ホトトギスの作家の名前が見られないのです。
これは、それまではホトトギス中心に動いていた俳壇ですが、秋桜子のホトトギスからの離脱、誓子や草城などの新しい作風の展開、新興俳句運動の活性化、そして、ハイヒール・きっこの反ホトトギス運動などにより、ホトトギスと言う不夜城の土台が少しづつ崩れ始めていることを察知した編集長が、次世代の俳人達を集めたからなのです。
こんなに骨太で、反体制だった「俳句研究」ですが、やはり時代の流れには逆らえず、いつの間にか長い物に巻かれ始め、今や、あれほど嫌っていた結社や派閥にベッタリの、ゼネコン雑誌に成り下がってしまいました。
看板であるはずの「俳句研究賞」も、各結社の主宰が選考委員を務め、自分のとこの会員の作品にばかり得点を入れるデキレースとなり、今や角川並みの茶番劇になってしまいました。読者投句コーナーの選者に至っては、鼻からコーヒーを噴き出しちゃうような選句の嵐‥‥。
各ページの両脇や巻末などに、これでもか、これでもかと現れる様々な結社の信者募集の広告を見ていると、現在の俳句雑誌が、結社と癒着せずに部数を守って行くことの困難さが伺えますが、本来、公正でなければならない選においてまで、結社の力関係がモノを言うようになってしまったら、一般の読者は何を信じれば良いのでしょうか?
「俳句研究」だけでなく、現在の総合俳句雑誌の全てが、今や「総合俳句結社誌」と成り果ててしまったのです。
他の雑誌はともかく、あれほど反結社の旗印を掲げていた「俳句研究」だけは、こうなって欲しくなかった‥‥。
現在の編集長始め編集部員一同に、創刊号の「刊行の言葉」をファックスしたくなっちゃう今日この頃です。