最近は配信映画鑑賞タイム。
ブラウザのアドインで倍速モード入れてあるからチンタラしてるシーンは遠慮なく倍速かけると快適。ホラーやサスペンスなんかの如何にもゆっくり時間かけて「何か出ますよ(肩透かししますよ)」シーンなんざ要らんし。
>かがみの特殊少年更生施設
解説&攻略動画見たけどだいぶ面倒くさいなw リアル脱出ゲーム系が得意な人は好きそう。
個人製作にしてはやたら手が込んでると思ったら会社が作ってるゲームなのね。一人でもできるリアル〇〇ゲームみたいな感じか。
>ユーフォニアム
アニメは久美子×麗奈絶対主義でそれ以外の久美子とのカップリングは認めない!くらいの意思を感じる。
>夏目漱石の「吾輩は猫である」なんて、ほぼエッセイ
「自分自身を陽キャ(迷亭)と陰キャ(苦沙弥先生)とに分割し、その有様を別の自分(猫)が外から観察している」構造全体を、更に著者である自分(漱石)が描き出している…という、エッセイ風の外見とは裏腹に創作として割と複雑な入れ子構造をしているんだな、あの作品は…と、文学青年崩れだった死んだ私の父親が、私が小学生の時分に話してくれたのをふと思い出しました。
>自由意志の否定というよりストイシズムの考えに近い
確かに。ヨースタイン・ゴルデル『ソフィーの世界』でもそんな風に紹介されていましたねぇ(↓)。
◆◆◆
アルベルト「神は人形遣いではないってことだよ。糸を引いて何がどうなるのかを決めるのではないんだ。人形遣いは外から人形をあやつるから、彼は『外なる原因』だ。でも神はそういうふうに世界をあやつらない。神は自然の法則をつうじて世界をあやつる。だから神すなわち自然は、この世に生じてくるすべてのものの『内なる原因』なんだよ。ということは、自然界の全ては必然的に起こっているということだね。スピノザは決定論的な自然のイメージをもっていたんだ」
ソフィー:「前にも同じようなことを言わなかったっけ?」
アルベルト:「たぶんストア派のことだろう?ストア派も、すべては必然的に起こると言っていた。だから、すべての出来事を『ストイックな落ち着き』でむかえることが大切だと考えたんだ。人間は感情に引きずられてはいけない。スピノザの倫理学も、うんと短く言ってしまえばそういうことなんだよ」(前掲書p.320より)
◆◆◆
なお、哲学者の國分功一郎氏によると、スピノザは「釣りの達人でもあり、人生のさまざまな楽しみに通じていた人」らしく、敵対者をも思想の違いを超えて惹き付けるだけの人間的魅力を備えた人物だったらしいですね(100分de名著 スピノザ『エチカ』より)。少なくとも「哲学者」と聞いて私達が脳裏に浮かべるような、「眉間に皺を寄せて訳の分からぬことを一人ブツブツ呟いている」タイプからは遠くかけ離れていたようです。
>映画版でも渡されてた
記憶に無いなぁ…そもそも劇場版を全部観たかどうかすら覚束ないですからまぁ当然か(苦笑)。アニメでも絵葉書の描写が省かれていないのでしたら、あすか先輩は原作通り、可愛い後輩の久美子に対しもう少し「前のめり」な態度を示しても良かったんじゃないかなぁとは思いますね。
まぁ私がざっと確認しただけでも、アニメの描写は原作から大なり小なり改変されていたり、時系列が入れ替わっていたりするものが目立つなぁという印象なので、今更ではあるのですが(直近のエピソードだけ取ってみても、久美子が麗奈に「大好きのハグ」をするのは、原作では深夜では無く他の通行人の視線が突き刺さる早朝の駅前だし、緑輝の「種まき」発言は、原作ではファミレスではなく部活帰りの音楽室前で行われるし、鎧塚先輩の出る音大のコンサートに大挙して行くのも原作では九月ではなく夏季合宿前(プールの翌日)で、しかもコンサート終了後の久美子とみぞれ先輩とのやり取りは完全なアニオリだったり、と枚挙に暇がありません)。
>中世古先輩結構やべー奴
うろ覚えですが、確か原作のスピンオフで、中世古先輩があすかに対し「ライクじゃなくてラブ(©高坂麗奈)」の感情を抱いていること(そしてあすかの側も満更嫌がっても無いこと)が描かれていたと記憶していますね~。
>烏は主を選ばない
>弟は素でやってると思う
恐らく次回で明かされるかと思いますが、そんな若宮ですら足元にも及ばない「演技派」― というより、演技しているという自覚自体が本人に無い、いわば生まれながらの「詐欺師」が中に一人交ざっているんですよねぇ…まぁ誰の事を言っているかは大方想像がつくかとは思いますが(苦笑)。
>今週の猫
もう少し話数を重ねるかと思いましたが、思いのほかハイスピードでモンペキャラからツンデレキャラへと変貌を遂げつつあるようで何よりです…それにしても、文字通りの畜生(=犬猫)に読み書きやら集団生活の心得やらを一から教え込まなければならない現場の教師の苦労に対しては、心底同情申し上げます(笑)。
いろははアニマルガチ勢だからヨシ!こむぎはいろはがロールモデルだからヨシ!まゆはガルガルの恐怖に共感できるからヨシ!ユキは…ユキは…?
ユキはまゆに向けていた優しさを、少しだけ他に向けるなり広げるなりすれば良さげな感じはしますが、あの石頭にそんな器用な事ができるのかっていうと…ねぇ?
ガチガチにガードを固めていたり、問答無用でボコしていたりしたのもガルガルへの恐怖の裏返し…と捉える事もできそうですし、まゆが何某かユキをリードしないとタンバリン出てくれない気がしてます…(汗)
>日記療法
夏目漱石の「吾輩は猫である」なんて、ほぼエッセイですもんねw
手紙系なら「毒になる親」でも、虐待された子供の自分に向けた手紙や親に向けた手紙を書くセラピーが紹介されていました。
日記ならここ数年書いてますが、5~10分ではまず書けないんですよね(苦笑)。
結果、睡眠時間に影響が出たり、歯磨きやスクワットをサボったりしてるので、精神衛生上どれを優先したら良いのか?は最近の悩みどころ。
>相対性理論と自由意志
相対性理論が自由意志を扱えていない点は、当のアインシュタインを始め、以降の様々な科学者が指摘していた所みたいですね。
なのでブロック宇宙論は特別斬新な理論モデルという訳でもない様で…個人的にもその理論が扱っているのは記憶という名の情報でしかなく、意志や意識の謎には迫れていない様に思います。
意志や意識といえば、ほぼ毎日睡眠によって分断されている自意識の連続性が、記憶を引き継いでいるというだけで担保されるのもおかしな話なんですよね。それを認めると「自分は同一人物じゃない!」とか言い出したり、「5分前仮説」とかを認めたりしなきゃいけなくなるので…
https://w.wiki/3iuA
>スピノザと自由意志
「エチカ」の事ですかね。
手元の「図解 哲学がわかる本」では、「エチカ」は「この世界を神そのものである」とし、
「「自由」については、こう考えた。…神の運動はすべて自己運動であるから、神はまったくの自由である。また、神の運動は何らかの目的をもったものではなく、すべて必然でなければならない。なぜなら、目的があるのなら、神はその目的のために動かされていることになるからだ。」
…と書かれていました。
どちらかといえば、自由意志の否定というよりストイシズムの考えに近い様に個人的には思えます。
>かがみの特殊少年更生施設
?si=kteN8t-h2ziMKZQe
本物のYouTube動画でチュートリアルを済ませ、本物のTwitter(X)からヒントを得、本物のwebサイトに隠された架空の事件を暴く新感覚インディーズゲーム。
上述の様に良くも悪くもUIが斬新で、奇妙なリアリティのあるゲーム。察しの良い人なら分かるだろうけど、胸糞悪い終わった事件を調査する事になるので後味はあまり良くないです。
後、どう考えても推理では辿り着けないキーワードがあるので、詰みポイントを突破するのが理不尽に難しい。僕の様な根を詰めるタイプには向かないと思います。
ただ、突破した時の隠蔽組織ざまぁ感や、その後のスピード感は語彙力無くすレベルでヤバい。手汗と手の震えが止まらなくなる唯一無二のゲーム体験でした。
他には、コピペ機能を使うのが基本とはいえ、固有名詞がやたら複雑で憶え難かったりするのでメモ帳を開いておくのも必須なんですよねー。
猫組、押しに弱いよね。
思ってたより猫組単独で話を進めてるのが意外だったかな。もっといろは達が絡むのかと思ったけど、犬組・猫組それぞれで独立させて個性を際立たせる構成のようですね。
>戦争体験が反映されていることを念頭に置くと
>しみじみとした気持ちにさせられました
音楽の指揮者が作曲家や時代背景を調べて、それを演奏に反映させるっていう一般人には全然わからない工夫をするのもそういうことなんだろうね。
>デデデデ
原作のネタバレを読むと、母艦爆発で主人公と門出は消息不明→ギリギリ助かった世界も唯一無事な日本を巡って戦争→門出父が登場してタイムリープ→主人公と門出は普通の友達として社会人になる。みたいな流れらしい。
これで良かったじゃん。
3ルート(門出死亡ルート、世界半滅亡ルート、平和ルート)あることで相対・比較化できるし、どのルートでも主人公と門出が友達でそれぞれの生き方が描かれるって構図にもなる。ちょっとした選択で未来は変わるけど、変わらない友情がある。そう纏めることもできるし。なぜ映画をあんなデキの悪いセカイ系終末ものにしたのか。
>一回だけ助けたげる券
見覚えあるなと思ったら映画版でも渡されてたね。あすか先輩は久美子を気に入ってると思うからアニメの描写はちょっと素っ気なさすぎる感はありますね。
それにしても中世古先輩、映画のときもお揃いの格好して、今回もルームシェアしてるの結構やべー奴だな?
>烏は主を選ばない
この手のやつ、特殊な訓練でも受けてるのかってくらいにみんな演技派だよねw お兄ちゃんが「ぐぬぬ」しながら頭下げてたシーンが演技かと思うと笑ってしまう。弟は素でやってると思うけど。
前シリーズの「みんなのヒーロー」を志向して変身したソラとは本当に真逆だなぁ(苦笑)。それはそれとして「怖くない、怖くない」という口上は何かイイな、何ともまゆらしいというか。
>踏み出そうとするまゆと、それを止めようとするユキの対比がプリキュアでは珍しい
>まゆは自分の怖がりを自分である程度克服する必要があり、またユキもそう努力するまゆを見守る努力が必要になる
暫くの間は「まゆ離れ」に向けて“過保護を自覚したママ”ユキの葛藤が描かれるんでしょうか…。過去作には無かった(はずの)視点なので、今後の期待が高まりますね。
>創作がセラピーになっている人って結構いるっぽい
まぁ、そういった動機で執筆された創作が名作文学になるのがそもそも稀有な事例でしょうから、目立たないだけなんでしょうね。創作ではありませんが、「文章として残し形にする」という点では心理セラピーの一つである「日記療法」を思い出します(↓)。
https://www.ginzataimei.com/knowledge/%e6%97%a5%e8%a8%98%e7%99%82%e6%b3%95/
あと以前紹介した記事内で、作家の桜庭一樹氏が「サリンジャーの戦争体験が反映されていることを念頭に置くと『ライ麦畑でつかまえて』の末尾のセンテンスの意味が全く違って感じられる」とあるのは何を指して言っているのかなぁと思ってラスト周辺だけ読み返してみると、サリンジャーは主人公ホールデンの口を借りて「これまで長々と問わず語りを続けてきたけれど、思い出話なんかするもんじゃない、話に出した連中が自分の周りに居ないのが寂しくて、物足りなくなって来るから。」なる主旨のセリフを言わせているんですね。これまでは何とも拍子抜けするラストだなぁと思ってスルーしていたんですが…あぁそうか、「話に出した連中(のモデル達)」は、気のいい奴もムカつく奴も揃って既に戦死しこの世に居ないことが含意されていたのか。「膝から崩れ落ちる」ほどではありませんが、私も何かしらしみじみとした気持ちにさせられました。
>相対性理論でも自由意思が否定されてて草
前にもこの板でプレゼンしたように、元来相対性理論自体が、自由意志を否定するスピノザを信奉していたアインシュタインが唱えたものですから、そういう結論になるのも不思議じゃないなって印象は受けますね。この究極の決定論とも言える「ブロック宇宙論モデル」… きっと草葉の陰でアインシュタインも大喜びしているに違いありません(笑)。
https://tocana.jp/2022/08/post_239739_entry.html
>デデデデ
>この作品が非常に気持ち悪くて不健全だという話
作品は原作も映画も私は全く未見なんですけれど、その「尻拭いは彼氏が全部やってくれました」とか「彼氏作って彼氏が全部やってくれてハッピーエンド」という御大の感想から、私は『君の膵臓を食べたい』のご都合主義を更に徹底させたシロモノなのかなと思いました。これだけ御大のメンタルを苛立たせる創作というのも中々に珍しいですね(笑)。
>あすか先輩の人生相談
映像では明確に言及されていませんが、あのひまわり畑の絵葉書は、高二生時の久美子があすかから「ほんまに困ったら、一回だけ助けたげる」との約束と共に手渡されたものなんですよね。そんな経緯もあって原作のあすかは、アニメでの素っ気ない描写とは違ってもう少し親身になって久美子の相談に耳を傾け、助言を与えています(香織と二人並んでちゃんと玄関で久美子の見送りをしていますし)。
32分30秒~
相対性理論でも自由意思が否定されてて草。
>精神疾患の治療を兼ねていた文豪
創作がセラピーになっている人って結構いるっぽいよ。こういう人はそんなに多くの作品を書けないかもだけど。
ユキの事しか頭に無い様なまゆですが、ニコガーデン回の時などは逆にユキの存在を忘れているかの様に振る舞ってるんですよね。ユキの前ではいろはの話してるし。
恐らくまゆはマルチタスクが苦手というか、一度に複数のものを視界に入れる事ができないタイプではないでしょうか。現状、ユキモード、いろは(プリキュア)モード、手芸モードに分かれている感じ。
ユキはそれを理解しているのか、最悪自分は最終的に捨てられる覚悟で動いている可能性も考えられると思います。しかし覚悟しても割り切れず、両極に分かれた矛盾を抱えて行動している様に見えます。
まゆが友達とユキの板挟みになったのではないか?とは以前考えましたが、これでは殆ど自分らからその状況を作り上げていますね。どうすんだコレ…(苦笑)
手っ取り早そうなのは、まゆがユキを忘れている間ユキが寂しくならない様にする(ユキに新しい友達を作る)事ですが…どうすんだコレ…(二回目)
>まゆを危険なことに巻き込もうとしてる!
上記を踏まえると実は危険とかどうでも良いのかも知れません。ヤキモチが混ざってくるのでw
というか今の状況で一番問題なのは、わんだふる組最強のリーサルウェポン・メンタリストSatoruが無力化されかねない事だと思ったりw
ユキから見て悟は、「口先ばっかで肝心な時に使えないボディガード。おめがしっかりしてりゃおらも出張る事ながっただにどーしてくれんだこの戦犯!?」状態なんですよねー…
果たして悟はユキを攻略できるのか!?好感度マイナスMAXから始まる攻略チャート、乞うご期待!!!w
>てかあれリスだったのか。何の動物かわからんかったw
自分も分からんかったw
キラリンコジカがあの見た目で鹿と言い張れるのなら、頬袋付いてるみたいだしじゃぁリスでいいか?とw
他に頬袋付いてる動物って何がいましたっけ?ハムスター?
>VR礼賛の風潮に対するアンチテーゼを提起している
そこは「SFの文脈ででき上がるまでの過程で考えると斬新」に含意したつもりでしたが…いや…考え方が雑だったからこそ言葉足らずになったのかも知れないです…
そしてその雑さが「無理矢理にでも共通点を見付けて、十把一絡げにしてしまう悪癖」に繋がってるのかも知れません…
「対怪異アンドロイド開発研究室」(カクヨムで不明廃村まで読了)にしたって、「ある事情(この場合は恐怖と実害)によって、研究分析が進んでいないファクターを掘り下げる話か…これはゴブリン(舐めプ)や魔物食(穢れ信仰)や外れスキル(攻略勢による風評)などと同じ、ある意味隙間産業的なパターンに分類できそうだな…これを長く書くには作者の研究対象への理解と想像力が重要で、「ゾンビ」の作者にはそれが足りなかったのではなかろうか…?」とか考えちゃいましたし…
兎に角、ガサツな早合点は禁物だと思います。反省です。
>サリンジャー
>“心の傷”を癒すためのリハビリ
へぇ…夏目漱石以外にも精神疾患の治療を兼ねていた文豪っていたんですねぇ…
自分も何か書けたら現状が少しはマシになるんだろうか…
>「ニッポンの文化芸術を背負うのは、お前らじゃァ!」
そりゃ今時「大吉原展」なんて時代錯誤をやろうとして炎上した挙句、文書で言い訳だけして強行した様な藝大権威の方々には背負わせられんでしょうねぇ…(苦笑)
https://bijutsutecho.com/magazine/news/headline/28455
>声優ラジオ
う〜ん…この茶番感。
複雑な心理を扱ってるのに大規模なイベントでシンプルな美談を押し通すから、どうしても茶番に見えてしまう…
いや、この美談のお陰で必要以上にキャラを穿って見ずに済んでいると思えば、この作品の長所だと考える事もできなくないのか…?
だとすれば、これは視聴者の感性と演出の技量の問題なのだろうか…
>烏は主を選ばない
雪哉「僕は故郷で穏やかに暮らしたい!(フラグ)」なので、北家には何か爆弾があるんだろうとは思ってましたが、また変な所が爆発したなぁ…
>北宇治メンバーが実際にはチグハグ
>実力主義っていうけど内輪で仲良くしてるだけ
社訓と内実とに大きな乖離がある中小企業に、一部上場企業から移って来た中途入社組が困惑しているというイメージかな(私には経験が無いからあくまで推測ですが)?。恐らく出自さえ上手く隠せていたら(転校前は吹奏楽部の強豪校に在籍)、性格的に黒江さんは己の真の実力を隠したまま「みんなで仲良く楽しく」ユーフォを演奏していたんじゃないかなぁとは思いますね。
>ユキにとってまゆは理想の、穢れなき存在で、彼女を守るためなら自分の手を汚すことをなんとも思ってない
>自分は影の存在で良いって判断
成程ね、J.D.サリンジャー『ライ麦畑でつかまえて』の主人公のホールデン・コールフィールドがユキ、最愛の妹のフィービーがまゆだと考えればしっくり来ますね(↓)…とは言えユキがわざわざまゆの面前でこむぎ達に「これ以上まゆには関わらないで」と釘を刺すのは、まゆにも「こむぎ達とはこれ以上関わりを持つな」と暗に諭しているように私には思えるのですが…。
◆◆◆
「とにかくね、僕にはね、広いライ麦の畑やなんかがあってさ、そこで小さな子供たちが、みんなでなんかのゲームをしてるとこが目に見えるんだよ。何千っていう子供たちがいるんだ。そしてあたりには誰もいない ― 誰もって大人はだよ ― 僕のほかにはね。で、僕はあぶない崖のふちに立ってるんだ。僕のやる仕事はね、誰でも崖から転がり落ちそうになったら、その子をつかまえることなんだ ― つまり、子供たちは走ってるときにどこを通ってるかななんて見やしないだろう。そんなときに僕は、どっからか、さっととび出して行って、その子をつかまえてやらなきゃならないんだ。一日じゅう、それだけをやればいいんだな。ライ麦畑のつかまえ役、そういったものに僕はなりたいんだよ。馬鹿げてることは知ってるよ。でも、ほんとになりたいものといったら、それしかないね。馬鹿げてることは知ってるけどさ」( 野崎 孝 訳)
◆◆◆
そういえば、ついこの3月にNHKで放送されたサリンジャーの特集番組の中でも触れられていたんですが、彼は本作を「第二次世界大戦に従軍した際に被った“心の傷”を癒すためのリハビリとして」執筆し始めたんだとか(↓)。そうか、小説のラストで主人公のホールデンが精神病院に収容されている設定なのは、サリンジャーの実体験が反映されていたということなのか…知らなかったな~。
https://book.asahi.com/article/12016522
>過保護ママ
来週本人に言うのかもしれないけど、現状ユキはまゆには何もしてないんだよね。いわゆる過保護親が「あんな悪い子と付き合ってはダメ」みたいなことは言ってない。「関わってはいけない」ってのもガルガルや危険にというニュアンスだし、それも控えめな干渉に留めている。ってことは彼女はまゆを操作したいわけじゃない。
ユキにとってまゆは理想の、穢れなき存在で、彼女を守るためなら自分の手を汚すことをなんとも思ってない。ギリギリまで正体を明かさなかったのも自分は影の存在で良いって判断をしている。ってのがプリキュア的にかなり異質。
>キラリンリスさん
ほんとにリス出てきて草。てかあれリスだったのか。何の動物かわからんかったw
>美術とは腐れ縁的存在
そこから離れようとしても戻って来る、他にやることがなくて結局それをやっている。自分でもよくわからない。そんな自分の中にある不確かなものを形にするのが芸術って感じのするコメントでしたね。四六時中考えてるんだからそりゃ上手くなるよねみたいなところはある。
>ユーフォニアム
>同じくらいの技量だったらどっちを選ぶ?
そらおっぱい大きい子よ。迷う理由ある?
アニメと原作で黒江さんの扱いが違うみたいな話は見たけど、これアレだな、黒江さんは一周回って面倒臭く見えてさらに一周回って素直なんだな。「私エンジョイ勢だけど、本気出したらあなた(久美子)より上手いですよ?」みたいな風に見える(そう演出されてる)から嫌味っぽくなってるだけで。
久美子も口ではうちは実力主義ですって言ってるけど、実際には麗奈なんか私と組もうね♪オーラ全開だし、黒江さんが選ばれたら部がざわついてるし、部長の言ってることと現実に乖離がある。
たぶん黒江さんは本音でしゃべってるだけなんだろうけど、最初から手の内明かしすぎて嫌味か予防線張ってるように見える。でもそれは北宇治メンバーが実際にはチグハグだからなんだな。あげく奏は久美子の半ば腰巾着で態度悪いし。実力主義っていうけど内輪で仲良くしてるだけじゃん感はある。
ガチの実力主義なら現状ユーフォ最強の久美子と同等かそれ以上の転校生がきたら「おっしゃー、今年の低音は最強だな。全国に一歩近づいたわ」感出せよと。
今まであの変身バンクで、見晴山の奥深くで人知れず名乗りを上げていたのかと思うとジワジワ来るものがあるなww。
>率直な感想は「大学というよりは規模がデカくなった幼稚園」
読了しました。御大の感想に全く同感ですね。卒業生の半数近くが進路未定=行方不明になる大学って何だよww。このような闇鍋カオスな「天才の原石集団」が世間に存在を許されている間は、日本という国もまだまだ安泰な気がしますね(笑)。
ちょっと面白かったのは、中には「燃えるような情熱を持ってモノづくりをしているわけではな」く、かつ「モノづくりは人生そのもの=他にやりたいこともない」とか「美術とは腐れ縁的存在」とまで言い放つ藝大生も交じっていたことですね。ちょっと分かりにくい喩えですが、先祖代々クリスチャンホームに育った人の「キリスト教信仰に対する受け止め方」に似たニオイを私は感じました。
>「要するに藝大の教授はアーティスト、あるいは職人であっても、指導者ではないんですよ(p.236)」
リアル滝先生だなぁ(納得)。
>西野智彦『ドキュメント異次元緩和』
>日銀の人、だいぶ机上の空論で進めてた感じがする
◆◆◆
[日銀総裁総裁内定時]
日銀幹部:「万一、[インフレ目標の]2%を達成できない場合のことも想定しておく必要があるのではないでしょうか」
黒田総裁:「いや、[2年後までには]必ず達成できるから」(本書p.40~41)
――
[それから十年後・総裁退任直前時]
野党議員:「就任時の目標を達成できなかったのだから、結果として失敗と受け止めるしかない」
黒田総裁:「2%を達成できていない理由は、物価や賃金が上がらないことを前提としたノルム〔社会規範〕が定着し、その転換に時間がかかっているからだ」(同p.213)
◆◆◆
「プロだから、分かるから」とドヤ顔で目標達成を公言しておきながら、いざ出来ないとなると一転、「国民がアホだから」とばかりに開き直ることが許されるというねw…。それでも二期十年を勤め上げ、花束と数千万円の退職金を手に悠々と職を辞したっていうのが、いかにも日本社会あるあるですね(苦笑)。少なくともこの点ではマルクス経済学による金融分析に軍配が上がると言えるんじゃないかな。嘗て金本位制が主流だった時代、マルクスは貨幣を「金や銀などの具体的事物に裏打ちされた特殊な商品」だと見做していましたが、その認識は現代の管理通貨制度の下でも変わらず当て嵌まるように私には思えますね(↓)。
◆◆◆
…ところが、貨幣の量が貨幣の購買力を決定し、したがって物価を決定するという説が、古くからおこなわれた。これを貨幣数量説という。けれども流通手段の量がかりに増加しても、流通手段が使用される平均回数がそれに応じて減少すれば、流通手段が必要量を超えたことにはならない。また流通手段が必要量を超えたばあいは、よけいになった分は流通手段であることをやめて引上げられるだけである。こう考えただけで、貨幣数量説のまちがいは明らかであろう。貨幣の購買力をきめるものは、商品の価値に対する貨幣つまり金(きん)の価値なのであって、社会にある貨幣の総量なのではない。(日高晋『経済学 改訂版』岩波全書1988 p.63~64より)
◆◆◆
>YouTube上にあるエクササイズやダンス
cosmos様、アドバイスを頂き誠に有難うございます。そう言えば以前下の娘(現高3)もそんなこと言っていましたね。Z世代かつ美容に関心のあるお年頃でもありますし、今度色々レクチャーを受けてみますかw(笑)。
>「斬新かなぁ?」と疑問符が付きます
分かりにくかったでしょうか? 私が「新鮮」と評したのは現実における彼我の利害が対立する状況ではなく、前にも書いたように「誰かの仮想現実」と「他者の現実生活」とが天秤にかけられたシチュエーションを指します。誰かが個人の趣味の範囲=他人に迷惑が掛からない範囲で仮想現実の世界に引き籠っていたとして、大抵の人はその様子を「その人にとってはそれが紛れも無い現実で、それ無しには生きられないのだから。」と生温かい目で許容するかと思いますが、その行為によって他者(要するに自分)に具体的な実害が及ぶことが明らかとなった途端「造り物の世界にいつまでも浸っているのは甘え!」とばかりに手の平を返し、糾弾する人が殆どだろうと私は思う訳です(勿論私も含めて)。要するに「仮想現実も現実」と一貫して言い続けるためにはそれなりの覚悟が求められるのではないか、『滅びの園』は、(作者が意図していたかどうかは兎も角)VR礼賛の風潮に対するアンチテーゼを提起しているのではないか…そんな気がするんですよね。