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弱い立場になると頼りに出来るのが想像力の世界しかない。
直に喋った時にどちらがまともな言葉を喋っているかをはっきりさせられるのが、裁判所です。
第三の目がどちらに入っていたか。第三の目が入りやすい場所でなければ、理解されないことがある。
文章や言葉を一方的に描いて読み手が受け取る世界だと少し難しくなってきたものがあり、こうして自省が生まれた以上、内容を練り直したいと思います。
どこへ行っても第三者の視点しか持てない場合、難しいことが沢山あるんだと思います。
お先に失礼致します。
1 えんじぇるさん 「平木」 1/12
平木と十木に絞って考えます。そして、これらは何事かを象徴する記号的なものと理解します。
造木といった言葉も出てきますが、これは単に十木の言い換えでしょうから除外します。額面通り受け取ると……
安定性: 十木≧平木
平和: 十木はその象徴。けれども、NOT 十木 BUT 平木→これだと論理矛盾?
もうひとつ解釈があって「平和=平木(つまり平木は平和の別名)」 とすると……
「十木=平木」ということになる。思考はここで止まって先へは進めませんでした。
十木がメインで語られますがタイトルの平木がどう関わるかは謎です。この評価は僕の能力ではつけることができません。こういう傾向が続く限り、僕のエリアにおいては無評価の状態が続くでしょう。それでよければ、という話です。左様ご理解ありたし。
コメントについては1行目、そう言われても、僕はそういったことに関わることができません。これは詩の古くて新しいテーマである「難解と平易」あるいは「書き手と読み手の友好的かつ対立的関係性」といった文脈で読みました。ちょっと自分勝手な解釈なんですが。ひとつだけ言えるのは、作品制作の主導権はもちろん作者に在り、読む、読まぬの選択主導権は読者に在り、ということです。どの分野でもそうですが、作者の自由が求められて必要とされて“なんぼ”ということです。
2 上田一眞さん 「君への詫び状」 1/13
これは奥様に感謝を語りかけながらの自伝詩と把握しました。 1章はプロローグ、イントロダクションでしょう。「口下手の自分だが、幸い、詩で伝えることはできる」―そんな思いがミニタイトルに繋がっていきます。さて、2章の「吉原幸子・オンディーヌ」ですが、僕は読んだことがなく、一部引用のみで判断すると、愛の究極の姿のひとつに死も含まれる、そういった主旨で合っているでしょうか?例えば戦国武将の細川忠興は自分の妻(細川ガラシヤ)を、愛を全きものにするため、妻を誰にも触れさせず完璧に自分のものにするために彼女を亡き者にしてしまうのですが、それに近い背景なのでしょうか?ここは「?」が付きますね。この件はひとまず措きます。夢の中では死への誘いがあったようです。しかし、そういった思考とは生から見れば、不健康極まりないし、はた迷惑な話なんです。そういった事への思い直しを得たのが2章だと考えられます。さて、やはりこの詩のメインは3章です。最も自伝的。心身共に病を背負っての半生だったのでしょう。けれども多少の痛恨はあっても、なお健在で、こうして詩を書かれてらっしゃるのだから、その軌跡は充分成功したと言えるでしょう。
終わり近くの「恥じているよ」「ありがとう/それだけでよかった」は全く同感です。僕も上田さんに倣って、このように言いましょう。 佳作を。
3 詩詠犬さん 「ことば」 1/13
この詩を読み解くキーワードになるのは、文中にもある「沈黙」と考えられます。つまり「話すVS沈黙」の構図があって、もっと言うと“沈黙が恐いから話をしている(し続ける)”状態が、僕には想像できます。その傍証として「不安の影」「変わるわけでもないことを知っていながら」「更なる不安」「押しつぶされる」など、不安や恐れが詩にたえずつきまとっていることを挙げましょう。
もうひとつの構図として、ある人との相対が考えられそうです。僕の実生活体験によれば、ある人と向き合っていて話が途切れ沈黙したとする。その沈黙が「空気が張り詰め、いたたまれない気分になる」か、「別に全然気にならない」か―それによって、その人との接し方の質量が分かる、そんな気がしますね。この詩はちょっと前者を描いているように思われるのです。
この詩のいいところはちゃんと結論を言っている。4連ですね。「それでいい」です。
ただ、日本人は優し過ぎるのか、他人指向型なのか? なかなかこうはいかない部分はありますね。ことばを一風変わった方面・場面から考えている。それが面白いのです。佳作です。
4 エイジさん 「記憶」 1/14
人間の記憶が蓄積されるのは3歳頃からと言われています。記憶をたどる時の比喩的世界は、だいたいこういう感じで、常套的ではあるのですが、それはしばらく措きましょう。その行動の流れは克明でもあり幻想的でもあります。4連に見る個別。これがあるとないとでは、だいぶ詩の訴求力が違ってくるでしょう。ここを書くには多少勇気が要ったことと思います。暖かく読んで迎えたいと思います。
最後から二つ前の連。ここがエイジさんの3歳頃、すなわち記憶の源流なのでしょう。
その二人の少女は今何をしているでしょう。何処かで生きていることでしょう。この連といい、4連といい、映像というか、それぞれひとつの場として、僕は把握することができました。前作のイマジネーションがとびきりだっただけに、今回はそれと比較すると一歩を譲るか?佳作半歩前で。
5 荒木章太郎さん 「カレーライスのうた」 1/14
玉葱に関する名言あるいは「人間=玉葱論」というのがあるそうです。前者は「人生は玉葱に似ている。皮を一枚一枚むいていくと、最後に、中には何もないことに気づく―ジェームズ・ハネカー(米国の評論家)」。後者は人間は玉葱のように七つの感情の皮から出来ている、というものだそうです。この詩はそれらに準拠したものか?少なくとも僕にとっては、この詩を味わうのに上記のことがらが多少ともヘルプになったのです。さて、冒頭1行目ですが「出て行った」は単に外出したのか、それとも離縁を指すのか?どうも後者のような気がする。だとしたら、この詩はフィクションであるのを願うのみです。3連目まで、どうも、こう自嘲的に書かれてしまうと、上記ことがらを想起せざるを得ないわけです。終連は娘さんと奥さんを思い出しながらの後悔に読めるのです。
詩の調理法としての擬人化と実際の調理場面がリンクして男の悲哀をうまく(美味く)醸し出しています。
そうですねえ、男なんて一皮剥けば、こんなもんですよねえ。今宵は癒しの甘口佳作で。
6 大杉 司さん 「大凶」 1/14
前回の大晦日の詩と併せて読むと、事態がくっきりと掴めます。その落差にある悲劇です。
正月のおみくじと絡めたタイトルが目を惹きます。しかし残念ながら大凶です。そしてこの詩は現実を現実として直視し記録するものであります。
今回の地震は元日にあったというショッキングさ。寒い時期に寒い地域で起こった事。海に面した地域で、またしても津波被害に遭った事が大きいでしょう。この詩はこの通り、多くの人々が等しく思っている事を詩化しています。もはや何処で起こってもおかしくない、明日は我が身の感を多くの日本人が抱いた事と思います。そして自分はこういった事態に如何に向き合っていくべきか?そんな意識を後半少し触れてもらってもいいですね。テーマの性質上、すみませんが、評価は控えさせて頂きます。
7 ベルさん 「今日よりも若い日は来ない」 1/15
この言葉、なかなか魅力的ですよね。フレッシュだし真理を衝いている。
タイトルと繋げて始まる冒頭も面白いです。このタイトル、調べるとKing&Princeの「We are young」という楽曲歌詞に行き当たるのですが、歌詞を読んでも、なかなか良くて詩にもなってると思えるほどです。僕にとっては、その地点からこの詩は出発します。
初連3行目、2連1行目。全て真理にして事実です。それらを包括して―年配向けの言葉で言うと―「来し方、行く末」を、こういった少しラフな言葉で開陳する。そこにこの詩の実感・姿勢・個性を感じたりするわけです。真理から自己の側に降ろしてきて、自嘲的に語るのも、この詩のひとつの味わいに属するでしょう。軽く風景に思いを馳せ、終連へ。この終連、なかなかいいんですよ。夜の12時を迎える。日付が更新され「いちばん遠い場所」「先送りされた命日」に辿り着くわけです。その象徴としての終連です。趣きに溢れた終連です。珍しいこのラフな語り口は、この詩に一定の雰囲気を添えるものとして歓迎されるべきものです。
佳作を。
8 静間安夫さん 「信と不信のはざまで」 1/15
前回に引き続き、興味深い内容ですね。前回少し理論上の錯綜があったのですが、今回は大丈夫。話や思考の質が地に足がついている気がしますね。機知に富みユーモア的味わいを伴いながらも、実はこの詩は相互関係を描くに大変誠実なものです。読んでいて面白いのは3~5連でしょうかね。「神さま、あなたもさあ……」といった感覚と契約関係のくだりですね。僕の感覚では、欧米人、中東人とはおよそ個人的、合理的なんですが、いっぽうで宗教への帰依がかなり深い気がします。概観として言ってしまうと、現在の日本人は無神論とまでは言わないが、その点、実に曖昧(もちろん個人差あり)。そう思って読むと、この詩も極めて日本人的だと言えるかもしれません。
最後の2つの連が静間さんの意志決定、結論でしょう。同時にこの詩は日本人の姿かもしれません。 好みに応じて、この2連、順序入れ替えてもいいかも? 佳作です。
9 晶子さん 「さよならのあとに」 1/15
誰しもタイトルの質感に誘われて読みたくなるでしょう。抒情、余韻、痛み、優しさ。
このあたり、晶子さん、うまいんだな。
冒頭、場面と言うか人々の関係性を把握しておく必要はありそうです。例えば、こんなふうに……。
A……亡くなった人。 B……それを嘆き悲しむ人。 C……Bの傍で慰める人(語り手)。
「爪を立てていただけ」―ここは趣き深い。前の「一生懸命」に呼応するもので、生きていると訪れる災厄や悲しみにできるだけ抗っていた、と解したい。それが「一生懸命」のこと。
「そばにいた時の温かさを痛みに変えないで」はこの詩で主峰を成す。とても深い癒しの言葉であり思考です。「食べてね/眠ってね/笑ってね」は、これすなわち「生きてね」の同義語でしょう。これは大佳作です。
アフターアワーズ。
ちょっとこっちに重きを置きます。僕は冒頭、Aだの、Bだの、書きましたが、―まあ、考えても損はないけど―書き終えた今は、そんなことはどうでもよくなったのです。ただ、読んで、言葉を、気持ちを深く味わえばいい、そして感じればいい、この詩はそういう詩です。最後に技術的なことを。初連部分「食べてね~いいから」は独立させてるから、終わりの同フレーズも独立させたほうが美しいです。ここも読ませどころですから―。でもいい詩です。涙腺崩壊一歩前。
10 酔呆さん 「そこに居なかった俺のために」 1/15 初めてのかたなので今回は感想のみ書かせて頂きます。
よろしくお願いします。
感知されることは、お互いが正直に誠実に考えを出し合ったが、お互い相容れず物別れに終わったようです。そして別れる。世に言う「袂を分かつ」ということでしょう。ただし主人公はその食い違いを冷静に計測し相手を思いやる余地も残していそうです。風景描写が適宜、効果的に入っています。少し現代詩的フレーバーもあって、好ましい適度さで収まっています。3連などは全連の雰囲気を受けて、いい感じで置かれています。タイトルの「そこに居なかった」がこの詩の何処に納まるのかだけが、僕の中で謎として残りました。しかし書ける人のように思いました。また書いてみてください。
11 まるまるさん 「想い出そうよ」 1/15
「ニッチ」という言葉があって、いろいろな分野に使われるのですが、ここでは「一般に、普通には気づきにくいところ」と解します。僕の勝手な解釈によれば、この詩にはそんな趣を感じました。特に2連を始めとする「室外機~果物~牛小屋」の被害に関する現代世相の件ですね。この事例が示すところは社会の複雑化の弊害、時代が動かす価値観の違いやズレでしょう。ありていに言えば、昔はこんなことはなかった。もっとシンプルで緩やかで、ある種牧歌的だったわけです。そういった価値観をこの詩は「お互い様」という言葉で代表させ展開します。お互い助け合って生きていた時代と、思いもよらない犯罪に象徴される殺伐とした現代。その対比の中にあるわけですが、前半の事例(ヘンな犯罪、被害)と後半の思考(お互い様)が少し接続感がズレる気はするんです。ただ冒頭のように、多くの人が見逃がしがちなところ。隙間をフォローするような着眼点は大いに買っておきたいんです。特に後半は凄くいいのです。反省という形で気づかせてくれます。
言いたいことは凄くよくわかるんですが、前半の事例を昨今の人々の心のあり様に触れるほうが相応しい気がするんです。例えば「自分は自分、関わりたくない、無関心、礼儀の廃れ、効率重視、傾向としての人命の軽さ、主張の過激、世界の分断」みたいな感じですかね―。そんなところから話を起こしたほうがいいように思ったのでした。 佳作一歩前で。終連はとてもいいですね。
その通りです。
評のおわりに。
地震という災厄から始まった新年、そして1月もあっという間に終わるのでしょう。
そうとなれば、いっそのこと、早く月日が過ぎて春が来ればいい。
春が来れば、少しは潮目も変わるでしょう。 では、また。
令和6年能登半島地震で亡くなられた方、ご遺族に、追悼の誠を捧げます。
そして、これ以上、災害関連死が増えませんように、祈ります。
孤立集落があらかた解消されたのは良かったです(道路はまだまだ開通してなくて、ヘリコプターで脱出しただけのところもままありますが)
仮設住宅は、平坦な土地があってこそ、建てられるものなので。
しかしながら土地事情をみると、すぐに充分な量が建つとは到底思えない。
仮設住宅は絶対まだまだかかるので、避難所で仮設住宅を待たずに、二次避難をお勧めしたいのだけれど……。
●妻咲邦香さん「ホルスタイン」
四方を山に囲まれているので、大都会の真ん中より空が狭く感じるという、「広くて狭い空」の話はおもしろかったです。ちょっと私の頭の中の想定に全くなかったパターンでした。
私も数年前、母から畑地を相続したら、もうとうの昔に耕作放棄地だったんですが、畑地の所有者にはもれなく、町内の端から端までの水路掃除がついてくるのでした(農業用水利用者だという見なしになる)。3年間動員されておりました。自治会のゴミ拾い、お察し致します。お疲れさまです。
タイトルの「ホルスタイン」ですが、どこで出てくるのかと思ったら、吸盤付きのカーマスコットでしたね。しかもケンタウロスの下半身。交通事故を想起させるエンディング。例えば本当に事故が起こったとしたら、そのあとでこのマスコットがカメラにクローズアップされることでしょう。そういう印象的に映像に残す一品という感じでの登場でした。この使い方もおもしろいです。
車の運転て、奥が深いです。いろんな事故パターンがあるので、年数乗るほど、危険予知事項が増えていきます。ヒヤッとすることが3回あると、次は本当に事故るんだそうですよ。ヒヤッとは予告編のようなものだから、その段階で運転を見直すべきと、元・ヤマトの運行管理者だった先輩から、なにかと口うるさく、運転を指導されたことは、あとになって、ずいぶんと役に立ちました。プロは、注意してるレベルが、シロウトとは全然違うもんだなーと思った。
信号機のない交差点(T字路ふくむ)は、一番事故が多いところなので、特に注意して下さい。何するかわからん相手もいますので、思い込みは禁物。
それ、間際にアクセルの力を抜いてたから止まれたんですね。この話はかなりのところまでリアルなんじゃないかなと思い、読みました。
うむ、よく書けてますよ。全体ストーリーがスリリングな上に、「広くて狭い空」と「思いがけない場所にあるホルスタイン」も付加価値効いてます。
名作&代表作入りを。
●麻月さん「日常」
麻月さんは、前に麻月更紗さんの名で来られてた方ですね。一年くらいのブランクかと思いますが、戻ってきてくれて、本当に嬉しいです。またよろしくお願い致します。
この詩は、表面上は消えてるんですが、深いところに実は哀しみが沈澱していて、それがときどき突発的に、思いがけないタイミングで、オモテに湧いて出るのでしょう。それで涙が出て、視界がゆがむ。そういう心の状態を書かれてるのかなと思います。
それで、いっそのこと攻勢に出て、出る涙は、玉ねぎで強制的に、さっさと先に出し尽くしてしまおうとしているようです。荒療治ですね。私はそんなふうに読みました。
この読み方でだいたい合っているようでしたら、4連で玉ねぎを切る様を効果的にするためにも、初連においては玉ねぎは出さない方がいいです。初連のそこは、洗濯物を干す前ですから、時系列的にいって、「朝ごはんを作る時」くらいでいいのでは、と思います。
あと、韻を踏んでるのはわかるけど、意味的にいえば、4連初行の「淡々と過ぎていく日常の中」は、3連にくっつけた方がいいもののように、私は思いました。
ちょっとそのへん、一考してみて下さい。
哀しみを相手に書いているけど、暗くならず、後半はユーモアさえ交えて終わろうとしてるスタンスはステキです。
詩行的には一考してほしいところがありますが、全体意図はわかる。おまけ秀作にしておきましょう。
ところで、まったくの余談ですが、良性発作性頭位めまい症という三半規管のトラブルによる病気(あまり若い人はならない)があって、マジで不規則にくるめまい(正確にいうと、平衡感覚が急に飛んで、視界が回る)があります。今回の詩とは全く関係ない話ですが、そんな病気もあります。
●エイジさん「コラール」
パイプオルガンでなくても、教会でのオルガンの響きは、なんであのように厳かなのかと思います。亡くなられたのはお母さんのようです。場面はお葬式かと思ったのですが、「今しがた」とあるので、まだお葬式前に来てるのかもしれません。そのせいか、讃美歌(コラール)が歌われている感じがなくて、オルガンだけの感じがします。
また、奏でられる音楽が、故人の魂とともに、天に昇っていくのかと思いましたが、彼女は先に天にいて、作者(あるいは主人公)の祈りと哀惜の念が、音楽とともに天に届けと奏でられているようです。5連からは、そんな感じに受け取れました。そのあたりもお葬式とは違う感じで、作者は一人で、教会に来てるのかもしれませんね。
いずれにせよ、御霊安かれと祈るばかりです。亡くなって、初めてわかることもあります。作者の想いが故人に届きますように。
名作を。
●上田一眞さん「湖西雷鳴」
その雷は、雪が降る前の雷のようですね。琵琶湖の北側はかなり積雪のあるところと聞くので、冬空の雪雲の薄暗さと雷鳴といった、空模様のようです。
そうか、安曇川って、旧朽木村の方から流れてきてるんですね。その琵琶湖側の河口に作者はいるようです。友人は、旧朽木村生まれで、故郷につながるこの河口からの琵琶湖風景が好きだったようです。竹生島も琵琶湖の北側だから、近くに見えるのでしょう。龍神の登場は、この竹生島の龍神伝説に由来してるようです。
作者はそこで、友との約束を果たすべく、湖に散骨します
いろいろ迷惑を被った部分もある友のようなのに、義理堅いですね。しかしながら、その友にとっては、託せるのは作者しかいなかったようです。
この散骨の儀式と、その地の天候が、(一見すると悪天候なんですが)作者には両者が噛み合っているもののように思えたのでしょう。水墨画のような風情(時に昇竜図も)の美しさで描いてくれています。良いと思います。
また、強調行の実験も、問題ありません。うまくいってると思います。
作者にとっても、記憶に残る一作なのではないでしょうか。名作を。
●理蝶さん「か細い祈り」
この詩は、すべての弱い者たちへ、という感じで書かれていて、能登半島地震の被災者の方々も含んでのことと思われますが、正直、どっちかというと、自死を考えてしまいそうな人たちへ向けて、命の大切さを呼びかけているような詩に感じて読みました。
6連の4行目以降、懸命の祈りがステキですね。
傷ついた全てのものへ
手向ける祈りの束
生きていて どうか
いのちを握っていて
いのちは訪れる幸せ
いのちは帰り来る幸せ
そのものだから
2連で「あかり」のことを述べていますが、2連自体は、「あかり」を主語に置いているだけなので、それが3連以降にどう係るのか、文章として続きがあるはずなんですが、そこがイマイチわかりにくいです。
3連を読むかぎり、そのあかりがどうかした、という話があるわけではなく、要は、電気がついて、夜になって、くらいの意にしか、係ってないように思います。
3連の主たる意である、「涙が落ちる」ことに、あかりが絡んでるわけではなさそうです。
となると、せっかく2連で取り上げながら、あまり機能のないことになってる気がして、奇妙な置かれ方だなと、気になりました。
そこだけ一考してみて下さい。
命のエールに熱意を感じた。そこは良かったです。秀作プラスを。
●秋さやかさん「大樹」
きれいな叙景と情感で、秋さんワールドに浸ってるだけで、もう気持ちいいってものがあるので、そこでまず評価は立つのですが。
この詩はね、ちょっと主人公が輻輳してるんですよね。そこがスッキリしないところでして。詩においては主従関係はハッキリした方がいいのですよ。主役が二人になると、混乱して、足を引っ張り合うというか、マイナス効果になるのです。
何回も読み返したんですが、この詩はやっぱり大樹そのものが主人公だと思うのです。描かれた詩行のボリューム感から言っても、絶対そうだと思う。大樹はのち、世界そのものであったり、命の根源の宇宙にも喩えられてきます。これら、大樹というものへの考察表現や叙景が、この詩のまずもっての読みどころです。あくまで大樹を主役として読んだほうが、この詩はスッキリします。
しかしその観点に立った時、邪魔をする者があるのです。
かつては
小さな一本の双葉だった
わたしたち いま
どうしてこんなに遠いのだろう
この連ですね。これが、主役級の重い意味をもった連なので、この連の登場で、意識が「わたしとあなた」の関係性の方に向いてしまうのです。しかしながら、これを主役で読もうとすると、次にこの人称が登場するのは、後ろから2連目しかなくって、その間の伏線が途中でぶっつり切れてしまっているので、ストーリーが立ってなくて「わたしとあなた」を追うと混乱してしまいます。
ですので「わたしとあなた」を混ぜたいのはわかるが、「主従」の「従」に徹すべき(脇役案件に徹すべき)、というのが私の意見です。上記の主役級に見える連は、これだけ見ると魅力的な連ではありますが、別の方向性に引っ張っちゃっていく連なので、あとのことを考えずに不用意に入れてはいけない連というか、削除したほうが、詩全体のためにはいいと考えます。
この連を抜くことで、たぶん混乱を回避できます。主役及び主たる視線は、あくまで大樹に置いて、進行した方がいいです。ちなみに、この連を除いた前半は、ぐいぐい畳みかけてくるようで、凄くいいです。
そこだけ一考して下さい。おまけ名作を。
●晶子さん「鳥舞」
これは令和6年能登半島地震で被災された方へのエールと取りました。
詩は、地震を起こした悪霊たちが、ひそひそ話をしている感じに描かれています。地震で潰れた家屋の上で、鳥の舞いを踊る者が現れる。それは邪気を祓い、その地の復旧・復興を目指す、人々の狼煙のようであります。悪霊がいくら潰しても、人は滅びない。蘇り、生きていく。人間の強さを示すようであり、そうあってほしいと願う作者の祈りのようでもあります。
名作を。
不思議な鳥舞に喩えられたこの作品、おもしろいのですが、強いていうと、「鳥舞」を知らない人が鳥舞をどう想像するかというところに、少々の難があります。
私がいちおう思ったのは、東北地方に伝わる「鶏舞」が、元は、悪霊を踏み鎮める呪法に則った足さばきをルーツにしてるのだそうで、これの意に取るのが一番近いかなと思いました。鳥の姿で舞う神楽などでも、邪気を祓う意のものが多いようです。
まあ、後ろに注釈で、鳥舞の意図するところについて、少し補足した方がベターかもしれないです。
あるいは、同じく注釈位置に( )付で、「能登半島に捧ぐ」あるいは「令和6年能登半島地震で被災された方々に捧ぐ」と、こちらの方の意を注釈位置で書いてもいいですね。今はタイムリーだから想像つきますが、何年か後になってから読んでもわかるようにの補足です。
また、これがこの詩を読み解くヒントを置いてることにもなります。
「私、恥ずかしがる男は、嫌い。優しくなくてわがままで自己中だから」
そう言って女は恥ずかしがらない男と恥ずかしがらない女の群れを作り、光の世界で輝き続ける。
楽しい楽しい、こんな素敵な時間が永遠に続くんだわ。
高級バッグにルイヴィトン、エルメスのバッグに鰐皮のパンツ。
完璧過ぎる人生に、翳りは見えず、常に完全無敵で彼女はいつも最高にクールで、サイコーだった。
スカイハイ。彼女の心は永遠にいつまでも空を飛び続け、永遠に最高であり続けるだろう。
それを描写する恥ずかしがり屋の私も同じように、クールで最高であるはずなのだが。
彼女が闇に目を張った瞬間、私が光を拒否した瞬間。
恥じらいには二つの性質がある。
お互いに認識していない心の闇がある。
書くということは実はそれを知っていたということ。
読むことによってわかるということは、それを本当は知っていたということ。
表に出したか裏に隠したか?
恥じらいには、どちらを選ぶのが正解だと思ったかという違いだけがあるのです。
責任の回避と責任の放棄。
引き受ける時ができるときだけ、恥じらうことをしない人。
無責任を通して、成功し続ける人。それは巨大な資本を生むことがある。
どちらが正解だったかは、本当はわからない。
この度も評をいただきありがとうございます、
共感していただき嬉しいです。
自分的には終連は必要だろうと思っていたので、それが受け皿となっていることを言っていただけてよかったです。
佳作飛翔一歩前。
励ましのお言葉ありがとうございます。
精進いたします。
茹でたシャコをせっせと食べる
親子四人で食卓を囲み
笊いっぱい盛り上げて食べる
さっきまでゴソゴソ動いていた
活きの良いやつだ
好き嫌いの激しい僕が
シャコなんか大嫌い 卵焼きがいい
と喚いたばかりに
食べるまでシャコしか出さん!
と宣言され シャコ三昧の日々
シャコに目がない母は
毎朝うきうきして魚市場へ通ってる
そんなこと言われたって
嫌いなものは嫌い
第一 あの形が駄目
団子虫みたいだもの 気味が悪い
それに小さいやつは釣りの餌だよ
何が悲しくて
人が食べなきゃいけないのさ
嫌だけど母が恐い顔して見てるから
チュチュっと吸って
ポイと捨てる
また食べたふりして捨てる
まだ身のついた大ぶりなシャコの残骸が
山のようになっている
このエビカニさん美味しいね
母に子持ちシャコの身を剥いてもらって
ほお張る小さな妹は
すっかりご満悦
パクパク食べている
よく食べるなあとばかりに
あきれて
手を止めて見ていると
とうとう
親父の頭が桜島のごとく大噴火した
我儘は許さん
灸(やいと)すえちゃる!
散々逃げ廻ったが
抑えつけられてお尻にお灸をすえられた
お尻が桜島になった
まあ 熱いこと痛いこと
酷い災難
鬼のような親父だ
(幾歳月かが経った後)
見せたことも
触らせたことも
食べさせたこともないのに
いま東京にいる
僕の息子はシャコが大好きだ
シャコの身体能力について語り始めると
薀蓄傾け 止まらなくなる
さかなクンばりの研究家
きっとおばあちゃんのシャコ好きが
乗り移ったんだ
天界でおばあちゃんは
美味しい
子持ちシャコに舌鼓をうちながら
孫の薀蓄に聞き入っているに違いない
ちなみに僕はいまでも苦手
あの姿
ああ おぞましい
不穏な空よ
腹落ちできない毎日よ
慢性的な疲労を抱え
あちらこちらが揺れている
噛み合わない体温と
すれ違う言葉達
みんなうつむいたまま
つながろうとして
ぶつかってはいらついて
打ち寄せる心の波よ
こんな空の下で
涙流せるわけないじゃない
怒れるわけないじゃない
ぶつかり合う肉体が
魂を拒み始めた
周りはもっと大変だから
休めるわけないじゃない
目を閉じて口を閉ざしてしまう私も
被災者なのかもしれません
閉じていく空に私は何を言ったらよいのか
瞼みたいな雲が垂れ下がり
ついつい微睡んでしまえば
ここで誰かを待ってた気もするし
もう待たなくていい気もする
そうしてお終いにしてしまいたいけれど
どちらを向いても同じ色の風
これ以上歩きたくなかった
次第に閉じていく
ガラガラピシャリと
音も立てずに降りて来る
まぼろしとか夢とか
綺麗
やっぱり
綺麗だ
しょうがない
全部私の色だから
勿体ないから食べてしまおう
誰かが教えてくれた空と
私の知っている空はそっくりなのに
綺麗な容れものに綺麗じゃない心
公平にひとつずつ
でもそれが本当に欲しかったものなのか
今ではうんと怪しい
だから明日よ
あなたは迷いながら来て欲しい
私は此処だよと呼びかけたなら
その時はじめて一歩を踏み出して欲しい
まだ息のある今日の邪魔をどうかしないで
私を信じて待っててくれて欲しい
そして
力なく瞼が閉じられて
終わりのない物語は私の力では
終わらせられないのだと気付いた時に
深々と丁寧に
頭を下げる
本日は閉店いたしました
またのご来店をお待ちしております
かわいそうに春が来た
君のいない春が来た
今年開いた花達は
君を探しているけれど
君はどこにも見つからない
君が見つけてくれたから
きれいねぇ
と言ってくれたから
寒い冬にもじっと耐え
春が来るのを待ったのに
やっと開いたその先に
君の姿が見つからない
だからせめて花達よ
散りゆく時は君のもと
春など来るなと
泣く人の
想いをのせて舞い落ちろ
そしてせめて花達よ
何度も過ぎゆく春のたび
散りゆき君に会いに行け
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※題名の嘆春歌(たんしゅんか)は造語です。
詩の感想をありがとうございます。
新年から、心がざわつく出来事に、想いを馳せたいと思い詩にしました。
次回は、自身の経験談を交えて投稿させていただきます。