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ここから詩人として巣立った人は数知れず、です。あなたの詩を継続的に見守り、詩の成長を助ける掲示板です。
(あのーー、私が言うことでもないんですけど、詩は自由を旨としていますから、どこにでも投稿しようと思えば、投稿できないところはないんですけど、いきなり大きなところに挑戦しても、世の多くのものがそうであるように、ポッと書いて、ポッと通用する、ポッと賞が取れる、なんてことは、まずありえないことというか、相当に稀有な話なのです。
やってみることは止めませんけど、大きなところのノー・レスポンスにがっかりしたら、
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はい私は野良猫でした
定職はありませんでした
屋根があるところなら
大体のところで寝ました
ご飯は気が向いたように
調達しました
少し愛嬌があるので
寂しそうな人を見つけては
少し近寄ってあげました
喜ばれました
なるべくか細い声で鳴きました
優しい誰かが撫でてくれました
こんな毎日でよかったんです
結構気に入っていたんです
目覚めた時の一人ぼっちの寂しさを除いては
だれかと一緒にいるのは本当に怖かった
次に会うときに嫌いって言われないか
急にいなくならないか
私に飽きないか
だから孤独な野良猫でよかった
どこにでも溶け込む静かな野良猫だった
優しいあなたにだけ見える野良猫だった
そしてあなたにとって都合が悪くなると
そっと消える野良猫だった
そんなことを思い出したのは
そうさっき我が子から
お母さん お母さんは
なんか野良猫感が強いよ
うん お母さん野良猫だ
と宣言されてしまったから
ああどんなに洗っても取れない野良猫感
私お友達からカステラもらって
子供にあげただけなのに
子供は言う
お母さんは外にふらっと出ると
絶対なんかもらって帰る
それ野良猫だからね
そういうことらしい
はい私は新しい野良猫です
定職あります
住所あります
ご飯はクックパッドで計画立てて作ります
PTAの辺りをテリトリーにしてます
お菓子と情報のやり取りが得意です
寂しそうな人をフォローします
大きな声を出します
新しい野良猫はこんな毎日が
すごく気に入っています
でも本当は飼い猫と言われたいです
元旦の青天の千葉神社
私には記憶すらない
亡くなった祖父が
毎年初詣に行っていた
それだけである
赤々とした二階建ての本殿の
眩しさに見惚れながら
龍のような行列を並んでいた
参拝にも御守を買うのも
蟻のように並び続けて
敷地内に無数にある
末社摂社を巡っていたら
時間がかかってしまった
正午頃に来たはずなのに
近くで一軒だけ大晦日から
営業中のラーメン屋に入り
大将から正月の神社周辺の
愚痴をいろいろ聞きながら
濃い目の醤油ラーメンを
啜っては腹を満たし
帰りに角の酒場で
甘酒を立ち飲みする
すると客達の携帯から
けたたたましい虫の音のような
地震警報アラームが一斉に鳴り出して
電線や電柱がゆらゆらと
地面とともに揺れ出した
揺れているの?と
酒場で働く少年も
自分に尋ねた
震源地は能登半島付近と
携帯画面が真っ赤になる
嫌な予感しかなかった
関東大震災から百年
卯年から辰年へ
呪われた年月日と数の呪縛
私は思い出した
あの東日本大震災の
立ち上がれなかったあの揺れを
そして能登半島を襲った
火と水と地の大災害と犠牲を
誰も知る由もなかった
「クリスマスの夜」の評価と感想、本当にありがとうございます。自分が描いた以上に想像力でここまで読んで頂いただけで嬉しいです。この詩はクリスマスの夜の自分をそのまま描写したものです。
ソファに座っている
壁の時計は秒針がない
眺めていると
長針がかすかに動く
そのうち
コンコンコン
木の音がして
扉が開く
こんにちは
こんにちは
あったかい紅茶を
飲みながら
お喋りをして
笑って
さようなら
さようなら
また
部屋にひとり
音のない時計と
残される
ぼんやり
ただひたすら待つ
長針が静かに動いて
やがてひと回りするのを
今回も読んで頂き誠に有難う御座います。そしてとても勉強になるご指導、心より感謝を致します。これからも精進して創作の糧として努力いたしたいと思います。ありがとうございました。
日曜日 夕方 地元の公園
赤いベンチ 並んで座る
遠くに 遠くに 夕焼け
二人の心の中 わかるよ
そのまま そのまま 沈まないで
言葉なんて 意味がなくなる時
握り合う 右手と左手 強く
このまま連れ去りたい 僕だけの世界
このまま離れたくない 君との世界
一番星 微かな月 止まらない時
出せない勇気 よわむしけむし
立ちあがる君 慌てて立ち上がる僕
『またね』 『またね………ちょっと待って』
重なる 重ねる 優しく 柔らかく
二人の頬 夕焼けのような頬
笑顔の二人 思い出の日
雲の上の帰り道
「詩と出会う 詩と生きる」という
胸躍る題名の本を手にしたのは
今から4年前の春のことだった
2020年4月と言えば
あのコロナ禍で
街から人が消えた時期だった
同時に公園からも人が減った
そんな中 呑気に街を
公園をその本を手に
ほっつき歩いては
詩を書いて 詩人を気取っていた
今当時の詩を読んでみると
目を覆いたくなるような
とても初歩的な詩だ
時折ベンチに腰を下ろしては
手にした本を読むのだが
内容は全く頭に入ってこず
右から左へ筒抜けていった
*
それから4年経った今
もう一度その本を手にとってみた
私は本の向こうに見える
穏やかな景色を見渡すような
心持ちだった
食べたものによって
私たちの肉体が形成されていくように、
私たちの心は言葉によって育てられます。
詩とは、過ぎ去るさまざまなものを、
言葉という舟で、
永遠の世界に運ぼうとする試みだといえる
「詩と出会う 詩と生きる」より 若松英輔
とてつもなく素早く
飛ばされる球のようにしか
見えなかった言葉の群れが
右奥になだらかな山々が見えて
里山の街が左に広がっていくというように
本が風景になって見えるかのよう
この本を再び手にして
山の八合目まで
やっと登ってきた感がある
言葉の舟に目をやりながら
再び本の風景に耽溺する
*
若葉の芽吹いた
木々の群れを過ぎると
急な勾配が立ちはだかり
しばらく登ると右に
朽ち果てそうな山小屋が見え
登った先には一面の緑草
初春の
オオイヌノフグリ
見やりながら
ベンチに座って
ほっと一息
唯、存在するだけで
途轍もなく気怠いこの有り様は
生きてゐる限り終はりは迎へまい。
気怠さ故に眠れず、徹夜して東の夜空を見上げると
明けの明星が煌煌と輝くが、
金星、即ちVenusも気怠く見えてしまふのは
多分に私の心の反映と思へる。
しかし、本当にVenusの愁ひは
私の心の持ちやうによるだけのものなのか。
Venusもまた、自然の摂理に従って公転自転をしてゐるが、
その反復に倦んだりせずに深い懊悩の中にあるとも思へる。
しかし、それは取り越し苦労に違ひない。
仏哲学者ジル・ドゥルーズは
『差異と反復』といふ著書をものにしてゐるが、
反復で同一性は担保されず、
何かしらの差異が生じてゐると
ドゥルーズは看做してゐる。
私もそれには賛成で、
同じ地球の公転自転の反復でも
昨日考へてゐたことと今日考へることとは
何の脈絡もなく違ってゐて、
去年の今日考へてひたことと今年に考へることは
これまた、何の脈絡もなく違ってゐて、
地球もまた、思考するならば同じことで、
森羅万象もまた、思考するならば、
それもまた、同じことだ。
それが自然といふもの。
ただし、存在することの気怠さには
今のところ、何の変化もなく、
毎時毎日毎週毎年同じやうに思へる。
それに鬱といふ病名を名付けても
何の解決にもならず、
気怠い懊悩は更に深まるのみ。
今では父母も亡くなり、
私の理解者は何処にもゐないやうに思へるが、
それでも生きてゆく覚悟だけはある。
ところが、存在することの気怠さに躓いて
不意と死にたくなる瞬間に永劫を見る。
それがStopperとなって死を思ひ留まるのであるが、
それでも気怠い愁ひは消えない。
この反復は実に堪へ難いもので、
ここには差異は見られない。
毎時毎日は気怠い愁ひの中にあり、
心は倦み疲れてゐる。
存在するだけで既に疲労困憊、精神耗弱にある。
だからだらうか、
時折世界が黄金に輝くときがある。
そのときだけ、気分はHighになり
世界との同一感は一入なのだ。
だからこそ、普段の気怠い愁ひの懊悩との落差に
更に懊悩は深まる。
この堂堂巡りの悪循環に
出口なしと諦めてはゐるが、
その慰みに闇と戯れながら、
闇を鏡に異形の吾を映し出しては
それをぶん殴り斃しては
焼いて食べることの繰り返しを続けてゐる。
さうして一枚一枚と吾を剥いては
辣韮のやうに剝けてしまふ
吾の中身のなさ、
つまり、がらんどうの吾を確認しては
吾を嘲弄して私は心の均斉を
何とか保ってゐる。