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✱生誕日・・大好きな作品で✱ #2019.4.9
今日は、橋蔵さま 生誕日です。
橋蔵さまご健在のときは、毎年お誕生会が開かれ、みんなでお祝いしました。
にこやかな橋蔵さまのお話しを楽しみにしていたものです。
今は、残してくださった作品を見て、私達が橋蔵さまに話しかけていきましょう。
橋蔵さまならではの素晴らしいところがぎっしり詰まっている「月形半平太」私の大好きな作品の一つです。
「ほんまに、もういっぺん、おおておくれやすか?」
「うん・・必ず会う」
「・・うれしいわぁ・・・ほんで、何処で?」
「そう、うーん、場所は三条河原、時刻は四つ半」
「へえ、ほんまどっせ、嘘やったら、いやどっせ」
倒れゆく半平太の思いは・・・約束の三条河原で待つ梅松は・・・この場面が脳裏に焼きつきます。
👆(画像の上をクリックすると画面の違うところで見ることが出来ます)
✱何も残らないの・・「旗本やくざ」✱ #2019.4.7
東京の桜の花も満開宣言から寒暖の激しさの中でやっといたるところで散り始めています。川面の花筏が見られるところはいいですね。
明日は花まつり。仏教徒の多い日本人の間でも意外とお寺へ出かけ春の花に囲まれたお釈迦様に甘茶をかける人が少なくなりました。
そういう私も仏教とキリスト教の両方を持っていますので、そこは適当にどちらも大切と思っています。
「旗本やくざ」ちょっと辛口の感想?になってしまいますがお許しください。
このような作品がもう何年か前だったら・・作品内容は別として。
橋蔵さまの若さも相まって楽しいものが出来たのではないかと思いますが、そうは問屋が卸しませんかね・・時代の流れというものがありますから。
テレビ時代が来ていたし、東映時代劇の役者さんだけではこのようなコミカルな作品は無理。
この頃になりますと、映画の時代劇を見る観客はぐっと減りましたし、東映はやくざ路線の現代劇が主流、時代劇役者も現代物にチェンジしていきました。橋蔵さまも1965年には先ずは「バラケツ勝負」で様子を見ましたが、これでは現代やくざ路線の方向のものはダメということで、その時代にあった時代劇作品をせめて少しでも撮っていくという状態でしたね。
「旗本やくざ」この時の東映映画作品としては、奇抜ともいえる内容の作品でしょう。中島貞夫さんと倉本聰さんの共同脚色もの時代劇を他社で2本撮っていますが、これもハチャメチャとはいいませんが、そのような雰囲気を持った作品?のような。
「旗本やくざ」ではお二人共同の脚本でコミカルを基本に作り、その中に弱者と強者の関係を描くというもの。最初の場面を見ていると、これは喜劇?と疑ってしまいます。音楽は山本直純さんで、ジャズと和音楽の取り合わせが作品の進行を楽しくしていきます。最初の芝居の背景が廓、そして丁の目の三次達が遊ぶ場が廓、舞台のセリフ回しと同じ感覚で前半は映像が進んで行きます。廓で踊るは当時流行っていたゴーゴーなども取り入れられています。
橋蔵さまの舞台セリフとひょっとこ踊りを見られますからファンには少し満足はいくでしょうが・・・ひょっとこ踊り、橋蔵さまが踊れるということを知らない人たちには、違う人が踊っていると思うでしょうね・・・ずっとお面をつけていますからね。反対に考えると、この場面注目するのは、橋蔵さまに注目するのではなく、酒井丹波守がおかしいと感ずる過程の演出で持ってきているのだと思います。当時の時代劇は主演者だけが引き立つ映画ではなくなっていますから、そこが何というか納得して見ていくのには抵抗を感じる方もいるのではないでしょうか。
そう言う面で、この作品も、たらしの頓兵衛の青島幸夫さん、お囃子の長助の近藤洋介さん、雷の四郎五郎の遠藤辰雄さんの良さが引き立っています。いや、橋蔵さんより目立っているかもしれません。
ある意味で主役は橋蔵さんでなくても良かった作品では・・と思ったりもします。
やはり、橋蔵さまはやはり化粧っけがない顔は何か一つ重みがないです。そして「バラケツ」の時もそうですが、やくざになるとセリフを言う時の口の開き方にいつ見ても違和感を感じてしまいます。そこまで崩さなくても・・・とね。
私は今までに何回か見ているのですが、見終ると「ふーん」といった感じで楽しかったいえる程でもなく、何も残っていないんです。やはり綺麗さ、橋蔵さんでなくちゃ出来ない三枚目?のものでないからかもしれません。
この作品を演っている時には、映画を離れようと決心していたでしょうから、橋蔵さまは、この作品にある思いを込めて頑張った作品だったのだとは思います。でも評価は?有終の美は飾れませんでした。
橋蔵さまと東映がこの時点でテレビに重きを置いたのは結果的には良かったのでしょう。
✱花より団子✱ #2019.3.30
東京の🌸ソメイヨシノ桜 も天候の足踏み状態で、来週まで持ちそうです。
現在は何処のものでも手に入るし売っているから何でも食べられ、地方色もなくなってきましたがね。今頃は、桜に関係した桜餅、道明寺、三食団子、と食べたくなるものばかり。
東京で桜餅といえば長命寺ですが、今は関西の道明寺も京都の三色団子も容易に食べることができます。。
今から58年前の春に、橋蔵さまが撮影の合間にホッとひと息京の春を味わっているときに、こんなことを言っていますよ。
『花より団子といいますが、京都にはピンクとホワイトとグリーンの三色の花見団子があります。その敗色が何ともいえず美しいので、甘党ではない僕もつい手が出てしまいます」
ああ、長命寺の桜餅をお願いしよう、道明寺と三色団子はデパートに売っているものでいいわ。
📺月形半平太」はマキノ雅弘監督ですから、愛や恋を描くのはお手のもの・・よいですよね。丘さとみさんの魅力を引出すのが上手いので橋蔵さまとの絡みがすごくいいですね。それはおいといて、力強い殺陣が見られるのがよいところです。ラスト大乗院での立廻りのときに、相手の刀が飛ぶのですね、脚本にあることなのか、それともそのときの力の入った動きからなのかは別として、ちょっとした一瞬の映像が、大立廻りの勢いを突き付けてきます。
このラストは、皆様ご存知のように、半平太を死なせないようにとの意向であのような終わり方・・「傷を負って、壮絶な斬りあいのため気がふれているかもしれないが、半平太は死んではいないのだよ・・・」というところでしょうか。そして三条河原で半平太が来るのを待っている梅松の姿が・・もしかしたら半平太が来るかもしれない・・という願望を持たせて終わる・・・印象的です。切ないですけれど。ここがあるから後から何回見ても、この作品「月形半平太」は心に残りますね。
1958年頃の話から 一寸・・
😢感激されてこまった話・・・をしましょう
(こちらの掲示板に四方山話を書く時は、私なりのニュアンスで原文に色付けしたりして書いていますことご了承ください)
気軽な冗談をいってよく人を笑わせる橋蔵さまですが、自分でもよく笑うというゲラオでありますが、また大の感激家でもあるのです。
こんな話があります。
東京の家には、橋蔵さまが京都にいようが毎日のように、ファンが押し寄せています。どこからか、橋蔵さまが東京に帰ってくるということがわかったときはそれこそ大変。
久しぶりに東京の我が家に帰って来た橋蔵さまのところに、早くもファンの女学生たちが訪ねてきていました。手に手に花などを持って非常に賑やかな玄関先です。
橋蔵さまは東京に着いてまだ何時間も経っていないので休みもしたいところですが、ファンサービスが良すぎるくらいの橋蔵さまですから、疲れていても気軽に立っていって玄関の戸を開け、「やあいらっしゃい、どうぞ」橋蔵さまは気軽に、賑やかに話している女学生達に声をかけたのです。
とたんに賑やかな女学生たちが、シーンとなってしまってのですから驚きです。そして彼女達はポーッとした瞳を橋蔵さんに釘付けしたまま、動かなくなっちゃいました。
橋蔵さまの方から握手のつもりで手を出しても応じません。これには橋蔵さまも大弱りで、橋蔵さまの方がすっかり照れてしまって、どうしたらよいのかまごまごしてしまったそうです。
女学生たちにして見れば、まさかご本人がすんなり出てくるとは思っていませんし、訪問で今日会えるとは思っていなかったのでしょう。それが橋蔵さまご本人の出迎えに感激のあまり、夢の世界へ・・という訳で、感激家の橋蔵さまが逆に感激されてしまったというのです。
✱ちょっと一服しまね✱ #2019.3.24
今朝は雪がちらついたところが各所であつたようです。桜開花のところには今日はお花見客が出ていることでしょう。
私は、河土手の桜並木、山にピンクに染まっている桜と、どちらかというと、なるべくは自然と溶け込んでいる桜が好きです。
数年前まで、毎週青梅まで行っていた時のあの自然の素晴らしい景色が思い出されます。都心から西方面多摩川を越えると近くに四季楽しめる景色が沢山あります。最近は、いかなければ・・と思うのですが、うまい具合に時間が取れず、ご無沙汰をしている状態です。
では、今日は1958年頃のことからの、
橋蔵さん・・お茶目でソンをした話をひとつ載せてみました。
(こちらの掲示板に四方山話を書く時は、私なりのニュアンスで原文に色付けしたりして書いていますことご了承ください)
橋蔵さまにこんな半面がありましたよ。
撮影で京都近郊の川原にロケに行ったときのことです。
お天気はよいし、なんといっても大好きな立廻りシーンでご機嫌に動き回っていた橋蔵さまでした。休憩になって、ふと目の前の光景を目にしたから大変、橋蔵さまのいたずら心が頭をもたげたようです。
その目の前の光景とは、河原の水量は少なくまたいで渡れるくらいの川幅で向こうが洲になっています。そこで出番待ちの人たちが気持ちよさそうに昼寝をしている最中だったのです。
いま、立廻りで一生懸命動いて来た橋蔵さまにして見れば、何ということ・・。
「人が仕事をしているのに・・。よし渡れなくしてやる」
橋蔵さまは大土木工事?をはじめました。石を運んで水をせき止めたり、溝を掘ったり、と苦労のかいあって川幅は相当広くなり、またいでは渡れなくなりました。
そうしていると、「おーい、出番だよー」の声がかかります。むっくり起き上がった昼寝組が、どんなリアクションを見せるか・・・楽しみにしていたのです。・・・ところが、彼らは広くなった川を、何事もないように水をジャブジャブはね散らかしてカメラの前に行ったのです。
橋蔵さまの苦心の大土木工事など全く気がつきません。みんな困るだろうと、その瞬間を期待していた橋蔵さまはガッカリです。骨折り損のくたびれ儲けの撮影合間の出来事でした。
✐(橋蔵さま・・お疲れさまでした。そんな作業をして、橋蔵さまゆっくり休憩出来たのですか? そのあとのロケ撮影に支障はなかったのでしょうね、心配しちゃいます)
✱金糸雀雑記✱ #2019.3.21
春分の日、東京は予報ほどの雨は降らなかったのですが、強風がすごかった。靖国神社のソメイヨシノも5輪以上ひらき桜開花の発表がありました。でも、明日は北風が吹き、温かさも一時ストップのよう。
今日は私のまわりは静かな一日となりました。
橋蔵さま生誕90年ということも考え、今日はこれからのブログの構想をいくつか練っていました。
午前中はブログ”美しき大川橋蔵”の画像処理。毎回一回の投稿の画像が約20枚、画像の明るさ、橋蔵さまのこれといったところの台詞のところと画像を先ず整理し、その後、サインを入れていく作業と、面倒くさいけれど、これも大川橋蔵の作品をこれから先、いつか一人でも多くの人が見てくれればという思いを込めてやっています。仕事の方が優先ですから、時々は嫌になっちゃうこともあるのだけれど。
作品のブログは、42作品目の「修羅八荒」がそろそろ完了します。私が現在目を通しているのは「新吾十番勝負」は二部と一緒に書くとして、「おしどり道中」がもう少しで完了するところまできました。50作品目までもう少しで、ストックできるところまできました。
でも、先は長~いですね、どこまで出来るやら・・・です。
フリーページにもいろいろ掲載したいので、少しずつ準備をしているものもあります。作品と連携してコーナーを作り、手元にあるのは数少なくなってしまっていますが、後援会誌からも載せて行く予定にしています。
ブログ”心の軌跡”の方は、年代順に手元にある雑誌から目を通し、私自身その年代に見ている気分で活字を追っています。橋蔵さまの特集記事や私が集めた好きな作品の別冊ものになると、どこまで載せようかと一苦労、素敵な橋蔵さまをより多く見てもらいたいと、苦心しています。雑誌「近代映画」からの一部は、”美しき大川橋蔵”のフリーページの方にまとめていきたいと思っています。
いろいろと構想は練っていますが、何しろ時間が思うように取れませんので、少しずつの掲載になってしまいますが、この”大川橋蔵大好きファン広場”の掲示板と一緒に橋蔵さまを思いだす楽しみの一つに加えてください。ブログには載せない記事の中から、ちょっとしたものは、年代順不同になりますが"掲示板"の方に四方山話という感じで載せていくつもりです。
✱作品それぞれに思いあり✱ #2019.3.10
春3月は本当に気候が激しいですね。今日から明日にかけ大雨、暴風と大荒れの天気になりそうです。北海道はここ2,3日雪もふるということ、ですからお気をつけください。
今日は、東日本大震災から明日で8年のためのテレビでいろいろ放送しています。あの時何をしていただろう・・と、東京でも大変な揺れに、そして余震が幾度となく・・あの恐怖感は今も鮮明に思い出されます。大地震は起きてほしくないですね。
その中いやな事を吹き飛ばしてくれるように、春の草花が咲き競うようになりました。さくら、梅、モクレン、チューリップ、芝桜、スイートピー、ガーベラ等いっぱい咲き乱れます。その中、今年はラナンキュラスの色が豊富で、切り花として持ちがよいということで、今人気があるようです。
あなたはどんな花がお好きですか・・橋蔵さまがあの花が・・と言っていたから・・も良いとは思いますが、ご自分を主張出来るようなよい素晴らしい花を見つけてみましょう。
私は平次が始まった時は高校生で、水曜20時にはチャンネルは私の思うままに8chで、受験最中も見ていたのに、内容を覚えているものが全然ないのです。
映画もしかり。私は何を見ていたのでしょうね。そして3月から始まった
1970年から1984年最終回までも同じこと。橋蔵さまのテレビ時代をただ画面を見つめていただけで、内容はどうでも良かったという事になるのでしょう。
209回・・まだよく見ていないのですが、香山さんのお静との絡みが思っていたほど印象に残りませんでした。一回目ということもあるでしょうね。この後、八千草さんとのうぶな感じのお静とは違った平次との絡みを期待しながら見ていきたいと思います。
江戸っ子橋蔵さまにはシとヒは辛いわね。気をつけていて、セリフ回しで誤魔化せる時もあるのだけれど、聞いている私もそんなに気にしないようにしていますが、人の名前の時は、やはり気になってしまう時があります。
「濡れ燕 くれない権八」の時、橋蔵さま自身とても注意をしていたのは分かるのですが、ラストで比呂恵(ひろえ)さんと何回も言うところなのですが・・・比呂恵が権八を好きだという意思表示をして、権八も比呂恵を愛おしく思い抱くのです・・ここでです「比呂恵さん」と2回いうのかな・・それが完全に「しろえ」さんと聞こえてしまうから、折角のところで見ていて吹き出してしまう。そこが脳裏にインプットされてしまって・・江戸っ子にはきつい場面でのセリフだったと思いますわ。
各映画会社がコンビを作って売り出しましたが、トミイ・マミイコンビの魅力は、時代劇という利点をふんだんに使いお二人の魅力がしっくり溶け合ったところに強味がありましたね。十代のひばりさんが各映画会社で共演した人たちから吸収したものと歌手として感情移入が上手いひばりさんですから、橋蔵さまをリードしていくことは上手いものでしたね。橋蔵さまは女形出身ですから、相手を立てることを叩きこまれています。勿論お互いに息が合うことが第一ですが、橋蔵さまの受け身が上手く、ひばりさんがより実力を出してリードし、橋蔵さんは相手が上手い人だとそれに答える魅力をより出してくるのだと思います。
舞台ではお二人の姿を舞踊で見ることはできましたが、ちゃんとした舞台劇での共演がなかったのは残念なことでした。
平次の最終回を見てしまうと、やはり年月というものを感じてしまい、少し長すぎたなという感じが見え残念ですが、これから放送になるのは5年目の平次さんですから、まだまだ大丈夫・・楽しんでください。
若さま侍も、スリラー、ミステリーを強く入れた作品になってきたので、それまでの若さま侍らしき良さが薄らいできたのが残念です。
「若さま侍捕物帖」と「紅鶴屋敷」の2作品が橋蔵さまの若さま侍捕物帖としての代表作として残って行くのでしょうか。
私は、若さま侍として好きなのはモノクロの「鮮血の晴着」・・橋蔵さまの美しさはモノクロでもの凄く引き立ちますね。
地上波、BSで時代劇の放送は、2時間の特別番組で制作したものぐらいしかやりませんし、BSで流しているものもCSと同じように数年前放送したもを何回も同じものを流しているだけ。本当につまらないものですね。
日本全国に流れる地上波とBSで、橋蔵さまの平次を放送して欲しいな。今見ていても見劣りがしない橋蔵平次ですからね。
「花笠若衆」橋蔵さまとひばりさんが、本当にしっくりいった作品ですね。この作品は「花笠道中」の歌と共に残っていくでしょうね。
✱アルファベットでのもの知り手帖」から③✱ #2019.3.3
東京の現在は昨日とうって変わって冷たい雨が降っています。夕方からは本格的な雨になりそうです。
🎎 ひな祭りの日ですが、皆様はどのように過ごしていらっしゃろいますか。
東京マラソンが行われている最中です。普通は2月の最終日曜日なのだけれど今回は流れから3月第一日曜日になっています。それにしても3万8千人、みんなすごいなあ。
オリンピック期待の大迫選手は29キロで途中棄権、何が起こるかわかりません。これからは一般市民ランナーが走っている様子を映して行きますので、チャンネルを変えて・・CSも?仕方ない、十津川警部をBGM代わりにかけて・・。
私は、いつものように橋蔵さまの整理、今日は”鮮血の人魚”の雑誌整理に入っています。 別冊本は、皆さんにお伝えしたい記事が沢山あるので大変だ・・・でも、ブログにおいでくださる人がいらっしゃる間は頑張りますよ。
では、続きのアルファベットでのもの知り手帖」からになります。
P.ペットは東京のお家で飼っている2匹のスピッツです。母犬がバンビ、子犬がチコといいます。純白のペットは、橋蔵さんの純情無垢な動物の可愛がりようにふさわしいもので、東京のお家のサンルームでスピッツを相手に戯れている所は、まことに微笑ましい光景といえましょう。京都のお宿にはファンからのプレゼントのマスコットが、寝起きする橋蔵さんをやさしく見つめています。
Q(.質問)
癖は? 考え事をしている時や困ったことがある時爪を噛む癖があります。
好きな洋服の色は? グリーンか紺です
どんな人にあってみたいですか? 外国スターではソフィア・ローレン、
それに無理でしょうが亡くなった父(六代目尾上菊五郎丈)
行ってみたい外国は? ハワイです、フラダンスをやったり泳いでゆっくり数日過ごしてみたいと思います
R.ラジオの番組は歌謡曲、テレビの番組は舞台中継と、お好きなダイアルはだいたい決まっています。布団にもぐり込んで枕もとのラジオのダイアルを、歌謡曲を探しながら廻すひとときは「これで今日も無事に終わった」という安心感で最もたのしいひとときだそうです。昼間、ラジオを聴いたりテレビを見たりすることはあまりないそうですが、ロケーションに行く時は、自動車のラジオのダイアルを音楽の方に廻してもらうのが普通です。また、ラジオに出るのも好きで、今までにもひばりちゃんと一緒に放送劇に出たこともあり、セリフの勉強にもなるので、時間的な余裕さえあれば、出来るだけラジオ放送には出たいと思ってはいるそうです。
S.寸法帖。身長五尺六寸三分、体重十文貫、足袋の文数十六半・・・等々。
T.東京のお家は、・・・六代目菊五郎丈の未亡人や義兄の尾上九朗衛門さんたちが住んでいらっしゃいます。たまの休みも、後援会の会合や、地方の映画館の御挨拶で忙しく、お家にはめったに帰れませんが、橋蔵さんにとって最も居心地がいいお家だそうです。京都のお住いは・・吉乃旅館の一部屋です。不自由な旅館住いで東京のお家を懐かしがるのは無理もありませんが、この不自由さをしのんで橋蔵さんは頑張っているのです。
U.運動神経は発達している方で、映画入り前は、菊五郎劇団の若手俳優さん達で結成している野球チームに所属しており、大いに野球ぶりを発揮していましたが、この頃は忙しくなったので、野球ともご無沙汰です。ゴルフも身体を使う意味で、映画界入りの前からやっていらっしゃったそうですが、どちらかといえば、野球の方が好きなようです。
V.ビレッジ(村のこと)。もともと東京に生まれて東京で育ったので、いわゆる村の生活などは経験したことはないが、よくロケーションなどで、京都のまわりの田畑のある村落などに出かけると、こういう静かな生活をしてみたいと思う事があるそうです。「気候のよい太平洋の一孤島を借りて、気の合った者同士で一つの村落を作ってのんびりと生活してみたいなァ、魚を釣ったり、川で泳いだりして・・」と夢のような事を時々考えるようですが、忙しい毎日に、こういう想像をするのも楽しいことだとつぶやきます。
W.若さま侍捕物帖は大川橋蔵さんお得意のシリーズもの、長谷川一夫さんの「銭形平次」、高田浩吉さんの「黒門町の伝七」、片岡千恵蔵さんの「遠山金四郎」、市川右太右衛門さんの「旗本退屈男」・・と、時代劇の第スターたちはそれぞれ十八番の当たり役をもっていますが、デビュー直後の橋蔵さんも、31年2月公開された「地獄の皿屋敷」と「べらんめえ活人剣」で、シリーズ作品のスターとをきりました。今回の「鮮血の人魚」で6本目を数え、このシリーズ初めての天然色ワイド作品となったのですが、粋で鯔背で気っぷのよい若さまの推理と剣の冴えは、ますます多くのファンを魅了していくでしょう。・・・
ファンにとって一つの知りたいことといえば、若さま侍には名前がないことです。これはスタートした時から名前がなく、「若さま」という呼び名だけだったので、城先生も、これからは名前のないままにストーリーを書いていくとおっしゃっています。恋人おいとと、船宿喜仙、それに、眼もさめるような正義の剣一文字竜正眼崩しはファンの皆さんすでにご存知のはずです。
X.(Xとは未知数を表します)橋蔵さんの将来はXです。何故って、まだ2年に満たない映画生活なのですから・・。初めて映画に出た時は「一本だけやってみよう」という気持から出たのですが、「もう一本だけ」というわけで次回作に出、そして「おしどり囃子」の成功で、映画スターに一生をかけようという気になったのですが、大当たりの若さまで天下のファンを熱狂させ、むずかしいヤクザものは「喧嘩道中」で見事にやり了せ、一応、橋蔵さんの時代劇スターへの第一期は成功に終わりました。これからが問題だといえましょう。
東映には、中村錦之助さん、東千代之介さん、伏見扇太郎さん、尾上鯉之助さんといったライバルがおり、他社にも、時代劇の王座を狙う多士済々のスターがおります。・・・橋蔵さんのXを輝けるものにするのには、ファンの熱心な支援によるものといえるのです。
Y.友人は美空ひばりさんを第一に押さなければなりません。デビュー当時からお互いに「トミー」「マミー」と呼び合った仲で、その仲の良さは、ファンの皆さんもよくご存知のはず。
その他、歌舞伎時代から、市川雷蔵さんや中村錦之助さんとも仲が良かったということです。それに明るい性格の橋蔵さんの事ですから、東映撮影所で働く全部のスタッフの人達やスターの皆さんと、あらゆる意味での友達となっています。
Z.大川橋蔵さんの「AからZまで」もこれで終りです。「さて、私のトミーにまだ何か聞きたいことがあったわ?」とおっしゃる方は、是非近代映画編集部宛てにお手紙ください。あなたに代わって橋蔵さんに質問し、次の機会にそのお答えをのせることにいたしましょう。
(おわり)
今は、情報過多で皆様ご存知のことが多いですが、当時スターを知るには、大方の人は雑誌からしか情報を得られなかった時代です。その雑誌も小、中、髙生にでは全部買うことは無理だったと思います。
そう思うと、今橋蔵さまのことを何でも知っているかのように、見てきたかのように話す人たちの中に、どれだけスターとしての橋蔵さまを真に語れる人がいるでしょうか。みんな受け売りで話しているのが多いということを、念頭において発言して欲しいものだと思います
✱「アルファベットでのもの知り手帖」から②✱ #2019.2.27
当時、関係者はもとより、橋蔵さまの体調があまりよくないと耳に入ってきていた後援会関係の人達も、「銭形平次」最後・・出演者でのお練り?・・演出に入っていますから、橋蔵平次としての素晴らしい笑顔を残して無事終えられほっとしたことでしょう。最終回となるまで何事もなく、途中で打ち切りにならなくて本当によかった・・しかし18年は長過ぎました。
テレビでの時代劇の内容が変わって来て、正統派の時代劇は視聴率がとれなくなって「銭形平次」も終わりにと決まった次第で、橋蔵さまの健康上もすぐれなくなっていましたから、よかったといえばそうなのですが・・・テレビでの時代劇を決めかねていた時、橋蔵さまの側にいた方からの助言で転向を決めたのが大きかった。やはり、橋蔵さまのことを本当に考えてくださる方が身近にいなくなるという事は・・商業ペースで物事は進んでいきますから、大川橋蔵というスターで視聴率が稼げるときはどんどん押して行けという世界ですから。多分この道を行っていればしばらく生活は安泰という気持がどこかにあったと思います。
その前に大川橋蔵にオファーが来たところの吟味をして、次のステップを築いてくれる人が傍にいてくれたら、違った大川橋蔵が見えていたと思います。
NHKでさえ、舞踊の番組でも取り上げていたし、特別公演の舞台を録画放送もしていたのですもの。
銭形平次で命を縮めてしまったと言われている橋蔵さま、18年携わったことは凄いことですがその代償として・・・、次のステップに踏み込む時期を逸してしまいました。
天の橋蔵さま、つまらないことを述べて御免なさい・・・でも、大川橋蔵という役者、俳優を心底愛している私には、銭形平次の回が最終に進むにつれ、顔や目に輝きが見えなくなっていった橋蔵平次が、最後も映像として残ることを考えてのあの演出。目に焼きついているので、考えただけで悔しい!!そのことを思うと涙が出てきてしまいます。
湿っぽい話はここまで
🌳当時の雑誌記事に目を通していない方たちのために、
「アルファベットでのもの知り手帖」から・・・本日はH~Oまでてす。
1957年”鮮血の人魚”の撮影当時に橋蔵さんに改めてお聞きしたものからの抜粋になります。
(私なりのニュアンスで、私なりのアレンジで書いていきますのでその点ご了承下さい。)
H.初舞台は昭和10年3月、満5才のことで、当時の詳しい事は覚えていらっしゃらないそうですが、今は亡き父君の六代目菊五郎丈と「先代萩」を演じた事は、一生の感激としてこれからも忘れられないことでしょう、とおっしゃっています。
市川男女丸を名乗って歌舞伎役者としてスタートし、子供時代は、どちらかと言うと男の子役を演じ、好きな当時のお芝居には「めぐみの喧嘩」の又六、「重乃井」の三吉などがあります。
I.入野きくさんという方が、橋蔵さんのバアやさんです。橋蔵さんがまだ市川男女丸と名乗っていらした時からの間柄で、東京芝公園のお家で、忙しい橋蔵さんのお帰りを待っています。「あの頃はこうでした、この時はこうでした」と、小さい頃の思い出話をされて、まだ子ども扱いをされる橋蔵さんは、このバアやさんには頭が上がらず、「どうもバアやには勝てないよ」と苦笑します。
それでも、長い間世話になったので、お母様や、その他の肉親に劣らない愛情を持って、病気をしたときなど、わざわざ京都から電話をかけて病状を聞いてくる程なのです。
J.ジョーダンはおまり言わない方ですが、時々傑作を言って、皆を笑わせます。
そんな時には、橋蔵さんお得意の例の豪傑笑いをして、無邪気に語りあいます。
東京の撮影所から大川恵子さんが呼ばれて共演することになった「緋ぼたん肌」の時など、何かの都合でスタッフの人達に大川恵子さんを紹介する時に、「僕の妹の大川恵子です。僕同様可愛がってください」と、緊張している大川恵子さんの気持ちをほぐすようなユーモラスな冗談をいうといった程度の明朗さがあります。
K.嫌いな男性は、物事にはっきりしないネチネチした性格の人です。これは、東京のど真ん中の柳橋で生まれ、礼儀正しい歌舞伎の世界で育った江戸っ子橋蔵さんの性格から当然の事でしょう。嫌いなタイプの女性は、いわゆる女性らしくない人。また、爪を長く伸ばした女性は好きではないそうです。
L.LP、EPと、レコードも沢山ありますが、東京のお家の電気蓄音器のためにレコードを集めるのも趣味のひとつ。ひとり静かに東京の家で好きな市コードを聞くのも、忙しくなってしまった現在、しばらくご無沙汰していますが、こんなひと時は、橋蔵さんの好きな時間のひとつです。
歌謡曲のレコードをかけて、それに合わせて歌をうたうのも好きで、三橋美智也さんや美空ひばりさんのレコードは大好きで集めています。レコードに合わせて歌いそれをテープレコーダーに吹き込んで、お客さんに聞かせて驚かすといった、変わった事をする趣味もあります。好きな曲は、三橋美智也さんの「あの娘が泣いてる波止場」高田浩吉つんの「りんどう峠」ひばりちゃんの「りんご追分」です。
M.ミドル・スクール(中学校)は、東京の蔵前高等小学校から日大三中に進みましたが、お得意の学科は、国語と英語でした。夏休みでも午前中は必ず宿題や予習のために机に向かうという模範中学生でした。
N.日本趣味の橋蔵さんは、歌舞伎俳優として必要な三味線、長唄、常磐津、笛・・・と、一応芸事は習いましたが、踊りは神様といわれる六代目菊五郎丈の薫陶をうけて、立派な腕前、日本舞踊は藤間勘十郎さんの門下で、藤間勘之丞の名をおもちです。
好きなスタイルは浴衣だということですが、こんな日本趣味とともに、実用的だという理由から、普段は洋服をお召になっていらっしゃり、案外モダンな一面も合わせてお持ちのようです。
O.お洒落にはこれといって気を使いませんといっていますが、他人が見ていろいろとこだわりがあるようです。
ネクタイ、ハンカチその他の持ち歩いたり身につけたりするものは、決して自分で選んだリした物以外は身につけません。
お洒落のポイントは「自分にあったもの」ということですが、こんなところから、モダンなセンスで身についたお洒落がにじみ出るのではないでしょうか。
ワイシャツは、汗臭いものやシワになったものは、必ず取り替えるようにしています。こんなお洒落は持ち前の清潔好きと几帳面さから生まれるのでしょう。
✱久しぶりに・・「アルファベットもの知り手帖」から①✱ #2019.2.24
昨日は強風が吹き荒れていた東京ですが、今日は快晴ではありませんが穏やかな一日となるようです。天候が変化するたびに強風が吹き荒れ台風並みの暴風となる「春の嵐」は3月から吹くのですが気象的にはやはり暖かくなっているのですね。
花粉が今年は相当飛んでいるようですので、花粉症の方は万全な対策を。
梅の花がそろそろ見頃なところもあると思いますが、最近は情緒というものが薄れてきたのでしょうか、あまり話題になってきません。都心では3月20日頃にソメイヨシノ桜が開花するようです。
今日は映画から離れて・・・私は今橋蔵さまに関する雑誌の整理がやっと1957年秋頃まで出来つつあります。近代映画の作品の特集ものになると一冊の中から何処の部分を載せようかと四苦八苦して相当な時間を費やしてしまいます。
1ページ1ページと目を通して打ち込んでいくのは負担がかかりますが、その作業のおかげで年代ごとの橋蔵さまをじっくり見ていくことができ、私自身橋蔵さまを振り返って想い出していけるので、橋蔵さまと真剣に向き合っています。
今日は、そのあたりの雑誌より、ちょっとお先に・・・。
橋蔵さまのことなら頭の先からつま先まで何でも知りたいというファンのために、映画デビュー当時からいろいろな質問事項が各雑誌には溢れていました。
1957年”鮮血の人魚”の撮影当時に橋蔵さんに改めてお聞きしたものからの抜粋になります。(私なりのニュアンスで、私なりのアレンジで書いていきますのでその点ご了承下さい。)
この雑誌の記事コーナーを読んだ方もおありだと思いますが、読んだことがない方のためにご辛抱いただければうれしいです。
今になってはそんなこと全部知っているわよ、という方もおありでしょうが、1957年(_S32年)当時、あなたはこれだけの情報をもっていましたか。その当時ファンであった人も、後からいろいろな雑誌に目を通した方も当時の状況を頭に描いてくださると有難いです。
※「アルファベットでのもの知り手帖」から・・・本日はA~Gまでてす。
A.アブラッこい食べ物が好みだったのは皆様ご存知ですね。吉乃旅館に滞在していた橋蔵さん。「肉が食べたーい。一日肉を食べなかったから身体がパサパサになっちゃった」と言って旅館の女中さんを相手に冗談をいったりしています。
アブラっこいものが好きですが、橋蔵さんはどんなに食べても太りません。ファンにとってはとってもうれしいこと、日毎に太ってしまっては”ゲンメツ”を感じてしまいますもの。
B.床屋さんの方から、橋蔵さんの髪の毛についておききしました。
はじめはパーマがかかっているのかと思ったらしいです。橋蔵さんの髪は、少しくせ毛でウェーブがかかっていて、毛はあまり多い方ではありません。
橋蔵さんは月に2回は理髪店に見えるそうです。
橋蔵さんは、カツラをかぶって撮影をしていらしても髪の手入れはおろそかにせず、香りのよい上品なポマードで整髪しています。
ナポレオンの生活を描いた「デジレ」というアメリカ映画で、マーロン・ブランドがしたように、短めの髪を前へたらすようにしていたことがあります。
「どうだい、よく似合うだろう、橋蔵へやー・スタイルとでも名付けて流行らせようかな」なんて言っていましたが、雑誌で見たシスター・ボーイの髪型に似ているといわれ、その日から止めてしまったことがありました。
C.映画のカットから。カット、カットに分けてあっちを撮ったり、こちらを撮ったりする映画の仕事は、「初めから終わりまで通してやる舞台の芝居と違って、どうも上手く気分が出ないで困ります」とデビュー当時言っていた橋蔵さんも二十数本の映画出演で、すっかり”中ヌキ”などの映画制作上のコツも呑みこみ、
意欲満々です。
D.デビュー作の感想をききました。「ただもう夢中で・・、最初のラッシュを見た時にはもう少し上手くできたろうに・・と思いました。それでも、相手役がひばりちゃんだったので、何かにつけて緊張をほぐしてくれたので、割合気軽にやれたようでした」と答えてくれましたが、女形時代に鍛えたカンと、公卿役というおとなしい役だったので、批評は立派で今日のトップ・スターの源を築くのにふさわしいデビューぶりでした。
E.映画鑑賞は暇さえあればする橋蔵さんはですが、外国映画はスリラーものとか西部劇といった娯楽本位の作品が多いようです。日常の話題になる名作とか問題作も見に行きます。日本映画は時代劇を多く見ます。
時代劇スターに一生をかけるのですから先輩スターの時代劇をかかさず見て勉強しています。
F.ファン・レターに必ず目を通すのが日課です。東京の家と京都の旅館には、ひっきりなしにファン・レターの束が舞い込みますが、几帳面で整理好きの橋蔵さんは、地方ロケに出た時以外は、その日に来たファン・レターには必ず目を通します。歌舞伎時代には、ファン層が芸者さんといった粋筋の方が多かったようですが、今ではほとんどが女学生といったところです。なるべく暇さえあれば、地方で開くファンとの茶話会にはこれらの十代ファンで、時ならぬ大騒ぎを演ずるのですが、茶話会に出席した橋蔵さんは、ファンの質問に答えたり、歌を歌ったり、楽しいひと時を過ごすのが、忙しい中にもうるおいのあるスケジュールとなっています。
G.ガール・フレンドは、一万数千人に及ぶ、全国の後援会の女性会員です、といってさしつかえないでしょう。後援会の集まりで楽しそうにファンと語る橋蔵さんのの横顔からは、ガール・フレンドと過ごすひとときを愉しむ満足そうな表情がくみとれます。
理想の女性は、健康で、着物をきても洋服を着ても美しく似合う人、ということです。
今日はここまで次はHから始めますね。
✱ 種々雑多✱ #2019.2.20
皆様の地方は春のきざしは見えてきましたでしょうか? 昨日寒かった東京は今日は暖かだったようですが、今はどんより雨が落ちてきそうな空模様です。まだまだ3月末までは温度差が激しいですから、体調にお気をつけて毎日を過ごしましょう。
映画作品を映画館で見ることが出来る条件が揃う人は限られますから、テレビ放送で旧作品を見ることが出来、録画、DVDで何回も見ることが出来る時代・・・感謝です。そこへ、テレビ画面が壁掛けにするまでの大きいものになってきていますから、 テレビでゆっくりと鑑賞できることは、私のように老いていく者には有難いことです。
そこで、橋蔵さまは芸の上ですべてに美しくていらっしゃいます。
ですから橋蔵さまの全てを知りたい、橋蔵さま側に立ってよき事が書いてあるとその通りと思うのは当たり前のことなのですが、生意気な事をいいますが、そこから自分なりの橋蔵さまを探り出してほしいのです。
古の写真は懐かしさをかもし出すものであり、当時の橋蔵さまを見ていない人には、どうやっても本当のものは通じないものです。動いて感じられるものは・・・映画作品になるわけです。
作品でも大川橋蔵ならこの作品というものの放送が多いのはおわかりでしょう。
役者、俳優も代表作だけが後世のある時まで残っていくわけです。そうすると橋蔵さまが残っていくものは、やはり映画作品になるのです。
この掲示板には、若い方もいらしていただいていますが、橋蔵さまの歌舞伎時代の舞台、そして年3回各舞台をやっていたとは知っていても写真は見たことがあっても、ピンとこないはずです。
何故なら、舞台は数回見ていなければその人の良さは解らないはず、見てもいない人に当時どうのこうのという事は言うことはできないものです。そして、若い人達に橋蔵さまを伝えていただく時、公正な眼で見て伝えていってほしいと思います。橋蔵さまが好きだから、橋蔵さまなら何でも素晴らしいという考えはよいですが、見てもいない良く知ってもいないことを、ただほめたたえるばかりが真の橋蔵さまファンと勘違いしないで、そこは弁えてほしいという事を思います。
うるさいことを長々と失礼いたしました。
では、橋蔵さまの・・・
旧作品の放送を見ていて、違和感なく橋蔵さまが現世にいらっしゃる感覚でみられます。
NHKの当時の「平清盛」の話は、錦之助さんが演られた「春の坂道」に次いで考えていたもののようです。清盛は30年代という若い年齢でなくなりましたから、橋蔵さまの美貌をいかし人気から、老け役をやらなくてよい題材という事もあったようです。
当時のNHKの大河に出ることは、全国に響き渡るわけですから、成功すれば一生ものですし、あらゆる面から取り上げられます。
考えたあげく、橋蔵さまの生き方やりたい事柄・・”銭形”と同時に”舞台”に進出したことで、冒険をすることをやめたような気もするのです。舞台だけの演目で一か月公演で集客するのは困難な事、”銭形”をセットにすればスポンサーもついてくるしテレビ局側もOK。舞台は金銭面で大変ですからそのことも考えたでしょう。橋蔵さまは”銭形”のおかげで安泰、舞台も好きなだけできたし、ファンは長い間我が家で毎週橋蔵さまと会えたのですから、幸せな時だったのです。
話は飛びますが、先日錦之助さんの1991年の「雲霧仁左衛門」を見ていました。
若山富三郎さんが絡んでの内容は面白いものでした。
しかし、時代劇とはいえ年齢には勝てないものです。人は眼に年齢を感じます。他をよく見せても、眼の光までは変えられません。演技の要となるのではないのでしょうか。
そう考えて、橋蔵さまの「銭形平次」とも付き合っていこうと思っています。
テレビの「銭形平次」は、橋蔵さまも家庭を持ちましたから、平次親分のような夫だったらいいなあ、と思わせる箇所を毎回入れて、家庭に入ったファンが平次親分に恋する気持ちを持たせましたね。
映画作品は、橋蔵さまの青春期・・・私達をその若々しい演技で時代劇という夢の世界にひき込んでくださいます。