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✱しつこく「炎の城」・・当時の批評✱ #2017.8.2
映画館でご覧になっていたのですか。小さい時、憧れている橋蔵さまが、ずーっと正気と狂気を復讐という執念に取りつかた顔での98分を見ているのは辛いものがありますね。
📌私は、昨晩もう一度しつこく当時の「炎の城」を研究いたしました。
「海賊八幡船と「炎の城」は橋蔵さまの異色作として、批評が多く出ていました。
そんなもの関係ないわというのもよし、どんなところが批評されているのか、愛する橋蔵さまの作品を見て自分もここはこんな風に思ったとするのもよし・・・人それぞれですが。
私の場合、なるほど、大人になって大人の目で見た時、やはり同じことを感ずると思うところはありました。
📰当時の各新聞での評論でも、正気なのに狂人のふりをするのは難しいこと。その役に取り組んだということは橋蔵さまはよくやったが、やり過ぎというようなことを書いています。2新聞からのものを掲載します。
♧ 『カラを破った橋蔵―やや物足りない炎の城』という見出しは朝日新聞
農民の不満を背景にお家騒動を描こうという訳だが、肝心な農民騒動が画面の中で浮き上がってしまったのが物足りない。意外な事件の説明は成功と言えるだろう。かつての忠臣の遺族を訪ね、師景の暴虐ぶりを聞く回想方法はテンポがよく事情をしることができる。
ただ、ちょっと気になったのは橋蔵の顔色がやや力強い色彩になりすぎていることだ。長い航海の果てだから日焼けもしているだろうが、もう少し”旅のやつれ”と言ったものが表現されてもよかったのではないだろうか。茶系統の色が強すぎて、逞しさが強調され過ぎたように思う。
つぎに、橋蔵の狂人ぶり。正気の人間が狂気を装うのは実に難しい。狂人になり斬るのではなく狂気を装って最後は正気に返るのだから、役柄としては実に難しいものだ。
観客たちは黙って息をひそめ橋蔵の”狂人”ぶりに見いっていた。橋蔵としては勢一杯の熱演だったろう。
しかし、画面を見ていた若い女性から「あの橋蔵ちょっといやらしい」とささやきあっているのが耳に入った。女性たちにとっては、橋蔵はあくまでも橋蔵らしく甘い雰囲気で演じてもらいたいところなのかもしれない。芸術性と娯楽性の兼ね合いが難しいところである。
農民たちと正人をもっと密着させて描いたら師景の野心もくっきり浮き彫りされただろう。師景の罠にかかった正人がめった斬りにあい、さらに致命的な矢傷を負いながら、死に物狂いで戦うところは、橋蔵はうまい立回りを見せるが、間延びしたラストでいただけない。
正人が母を見て悩む姿や雪野に気持ちを打ち明けられないくだりなど、橋蔵はいささか無理をし、オーバーな演技。しかし、いままで美剣士などに扮し、その甘さと適度な色気を買われていた橋蔵ととっては、そのカラを破った意欲的な作品で精いっぱいに取り組んでいるところは悪くない。
♧ 東京新聞も、セットも登場人物も充実したスペクタルものだが、王見正人の復讐にのみ専念し、気違いを装うシーンに力が入り過ぎ、雪野との哀歓が描き足りないのがさみしい。暴動寸前にまで追い込まれている農民への政との協力も描かれていないなど、脚本にも不備な点があるし、吉弥もいたずらに怒号するばかりで芸がない。橋蔵の熱演も空回りしている感じで、もう一つ迫力にかける。
さすが、大河内と黒川は年期のの入った芸を見せている。時代劇初出演の三田の好演が最大の収穫といえよう。
加藤監督としては、演出プラン通りにやったのであろうが。
📖 別所直樹さん雑誌で上記新聞の批評から、
「炎の城」は確かに佳作であった。各批評に見られるような不備な点は勿論あるが、農民一揆、恋、復讐、凄絶の殺陣など、盛りだくさんのスペクタル映画である。
加藤演出は、それを余り力まずに描いて効果をあげている。
橋蔵が少し力み過ぎたという評もあるが、やはり世界の古典劇としての”ハムレット”が頭にあったからであろう。無理もないと、思える。だが、この作品のような意欲作に、これからも大いに取り組んでほしい。
1時間37分観客たちは十と息をこらして見ていた。そして飽きさせない。まっ正面から取り組んだ演出ぶりだが、それでいて東映らしい娯楽映画として一応成功をおさめている。橋蔵にとっては大きな収穫の一つであろう。
◇ ある人の大川橋蔵の研究と題してから抜粋『外柔内剛の”根性』
「炎の城」がクランクして間もなく、橋蔵の部屋に行くと、この映画のラストシーンについての論争?になってしまった。父を謀殺した悪人とはいえ、肉親のおじを斬り許嫁も死なせてしまうのだから、正人はラストで死ぬのが自然じゃないか・・これが彼の論理である。
八住利雄のシナリオは封建の暴政は破れ、新しい国造りのチャンピオンとして正人は生き残ることになっているのだが、この”生か死か”をめぐって橋蔵は随分頑張ったようである。結果は、シナリオどおりにと落ち着いたが、こうした役の解釈における問題をなおざりにしなかった橋蔵の態度に”根性”の片鱗を見たような気がしてうれしかった。
あのデリカシー(優美)な外貌のどこに、こんな執拗な力が秘められているのか、外柔内剛のサンプルみたいな俳優だなと、思った。
橋蔵の聡明さは、定評のあるところ。「炎の城」のような赤毛劇をそのままの観念的ダイアロオグ(頭の中だけで考える対話)も、橋蔵が語るとさして不自然でないと言うのも、彼の持っているニュアンスが大変知性的であることによっている。もっとも、にせ気違いの件は、この聡明さがマイナス?して大きな誤算を犯しているのだが、この辺に今後の橋蔵の重要な課題がありそうだ。
他動的な問題としては、彼の聡明さ(演技計算)を、頭から粉々にしてしまうような、巨匠にぶつかるということも、俳優として飛躍するためには、必要なことではないだろうか。
様式のドラマ・・・歌舞伎から出発した橋蔵には、やはり役の解釈にも、”型”から入っていくような修正がのこっている。(私の意見・・このことは、ずっと皆さんから言われていたことですが・・橋蔵さまとしての良さはこれがあったからだとも言えるのですよね)
こうした点を克服して、「30年スター大川橋蔵」に待望することが大きい、と締めくくっています。
✱ラスト橋蔵さまの穏やかな顔が救い✱ #2017.7.31
大型の台風 が向きを変え、日本に向ってやってくるようです。
7月最後の東映チャンネル橋蔵さま放送作品は「炎の城」でした。
リアルタイムで4回見ましたが、見終った後、頭の中が混乱?状態になってしまいます。
領地の民衆の一揆と復讐劇が重くのしかかってくるのと、正人の正気と狂気とのお付き合いで、苦しいものがありました。暫く?はこの作品からは遠ざかると思います。
同じ時撮影の「海賊八幡船」と続いての異色作品「炎の城」、橋蔵さまもこういう役も・・と期待を持って制作したものですから、ファンとして受け入れは出来ます。
当時「海賊八幡船」もファンの間でも男っぽく見せるための化粧がどうのと賛否両論でしたが、私はこちらは娯楽としての要素が多いし、橋蔵さまのニヒルさもあり大好きです。
「炎の城」の目のラインは「八幡船」と同じような化粧でしたね。ただ、雑誌で見ていると作品のように汚くはないのです。ということは、作品自体が暗く撮っているので、衣装ももどちらかというと派手さがあり特注で良いものを着ているのですが、それを押し殺し、橋蔵さまも目立たなくするような群衆的時代劇作品でした。
つまらないでは、つまりませんので・・・・・ クライマックスに、外へ出てきた正人に数十本の矢が飛んできますね。(右上の画像)
小道具さんの苦心の特殊撮影でした。
橋蔵さまの身体に直角にピアノ線をはり、その線に矢を通して数メートル離れたところから矢を射るのです。矢はピアノ線にそって狙いどおりに、橋蔵さまの胸にぐさりと突き刺さるのです。あっ、それでは橋蔵さまが怪我してしまう。そのため、橋蔵さまの身体には、ちゃんとショック止めがついているので、どんな矢が突き刺さっても大丈夫ということでした。それにしても、失敗ということもありますからね。何事もなく無事終えてよかったです。
敵は討ったが正人は怪我もしているし、天守閣に取り残され、炎上する城が長々と映しだされ、これで正人と可哀想に死んでしまったのだ、と当時映画を見ていた人はそう思ったでしょう。ところが、暫くすると、焼け跡が映りそこに助けられた正人の姿があった時は、ホッとしたでしょう。そして、橋蔵さまのあの表情が見られてうれしかったでしょう。
やっと橋蔵さまだと思うところは、城から助けられ待っていた民衆に向かえられるところで、あの優しく穏やかになった表情が見られたことは、よかったよかった。(左上と下の画像)
👆(画像の上をクリックすると画面の違うところで見ることが出来ます)
✱忙しい橋蔵さまのある時の風景✱ #2018.6.5
(いつものように私なりの解釈とニュアンスでお伝えしますのでご了承ください)
🎍 1958年お正月の橋蔵さまの風景
(掲載するものの年代が、あっちへいったりこっちへいってみたりと、年代順にお伝えできなくてすみません。読んでいて大変だと思いますが、そこはご容赦ください)
橋蔵さま「緋ざくら大名」の撮影は1957年12月いっぱいまでかかりました。
お正月は撮影所もお休みとなりますので、橋蔵さまにとってはお正月でもあり、のんびりとしたいところです。
いつものように東京の家に帰りましたが、のんびりとしてはいられないのです。
お正月休みは、地方のファンのために恒例になっている正月地方公演に出かけなければならないからです。
そのため、12月31日は星美智子さんはじめ一行の人達に集まってもらい稽古をしたあと、慌ただしい歳末の銀座に出て1年ぶりに買い物をしたようです。
1958年の元旦、2日はご無沙汰している方達への年頭の挨拶を済ませ、3日はファンからの年賀状に目を通したということです。
1957年5月の茶話会以来、関東地区の方達に親しく接する機会がなかったので、何とか正月休みに実現したいと思っていたようですが、2日には地方公演に出発なのであきらめていたのだそうです。ところがマネージャーから出発が4日になったと聞き、急遽各支部の方々にお知らせして、4日の19時から東銀座のお店で新年の顔合わせをしたのです。時間的に全会員に連絡ができなかったのを残念がっていました。
ここで、橋蔵さまの作品や演技の批評を有難く聞き、橋蔵さまも、これからは年に2本位は自分自身の納得のいくような作品・・いたずらに芸術づくのではなく、これまでにないあたらしい面を打ちだしたいという希望を話しました。
会が終わり、22時30分上野駅から、会員の方たちの見送りを受け、雪の新潟へ橋蔵さまは向かったのです。
橋蔵さまは、映画界に入ってから、ずっーとこんな調子で過ごしてきたわけです。
とっても忙しいくしていたのに、いつも笑顔を忘れず、やさしい言葉で接する橋蔵さま・・・すごい方でした。
✱映画俳優として・・決意した時期✱ #2018.5.18
今日は、少し真面目に橋蔵さまのまわりで変化があった時のお話を少し。
「任侠東海道」クランクアップ後、1957年暮れから橋蔵さま身辺にちょっとした事が起こり始めました。そして、東映と契約はしていましたが、まだ橋蔵さまの心の内には、歌舞伎への未練もあったのでしょう・・橋蔵さまが本当に映画俳優として・・と決心をかためた時でもあったようです。
橋蔵さまは、ひばりさんとは同じプロダクションに所属し、福島社長企画でトミイ・マミイコンビとして組むことが多くあったわけです。ところが、橋蔵さまの人気が上昇してきたために、東映側は、お二人の作品に、いつまでもひばりさん主演、橋蔵さま共演にするわけには・・・との声が出て来たようです。そのためひと悶着あったようで、ひばりさんが、長年所属した新芸術プロダクションから1958年4月に独立するということになります。今までのように同じ所属であったお二人の作品を福島さんがプロデュースすることが出来なくなりました。
ちょうど「任侠東海道」の撮影が終わった頃、福島社長は12月いっぱいで新芸プロを退社することになっていたようです。
福島社長は、12月半ばに京都に橋蔵さまを訪ねたのですが、その際そのことは言えなかったようです。なぜなら、橋蔵さまから「私に良い脚本を早く考えてくれなければ困りますよ。それがあなたの責任じゃありませんか」と突然言われたそうで・・ひばりさんの独立や会社の整理仕事に追われ、橋蔵さまのことはおろそかになっていたと、福島社長は言っていました。
12月半ばには、マキノ光雄さんが亡くなられます。
この時期に、橋蔵さまにも、これから俳優としての決意がみられたのでした。(後援会誌から)
「舞台にあった頃は、映画出演のことなど夢にも思っていませんでしたが、たってのおすすめで、ともかく1、2本出演させていただき、また舞台に戻ろうと、デビューの頃はそんな気持ちで、映画俳優になろうなどとは毛頭考えておりませんでした。それが、種々の事情で続け出演させていただくようになり、このように皆様からご支援を頂くに至っては、私としまして、一映画俳優として身をたてる決心をかためた次第でございます。
これまでは、なるたけ数多くの映画に出演し、早く映画に慣れることと、映画俳優しとての橋蔵の存在を認めていただくために、どんな役でも体当たりでぶつかってまいりました。
しかし、ここに映画俳優としての3年目を迎えるにあたり、私自身といたしましても、何か新しい方針を打ち立てねばならぬと、いささか焦燥めいたものを感じている次第です。今後の出演作品の吟味、その後の内面的な表現、つまり、皆様が見て胸に応えるような内容のあるもの・・といって、急に文芸ものをと言うのではなく、誰にでも容易にわかる作品でも、シンのある役を得て、大いに勉強していきたい、とそんな気持ちでいっぱいなのです」
3年目に入り作品に於いても真剣に取り組んで行く大切な時期に、東映入社の時からお世話になったマキノ光雄さんと福島通人さんとの別れ、橋蔵さまにとっては相談できる人を失い、ひばりさんは独立して東映専属契約を結び、コンビ解消ですから、大変難しい時を迎えていたのです。
橋蔵さまがひと回り大きくなっていくための試練だったのかもしれません。
✱「海賊八幡船」ランダムに-2✱ #2018.5.13
続きです。
海戦シーンでは丘さんが青い顔をしていたようで、「音の恐怖症かな」と橋蔵さまが言うと子供の頃から花火が大嫌いだったので、
丘 「火薬による爆発音が嫌いなんです。だから、今度は船上で大砲を撃つでしょう。その
たびにドキリ」
橋蔵「それはいいことを聞いた。これから丘ちゃんが言うことを聞かない時は花火でオドカ
ソウ。それは冗談だけど、こちらへ来て泳いだ?」
水にも弱い丘さんはその話はよそうと言います。
丘さんが、橋蔵さまは随分泳いだのでしょう?と聞きますと、
橋蔵「それが全然、ご期待に反しちゃった」
というのは、連日ピーカン(晴天)続きで、朝7時から夕方日が落ちるまで快調のクランクで泳ぐ暇がなかったというのです。
橋蔵「水泳に関しては人一倍好きな方ですからね、1か月の海洋ロケと聞いたんで、シメタ
ッとばかりに諸藩準備を整えてやって来たのにね」
でも、お天気続きで、仕事ができて良かった、と負け惜しみを言っていました。
海の話になり、やっと許可をもらって海底探検をしたのはよかった。泳げない人にはこの気持ちは・・という橋蔵さまに、つかさず丘さんが、フカでも出れば面白かったのに、と。
橋蔵「酷いことをいう恋人だな、フカが出ちゃ面白いどころではありませんよ。でもね、や
っぱり怪物に脅かされちゃって肝を冷やしたよ」
深くは潜らなかったが、いい気になって岩場の陰のところに潜ったときヒラヒラとカレイのお化けみたいなものが出てきたのでギョッとしたのだそうです。橋蔵さまの方に飛びかかってくるようで、夢中で水中鉄砲の引き金を引いたら、見事に命中、でも、「水中で冷汗をかいちゃったような気持だったよ」
丘 「よかったわねえ、それで問題の怪物はなんでしたの」
橋蔵「赤エイというんだよ。これは尾のところに毒針を持っていてね、刺されるとひどい目
のあうそうなんだ。引き上げてみたら、水中で感じた半分くらいの大きさだったよ」
丘 「逃がしていたら、3倍ぐらいの大きさになるんじゃなかった?」
丘さんが、あんまり長くこちらにいるとホームシックかかりませんか?、と橋蔵さんに振ると
橋蔵「ホームシックにかかりそうになると、「水戸黄門」の出演で京都へ帰るから、今のと
ころそんな心配はないですよ」
この九州というところは実に住み心地がよく、土地の人達もとっても親切でロケ隊に協力してくれる。丘さんは、ロケ地でこんな凄い歓迎を受けたのは初めてで感激しちゃいました。
橋蔵「そうなんだよ、呼子の町へ行った時なんか、町の入口に大きなアーチが作ってあって
ね、町全体で歓迎してくださった。ロケ隊一同大感激しちゃった」
丘 「ファンの方たちの声援もすごいわねえ。立神なんか、漁船をチャーターして、現場ま
で声援に来てくださるんですもの」
橋蔵「十隻からの舟から、パラソルやハンカチを持っての声援なんだから、驚いちゃった
よ。この整理に、警察の警備艇が出動してるんだから、僕もこんなロケははしめての
経験だよ。ご声援に応えて、大いに頑張らなくちゃいけないと思ってます」
ロケはまだ長いので、喧嘩?は止めて仲良くやりましょう。
丘 「それじゃ、今夜はお肉でもたべて・・」
橋蔵「お腹がいっぱいになれば、丘ちゃんもご機嫌だね」
いつものように、ああいえばこういうという二人ですが、撮影合間の楽しいひと時の模様でした。
✱「海賊八幡船」ランダムに✱ #2018.5.7
「海賊八幡船」について雑談的に書こうと思います。
この作品は、華奢な大川橋蔵さまには難しいのではないか、合わないのではないか、と皆さんが思っていたわけですが、鹿門の生い立ちを考えれば、何ということはない・・・こういうことを鑑みて橋蔵さまに合う海の男としての鹿門が出来上がったのです。ただ、運命に操られながらの人生で変わってゆく鹿門を短い映画の中で表すには、化粧でその過程を演出することしかできないでしょう。
特に橋蔵さまの持っている優しさや品は、商人の息子としてまでは素直にそのまま表に出てもよいのですが、後半はそれを内に持っている八幡船の頭領としてを演じなければいけませんから。
ここで気になるのは、お化粧です。撮影日でとるカットのところが違いますからいたし方ないのですが、切れ長の目のアイライン、目張りの濃さがちょっと気になるところが目立ちます。(顔に水がかかるようなところでは、目のお化粧を薄くしている理由は分かります。)
夜の海辺のシーンは、鹿門が荒波の海辺で決心をするくだりのお化粧が濃いのが気にかかってしまいますね。その訳が分かって見ていればなるほど、映像になるとこんな風になってしまうのかと思うのですけれど・・・たねあかし、後にしましょう。
ザンバラ髪をただ結んだだけの髪型はよいですねえ。ベテランの髪結師さんの考案のようですが、あっています。私好きです。
「海賊八幡船」の撮影場所は、宮崎県の青島をはじめ立神、七つ釜、化屋など、九州一帯に1か月余りの海洋ロケを展開しました。
宮崎の飛行場から、白バイとパトカーがサイレン鳴らしてすごいスピードで突っ走り、沿道には旗を持った歓迎の人達が出迎えました。この時期、橋蔵さまはハワイから帰ってきてあまり時間がたっていない時で、空の青さ、海の広さが、ハワイのように南国の離れ小島に来たような気がすると言っていました。
7月からの撮影でしたから、日中の撮影はすごく暑く、顔や体中が陽に焼けてヒリヒリの状態。でも、橋蔵さまは精悍な感じを出さなければいけないので、日向に出て体を焼いていました。丘さんはちょっと焼けると真っ赤になってしまうので、橋蔵さまとは反対で陽に当たらないようにしていたのです。お二人とも掛け持ちで撮影が入っていましたので九州から京都へ、京都から九州へと大変でした。
折角の海に来ても橋蔵さまは「水戸黄門」の中将綱条の残りがあったので、そちらが終わらないと安心して灼くわけにはいかないのです。
橋蔵さまは新鮮なお魚類を食べられるからうれしいというと、丘さんはお魚は生ものが弱いので、とりたてで美味しいですよと出されると、「キライです」とは言えず困ったそうです。
丘さんが脂っこいものや揚げ物類が好きだという話から・・・二人の会話を聞いてください。
橋蔵「道理でボリュームがあると思った」
丘 「何故?」
橋蔵「初日の浜辺のシーンでさ、丘ちゃんが荒療治を見せて気絶するでしょう。それを僕が
抱きかかえて木陰に運ぶ、エイッと抱く、ヨロヨロなんだからね」
丘「いやあ、ひどい、そんなん嘘やわ。私はね、標準より軽いんですよ、身長にくらべて。
橋蔵さんてオーバーね、自分の力の弱いのを棚に上げて、人が重いやなんて失礼よ」
橋蔵さまが「女性の体重に関しての発言はタブーなんだよね。下が砂地でしょう、だから力が入らなかったんだ」と言訳を。
ここから寿賀と嘉門のファッションの話になりました。
橋蔵「丘ちゃんの寿賀っていいねえ、野性的でさあ、ショートパンツか何かはいちゃって勇
ましい」
丘「最初のうちはちょっとテレちゃった。でもねえ、こんな暑い最中にお姫様の衣装を着せ
られるより、ずーっとスポーティでいいですよ。とっても着心地がいいですよ。橋蔵さ
んの衣装も変わっているわ」
橋蔵「ちょっと凝ってるんだから。だけど、この皮のチョッキだけは夏用じゃないね、相当
生地が厚いからね。激しく動くとベッタリだ。他の衣装のデザインもいろいろと工夫
したんですよ、文献からヒントを得てね」
丘さんが、橋蔵さまの磯野嘉門という主人公は、今までにない野生的な魅力がいいと言いまと、橋蔵さまが、「海洋スペクタクル物は初めてのジャンルだから、僕なりの意欲を燃やしているんだ」。
村上水軍の血を受けた嘉門が、数奇な運命を辿って2代目頭領となり、八幡船団を指揮して海洋に活躍する。商人の子から海の男へと成長していく鹿門の人間的な成長の過程を、どう演技面で表現するかが、一つの課題でもあるわけで、海の男になってからの鹿門の演技は橋蔵さまとしても楽しみの一つであると言っています。そして、梯子のぼりやスリリングなシーンが沢山出てくるから「シーホーク」や「バイキング」に負けないよう大暴れがしてみたいと。
この続きは次回に。
✱久しぶりにちょっと一服✱ #2018.5.4
久しぶりに雑誌からの記事で一服いたしましょうか。
「花吹雪鉄火纒」当時、橋蔵さまと共演が多い星十郎さんが橋蔵さんについて語っていることがありますので、原文を尊重して、抜粋、要約し私の解釈で書いてみました。
星十郎さんから見た橋蔵さんは、どんな人だったのでしょう。
星十郎さんと言えば、歯切れのよい江戸弁で気持ちのよい俳優さんです。「若さま侍」の小吉役では橋蔵さまと一番ぴったりと合ったコンビだったと思います。
橋蔵さまとの作品は、どの役でも何となく気持ちのよい映画で、何かしら気がすすんで楽しくやれたそうです。それは、橋蔵さまに対する無形の好意のような気持ちが手伝っているのではないか、と星さんは言っています。
では、星さんは橋蔵さまのどこに魅力を感じたのでしょう。
長い伝統を誇る歌舞伎の出身で、しかも女形の出であるにもかかわらず、そんな匂いが少しも感じられないところ。歌舞伎特有の封建制のようなものが微塵も感じられず、明朗で近代青年と言う感じのところだそうです。
橋蔵さまがダンスそれもタンゴを器用に踊るのを見てびっくりしたそうです。
そして、こんなことを話してくださっています。
「スポーツは万能と言っていいでしょう。特に水泳は上手い。野球は若手の中でも上手い方ですし、庭球もやります。乗馬も上手く、橋蔵さんは馬で走っていても安定感があります。褒めあげるようですが、橋蔵さんの物の考え方は第一に真面目で、コツコツと自分自身で勉強しているのが、よく分かります。常に漸進主義ということを口にしておられるようですが、最近の作品には、演技において落ち着きと進歩が見られると思います。この前も「花吹雪鉄火纒」のラストシーンで、敵の中へ飛び込んで斬って斬りまくるくだりのところの演技で、河野監督に橋蔵さんが質問をしたそうです。橋蔵さんとしては「どうしても急に、あんなに怒って敵の中に斬りこんでいく気持ちが、どうも割り切れないが、どうしたもんでしょう」と・・・つまり、出足の強弱について質問したのです。
そして、最後に、河野監督にこう言ったそうです。
『私としては、私の愛人の父親がついに殺された、尊い人命を奪った。その一点に私としては義憤を感じて、強く飛び込んで行く。そのようなに解釈して斬りこもうと思うんですが、それでいいでしょうね』
「これはなかなか面白く、本当に真面目な言葉だと思うんです。
橋蔵さんは、大変カンもいいし、自分の役の性格というものを深く掘り下げて研究する。
根本的に、はっきりとした解決をつけるんです。そして、聖臣分析をしてから演るというのでしょう。私も橋蔵さんの考え方にはおおいに学ぶべきところがあると思っています。」
そしてこんなことも・・・
「橋蔵さんは、どちらかと言えば、無口でテレ屋の方です。私はいつもこの目で見ておかしく思うのです。撮影所の門の外に沢山の女性ファンがつめかけている。何気なく俳優部屋から門のそばに走り出た途端に、「わっー橋蔵さん」と女性たちが歓声をあげる。すると、橋蔵さんは一瞬顔を赤くして、扮装のままの着物の両袖で、両方の頬を隠しながら、サッと宣伝課の方へ走り込むんです。しかし、ひとたび酒が入ってくると途端に能弁になる。それでいて、なかなか酒には酔わないんです。錦之助さんも千代之介さんも酒はなかなかどうして豪の者ですが、橋蔵さんもこの二人にあんまりひけをとらないんじゃないですかね。前夜いくら飲んでいても翌日の撮影には、少しも支障をきたさない。飲むと大変良くしゃべりますが、いくらしゃべっても自分の言葉には責任をとる。」
若い女性ファンは、橋蔵さんが刀をかまえて例の流し目がたまらない魅力があると言いますが、私は、あの伝法肌であざやかな、キビキビシタ江戸弁が一番いいと思うんです。正しい江戸弁が楽に使えるという事は、俳優として大きなプラスということは今さら言うまでもありません。」
✎(私も星十郎さんと同意見です。勿論橋蔵さまの殺陣も流し目も好きですが、そう簡単に真似のできないあの江戸弁が良いのです)
何をやっても上手いが、特にあの御家人が似合う、
橋蔵さんには、芸術的ないい映画をどしどしやってもらいたいと思いますが、沢山のファンが出来たのですから、まずファンの喜ぶ甘い作品をやってもらいたい、と締めくくっています。
✱水戸黄門から✱ #2018.5.3
🎥「水戸黄門」1957年版は、水戸黄門と助さん格さんの正統派の作品でしたが、「天下の副将軍」はコミカルな作品。まるで、橋蔵さまの役に合わせたような、いやこのような内容の作品を中心の一人になっているのが橋蔵さまの伊之吉ですね。どちらにしても、橋蔵さまの役は大切な役です。
今日はこの場面から、与惣右衛門が本当に美味しそうに料理を食べるところを見ていると、
黄門様ではないけれど、見ていて何とも言えない表情になってしまいます。この場面好きだなあ。
宿で板前で働かせてもらおうと包丁を見せたから大騒ぎになり大変。伊之吉は泥棒と間違えられ、板前かどうか料理を作らせれば、本当に板前かどうか分かる、大阪の食い倒れといい舌は確かなもんであるから、作ったものはわしが食べてやる。とお風呂やで喧嘩までになった与惣右衛門が言います。
料理が出来上がったようです。伊之吉が料理を運んで行きます。この時の橋蔵さま可愛いです。部屋へ持っていく前に、何を思ったのか、悪いことを考えた顔をします・・・と思ったら、やはり・・・鼻の中に指を入れ、鼻くそを料理の中に入れます。(右側の画像)
それを黄門様と伝兵衛が見ていました。その顔が何とも言えません。
平気な顔をして、与惣右衛門の前にそして、ちょっと横目でその様子を見るような伊之吉。(左下の画像)
与惣右衛門さんがまた美味しそうに食べるのです。「こりゃいかすわ、とりわけこの塩加減が何とも、ええ味や」とおいしそうに口へ運ぶのを廊下で見ている黄門様と与惣右衛門は、先ほどの伊之吉のやっていた行為を見ていたわけですから、何とも言いようのない顔をして見ています。(左上の画像)
この作品では、橋蔵さまの伊之吉がいい味を出していますし、黄門様の表情も楽しくて面白い作品です。
この後も、伊之吉の可愛い場面など橋蔵さまでなければ出せないところを出して見ます。
この時間まで、ブログのフリーページの画像処理をやってしまいました。
うまく表現できないのですが、今私の心の中で複雑な思いがあります。
橋蔵さまに関してはいろいろ掲載したいものもあるのですが、大川橋蔵さまを知っていただくには、すべて出し尽くした方が良いのか、いや、やはり今の段階では程度があるだろうと思う気持ちが私の中にはあります。資料を沢山持っているようだが、どうして公開してくれないの・・・持っている情報をすべて見て見たいと思うのは、ファンだけ。もし、全部掲載するのなら、しばらくの間は、パスワードで入ることができる場所を作ることだと思っていますので、橋蔵さまを全世界に知ってもらうには、一般的な面から徐々にでよいのではないかと今の段階では思っている次第です。というのは、今のある程度の若い年代の人が大川橋蔵さまを知る手段は、レンタルのDVD、シアターにかかる作品、テレビ放送だけなのですから、橋蔵さまの違う世界をアピールしても、現在にはピンと来ない。ですので、作品からその当時を鑑み乍ら橋蔵さまの表情を私なりのニュアンスで、描いていきたいと思っています。小出しになってしまいますが、ブログの方に、考えに考えて少しずつ大切に編集していきます。
👆(画像の上をクリックすると画面の違うところで見ることが出来ます)
✱まさに、水もしたたる・・・✱ #2018.4.29
☔ ブログで「緋ざくら大名」が終りましたところで、ワンシーン。
浅草の塔のところでお照を助け馬場一味と雨の中の立回りになりますね。その時の殺陣風景はこのようにして捕られていました。
ホースからの水をたっぷり浴びて、橋蔵さま、まさに「水もしたたるいい男」
雨のシーンは一回でOKにしたいものです。さぶ旦那のポーズも決まり・・「はーい本番行きますよ」というところでしょうか。
👆(画像の上をクリックすると画面の違うところで見ることが出来ます)
✱多趣味な橋蔵さま✱ #2018.3.15
学生には春休みがあるのですよね。春の選抜高校野球の話が出てくると、「春休み、そう言えばあったなあ」と改めて思います。私には青春はますます遠くなりました。その青春を思いださせてくれるのは、やはり橋蔵さまの作品です。
久しぶりに、よもやま話(私なりの見解と表現で書いていますので、そのところはご勘弁ください。)
1957年~1958年初めごろのことからです。
「ぼくは欲張りなのかもしれません」
冗談のように言って笑った橋蔵さま。芸においても、いろいろ勉強にしても積極的に吸収しようとする人はなかなかいないものです。橋蔵さまはよい意味で欲張り屋さんだったかもしれません。それが、趣味の面にも表れていました。
何からいきましょうか・・趣味というより芸の世界に入るのかもしれませんが、まずは三味線です。二十年間、育ち鍛えられた歌舞伎俳優として、必須のものでしたから三味線は得意でした。それから、琴と胡弓も。歌舞伎で女形をやる人は、この三曲ができなくてはいけなかったそうです。そして笛も名手でしたしね。
歌舞伎には必須のものであれ、橋蔵さまの勉強のほどがどれだけだったかお分かりになると思います。
映画界に入って多忙な日々のため、三味線を手に取る暇もなく、また京都では宿住まいのときでしたから気をつかいますしね。そのため、東京の自宅に帰った時十分満足するように弾いていたようです。そうそう、三味線とくれば小唄が・・橋蔵さまは小唄がお上手でした。作品の中でもちょくちょく口ずさむところがあります。小唄は色っぽいしいいですよね。橋蔵さまの声音に合います。
京都の宿では、口三味線で小唄を小声で歌っていた時もあったようです。新居をかまえてから、橋蔵さまは東京から愛用の三味線を取り寄せました・・思いっきり引けたでしょう。
「一人だけで暮らす静かさにふさわしく、ポツンポツンと昔の思い出をまさぐりながら、爪弾きをしている姿は風流なことだ」と自分ながら思ったような。
✎(そう言えば私事ですが、大学途中から小唄を正式に習い始めました。三味線を弾きながら小唄を歌う・・・何故唐突に習いたくなったのか・・橋蔵さまの影響が大きかったような気がします。小唄は粋で色っぽくて大人的で気に入っていました。)
歌舞伎のような古典的な世界で暮らしてきた橋蔵さまが持っているレコードは西洋のものばかり、それもラテン音楽やジャズが好きでした。
橋蔵さまの心にはピタリと軽音楽があっていたようです。「今のぼくには、軽音楽の方がピタリとくるのです。感情が鎮むのです。忙しいからかもしれませんが・・」とおっしゃっていました。好きなジャズシンガーは、一番はアーサーキッドで、ペニーグッドマン、グレンミラーも好きだそうです(若い人にはピンとこないかしらね)。歌謡曲も好きで、ロケの時、帰京の時、汽車の中やバスの中で聞いていたということです。
そうそう、新居に越してから、橋蔵さまは思い切ってハイファイ・オーディオを買い、暇さえあればその前で音楽鑑賞にふけったようです。
釣りは橋蔵さんにとって最高の趣味なのは皆様ご存知のとおり。小さい時から六代目のお伴をして釣りに行っていましたので釣りは大好きでした。静かに糸を垂れウキの微妙な浮動に集中するときの気持ちは何とも言えなかったようですよ。
「魚を釣る、沢山釣る、というよりもこの一瞬のスリルがたまらない」と橋蔵さまは言っていました。
仕事が忙しいため川釣り専門になっていましたが、釣りの醍醐味は何といっても海釣り。友達に誘われ、カツオ釣りをした時の爽快感が忘れられなかったようです。釣り上げたばかりのカツオの刺身が美味しかった。一度は黒潮に揺られながら、目の下何尺というものを釣り上げたいという、大きな夢をもっていた橋蔵さまです。
勝負ごとの?趣味は好みません。ただ、囲碁は好きですし将棋もやりました。
東京の自宅には、変わったコレクションがありました。操り人形のコレクション・・舞台に立っていたころから蒐集していたものです。それから、一個一個違った珍しいガラスのコップも集めていました。カットだけで美しさをあらわしているものだけが好きな橋蔵さまでした。
豊かな趣味は豊かな演技、豊かな人生に、とつながるものですね。皆様はどんな趣味をお持ちですか。