3,徳行には、顔淵・閔子騫(びんしけん)・冉伯牛(ぜんはくぎゅう)・仲弓、言語には宰我・子貢、政事には冉有(ぜんゆう)・季路、文学には子游・子夏。
《私(孔子)に最後まで付き従ってくれた弟子として》、徳行に優れた者には、顔淵・閔子騫・冉伯牛・仲弓があり、言語に優れた者には、宰我・子貢があり、政事に優れた者には、冉有・季路がいて、文学に秀でた者には子游・子夏がいたのである。
※浩→《私(孔子)に最後まで付き従ってくれた弟子として》とあるのは、前節とこの節が連続していると考える古注に従っています。吉川幸次郎先生はこの立場をとらないで、別々の節だと考えられましたが、ここでは「連続」のほうに従いました。
どんな苦難や困窮にあるときにも、孔子の儒学教団を離れずに最後まで孔子とともにいて、自己の能力の研鑽や学問の修得、政治の改善に努力し続けた弟子たちの名前が連記されています。連続説の根拠は、孝行で有名な「曽参(そうしん)」の名前がここに挙がっていないことです。顔回が徳行の士であったことは明白です。冉伯牛については、孔子からその病気を「命なるかな」と嘆いたこと以外には伝わっていません。
「言語」は弁舌のことです。殊に外交交渉の際の弁舌を言います。「政事」は字のとおりです。
「文学」は、日本で言うのとは違って、殊に文献についての学問を言います。
以上の「徳行」「言語」「政事」「文学」の四範疇は、孔子の「四科」と呼ばれるそうです。
以前、沖縄那覇市の公園の孔子廟のことで、市が使用料か何かを負担していることが「政教分離に反する」という裁判の判決を受けたというニュースがありました。その根拠は孔子の一派を「儒教」と宗教扱いしているからだと思いますが、私は授業では宗教としては扱いませんでした。春秋戦国時代に「諸子百家」と言って、さまざまな思想家が現れて、孔子の一派は「儒家」と呼ばれていました。他に「道家」「墨家」「法家」「兵家」などがありました。それぞれを「学問」だと考えていましたから、「儒教」とは呼ばないで「儒学」とか「儒家」と呼んでいました。政治哲学ではありますが、宗教ではないでしょう。実際、『論語』の中で、「私は怪力乱神を語らず」と言っています。備前市の閑谷学校にも孔子廟がありますが、ここで「政教分離に反する」という事件を聞いたことがありません。ただ孔子廟は孔子の霊を祀っていて、それで宗教扱いなのかもしれません。
ところで、野田俊作先生は「徳行」「言語」「政事」「文学」のうち、「政事」にはあまりご縁がなかったのでしょうか。他の3つ「徳行」「言語」「文学」の才能は抜群でした。2020年10月発行の、アドラー心理学会機関誌『アドレリアン』の巻頭言は、私には「ご遺言」のように思えます。謹んでここに引用させていただきます。
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アドラー心理学の未来のために
新理事会の発足、おめでとうございます。世界が大きく変化していく中で、今後は思いもよらないさまざまな課題が生じてくると思います。理事のみなさま方には、ぜひ賢明な判断をもって学会を運営していただきたいと思います。
師から受け継いだアドラー心理学を学ぶこと
アドラー心理学には、他の心理学にはない独特の理論と思想があります。そのことをしっかりと意識して、誤解のないように学んでいただきたいと思います。技術に関しては折衷主義でも構わないのですが、中心にある理論(基本前提)と思想(共同体感覚)を捉え損なうと、アドラー心理学と似て非なるものになってしまいます。
1982年に、私はシカゴ・アルフレッド・アドラー研究所の講義を並行して、バーナード・シャルマン先生の個人指導を受けました。日本に帰ってからは、どこまでが先生から習った「正統」で、どこからが私の独創であるかを意識して、はっきりと区別して伝えてきました。私なりに、アドラー心理学という学問に学問に対して、できるかぎり誠実に向き合ってきたつもりです。私は今もシャルマン先生から学んだアドラー心理学に恋したままですし、最後まで変わることはないでしょう。学会員のみなさんも、まずは師から受け継いだアドラー心理学をそのまま学んでいただきたいと思います。
今私たちが学んでいるアドラー心理学を検証すること
学会員の多くは、自分がアドレリアンであると自認して(あるいはアドレリアンであると自認することを目指して)いらっしゃると思います。レン・スペリーの分類によると、自分がアドレリアンであると自認している群は、
1)アドレリアンⅠ:基礎概念を保守的に受け入れている人。
2)アドレリアンⅡ:基礎概念を拡張して受け入れている人。
3)名目アドレリアン:基礎概念の一部だけしか受けれていないか、まったく受け入れていない人。
の3つに分けられます。
この分類を適用するならば、私自身を含め、多くの第四世代アドレリアンは、「アドレリアンⅡ」に含まれると思います。私はアンスバッハーが提唱したアドラー心理学の基本前提を完全に受け入れていますが、その個々の項目については若干の解釈を付け加えています。「名目アドレリアン」というのは、不勉強な人々まで含めて、いつの時代にもどこにでもいらっしゃいますが、アドラー以来の伝統でそういう人々をも排除しないで一緒に学んでいこうとしています。
それはそうなのですが、アドラー心理学の理論と思想を未来に残していくためには、許容できる範囲を決めておかなくてはなりません。もし仮に「名目アドレリアン」が一般の人を集めて講演会を行うなら、アドラー心理学が誤解されてしまうでしょう。学会はそのような事態を防ぐために、指導者による資格認定を行なっています。認定試験に合格した方だけにアドラー心理学の供給者足る資格を与える、という今の制度はとてもうまく機能していると思います。
アドラー心理学独特の基礎理論と思想とを誤解なく次世代に伝えていくために、学会の学問に関わる分野については、認定指導者を中心に検討していくことが大切だと思います。アドラー心理学の研究を志す方々は、ぜひ、論文を書き、実践を重ね、丁寧にその効果を確かめてください。それがアドラー心理学への最大の貢献ですし、学会員の利益にもなるでしょう。学会員のみなさんも、人々の唱えるアドラー心理学が正しくアドラー心理学の理論と思想に沿っているか、共同体感覚にも共通感覚にも反していないかどうか、立ち止まって考える姿勢を保ってください。急いで結論を出さなくてもよいので、年月をかけて話し合い点検してください。
受け継いだものを伝えるだけでは足りないこと
『アドレリアン』第1巻第1号の巻頭言に、私は次のようなことを書きました。
われわれアドレリアンの使命は、アドラーを乗り越えることである。アドラーは正しい出発点に立っていたと私は思う。彼は出発し、正しい道を歩んで、道半ばで命尽きて倒れた。彼の思想の方向は正しいとしても、それは未完成である。また、地域と時代の精神に限定を受けたものである。今、われわれにはアドラーの知らないこの50年の人間科学の成果が与えられている。また、われわれはアドラーが生きていたのとは違う時代と違う伝統に生きている。アドラーは間違ってはいなかったと考える点で私はアドレリアンである。しかし、アドラーはなお不完全であり、またわれわれの文化とわれわれの時代の中では否定するほかはない部分を含んでいると考える点で、私は保守的な意味でのアドレリアンではない。そして私は、これは私の個人的な願いにすぎないのだけれど、日本アドレリアンがみなそのようなアドレリアンであってほしいと思う。
アドラーには学ぶべきだ。アドラーはすばらしく正しい出発をした。アドラーを極め尽くすべきだ。そしてその後、ひとりひとりに固有のやり方でアドラーを乗り越えてしまうこと。ひとりひとりが異端者になること。それがアドラー心理学に生命を与える唯一の道だと私は思う。
かく申しましたように、爾来35年あまり、私はこの道を歩んできました。今もこの思いは変わっていません。まだまだ極め尽くしたとは申せませんがが、それなりの成果をあげてこの生を終えることができるのではないかとうれしく思っています。
アルフレッド・アドラーの創始した哲学は、共同体感覚という尺度でもって、ものごとの善悪の基本を決めることを提唱しています。すべての価値を容認するならアナーキズムですし、ひとつの価値を押しつけるならファシズムです。ひとりひとりが共同体感覚を価値のよりどころにすることで、人類の未来は幸福になると私は信じています。
どうかみなさん、これからも学習実践に励んでください。
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引用終わり
昔なら「修身」の教科書にも載ったかもしれないほど、野田先生は親孝行を尽くされました。2015年の名古屋総会で、ご母堂をお浄土へ送られた経過を発表されました。今思い出しても涙します。そして、今日引用させていただいた「巻頭言」は、まるでここに先生がご存命でいらっしゃるかのように、やさしいお声で、「大森さん、しっかりね」とおっしゃっているように感じれられてなりません。先生、ほんとにほんとにありがとうございました。私の力などほんの微々たるものではありますが、アドラー→ドライカース→シャルマン→野田先生→私たち、と伝承されたアドラー心理学を、ほんとにわずかばかりでも正しく乗り越えるように日々精進してまいります。
2,子曰く、我に陳(ちん)・蔡(さい)に従える者は、皆(みな)門に及ばざるなり。
先生がおっしゃった。「亡命して落ちぶれた私に、陳・蔡にまでも従ってくれた弟子たちは、みんなとうとう官吏に就職できなくなってしまったね」。
※浩→孔子は紀元前497年に魯国をあとにして仕官のための遊説に出ますが、紀元前489年には陳・蔡の国境で窮迫して物心ともに追い詰められてしまいます。自分が生涯の最も困難な時期にまで慕ってついてきてくれて、就職の機会を逃して出世することができなかったしまったと、感慨を込めて回想しています。
古今東西、賢者の思想を時の政治家たちは採用しませんでした。西洋では、古代ギリシャのプラトンの「哲人政治」も有名ですが、これは、政治は「知恵の徳」の優れた者が行い、兵士には「勇気の徳」、庶民には「節制の徳」、そしてこれらが調和することが「正義」であるという彼の哲学によります。「知恵」「勇気」「節制」「正義」を“四元徳”と言います。少しクールな響きが感じられます。孔子の「仁の徳」による政治には、人の心の温かさが感じられるのは、東洋贔屓でしょうか。コロナ対策のとき、政府は「専門家の意見を聞いて」と盛んに言っていました。賢者の考えを聞くという姿勢を誇示したのでしょう。ところが、GO TOトラベル強行などではこれを無視して、誰かに忖度したとしか考えられません。「賢者」の対語は「愚者」です。失礼ながら「おバカさんに見える政治家」が多いようです。テレビの国会中継を見ていてあきれます。愚民の上に悪しき政府ありですから、つまるところ、国民のレベルが低下しているのでしょう。最近特に凶悪な犯罪が増えていてこの国の将来を危ぶまれます。内憂外患なんてないほうがいいに決まっています。
第十一 先進篇
1,子曰く、先進の礼楽(れいがく)におけるや野人なり、後進の礼楽におけるや君子なり。如(も)しこれを用いば、則ち吾は先進に従わん。
先生がおっしゃった。「弟子たちの中の先輩は、礼制と音楽に対して野人(郊外に居住する農民)のようである。後輩は、礼制と音楽に対して立派な君子のようである。しかし、もしどちらかを選択せよとなれば、私は先輩たち態度に同調するだろう」。
※浩→先輩格の弟子は、子路・子貢・顔淵・閔子騫(びんしけん)・宰我などで、後輩格の弟子は、子游・子夏・曾子・子張・澹台滅明(たんだいめつめい)などです。孔子は、先輩格が得意とする「政治的実践」と後輩格が熱中する「礼楽的研究」において、実際に信念を持って素早く行動する政治的実践のほうを重視したのです。机上の学問も必要ですが、教養主義に傾斜し過ぎると実行力や決断力にかげりが出てきて、有意義な行動ができなくなってしまいます。
別の解釈として、晩年の孔子が、儒学教団を起こした初期に自分に師事してくれた先輩格の弟子たちを好意的に懐古したという考え方もあるようです。
野卑でなく文化的な生活こそが人間の価値であって、その実践への可能性が増大することを祝福しつつも、それによって良い意味での野生が失われることをおもんばかり、それはやはり先輩たちの場合のように保存されねばならない、と吉川幸次郎先生は解説されます。
「巧言令色鮮(すく)なし仁」というのがありました。「野人」は、最も穏やかな解釈としては「田舎の人」でしょう。政府にいる紳士を「君主」とするのに対して、農業労働に復する人が「野人」(農民)です。そういえば、「与党」に対して「野党」と言い、政権を失うことを「野(や)に下る」と言います。「文化」と対(つい)になるのは「野卑」ですが、「野生」というのも良い意味とあまり良くない意味に使われます。「野性的」は“軽蔑”にも“賞賛”にも使われます。
昔(1978年でしたか)に上映された『野生の証明』という映画がありました。角川映画でした。高倉健さん主演で、薬師丸ひろ子さんがまだあどけない少女役で出演していました。洋画では『野生のエルザ』というのがありました。これはライオンが主役です。
ジョーイはケニヤの北高原の監視官の妻で、ある日3頭の牝ライオンの子を拾い、育てることにした。その中で一番小さいエルザを特に可愛がった。地方行政官の忠告のように、大きくなったときの野生の恐ろしさを思わないでもなかったが、夫が病気のときは枕元で一晩中見張りをすることもあった。ある夜、象の大群が集まったとき、エルザは一目散に逃げ出し、作物をひどく荒らした。行政官もこれが最後だと言った。大きくなりすぎ、野生も表れてきた。ジョーイは考えた末、エルザを自由にしてやることに決めた。だが雄ライオンの傍に置いてみると、慌てて車のほうに飛んで帰って来た。他の動物をころすことを教えようとすると、カモシカと遊ぶような始末で、1週間野に放してみたが、結局餓死寸前のところを発見された。繁殖期に入ったある日、エルザを遠くへ運んだ。雄を争い牝ライオンと激しい取っ組み合いをやりエルザが勝った。本当の野生に帰ったのだ。ジョーイは嬉しいと同時に、もうエルザには会えないのでは、と淋しかった。1年が経って、エルザを残したところへ来てみたが、1週間過ぎてもエルザは現れなかった。帰ろうとしたとき、遥か彼方からエルザがやって来た。3頭の子を従えて。子どもまで連れてくるとは。エルザはジョーイの側に人間が抱擁するような形で足を置くと、懐しそうに体をこすりつけたり、手をなめたりしていた。エルザの子どもたちもまわりに集まった。近くでライオンの吼える声が聞えた。エルザの旦那だろう。短いめぐり合いだが、エルザもこれからは本来の野生に戻るだろう。
この映画のテーマ曲も有名で、大ヒットしました。マット・モンローという人が歌っていたはずです。“Born free ……”と。
27,色斯(おどろ)きて挙(あ)がり、翔(かけ)りて而(しか)して後(のち)集(とど)まる。曰く、山梁(さんりょう)の雌雉(しち)、時なるかな時なるかなと。子路これに共(むか)えば、三たび臭(はねひろ)げて作(た)つ。
雉(きじ)が人間の気配に驚いて突然飛び上がる、ぐるぐると飛び回ってから木に止まった。先生がおっしゃった。「山中の橋にいる雌の雉は、時機を心得ているな、時機を心得ているな」と。子路が雉に近づいていくと、三度羽ばたきしてから飛び立っていった。
※浩→ここは大変難解な個所で、解釈は諸説あるようです。『論語』(前篇)の結びがこのような難文で終わっている理由を現代のわれわれは知るすべもありません。
人間が接近すれば飛び去って逃げ、木に止まって安心できれば動かない。雌の雉の俊敏な動作を観察した孔子が、「臨機応変な身の処し方」に感嘆した場面なのでしょう。「あの雉は、時宜というものを知っている」と感慨深く雉を見ていた孔子ですが、そんな孔子の内面も知らずに、ずかずかと豪胆な子路が近づいていったために雉は飛んで逃げてしまいました。子路は無粋な人のようです。せっかく孔子が「時機を心得ている雉に感歎しているのに、無神経に近寄ったために、三羽の雉は飛び立ってしまったのですから。これも一説です。
「時なるかな」という孔子の言葉を勘違いした子路は、「雉を時節の食べ物だ」と誤解して、捕まえてころして煮て孔子に差し出したという説もあります。「共」を「供」と、「臭」を「嗅」と読み替えます。孔子は、もとより食べる気はありませんが、子路の好意を無にもできなくて、皿の雉を三度嗅ぐと、そのまま立ち去った、というのでが、これでは子路の無神経さが際立ちすぎです。
じっくり読み返してみますと、山中の丸木橋にいる雌の雉は時節をよく知っている。時間の流れの上に起こる環境の変化に応じてうまく自分の身を処している。つまり鳥はうまく歴史の変化に応じうるのに、人間はそうではない。時機に敏感でありたいということ。雉に関しては「雉も鳴かずば撃たれまい」が有名です。地元・岡山のサッカーチーム「ファジアーノ岡山」のファジアーノは岡山の県鳥=雉にちなんでつけられています。
アドラー心理学ふうに言うと、ライフスタイルが子ども時代に形成されますが、はじめは「未分化」だったものが成長につれて「場合分け」ができるようになります。「時空」に関して場合分けができるようになると、頑固でない柔軟な環境に応じた対応ができます。子どもは観察眼は鋭いが解釈は下手だと言われます。よく見、よく聞き、よく触れるのですが、次第に場合分けできるようになって、大人になります。大人でも頑固な人は、このことが未熟なのでしょう。「あつものに懲りて膾を吹く」と言われます。『学而篇』には、「君子は重からざれば則ち威あらず。学べば則ち固(かたくな)ならず……」とありました。(「郷党篇」完)
26,車に升(のぼ)るときは必ず正しく立ちて綏(すい)を執る。車の中では内顧(ないこ)せず、疾言(しつげん)せず、親指(しんし)せず。
(先生は)馬車に乗られるときには、必ずまっすぐに立って、乗るとき車上から降ろした綱をしっかり握られた。車上では、後ろを振り向かず、大声でしゃべらず、他人を指さしたりされなかった。
※浩→馬車は貴人・大夫しか乗れない高貴な乗り物で他人の注目を受けますから、軽はずみな行動はしないのです。車に乗るときからして、びくびくしないで落ち着いて行動しました。今ですと、ハイヤー(私どもは「タクシー」ですが)に乗るとき、“つかまりベルト”をしっかり握って、むやみに後ろを振り向かないで、声高にしゃべらないで、当然人を指さすなどの失礼なことはしないようにします。皇族の方々や芸能人の方たちは、常に人目にさらされていますから、その立ち居振る舞いに気を使われていることでしょう。常に優雅で上品な笑みを浮かべられます。常にスマイルの顔をしていると、顔の筋肉がその状態で固まって、他の恐い表情や辛そうな表情はできなくなるのかもしれません(笑)。私は、スポーツジムで1人でトレーニングをしますが、だいたい“ムッツリ顔”で黙々とやっていました。ジムのスタジオでは、ヨガ教室とかエアロビクスとかジャズダンスとかが開かれていて、多くのおばさま・おじさまで賑わっています。さしずめ社交クラブです。中には、会員どうしの雑談が目的のように感じられる人たちもよく見かけます。そういう雰囲気の中でトレーニングに励むには、どうしても“ムッツリ顔”になってしまいます。あるとき、1人の若者が常に笑みを浮かべて、エクササイズにいそしんでいる姿を見て、「自分もこのようであろう」と決心しました。「人を裁くような目つきをしない」のがいいです。アドラー心理学風自分用の“標語”です。そうしていると、最近はときどき私の姿を見て、エクササイズについての質問をされる方や、丁寧に挨拶をされる方が出てきました。もちろん当節のこと、エクササイズ中にスマフォをいじっている人も特に若者に多くいますが、そちら側にあまり注目しないで、きちんとマナーを守っている人たちとは昵懇になりたいです。人々の一々の行動を「弁別」しないで、ただ「分類」するだけにとどめていれば、その行動についての価値判断をしないです、これが穏やかに過ごすことのコツです。
25,子、斉衰(しさい)の者を見ては、狎(な)れたりと雖も必ず変ず。冕者(べんしゃ)と瞽者(こしゃ)とを見ては、褻(な)れたりと雖も必ず貌(かたち)を以てす。凶服の者にはこれを式(しき)す。負版(ふばん)の者に式す。盛饌(せいせん)あれば必ず色を変じて作(た)つ。迅雷風烈(じんらいふうれつ)には必ず変ず。
先生は斉衰(しさい=二番目に重い喪服、例えば母の死のとき着る)を着た人に出会うと、いつも親しい仲であっても顔色を変えて身なりを正された。冕(べん)という冠をかぶった人や盲目の人に出会うと、ふだん懇意にしている人でも、必ず表情を引き締められた。凶服という軽い喪服を着ていた人には、式という車上での拝礼をされた。版という戸籍台帳を背負っている人に会っても、式という挨拶をされた。豪華なご馳走をしていただいたときには、顔色を引き締めて態度を改めて立ち上がって敬意を表した。雷雨や暴風が激しいときにも、先生は必ず居ずまいを正された。
※浩→ここにもまた難字が続きます。日常生活で遭遇する相手に対して、孔子がどのような礼の道を実践していたのかを示していますが、雷雨や暴風の自然現象をも敬虔に恐れて態度を正されたのは、孔子が『天命思想』で礼を守っていたからですが、少しビクビクしていたのなら、そこに彼の人間らしさがあったとも言われます。
現代「礼」が厳かに行われるのは、冠婚葬祭などの「儀式」と一部の「通過儀礼」と古典の世界だけになってしまったようです。芸道や武道や棋道でも「礼」を重んじます。孔子の時代は、日常生活のあらゆる領域に「礼」が及んでいたことを思うと、現代のお粗末さが痛ましいです。お稽古事をしている間きちんと礼を実践しているのに、終わってその場を離れた途端に全部忘れて無作法丸出しになったりします。「ハレ」と「ケ」の区別というのがありました。「ハレの日」は岡山弁で言うと、“よそいき”の日で、ご馳走を食べたり、普段とちがう上等の衣服を着ます。「ケの日」は日常、“ふだん”のことで、質素な食事や粗末な普段着ですごしました。この差がどんどんなくなって、今では年中が「ハレの日」になっています。年中ご馳走を食べ、年中“よそいき”の服を着ていたりします。言葉では、「敬語」が乱れに乱れているのに、不思議なことに学校では、部活動の先輩に対しては後輩は、教師に対するよりも丁寧な敬語で応答します。完ぺきな「縦関係」です。卒業式の「仰げば尊し」を歌わない学校が多いようです。何しろ明治時代にできて、しかも文語表現で、内容も「わが師の恩」「身を立て名をあげ」などが非民主的だという理屈もあるでしょうが、もったいない気もします。台湾では日本統治時代から歌われ、今でも続いているそうです。私が22年間勤めた岡山工業高校では歌われていました。卒業学年を担任したとき、卒業式前にホームルームで私が歌唱指導した覚えがあります。2行目の「教えの庭にも」のあとの「はやーいく~とせ~」の節回しに生徒が感動してくれました。
文部省唱歌 編曲 白川雅樹
仰げば尊し わが師の恩
教(おしえ)の庭にも 早や幾歳(いくとせ)
思えばいと疾(と)し この年月(としつき)
今こそ別れめ いざさらば
互いにむつみし 日ごろの恩
別るる後(のち)にも やよ忘るな
身を立て名をあげ やよはげめよ
今こそ別れめ いざさらば
朝夕馴(な)れにし 学びの窓
蛍のともし火 積む白雪
忘るる間ぞなき ゆく年月
今こそ別れめ いざさらば
歌詞が文語体で、うっかりすると、誤読してしまいます。自分が子どもで実際に歌っていたころ、「今こそ別れめ」は「今こそ別れ目」のことだと思い込んでいました。高校で古文をならって、“係り結びの法則”を知って間違いに気づきました。「今別れむ」の、「今」を強調して「今こそ」となるときは、「別れむ」の助動詞「む」が“已然(いぜん)形”の「め」と変化していたのです。
「今ぞ」と「ぞ」、「今なむ」と「なむ」、「今や」と「や」、「今か」と「か」の場合は、「別れむ」と“連体形”になります。
ちなみに、助動詞「む」は、一人称の動作につけば「~よう」「~たい」と話し手の意志や希望を、二人称単数の動作につけば相手に対する催促・命令を、二人称複数の動作につけば勧誘、三人称の動作につけば予想・推量を表すのですが、ここでの「別れめ」はどれでしょうか。「今こそお別れいたしましょう」と訳せば、婉曲な「意志」でしょうか。
もう一つ誤読を発見しました。今文字に書いてみて気づいたのですが、「思えばいと疾(と)し」と書いていますが、これを見るまでは、「思えば愛とし」の意味だと思っていました。「疾(と)し」=「速い」だったのですね。お笑いです。そう言えば、歌舞伎で「速く」を「疾く」と言っていました。
「礼」の話から、「仰げば尊し」に発展してしまいました。その時代にヒットしている曲で卒業式を行うのも悪くはないですが、こういう純粋な日本文化(歌のルーツが外国だとしても)を是非とも継承していきたいものです。
24,寝(い)ぬるに尸(し)のごとくせず、居(を)るに容(かたちつく)らず。
(先生は)寝られるときにも死体のように仰向けにはならず、家に居るときも深刻な堅い表情をしなかった。
※浩→睡眠の様子と家でくつろぐときの表情です。「尸」は死体のこと。「居る」は、吉川幸次郎先生は「私的にくつろいでいる」と。『古語辞典』では、「人がじっと座り続けている意」とありました。さらに、「奈良時代には自己の動作について使うのが大部分。平安時代以後は自己の動作の他、従者・侍女・乞食・動物などの動作に使う。低い姿勢を保つところから、自己の動作については卑下、他人については軽蔑の気持ちを込めて使う」ということです。仰向けに手足を伸ばして大の字になって寝るのは死体のようだと言われると、困りますね。私はほとんど仰向け寝だと思います。就寝時のしばらくは横向きで寝ていますが、そのうち深い眠りになる前におそらく仰向けになっているはずです。だいたい7時間前後の睡眠中、一度もトイレには行かなかったのが、最近は一度行くようになりました。まだ正常範囲内でしょう。不思議なことにお風呂を休んだときは、一度も行きません。謎です。アニメの金田一少年が寝ているのはとんど「うつ伏せ寝」でした。NHKの「ためしてがってん」という番組で、便秘対策に15分間のうつ伏せ寝を奨励していました。試してみましたが、効いたのか効かなかったのかよくわかりません。午後のリラックスタイムは、CDやMDをかけて、うつ伏せ状態で聴きます。途中の曲は眠っていて聞き逃しています。
「居」は「私的にくつろいでいること」とありますが、私のように「ひとり暮らし」ですと、常にくつろげます。同居家族がいると、そんなに脳天気にくつろげないでしょう。野田先生がよくおっしゃっていました。「お父さんは自宅に出勤して会社へ帰宅している」と。お父さんは、家庭に居場所がないなんて、お気の毒です。健全な姿ではないでしょう。at homeという英語の意味が変わって、「くつろいで」はat officeになってしまうかもしれません。
いずれにしても、今日は2026(令和8)年元旦で、普段以上にくつろいでいます。今年もどうぞよろしくお願いいたします。
23,朋友死して帰する所なし。曰く、我に於いて殯(ひん)せよ。朋友の饋(おく)りものは車馬と雖(いえど)も、祭肉にあらずんば拝せず。
友人が死んで頼る場所のない場合には、先生は、「私の家に棺を置いて、殯(かりもがり)しなさい」と言われた。友人からの贈り物は、車馬(のような高価な物)であっても、祭祀のお供えものでなければ謹んで受け取らなかった。
※浩→友人が死んで絶望に打ちひしがれているときの心得です。「私の家に棺を置いて、殯(もがり)をしなさい。「殯」というのは、遺体を埋葬する前に一定期間、棺の中で生きているように安置しておくことです。友人からの贈り物は、たとえ車や馬のように豪華なものでも、祭祀のお下がりの肉でなければ受け取らなかった。「朋友は財を通ずる義(みち)あり」と言われるそうで、朋友という人間関係は、財産を共有するほど親しいということだそうです。友人が死んでしまったときの絶望感や無力感を和らげる『葬礼の方法』としての孔子のお勧めです。
私の友人の死といえば、大学のボート部仲間で親友の行司伸吾君です。そして、先方は親友と思われていなかったでしょうが、岡山工業高校で歌舞伎と落語の楽しみを共有した細川公之先生です。おふたりの死はまったく予想外でした。行司君とのエピソードはたびたび書きました。2009年2月に亡くなっていたことを知らずにいたところ、たまたま隣家のご主人が、彼の兄の友人であったので、そちらから聞いて知りました。その隣家のご主人は、浜松での葬儀に参列されましたが、私は行司君の奥様からのお知らせがなくて、参列できませんでした。結婚式には行司君自身が呼んでくれて出席できましたが、奥様にとって私は「親友」ではなかったですから、仕方ありません。彼の生前中は、秋のマスカットのシーズンにはこちらからそれを送り、晩秋にはあちらから三ヶ日みかんが送られていました。そういえば、喪中んお年賀状の欠礼通知も来なかったですから、うちはまったく無視されていたわけです。
一方、細川先生は、親友とは言えないかもしれませんが、とても大切なお人です。職場のもと同僚で、趣味を同じくしていました。年賀状のやり取りは私の退職後も続きました。そして親友でなくても、亡くなられたとき、奥様から年賀状の欠礼通知は来ました。細川先生は私にとっても懐かしい井原市のご出身で、大学は東京の二松学舎で、漢文がご専門でした。うちの母が女学校時代(岡山第一女学校)に、書道大会とかで、全校生の前で書いたという床の間の掛け軸の「漢詩」の意味をたずねたところ、きちんとその詩の全文を調べて教えてくださいました。能楽にも通じ、その幽玄の世界に惹かれたそうです。さらに歌舞伎にも詳しく、まさに生き字引でした。私の退職後、転勤された岡山南高校在職中に病死されました。その後も市川猿之助(現・猿翁)のお芝居の録画を観るたびに、岡工で「ああだこうだ」と談義したことを思い出します。また「百人一首」も大好きで、しょっちゅう、下の句から上の句を言い当てる練習をしていました。これは「脳トレ」になりますから、今でもときどき口ずさんでいます。「からくれないにみずくぐるとは」だと…「ちはやふるかみよもきかずたつたがは」と出てこないといけません。
22,大廟(たいびょう)に入り、事ごとに問う。
役人時代の先生が、魯の先祖の霊廟を参拝されたとき、お参りの方法を一つずつ(専門の役人に)質問された。
※浩→孔子は、宗廟の参拝や祭祀の礼制について誰よりも詳しく精通していたはずですが、『正しい礼の道』へのこだわりが強く、必ずそこの担当の係に謙虚に質問をしていたということです。最高レベルの賢者である孔子がこうだったのに、われわれは少し物知りになると、すぐに「知ったかぶり」をしたがります。特に私などは、“見栄の大森”と自称するくらいでしたから耳が痛いです。それでもアドラー心理学に出会ってからは、多少は謙虚になったかと自分では思います。子どものころ、よく母親が「実るほど頭(こうべ)を垂れる稲穂かな」とか「倒されし竹は静かに起き上がり倒せし雪は跡形もなし」と言っていたのを思い出します。あまり親の期待どおりになっていません。
在職中に一時(3年間)「進路指導課」にいました。就職と進学の一部を担っていました。当時の課長は建築課の浮田達郎先生(故人)、執務のトップは理科の佐藤禎秀(よしひで)先生。この方は、備前高校で私の着任以前にボート部の顧問の1人でもありました。そして、進路指導業務のコンピューター化を推進された電気科の矢田部隆一先生。それから、事務担当の西島葉子さんなど、懐かしい面々が思い浮かびます。そのころ、母が私のお弁当作りをやめました。それで昼食を主に出前でまかなっていましたが、学校のそばに「寿司蔵」というおいしいお寿司屋があったので、たびたび「上ちらし」(1000円)を頼みました。当時の先生方の標準のお弁当は、350円くらいが相場でした。このとき“見栄の大森”が誕生しました。すると、佐藤先生は自分のことを“ひがみの佐藤”だとおっしゃり、矢田部先生は“あきらめの矢田部”だとおっしゃいました。今思うと、“あきらめの矢田部”が最高に素晴らしいです。枯れていてまさに「人生の達人」です。
それはそれとして、アドラー心理学のことやカウンセリングの技法については、野田先生(私よりも実年齢は6歳年下)に、喰い下がってしつこくしつこく質問しても、先生はイヤなお顔ひとつなさらないで、丁寧に丁寧に教えてくださいました。今日の論語の孔子の態度に酷似しています。自分の今日があるのは野田先生に出会えたおかげです。自分の担当するケースについて、カウンセラー資格修得後の2年間ほどは、毎週金曜日夜の、大阪アドラーギルドの「事例検討会」に持参して、先生をはじめ大勢の先輩方から、丁寧なコメントをいただけました。特に野田先生からはそれこそ手取足取りで教えていただけました。あれは、私が有望視されたからではないかと、当時は思い込んでいましたが、今思うと、私が危なっかしくて放置しておけないので、間違いがないようにあんなに丁寧に教えてくださったのかもしれません。どちらにしても、そのおかげでこんにちの自分がいます。野田先生が逝かれてまる5年です。毎日のように野田先生が残された資料に接し、音声録音の資料を耳にしていて、私の近くにいつも先生はいてくださるようです。
21,君、命じて召せば、駕(が)を俟(ま)たずして行く。
君主から招聘の命令を受ければ、馬車に馬をつける時間も待たずにすぐに歩きだされた。
※浩→「駕」は動詞で、馬車を引く馬を装備することです。君主から自宅に呼び出しがあると、これはすべてに優先する『至上の命令』ですから、馬車の用意ができないうちに外へ出て歩きだしました。そうしている間に用意を調えた馬車があとから追いついたそうです。今日では、世の中に利己主義が蔓延して、職場の上司や管理職から厳しい指示・命令があると、「パワハラだ」と騒いだりします。もちろん、上司による理不尽・不合理な指示・命令はいけないですが、組織の一員として当然果たすべき役割・責任まで、「パワハラだ」と騒いで逃れようとしては、組織は機能しません。上司のものの言い方にも問題があるかもしれません。日本の学校にはまだ「コミュニケーション」という科目はないです。「知育」「体育」「徳育」のうちの「徳育」に属するとすれば、「道徳教育」でしょうが、昭和の敗戦を境に、道徳教育というと、戦争肯定に直結すると考えらるのか、否定的にとらえるむきもあります。欧米では、道徳の根底を宗教がしっかり支えているのでしょうが、日本では、宗教を公教育に反映させることはタブーですから、このあたりがじれったいです。國分康孝先生は、いつも、To be cure is to be religious.とおっしゃっていました。野田先生はspiritualとreligiousを区別されます。spiritualは困難でも実践できそうです。ニーチェは「神は死んだ」と、ツアラトゥストラに語らせています。アドラー心理学の「共同体感覚」はspiritualな概念です。さきごろ岸見先生の『嫌われる勇気』が爆売れしましたが、純正アドラー心理学はそんなには売れないようです。野田先生によれば、「基本前提第一の“個人の主体性”で、すべては自分の創造物で、自分の責任だと言うから広まらない」と。世間の常識は、「自分のせいではない」と言いたくて、自己責任は嫌われます。しかも、基本前提第三に昔「対人関係論」(今は「社会統合論」)というのがあって、個人の存在の前にまず「社会(共同体)」が存在して、個人個人はそこに組み込まれているから、社会に貢献することで所属が良くなり、幸福に生きることができると考えます。世間に蔓延する「自己中心主義」ではほんとはみんなが不幸になるだけです。真に幸福な社会を実現するには、アドラー心理学という「代替案」があることが世の中にもっともっと知られるといいと願います。でも難しい。