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論語でジャーナル’25

10,食らうには語らず、寢ぬるには言わず。

 食事のときはおしゃべりしない。寝るときもしゃべらない。

※浩→「食事のときはおしゃべりをしない」というのは、「新型コロナ対策」での心得でした。吉川幸次郎先生の解説によれば、「語」は「対話」で、「言」はただの発言です。これですと、食卓での会話が禁止されれいるようで、会食の楽しみがなくなります。荻生徂徠の説では、「語」を「教訓の言葉」と解します。これだと「食事のときは教訓めいた話をしない」ということですから、世間話や座が楽しくなるような会話はOKということになります。講座のあとは居酒屋で懇親会をしていますが、ここでは「教訓」めいた話はほとんどありません。楽しくおしゃべりします。アドラー心理学よもやま話もたくさんしています。時には何気ない雑談から、メンバーのライフスタイル分析ができたりします。
 ひとり暮らしの自宅では、話相手いえばテレビだけですから、私の口は食べることに集中できます。テレビで映画やドラマを見ながら食事をすると、しょっちゅうお箸が止まって、画面に見入ることがありますから、その分、食事時間が長くなります。こりゃいかんと、朝食時にはテレビもラジオもやめて、ひたすら食事に集中すると、半分くらいに時間短縮できます。今回の論語を実践していることになります。妹が帰省すると、お座敷に布団を並べて寝たときは、寝入る前にしばらくおしゃべりしていました。コロナ以後は帰省しませんので、長らく妹との直接会話はありません。LINEではしょっちゅうおしゃべりしています。
 大昔は、大学時代に一時、艇友の行司伸吾君宅に下宿していたことがあって、当時は、隣室(伸吾君の部屋)との境の襖をあけて、布団を移動して頭と頭を逆さまにくっつけて寝て、どっちかが寝入るまで、ああだこうだとおしゃべりしていました。今思い出す話題としては、岡山市内の「西川」はどこからどこへ流れていくかで、毎晩盛り上がっていました。時は流れて、現在の自宅は、不思議なご縁で伸吾君の生家の北方約1キロの位置にあります。伸吾君自身は、大学卒業後、静岡県の高校に赴任し、結婚されて自宅を浜松市内に建てて、そこで定年まで勤め上げました。各校にボート部を創設して、全国理事にまでなり、まさしくボート一筋の人生を送り、2009年に亡くなりました。早すぎます!

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論語でジャーナル’25

9,公(こう)に祭れば肉を宿(しゅく)せず。祭の肉は三日を出でず。三日を出づれば、これを食くらわず。

 君主の祭祀のお下がりの肉は、その日の内に食べて夜を越させない。自家の祭祀のお供えの肉は、三日以内に食べて、三日を過ぎたら食べない。

※浩→お下がりを早く食べてしまうのは、腐らせては神への冒涜になるからです。現代ふうに言い換えると、「いただきもの」は早めにいただいたほうがいい。腐らせては、くださったご厚意を軽んじることになるから。古風なようで、実に大切な配慮です。他者への配慮は「愛の根本」だと思います。こういう大それたことを言うわりには、私は、「いただきもの」をそのままに放置していて、あるものは賞味期限・消費期限をすぎてしまって、結局捨てざるをえなかったりすることがありました。これは猛反省です。子どものころは常に飢えていて、いただきものにはすぐ手を出していましたが、大人になって、あるていど経済的に恵まれてくると、そんなにいらつかなくなりました。これは「衣食足りて礼節を知る」の喩えどおりで、まことに結構なのですが、過ぎると私の失敗のようになります。飢えている状態は「劣等な状態」ですから、当然それを補償しようとします。満ち足りていると、その必要がないので放置してしまうのです。「愛徳にもとる」ことは、信仰上でなくとも心がけたいです。エーリッヒ・フロムの『愛するということ』に、次のような一節があります。
 →あらゆる形の愛に共通して、必ずいくつかの基本的な要素が見られるという事実にも、愛の能動的性質があらわれている。その要素とは、配慮、責任、尊敬、知である。←
 昔、カトリック教会に出入りしていたころ、断食をする大斎・小斎について知りました。大斎と小斎を守る日は、「灰の水曜日」と「聖金曜日(復活祭直前の金曜日)」で、小斎を守る日は、祭日を除く毎金曜日でした。
 大斎は、1日に1回だけの十分な食事とそのほかに朝ともう1回わずかな食事をとることができ、満18歳以上満60歳未満の信者が守ります。
 小斎は、肉類を食べないことですが、各自の判断で償いの他の形式、とくに愛徳のわざ、信心業、節制のわざの実行をもって代えることができ、満14歳以上の信者が守ります。
 これを知ったとき、ベテランの信者さんに質問しました。「信者でないおうちで、金曜日にお肉料理が出たら、『小斎ですから、いただけません』と言って断るんですか?」。答えは「それは愛徳にもとりますから、いただいてかまいません」でした。掟に反することよりも愛徳に反することを避けることのほうが大事なのでした。そういえば、『聖書』の中にも、イエズス様の言葉に、「安息日は人々のためにあるので、人々が安息日のためにあるのではない」(マルコによる福音書3章1~6節)とありました。

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論語でジャーナル’25

8,食(いい)は精(しらげ)を厭(いと)わず、膾(なます)は細きを厭わず。食(いい)の饐(い)して餲(あい)せると、魚(うお)の餒(あさ)れて肉の敗(やぶ)れたるは食らわず。色の惡しきは食らわず、臭いの惡しきは食らわず、飪(じん)を失えるは食らわず。時ならざるは食らわず。割(きりめ)正しからざれば食らわず。その醬(しょう)得えざれば食らわず。肉は多しと雖(い)えども、食(いい)の気に勝たしめず。唯(ただ)酒は量なく、乱に及ばず。沽酒(こしゅ)と市脯(しほ)は食らわず。薑(はじかみ)を撤(す)てずして食らう、多くは食らわず。

 ご飯は精白したものでもかまわない。刺身は細切りでもかまわない。ご飯の変な臭いのするもの、味がおかしくなったもの、魚の腐ったもの、肉の腐ったものは食べない。色がおかしなもの、においが悪いものも食べない。煮方が悪いものも食べない。時分どきでないと食べない。切り方が悪いものも食べない。食材に合ったタレがなければ食べない。肉はたくさん食べるが、ご飯より多くは食べない。ただし酒は多く飲むが、酔いつぶれるほどは飲まない。売っている酒、市場に並んだ干し肉は食べない。肉や魚に添えられた薑(薬味の生薑=しょうが)は取り除かないで食べるが、多くは食べない。

※浩→古注は、すべて斎戒のときの作法だと解し、新注は孔子の平生の嗜好を描いたとしともに、老年であったせいかなかなか凝っていました。黒い粗末なご飯よりも、白いご飯、細かく刻んだ膾の肉。膾はもともと細切りの生肉・生魚のことで、日本の今の「ナマス」とは違います。江戸時代まで「膾」は膳におけるメインディッシュでした。のち、魚介類や野菜類、果物類を細く(あるいは薄く)切り、酢を基本にした調味料で和えた料理に発展して、「酢の物」とも呼ばれるようになったのです。適当なダシのついた料理、自家製の自分の好みに合った酒と乾物でないと口にしない。薑(はじかみ)は味の濃い料理の口直しとして食べるが、大量には食べない。現代の食通ともよく似ています。ちなみに、「薑」といえば、津山工業高校での講座のあとの懇親会に利用していました。お料理が素晴らしかったです。次第に遠い思い出になりつつありますが、感じを1つ覚えることができたことも嬉しいです。普通、「はじかみ」と言われても漢字で書けませんから。覚え方は「くさいちたいちたいち」です。私も食べ物には要注意です。他の人は大丈夫なのに私だけ食あたりしたことが何度かあります。そのときの体調と関係があるのでしょう。用心、用心!

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論語でジャーナル’25

 リクエストにお応えして、「大菩薩峠」第二部の続きです。↓

 両眼の視力を失った机龍之助はお豊に助けられ、彼女の夫を斬りころすとお豊と二人で伊勢に逃げた。お豊は龍之助の眼の治療代を稼ぐため旅篭・備前屋に女中として住み込みで働くが、ちょうど滞在中の旗本・神尾主膳(山形勲)に眼をつけられて20両の金で慰みものになります。お豊は結核にかかっていてしょっちゅう咳き込みます。主膳に辱めを受けたお豊は、ちょうど主膳の宴席前の庭にむしろを引いて「合の山節」を謡う芸人のお玉(星美智子)のうたを聞きながら、龍之介宛の手紙を書いています。「花は咲けども鳥は飛ぶ。鳥はねぐらへ帰れども、往きて帰らぬ死出の旅…」と悲しい文句が聞こえます。そのあと通りかかったお玉に、お金と遺書に自分の簪(かんざし)を添えて渡して、龍之介に届けてくれるよう頼んで、自害する。遺書を預かったお玉は、届け先の龍之介をたずねて出発しようとした翌朝、折りしも怪盗七兵衛が主膳の有り金ごっそりと印籠まで頂いて逃げたあとで、お玉の愛犬ムクが吉兵衛の落とした主膳の印篭をくわえていたため、犯人と間違えられて追われる。彼女を助けたのは猿のような身軽な曲芸師でお玉の親友・米友(加賀邦男)であった。お玉を逃がした米友は捕り手に追われて捕まり、刑罰として谷底へ突き落とされます。その様子を知った七兵衛は彼を助け出します。自分の罪の身代わりになったのですから。七兵衛が米友をかついて医者を探していると、江戸の玄庵が伊勢参りに来ていて、酒を飲み炉端に酔っ払って寝ているところへぶつかります。米友を玄庵に預けて七兵衛は去ります。
 一方、お玉からお豊の死を知らされた龍之介は、まだかすかにものの形は見えるので、虚無僧姿になって東海道を江戸へ下ります。お玉を追うムクが龍之介のあとをついていきます。
 主膳は法事で実家の浜松へ帰っている妻恋坂のお絹のところでお金を調達してもらい江戸へ向かいます。お絹に「お遊びもほどほどになさいませ」とたしなめられて。お絹の家の前には、女軽業師・お角(沢村貞子)一座が小屋を張って興行しています。通りかかる玄庵と米友。スリ(河野秋武)がすった財布を米友の懐へ入れます。懐の財布に気づいて不審がる米友を御用聞きが咎めます。逃げる米友。お角が身軽に逃げ回る米友を見て、御用聞きに袖の下を渡して、「あれは自分のところの若い衆だ」と言って一座に引き取ります。
 お絹はその様子を見て感心しています。女中をつれて近くの公園にくると、ムクを連れた龍之介が腰かけて尺八を吹いています。音色に感動した浪人たりが「こっちへ来て一曲披露せよ」と迫るのを無視して去る龍之介。怒った浪人たりと立ち回りになりますが、尺八でアッという間にやっつけます。見とれたお絹は自宅へ龍之介を招いた一夜泊めます。ついていったムクは玄関に取り残されて吠えていると、向かいの小屋の米友に見つかり、彼に引き取られます。
 宇津木兵馬とお松は、俊足の七兵衛に先導されながら、龍之介を追っています。龍之介の行方をさぐっては兵馬に伝えます。足の遅いお松のために船も使いながら遠州を東へ向かいます。お玉も独りで東へ向かっていて、お松とときどき出会っては別れています。まだこの二人は無関係です。
 お絹と龍之介はともに駕籠で江戸へ向かいます。途中、遠州掛川の宿に泊まります。七兵衛が先に泊まっいて兵馬とお松を待ちます。スリも一目惚れしたお絹を追って、この宿に泊まり、七兵衛と意気投合して相部屋に泊まっています。お絹を狙って寝室にこっそり侵入して金目を物色しますが、寝ている龍之介が刀を抜いて、畳の上をすーっと左右に探り、スリの足下に触ります。びっくり仰天して逃げるスリ。一計を案じて、二人を「身延山参り」だと偽って駕籠に乗せ、途中でお絹の駕籠を先に行かせて、龍之介を山中へ誘い込んで降ろします。気づいた龍之介は一刀でスリの片腕を切り落とします。龍之介は一人山中をさまよううち、崖から転落して気絶します。そこへ……。

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中国語講座12/14

第25課 動詞の重ね型
「ちょっと~する」「試しに~する」(言葉を柔らかくする)
<フレーズ>
「まずはこれを召し上がってください」
Nin2 xian1 chang2chang zhei4ge.
您想尝尝这个。
 @尝(←裳)=味をみる(食べ物、飲み物に使える)
  ということは、「吃吃」,「喝喝」はあまり使わない。

<重ね型が使われる動詞の例>
#単音節
 看kan4(見る), 试shi4(試す), 走zou3(行く、歩く),
 谈tan2(話す), 找zhao3(探す)
 ※間に「一」が入る場合;看一看
#2音節
 练习lina4xi2(練習),修理xiu1li3(修理),考虑kao3lu4(考慮)

<会話>
あ!こんなにたくさんのご馳走!
A1! Zhe4me duo1 hao3chi1 de!
啊!这么多好吃的!
まずはこれを召し上がってください。
Nin2 xian1 chang2chang zhei4ge.
您先尝尝这个。
では遠慮なく。
Na4 wo3 bu2 ke4qi le.
那我就不客气了。
いかがですか?お口に合いますか?
Zen3meyang4? He2 nin2 de kou3wei4 ma?
怎么样?合您的口味吗?
とてもおいしいです。
Hao3chi1.
好吃。

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論語でジャーナル’25

 今日は「大河ドラマ」です。こちらでご覧ください。↓

http://www2.oninet.ne.jp/kaidaiji/dai1keiji-12-14.html

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論語でジャーナル’25

6,君子、紺緅(かんしゅう)をもって飾らず。紅紫(こうし)もって褻服(せっぷく)となさず。暑に当たりては縝(ひとえ)の絺綌(ちげき)、必ず表して出ず。輜衣(しい)には羔裘(こうきゅう)、素衣には麑裘(げいきゅう)、黄衣(こうい)には狐裘(こきゅう)。褻裘(せつきゅう)は長く右の袂を短くす。必ず寝衣(しんい)あり、長(たけ)は一身有半(いっしんゆうはん)。狐貉(こかく)の厚きもって居る。喪を去(のぞ)いては佩(お)びざるところなし。帷裳(いしょう)にあらざれば必ずこれを殺(さい)す。羔裘玄冠(こうきゅうげんかん)してはもって弔せず。吉月には必ず朝服(ちょうふく)して朝(ちょう)す。

 君子というものは、物忌みの色である紺や喪明けを示す色である赤茶色で衣服を飾ったりはしない。紅や紫といった派手な色が混じった普段着を着ない。暑い季節には、葛(くず)の布目がしっかりした衣服や、布目が大まかな生地の単衣(ひとえ)の上着を、体を隠す下着の上から着るようにしなければならない。(寒い時期には)黒い子羊の毛皮の上に、黒木綿の上着を着る。白色の上着であれば、白の仔鹿の毛皮が合い、黄色の上着であれば、黄色の狐の毛皮が合うだろう。いつも着る毛皮は長いので、邪魔にならないように右の袂を短くしている。寝巻きを着るが、その長さは身長の1.5倍になっている。客人には、狐や狢(むじな)の分厚い毛皮を下に敷いて、その上に座っていただく。喪が明ければ、喪中に外していた装飾品の玉などを再びすみやかに身に付ける。朝服として着る帷裳(いしょう)は特別な仕立てなので、それ以外の服であれば適切な形に裁断する。慶賀のときに着る羔裘(こうきゅう)と玄冠(げんかん)を身に付けて、弔問に訪れるようなことはない。月の初め(一日)には、必ず朝廷の礼服を身に付けて出仕するのである。

※浩→わー!!!この難字にはもう勘弁してほしい。
 君子は孔子を指しているという説もあります。普段着、暑いとき、寒いとき、寝巻き、喪中、喪明け、朝廷に出仕するとき…、あらゆる場面での衣服のあり方が述べられています。こんにちのわれわれの生活では、ここまでの細かい区別は必要ないです。私も在職中は公私にわたって、慶事・弔辞を体験しましたから、礼服を用意していました。でも当然こんなに多種ではありません。礼服は普通、黒のダブルで、オールラウンドで間に合いました。ネクタイだけ慶事と凶事で違います。結婚式のお仲人を何件か依頼されましたが、これもモーニングでなくて黒ダブルでした。在職晩年になって、思い切ってモーニングを作りましたが、これはその後一度も袖を通すことなく、現在も洋服ダンスに眠っています。もったいない。変わった体験としては、岡山工業高校で始めて卒業生を送り出すとき(昭和58年度、機械科)、式に先立って、校長(和田道夫先生)から、「先生方、卒業式にはせめてネクタイを着用して出席してください」と念を押されて、なぜかカチンときて、「ネクタイをしめないで正装はないか」と考えました。そうだ、「紋付袴」だ!父親が残した一式がありましたが、まさか着付けを母に手伝ってもらって、自宅から和服で出勤できないので、以前、妹の結婚式でお世話になった職場近くの「貸衣装屋兼結婚式場」で一式を借りて、着付けもお願いしました。車で1~2分の近距離です。当時の愛車は「フェアレディZ」でしたから、学校の駐車場で羽織袴姿で草履を履いてフェアレディZから降りる姿は、さぞかっこ良かっただろうと、自分では思っています。体育館の総指揮を担当されていたのは、日ごろ親しくさせていただいている体育の佐藤先生でした。私の姿を見られて、一瞬びっくり仰天されたみたいですが、和装の正装ですからそのまま館内へ誘導してくださいました。そうして式は無事に終了しました。翌日、和田校長に呼ばれて、「大森さん、まいりました。あれにまさる正装はありません」と、お言葉をいただきました。日ごろは地味な(と自認)している私ですが、時にこういうサプライズをやらかします。

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論語でジャーナル’25

5,圭を執(と)るときは鞠躬如(きくきうじよ)として勝(た)へざるが如し。上ぐること揖(いう)するが如くし、下(くだ)すこと、授くるが如くす。勃如(ぼつじよ)として戰色(せんしよく)あり。足蹜蹜(しゅくしゅく)として循(したがふ)ことあり。享禮(きゃうれい)には容色あり、私覿(してき)には愉愉如(ゆゆじよ)たり。

 先生が玉(ぎょく)の笏(しゃく)を手に取るときは、背中をかがめて重そうに見えた。笏を上げるときは、両手を胸の前で組むようなしぐさをし、下げるときは誰かに授けるようなしぐさをした。その時の顔色は生き生きとしているが、体は震えおののくような、足は縮まるような気配があり、歩く時は前足に後ろ足が寄り添うようなしぐさをした。
君主より預かった土産物を渡す儀式では表情を整えたが、それを終えた会談では、楽しげだった。

※浩→外国に使節として派遣された時の行動です。孔子が外国に使者となって正式に派遣された記録はないので、孔子自身の行動ではないと言われています。しかし、いつの間にか孔子の行動として伝えられたのでしょう。
 孔子様とは比較にもなりませんが、ぐーーーっと規模を縮小して、せめて私たちが「よそのおうち」を訪問したときの礼儀を考えてみます。この国からマナーが消えてしまったようなお話はしょっちゅうしていますが、それでもごくまれに、きちんと応答される方がいらっしゃって救われます。狭い通路で、こちらが先に端へ寄って待ってあげていると、すれ違われた人がきちんと会釈されたりすると、もうそれだけで心が豊かになります。「江戸仕草」というのがあります。これには異論もあるそうで、現代のあまりにも無作法・傍若無人の日常にあって、見習うべき点も多々あろうかと私は思います。ネットからコピペすると、主な江戸仕草には次のようなものがあったようです。

#傘かしげ
 雨の日に互いの傘を外側に傾け、濡れないようにすれ違うこと。
#肩引き
 道を歩いて、人とすれ違うとき左肩を路肩に寄せて歩くこと。
#時泥棒
 断りなく相手を訪問し、または、約束の時間に遅れるなどで相手の時間を奪うのは重い罪(十両の罪)にあたる。
#うかつ謝り
 例えば相手に自分の足が踏まれたときに、「すみません、こちらがうかつでした」と自分が謝ることで、その場の雰囲気をよく保つこと。
#七三の道
 道の真ん中を歩くのではなく、自分が歩くのは道の3割にして、残りの7割は緊急時などに備え他の人のために空けておくこと。
#こぶし腰浮かせ
 乗合船などで後から来る人のためにこぶし1つ分腰を浮かせて席を作ること。
#逆らいしぐさ
 「しかし」「でも」と文句を並べ立てて逆らうことをしない。年長者からの配慮ある言葉に従うことが、人間の成長にもつながる。また、年長者への啓発的側面も感じられる。
#喫煙しぐさ
 野暮な「喫煙禁止」などと張り紙がなくとも、非喫煙者が同席する場では喫煙をしない。
#ロク
 江戸っ子の研ぎ澄まされた第六感。五感を超えたインスピレーション。江戸っ子(江戸仕草伝承者)はこれで関東大震災を予知したという。
#お心肥やし
 知識・機能を増やすだけでなく心・感性を磨く。
#見越しの仕草
 先を読む。

 昔、お作法と言えば、「小笠原流」というのがあったようですが、最近は耳にしません。どうなっているんでしょうね?これもネットで調べました。

 「小笠原流」と呼称されるものは歴史上いくつか存在し、それぞれ内容、伝えた家系が異なる場合があるので区別が必要である。また、小笠原流の歴史に関しては後世の創作や仮託が広く流布しているため、史実との峻別も必要である。大別すると以下の7種に分類できる。

1,室町幕府奉公衆京都小笠原氏による武家故実、弓術、馬術、諸礼法の流派。
2,江戸時代初期の水島卜也の系統による故実礼法。民間はじめ武家社会にも広く普及した。
3,江戸幕府旗本小笠原氏によるもの。弓馬術礼法小笠原流(小笠原教場)として現在まで継承している。
4,兵法の一流派。室町時代の京都小笠原氏一族とされる小笠原宮内大輔氏隆が祖。
5,煎茶道の一流派。小笠原流煎茶道。
6,旧小倉藩主家である小笠原家総領家に伝わる茶道及び礼法の一流派。小笠原家茶道古流と小笠原流礼法。昭和時代に第32代小笠原忠統によって民間に広まった。

 これには驚きました。単に、「行儀作法」の流派のことかと思っていましたが、もともとは小笠原氏による武家故実、弓術、馬術、諸礼法の流派だったとは。大発見です。

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論語でジャーナル’25

4,公門に入るに、鞠躬如(きつきゅうじょ)たり。容(い)れられざるが如くす。立つに門に中(ちゅう)せず、行くに閾(しきゐ)を履(ふ)まず。位を過すぐれば、色勃如(ぼつじよ)たり、足躩如(かくじょ)たり。その言ふことの足たらざる者に似たり。斉(し)を攝(かかげ)て堂に升(のぼ)るに、鞠躬如(きつきゅうじょ)たり。気を屛(ひそ)めて息せざる者に似たり。出(い)でて一等を降(くだ)れば、顏色を逞(のべ)て、怡怡如(いいじよ)たり。階を沒(つ)くせば、趨(はし)り進すむこと翼如(よくじよ)たり。その位に復(かへ)れば、踧踖如(しゆくせきじよ)たり。

 先生が朝廷の門を入るときは、体を丸くかがめてまるで狭い門をやっとくぐり抜けるように敬虔に見えた。門の前に立つときは、君主の通り道である中央部には決して立たれない。門の敷居を踏まない。君主がいないときでもそこを通り過ぎるときは、君主がいらっしゃるかのように、顔色は改まり、歩き方はためらって緩く、言葉少なくなられる。袴の裾を持ち上げて宮殿にのぼるときは、体を丸くかがめて慎み深く、息を抑えて呼吸しないように見えた。宮殿から出るときは、階段を一段降りると表情はほぐれてやすらかだった。階段を降りきると、少し身をかがめて小走りでするすると進まれる。もとの君主のいるべき地点を通り過ぎるときは、また居住まいを正して恭しくされた。

※浩→フー……。なんという難しい漢字!疲れます(笑)。この条は、孔子が朝廷に出仕したときの孔子の行動を、礼儀作法の典型として記録したものですが、現代では、ここまできちんとした作法を必要とする場所は、宮中以外にはないでしょう。茶道のお作法はこれに近いかもしれません。お茶と言えば、備前高校在任中に、ほぼ毎日訪れては憩わせてもらっていた購買の女性職員・中川さんがお茶の名取さんだったことを思い出します。時々、購買で略式のお点前をいただいていました。彼女の自宅でフルコースの茶会が開かれたとき、そこへ招待されました。当時、親交の深かった藤原光郎先生と窯業科(のち「セラミック科」)の高坂先生(のちセラミック科長)も一緒に招かれました。もうずいぶん昔のことで、記憶が曖昧ですが、お屋敷の門を入るとき杖と笠を渡されました。敷石づたいにお庭を歩いて茶室に着くと、その杖と笠を定位置にきちんと置いて、それから狭い狭い「にじり口」をくぐって室内に入りました。最初は「濃茶」でした。床の間には季節感あふれる掛け軸が、柱には、さすがご当地、備前焼の一輪ざしに水仙が一輪、室内にはお香の香りがただよっています。3人並んで座につきますが、作法をまったく知らないので、ご亭主の中川さんがお客に混じって座ってくださっていて、いちいち教えてくださいました。濃茶というのは、普通いただいているお抹茶(お薄)とは段違いの大きな御茶碗に、まるではったい粉のようにお抹茶をどろどろにこねて、席の端から順に一口ずつ「ズルッ」とすすります。自分の口の当たった場所を懐紙で丁寧に拭って、次席の人に、男性だと手渡しで、女性だと彼女の膝の斜め前あたりに置きます。お茶をいただく前に、お菓子を半分に割っていただきました。残り半分はお茶のあとにいただきます。数人の客全員がいただけるだけの量のお茶を点てていますが、藤原先生とヒソヒソ話で、「もしも途中でなくなったらどうするんだろう」「こっそり唾でも入れて増量するか」……と囁いて笑いを堪えていました。後日談ですが、高坂先生は、このとき隣席に座っていた女性とご結婚されました。濃茶の次は、煎茶です。煎茶は、高校時代につきあっていたガールフレンドの自宅に遊びに行ったとき、彼女に教えてもらっていたので、これにはすんなり馴染めました。煎茶では、お菓子をあとでいただきます。煎茶の楽しみ方は、香・味・辛と言って、まず香りを楽しむのに、先に甘いお菓子を食べていると、感じにくくなるためでしょう。煎茶の席で出るお菓子は干菓子が定番です。いただく御茶碗はお酒を飲むお猪口(おちょこ)くらいのサイズです。黙っていると、何度も何度もふるまわれます。満足したら、御茶碗をお盆の上に逆さまに伏せておくと、「もーいらん」という合図だそうです。お昼ご飯は、別のお座敷で、これぞまことの懐石料理というのをいただきました。お酒もついています。「おちゃけも出るのか」と、また藤原先生とヒソヒソ話。ホロ酔い気分で、午後は「薄茶」をいただいて、なんと、ほぼ丸1日を費やすフルコースのお茶会でした。あれ以来、こういう正式のお茶会に行ったことはありません。懐かしい想い出です。その藤原先生は私より一回りしたですが、今では立派におじいさんです。

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論語でジャーナル’25

3,君召めして擯(ひん)せしむるときは、色勃如(ぼつじよ)たり、足躩如(かくじょ)たり。ともに立れる所を揖(ゆう)するときは、その手を左右にして、衣(ころも)の前後襜如(せんじよ)たり。趨(はし)り進むには翼如(よくじよ)たり。賓(ひん)退ぞくときは必ず復命して曰く、賓顧みずと。

 君主から召されて国賓の接待役を命じられると、顔色は改まり、歩き方はためらい、緩くされた。役を仰せつけられた同列の仲間に挨拶なさるのに、組み合わせた手を左側の人には左に、右側の人には右に上げられ、そのたびごとに衣服の前後をきちんとさばかれた。それから少し身をかがめ、小走りでスルスルと位置につかれた。国賓が退出されると、「お客様の帰りがけのご会釈がおすみになりました」と必ず報告された。

※浩→何とまあ、難字の多いこと!これまでは変換キーで出てこない難字は、自分で一々手書き入力していましたが、さすがにこれほど多いと面倒です。便利な世の中になって、ネットで検索すると、あっという間に「白文」「書き下し文」「現代訳」が出てきました。今回は、書き下し文をネットから拝借して、現代語訳は貝塚茂樹先生から、解説は吉川幸次郎先生から引用しました。
 孔子の時代は、いわゆる春秋列国の時代で、諸侯すなわち多くの大名の君主が各地に分封されていたが、君主たちは、相互の友好を深めるため、君主自身、あるいはその代理としての私臣が、他の国を訪問して、相手の君主の安否をたずねるという、儀礼を行なった。訪問を受けた国では、国賓を接待するため、君主の介添えとして接待役を任命する。それが「擯」です。孔子も魯の家老であったころ、しばしばこの役目を仰せつかった。「色勃如(ぼつじよ)たり」以下は、このときの孔子の挙動です。礼をきちんとわきまえた立ち居振る舞いの様子が丁寧に述べられていますが、現代においてこのような場面を見ることがあるでしょうか?ありました。現・上皇様のご退位とそれに続く新・天皇のご即位の礼です。テレビが普及していない時代には、家庭のお茶の間(←この言葉、ふるー!今は「リビング」ですか)で式典の様子を見ることなどできなかったですが、今は、ごく当たり前に、平安王朝絵巻そのままの伝統儀式をつぶさに拝見することができます。日常生活では、“礼儀作法”という言葉が死語になったのかと思われるほど、無作法が蔓延しています。“作法”というと、茶道・華道・日本舞踊・歌舞伎とかで伝承されているだけで、それ以外では、まさに傍若無人、世間は自己中蔓延状態です。野田先生のお言葉で言えば、「したいことをし、したくないことをしない」という“狂気の社会”とでも言えそうです。学校の卒業式は、不思議なことに古式豊かに行われているみたいです。ごく最近の様子は知りませんが、送辞・答辞などを言う生徒の代表者は事前に、ステージでの作法を手取り足取りで先生から指導されていました。ああいうきちんとした礼法が日常生活ではすっかり忘れ去られています。が、それでも世界的に見れば、日本はお行儀の良い国です。

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