20,疾(しつ)ありて君これを視(み)たもうときは、東首(とうしゅ)して朝服を加え、紳(しん)を施(ひ)く。
先生がご病気で主君がお見舞いに来られたときには、東枕にして礼服を布団の上から掛け、広帯をその上に横に置いていた。
※浩→孔子が病気で君主からのお見舞いを受けたときには、病身で実際に礼服を身に付けられなくても、布団の上からあたかも礼服を着ているような格好にしていたのです。
やはり「かたち」より「こころ」が大事なのです。「巧言(こうげん)令色(れいしょく)鮮(すく)なし仁」と、「学而篇」「陽貨篇」にありましたが、当時の孔子が「かたち」ばかりになっていた「礼」を戒めて、「こころ」のあり方を重んじたことがここでもよくわかります。口先だけうまく、顔つきだけよくする者には、真の仁者はいない。真の人格者はむしろ口が重く、愛想がないということ……、というと「老子」の“無為自然”に近い感じがします。口が重く愛想がないのが「仁」だというのではありません。「中庸」が大事です。
『大学』には「思い内にあれば色外に現る」とあります。心の中で汚いことを思うと、自然に言葉も汚くなり、動作が乱れるが、 心の中で清らかなことを思うと、自然に言葉もきれいになり、動作も無駄のない動きとなる ということでしょうか。発展して、恋をしているときには、恋人を思う気持ちが強ければ強いほど、 その思いが顔の表情に現れてくるでしょう。歌舞伎舞踊の「身替座禅」にこのフレーズがセリフとして使われています。
大名・山蔭右京は、愛妾・花子の許に行きたいが奥方(通称“やまのかみ”)の嫉妬が怖い。そこで座禅と称して一室に閉じこもり、家来の太郎冠者を身替りにして出かけます。途中で差し入れなど絶対にしないようにと言いつけましたが、奥方は我慢できなくて、お茶を差し入れて、太郎冠者が身替わりになっていることを知ります。「おのれ、正直に言えば一夜くらいは出してやらぬものでもないのに」と、騙したことに立腹します。そこで、太郎冠者の代りにカツギを被って右京の帰りを待ちます。右京はほろ酔い機嫌で帰ってきます。そのときのセリフに、「思い内にあれば色(いろ)外に現ると申いてな……」とあります。奥方がカツギを被っているとも知らずさんざん花子ののろけ話をしますが、太郎冠者と思い込んで、カツギをめくると、「冠者にはあらでスックと立ち……」と鬼女の面体で奥方が現れ、右京を追い回します。「ゆるさせたまえ、ゆるさせたまえ」「やるものか、やるものか」と、お馴染みの追っかけシーンで幕となります。六代目尾上菊五郎の残した新しい狂言舞踊で、十七世中村勘三郎さんのが好評で、その息子十八世勘三郎さんも、三代目市川猿之助さんも、関西の片岡仁左衛門さんも演じてきました。もちろんお家元の当代尾上菊五郎さんもたびたび演じています。逆に、賭け事では「ポーカーフェイス」と言うように、こころを見せないようにしないと勝てません。小心者は良い札が回ってくるとすぐ表情に表れて、負けてしまいます。子育てでは、親の子どもに対する態度とこころがずれていると、これを「ダブルバインド・メッセージ」(←ベイトソン。野田先生は、「抱っこパンチ」)と言いますが、子どもはどちらを信じていいか混乱してしまいます。これがひどいと精神的に病むことがありますから、くれぐれも要注意です。
19,君に侍食(じしょく)するに、君祭れば先ず飯(はん)す。
主君と食事の席をご一緒したときには、主君が祭祀として神に食事を捧げられると、孔子は先に食事に手をつけられた。
以下は↓
http://www2.oninet.ne.jp/kaidaiji/dai1keiji-12-27.html
18,君、食を賜うときは、必ず席を正してまずこれを嘗(な)む。君、腥(なまぐさ)を賜うときは、必ず熟(に)てこれを薦(すす)む。君、生けるを賜うときは、必ずこれを畜(やしな)う。
君主から食べ物をいただくと、必ず居住まいを直してまず毒味をされた。君主から生肉をいただいたら、必ずそれを熟(に)て、祖先の廟に供えられた。生きた牛・豚・羊などをいただいたときは、必ずそれを飼育した。
※浩→君主から孔子の自宅へ下賜のご馳走が届くと、必ず席(座布団)の位置を正して、自分がまず毒味をしました。それから家族に分け与えます。生肉は必ず煮て廟にお供えし、生き物だと次の祭祀の日に屠(ほふ)るまで飼育したのです。君主からの贈り物ですから、細心の礼を尽くしながらも、やはり口に入るものへの用心は怠らなかったのです。現代は、食輸送過程の衛生管理がほぼ完璧で、しかも各家庭の冷凍・冷蔵能力が優れていて、孔子の時代のような苦労は必要なくなり、ありがたいことです。
よそのおうちからのいただき物があると、母は必ず、まずお仏壇にお供えしていました。子ども私たちもそれを見倣って、今でも、そうしています。親のしていたとおりを子どもはします。私がそのことを最も痛感するのは洗濯物のたたみ方です。カッターシャツやTシャツやソックスは、母がたたんだのとまったく同じようにたたんでいます。「モデル効果」です。前にも書きましたが、物をきちんとまっすぐ置くのは、父親にそっくりです。親の影響力は絶大です。惜しいのは、「夫婦和合」のモデルを直接目の辺りにすることがなくて、これは自分たち夫婦に活かせませんでした。NHKの朝ドラに「はね駒」というのがありました。斉藤由貴さん主演で、お母さん役は樹木希林さんで、お父さん役は小林稔侍さんでした。由貴さんの妹が嫁ぐとき、父親の稔侍さんが、「おっかさまのとおりにやればいい」と言っていました。ところが、嫁ぎ先で姑にこき使われて早く亡くなってしまいます。あの姑役をした女優・○村○子さんが、今でも憎たらしいです。それだけ名演技だったということですが。子どものころ、東映時代劇に夢中でした。当時、悪役の代表は進藤英太郎さんと山形勲さんでした。そのお二人がときどき「良い人」をやります。そのときはたいていどちらもコミカルな役で、とても嬉しくなります。アドラー心理学のお勉強をしていて、最近「フレームワーク」というのを学びました。お芝居の舞台上での悪人はほんとの悪人でなくただ演じているのですが、観客にはほんとの悪人に見えます。もしも道で出会ったら、石を投げるかもしれません(笑)。
17,厩(うまや)焚(や)けたり。子、朝(ちょう)より退(しりぞ)きて曰く、人を傷(そこ)なえりやと。馬を問わず。
孔子の家の馬小屋が火事で焼けた。朝廷の会議に出席した先生は退出してから、「怪我した人はなかったか」と言われただけで、馬のことを言われなかった。
※浩→孔子は重臣ですから、馬車を引かせる馬を入れる厩を持っていました。その厩が火事で焼けました。折から孔子は朝廷に出仕していましたが、帰ってくると、「人に怪我はなかったか?」とだけたずねて、馬がどうなったかはたずねませんでした。孔子が合理的な人道主義者であることを示しています。まず、人は大丈夫かとたずねて、そのあと馬はどうだったかとたずねた、と訳す説もあるそうですが、これではインパクトに欠けます。吉川先生も貝塚先生も触れられていませんが、私は、有名な落語「厩火事」を思い出します。
髪結い(床屋)のお崎が亭主とまたケンカしたということで、仲人の家でグチを言います。その亭主というのは仕事もしない怠け者で、文字どおり「髪結いの亭主(妻の働きで養われている夫)」です。仲人もその亭主に始終小言を言っていますが、一向に怠け癖が直らない。旦那はお崎に「もう諦めて、別れろ」と言いますが、お崎は「別れない」と言い張る。お崎は心の底では亭主に惚れ抜いているのです。でも、亭主が自分のことをどう思っているかについては、お崎は不安で仕方がありません。ここで旦那が故事を話します。
「昔、中国に孔子という偉い人がいた。孔子が出かけているとき、厩から火事が出て、孔子が大切にしている白馬が焼死した。孔子は勤めから帰って、白馬のことはまったく気にかけず、弟子たちが無事であったのを喜ぶだけだった。弟子たちは自分たちのことを思ってくれる孔子を、以前にも増して敬愛するようになった」。
もうひとつ、これは江戸の話だが、高級な焼き物に凝っている麹町(こうじまち)に住む旦那がいた。その妻が、旦那が大切にしている皿を持ったところで立ちくらみ、ドスンと尻餅をついたが、なんとか皿は守ることができた。この旦那は妻のことは眼中になく、皿のことだけを気にした。あくる日、妻はいなくなっていた。この夫婦の仲人がやってきて、娘を大切にしない家にこのままいさせることはできないと、妻の実家から離縁の申し出があった。
お崎はこの話を聞かされ、亭主の気持ちを試してみようと決意しました。お崎の亭主も、その価値はグッと下がるものの、皿を集めていたのです。長屋に帰って、亭主が大切にしている皿を本当に割りました。「ケガはないか」と駆け寄る亭主。お崎は、亭主が自分のことを大切にしているとわかって喜びます。「ありがたいよー」。お崎「お前さん、あたしのことが心配?」。亭主「当たり前だ。お前にケガされたら、明日から酒が飲めねえや」。
『論語』は日本の落語のネタにまでなっています。
16,康子、薬を饋(おく)る。拝してこれを受く。曰く、丘(きゅう)いまだ達(さと)らず、敢(あ)えて嘗めず。
季康子が薬を孔子に贈った。先生はこれをお辞儀をしていただいて言われた。「私はまだその効能をよく存じませんので、服用はできません」。
※浩→康子は魯の筆頭家老・季康子。「饋(き)」は「人にものを贈与すること」です。家老から薬草を贈られて、「効能がわからないから服用できません」と率直に断ったと、朱子は解釈します。古注では、「薬にはいろいろな中毒があり、薬効がわからないから服用できかねる」というのが、礼の作法だと解されています。貝塚先生は、孔子の婉曲な外交辞令のやりとりが面白いと、解説されます。
お腹に入れるものを贈られたら、このように慎重でありたいです。ドラマや映画では、疑いもしないで服用してよくやられていますが、賢い人は、飲んだフリをしてこっそり処分したりしています。
女子大生がタリウムでさつ害された事件があります。京都市の立命館大3年・浜野日菜子さん(21)が毒性の強いタリウムの摂取によりさつ害されたとされる事件で、さつ人容疑で逮捕された不動産会社経営・宮本一希容疑者(37)が、浜野さんの体調が悪化する直前、浜野さん宅で一緒に飲酒していたことが捜査関係者への取材でわかった。タリウムの粉末は水に溶けやすく無味無臭で、大阪府警は、宮本容疑者が気づかれないようタリウムを混ぜた酒を飲ませたと判断していました。
孔子のように、送り主への礼は尽くして、引用は断るという対処法は大いに見倣いたいです。私は、なるべくなら薬を使用しないで生活したいのですが、定年退職のころから血圧が高くなって、降圧剤を常用するようになりました。最初はブロプレスという薬だけ服用していて、「上」は正常値に下がりましたが、「下」がなかなか下がらないので、途中からアダラートというのを加えました。とたんに「下」も正常になり、以後長らくこの2種類を引用していました。その後、近所のクリニックに「かかりつけ」を替えたため、お薬の銘柄は変わりましたが、こちらも効き目はよくて安定しています。ずっと飲み続けないといけないのが少し煩わしいですが、健康に生きるには不可欠ですから続けています。この近所のクリニックは先生が若く、お話が上手です。3年ほど前に、痛風にかかったときお世話になっていらいのおつきあいです。ネットで予約もできるので、毎月決まった時刻に通院しています。挨拶に続いて私が近況を述べるのを聞いてくださって、有効なお薬を処方してくださいます。しかもありがたいことに、このクリニックではお薬も診断時に院内で出してくれますから、別の場所にある薬局へ行かなくてすみます。ありがたいです。「よくお話をきいてくださるお医者さん」は、頼りがいがあります。
15,人を他邦に問えば、再拝してこれを送る。
他国の友人に対して使者を派遣するときには、出発の際、再拝して(手土産を持たせ)送り出した。
※浩→「人を他邦に問う」というのは、他国の友人のところへ使者を派遣することです。使者は自分より目下の人であったでしょうが、その出発には必ず二度お辞儀をして見送りました。これは使者に対する敬意もありますが、遙かな友人に対する敬意でもありました。使者を送るといえば、大好きな詩があります。王維の「元二の安西に使するを送る」です。高校の漢文の授業でも習いましたが、実感は湧きませんでした。お酒を飲み交わす友人ができてからは、しみじみ感動するようになりました。
渭城(いじょう)の朝雨(ちょうう)輕塵(けいじん)を潤す
客舎(かくしゃ)青青(せいせい)柳色(りゅうしょく)新たなり
君に勧む更に盡くせ一杯の酒
西の方(かた)陽關(ようかん)を出ずれば故人(こじん)無からん
渭城の町には朝の雨が降って、軽い砂ぼこりをしっとり濡らしている。旅館の前の柳は雨に洗われて、青々とした葉の色を見せている。さあ君、ここでもう一杯酒を飲みたまえ。西の方、あの陽関を出てしまえば、もう共に酒を飲み交わす友もいないだろうから。
*元二…元は性、二は次男
*安西…安西都護府。今の新疆省
*渭城…長安の、渭水をはさんだ対岸の町
*客舎…旅館
*青青…柳の葉の青いこと
*陽関…南の関所
*故人…友 (日本では「死者」です)
使者を送って途中の旅館で最後の別れを惜しんで、お酒を飲み交わしている場面でしょう。「さ、いよいよお別れだ。もう1っぱい飲みほしたまえ。陽関の関所を出れば、もう飲み交わす友人もいないのだから」。ここで、私はジーンと胸が熱くなります。日本では「会者定離(えしゃじょうり)」と言われますが、執着を離れるのはなかなか困難です。
14,郷人の儺(おにやらい)には、朝服して阼段(そかい)に立つ。
村人の疫病神を追う行列が門内に入ってくると、朝廷に出る礼服をつけて、わが家の宗廟の正殿の東寄りの階段のもとに立って迎えられた。
※浩→「儺(おにやらい)」は日本の節分の夜に行われる追儺(ついな)、疫病神の鬼を追う行事のことです。年末の他に、旧暦の三月、十月にも行なったそうです。その行列が村中を回るとき、孔子は朝服、つまり宮中に出仕するときの第一公式の礼服を着て、わが家の祖先を祀った宗廟の正殿の東寄りの階段のもとに立って、これを迎えられた。儺は結構な風俗ながら、自分の家の先祖の神霊をびっくりさせてはいけないから。というのは古注です。新注では、一種のバカ騒ぎの祭である儺を、孔子はインテリとして侮蔑しないで、礼服を着て宗廟の前に立つことによって、村人に協力したのだとしています。
鬼についてネットから少し借用します。
日本の鬼の原像は「なまはげ」「スネカ」などの来訪神に見られると指摘されている。また古来、鬼は超人や自然地形を創造した神のような存在として描かれることもあり、オニとカミは同一だったとの説もある。その後中国の亡霊の類を指す「穏(おん)」の音変化として“隠れて見えないもの”という中国系の鬼と結びつき物怪一般を指すように変化し、仏教や日本の陰陽道などの影響を受け、今の日本人の妖怪としての''角の生えた「オニ」''のイメージが生まれたと一説に考えられている。
鬼神という語は中国より伝来したもので、その意義は多様である。祖先または死者の霊魂をいうが、幽冥界(ゆうめいかい)にあって人生を主宰する神ともされており、さらに妖怪変化(ようかいへんげ)ともみられている。中国の古典、たとえば『礼記(らいき)』には鬼神が天地、陰陽(いんよう)あるいは山川と連想されたり、併称されたりしている。そして鬼神を祀ることが礼であるという。この鬼神の語がわが国に移入されたのであるが、鬼は一般に妖怪のように悪者とされている。
中国での狭い意味では、鬼は先祖の霊ですから、悪者ではありません。日本には、怨みをを抱きつつ亡くなった人が鬼になったという物語はたくさんあります。その中でたびたび鬼よりも人のほうが悪いことがあります。安達ヶ原の鬼女、大江山酒呑童子、茨木童子……。岡山では温羅(うら)が有名です。温羅は古代吉備地方の統治者で、「鬼神」「吉備冠者(きびのかじゃ)」という異称があり、吉備津彦命(きびつひこのみこと)に退治されたと言われます。この鬼退治伝承は桃太郎のモチーフになりました。
安達ヶ原の鬼女は、謡曲から歌舞伎にも取り入れられました。初代・市川猿翁が猿之助時代に、欧州からバレエの手法を取りいれて、「黒塚」という舞踊劇に仕上げました。澤瀉屋に代々継承されています。場面は奥州安達原(福島県二本松市)。広い芒(すすき)の野原にぽつんと一つの家が建っていた。そこに棲む老女は、諸国行脚の僧・阿闍梨祐慶(あじゃりゆうけい)の一行に宿を貸す。僧たちに求められて糸を繰る業(わざ)を見せ、糸繰り歌に託して哀れな身の上を語る。父が罪を犯して陸奥をさすらい、やがて夫となった人には捨てられた。だから怒りと哀しみのうちに世を呪い、人を恨むようになったので来世の望みがないのだと。祐慶は老女に向かい「どんな悪行を重ねた者でも仏の教えに従えば、来世は救われる」と仏の道を説いた。老女は自分も救われるのだと知ってたいそう喜び、僧たちをもてなすために夜道を薪を取りに出かける。そのとき奥の一間は決して見ないようにと言い残します。ところが僧たちが勤行をしている間に、一行の強力(強力=荷物持ち)が好奇心を抑えきれず、「決して見るな」と言われていた一間を覗いてしまうと、そこには死骸の山。老女は人を喰らう鬼女だったのです。
場面は替わって、一面の芒(すすき)の原。集めた薪を背負ってきた老女は、僧の教えに心の憂いが晴れて清々しい気持ちです。老女を大きく照らす月を眺めて浮き立つ思いを抑えきれずにひと踊り。わらべ歌で月と戯れ、やがて自分の影法師と追いつ追われつするなど、童心に返って踊る(長唄に加わり箏曲の伴奏が入って、いっそう雅=みやび)。そこへ逃げてきた強力は恐怖に顔をゆがめています。その様子から、あれほど戒めていた一間を見られたと悟り、老女は鬼女の本性を顕して、強力を通力で翻弄して姿を消します。
さらに場面は替わり、芒原の別の場所。祐慶らが鬼女を退治しようと勇み立っているところへ、鬼女が姿を現す。僧たちの背信に怒りを露わにし、彼らを一口に喰い殺そうと襲いかかる。音を立てて数珠を揉み念誦する祐慶たちと、髪を振り乱し凄まじい形相となった鬼女との激しい立廻りの末、高僧の法力で、ついに老女は力尽きて祈り伏せられます。
なるほど、これでは誓いを破った人間のほうが悪いです。
13,郷人の飲酒に、杖つく者、出ずれば、斯(ここ)に出ず。
村人の酒盛りでは、六十歳以上の老人が杖をついて退席されるのを待って退席される。
※浩→「郷」は村落共同体。郷ひろみさんではありません。村人たちは、時期を決めて、公民館で宴会を開きました。それが「郷里人の飲酒」です。この儀式の主たる意味は、有能な若者を弁別することにあると言われました。もう一つは、敬老会的な意味です。宴会の儀が終わり、一同が退出するとき、杖をついている老人が退出すると、孔子はそのあとから退出し、老人に対する敬意を表しました。中国の杖は、日本のステッキのように短くなく、身の丈ほどの杖です。京劇に見られます。日本では西園寺公望がついていたとか。チャップリンが映画の中でついているのは、短いスッテキでした。三つ揃いのスーツと山高帽とステッキは紳士の身だしなみでした。
昔は、老人が杖をつく姿はごく当たり前のように見られました。最近は、腰の曲がった老人を見ることはほとんどなくなり、また、杖をつく人も少ないようです。私もとっくに80歳を越えましたが杖は不要です。近所のスーパーマーケットに買い物に行くおばあさんは、たいてい乳母車(おっと、“ベビーカー”だそうです)を押して歩いています。日本語で乳母車と言えばいいのにわざわざカタカナ言葉で言うことはないと思います。「乳母(うば)」がほとんど死語になっているのでしょう。現在のような良質の人工乳が得られない時代には、母乳が出にくいと乳児の成育の妨げになり、最悪の場合はその命にも関わりました。そのため、皇族・王族・貴族・武家、豊かな家では、母親に代わって乳を与える乳母(うば、めのと)雇いました。歌舞伎の名狂言『伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ)』には幼い城主・鶴松に政岡という乳母(めのと)がいました。彼女は、城主が毒殺されるのを防いで、年を同じくする自分の一子・千松を犠牲にします。これはしょっちゅうお話ししています。武家社会は、幼子受難の時代でした。また、身分の高い女性は子育ては自分ですべきではないと考えられ、しっかりした女性に任せるほうが教育上良いと考えられました。で、母親に代わって子育てを行う女性も乳母と言われました。商家や農家などでは、母親が仕事で子育てができない場合に、年若い女性や老女が雇われて子守りをすることがあり、この場合は「ねえや」とか「ばあや」と呼ばれました。ドラマや映画によく出てきます。ところが、これも最近は「ベビーシッター」と言いますか。いやはや日本語がどんどん滅びていくのは愉快ではありません。
中国のこの「郷人飲酒(郷飲酒礼)」は日本の「敬老会」のルーツでしょうか。年に一度の「敬老の日」だけでなく、普段から敬老を心がけてほしいものです。「敬老会」はカタカナ言葉で何と言うんでしょうか?
12,席正しからざれば、坐せず。
座布団は、まっすぐ向いていないと座られない。
※浩→今の中国の人は椅子を用いますが、これは唐のころから起こった風習だそうです。それまでは今の日本人のように、座っていました。孔子のころもそうでした。ただ、今の日本と違うのは、今の日本では、床板の上に畳が敷き詰められていますが、古代中国では、座る場所だけに畳が置かれ、座る場所が移るに応じて移動したそうです。それが「席」でした。席の材料は草のことが多いですが、竹もありました。天子諸侯など身分の高い人は、三重に重ねた座に座り、大夫と士は二重でした。
その席が正しくないと座らないというのは、畳の位置がきちんとした方向に向いていなければ座らない、というふうに読めます。それだと孔子は非常な潔癖家だということになります。吉川先生はそうではないとおっしゃいます。座る前に畳の位置をきちんとするのが、当時の礼儀であったため、きっときちんと向きを直してから座り、そうしないうちは座らなかったのだと。「席は正さざれば坐せず」と読むほうが適切だろうとおっしゃいます。
これはまるでうちの父のようです。父は非常に几帳面できれい好きでした。身の回りのものは必ずまっすぐ置いていて、誰かがさわって少しでも曲がっていると、怒って直していました。机の引き出しの中のものも、すべてまっすぐで、中に1つだけワザと傾けているものがありました。もしも誰かが触ったら、必ずまっすぐに戻すでしょうから、それを父が見たら、触られたということがすぐにわかります。こういう几帳面な行動様式はすべてといっていいくらい、ほぼ神経症的に私が受け継いでいます。今もわが家の中は、すべてのものがまっすぐです。少しでもゆがむと、私は無意識のうちにまっすぐ直しています。父から踏襲した大切な洋式だと思って、この線で生きていくでしょう。自分がそうするだけで、他の人には強要しないからいいでしょう。そういえば、小津安二郎監督の映画の場面では、置かれた小道具類がすべて「まっすぐ」でした。小津監督も父のような人だったのかもしれません。
11,疏食(そし)と菜羹(さいこう)と瓜と雖えども、祭るときは必ず齊如(さいじよ)たり。
粗末なご飯、野菜のスープ、瓜であっても、神にお供えするときには、厳粛な態度をとった。
※浩→ここは貝塚先生の解説はありません。吉川先生は、次のように解説されます。ここでの「祭る」というのは、すべてのものを食べるとき、その一部分をつまんで皿の外に置き、昔初めてその食物を食べることを思いついた人に、敬意を捧げることである。わが国の「初穂を取る」という風習と、相通ずる。敬虔な孔子は、いかなる食べ物に対しても、それを行なった。
日本の初穂は、秋の稲の収獲に先立って神に献じる熟した稲穂のことだとネットにありました。多くの神社で今も行われているそうです。そういえば、私が子どものころ、田舎の家に仏壇がありましたが、神棚もありました。母は、どちらへも厳重にお供えをしていました。朝は、家族が食卓に着く前に、お仏壇にご飯をお茶を供えて、鐘をチーンとならして、合掌していました。神棚にもお供えをして柏手を打っていました。お料理を家族のためにお皿に盛り付けるとき、確か、少量を皿の外に置いて、「これは神様の」と言っていたようないなかったような。知らんけど(笑)。その後、私が就職して、実家を離れて借家住まいになると、神棚は置けなくてお仏壇だけになりました。そのお仏壇には、今は、私が5歳のとき10歳で亡くなった兄と、私が23歳のとき亡くなった父と、私が54歳のとき亡くなった母が祀られています。普段は長子となった私がご先祖供養をしていますが、妹が帰省すると、たくさん手伝ってくれます。特に、お盆提灯の組み立ては器用な彼女がずっと担当していて、不器用な私はしたことはありません。毎朝、ご飯とお茶をお供えして、鐘をチーンと鳴らして、合掌して、南無妙法蓮華経とお題目を唱えます。檀那寺の住職の読経の節回しを真似て、「なむみょうほうれんけきょう、げーきょうなむみょうほうれんげーきょう、なむみょうほうれんげー、きょうなむみょう……」とやって、1人で笑っています。バチ当たりです。最もありがたいと言われる「方便本品(ほうべんぽん)」の経本はありますが、ほとんど唱えることはなく、きちんと暗記している「般若心経」を口ずさんでいます。お経には違いないから許されるでしょうね。アニメの「一休さん」をテレビで観ていると、安国寺で唱えられているお経はいつも「般若心経」です。他にもお経はあるはずなのに、どうなっているんだろうかと、ひとりで不審がっています。ま、いいけど。