24,子曰く、法語の言(げん)は、能(よ)く従うことなからんや。これを改むるを貴しとなす。巽与(そんよ)の言は、能く説(よろこ)ぶなからんや。これを繹(たず)ぬるを貴しとなす。悦(よろこ)びて繹ねず、従いて改めざるときは、吾これを如何ともする末(な)きのみ。
先生が言われた。「古典の格言をひいて忠告されれば、誰でも従わない者はあるまい。しかし、ほんとにその言葉によって行いを改められるかどうかが問題である。やさしい言葉だったら、誰でも心から気持ち良く受けずにはいられまい。ただ、その意味をよく考えてみるかどうかが問題である。気持ち良く受けながら、その正しい意味を考えてみない者、うわべは言葉に従いながら、実際は行いを改めない者、そんな者は、自分もまったく処置のしようがないではないか」。
※浩→吉川先生は、「法語の言」も「巽与(そんよ)の言」も、具体的にはよくわからないとされながら、まあ、「法語の言」は、権威ある教訓の言葉で、「巽与の言」は、おだやかな厳しくない言葉であろうとかれている。いずれにしても、それらの言葉を受け入れても、実行されないなら、処置なしだと、孔子は述べているようです。
言葉と行為についての格言に「有言実行」というのがあります。逆に「不言実行」というのもあります。「有言実行」は、目標などを口に出すことで、実現への意志を強く持つて成し遂げることでしょう。「不言実行」は、誰にも言わずに成し遂げることを意味しています。日本では、禅宗の影響か、武士道の影響か、「沈黙は金(きん)なり」と言われます。「沈黙は金」というのは、「沈黙は価値あることだ」という意味ですが、「ただただ黙っていることがよい」という意味ではないようです。日本では、思っていることを敢えて口に出さなかったり、空気を読んだりすることを良しとする風潮が根強いのですが、本来は「沈黙は金なり、雄弁は銀なり」と続くそうです。これは「沈黙することは、時に、雄弁にも勝る」という意味です。つまり、「状況によっては黙っているほうがよい」という意味であって、単に「沈黙は美徳」ということではないようです。「時は金(かね)なり」というのがあって、「きん」と「かね」を混同しがちです。
歌舞伎には「だんまり」という手法があります。人気(ひとけ)のない山奥や川端、海辺でその芝居の主要な登場人物が、真っ暗闇の中を手探り状態で宝物などを探り奪い争う様子を見せます。無言でゆったりとした下座音楽(BGM)に乗せて、様式的な動きを見せるさまは歌舞伎美の極地と言えます。面白いのは、真っ暗なはずなのに、舞台は明々と照明が当たっているんです。真っ暗だと観客に見えませんから、明るくしないといけません。『四谷怪談』では、「砂村隠亡堀の場」が有名です。おっと、脱線はダメ!
話を元に戻します。「憲問篇」に、「子曰わく、君子は其の言の其の行(こう)に過ぐるを恥ず」とあります。「人格者はその言動がその行動を上回る事を恥じる」という意味で、言葉と行為のバランスを的確に説明しています。野田俊作先生は、「言ったことは必ず実行、実行しないことは言わない」とおっしゃいました。これは信頼関係を築く上でとても大切です。親や教師が子どもたちから信頼されないのは、これと反対の「実行しもしないことを言うとか、言ったのに実行しない」からでしょう。肝に銘じておきたいです。うちの母は、よく「あの人は伊左衛門じゃ」と言っていました。今の人には意味不明でしょう。「口で言うだけで実行しない」という意味ですが、どうしてこれがそうなるのでしょうか?ここは脱線します(笑)。もとは歌舞伎です。「廓文章:吉田屋」という上方歌舞伎があって、その主人公が、「夕霧太夫」と「藤屋伊左衛門」です。放蕩の末、家を勘当された藤屋の若旦那・伊左衛門は、紙衣(かみこ:紙製の着物)姿に身をやつして、なじんだ恋人・夕霧太夫に逢いたさに、大坂新町の吉田屋へやって来ます。吉田屋主人喜左衛門、おきさ夫婦の好意で、座敷へ通された伊左衛門は長い時間待ったのちに夕霧と面会しますが、伊左衛門は恋しいはずの太夫にわざとつれなく当ります。嘆く夕霧。太鼓持ちの取りなしで伊左衛門が機嫌を直すと、藤屋の番頭が若旦那の勘当が解かれたことを告げにきて、晴れて伊左衛門と夕霧は夫婦となるのでした。このお芝居の演題を歌舞伎通の人は、「吉田屋」と言わないで、主人公の名を並べて「夕霧・伊左衛門」と言っていました。ここから「口先で言うだけ」つまり「言うぎり」→「夕霧」→ここで相手の「伊左衛門」に転じます。で、口で言うだけの人のことを「イザエモン」と言うようになりました。ついでに、歌舞伎では、よく主人公の名前を並べて呼びます。「お染久松」「梅川忠兵衛」「お半長吉」「お夏清十郎」「お俊伝兵衛」……。このへんでやめておきます。
23,子曰く、後生(こうせい)畏(おそ)るべし。焉(いずく)んぞ来者の今に如(し)かざるを知らんや。四十五十にして聞こゆることなきは、これまた畏るるに足らざるのみなり。
先生が言われた。「若い人は恐るべきだ。これから出てくる人が現在の自分たちほどになれないと誰が言えようか。40歳、50歳になって、世間に少しも知られないようでは、これはまた恐れる(畏敬する)に足りない(値しない)。
※浩→孔子が、人間は常に進歩の過程にあると信じていたことを示しています。「後生」は“後に生まれた者”つまり、後輩・青年のこと。「先生」はこれの対比だとよくわかります。日本で「先生」はteacherのことですが、中国では、先生は「男性を呼ぶときの“さん”」で、teacherの意味の先生は「老師 lao3shi1」です。
古い解釈では、「青年」は具体的に顔回を指しているとしていますが、そうする必然性はないと言われています。
魯に帰った晩年の孔子が、周囲の40歳以上も年少の、子游・子夏・子張・曽子などに対して言った言葉でしょう。彼らはたいてい20歳代で、まさに「後生」です。「40,50になるまでしっかり学びなさい」と諭したのだと考えると、すっきりします。朱熹の「偶成」に「少年老いやすく、学なり難し」とあります。詳しくみると、
少年老い易く学成り難し
一寸の光陰軽んず可からず
未だ覚めず池塘春草の夢
階前の梧葉已(すで)に秋声
(人間の)青年時代は(時の経過が早く)いつのまにか年老いた時を迎えがちなものであるが、(それに反して)学業はなかなかに成就しないものである。それゆえ若い時代には、わずかな時間でもゆるがせにしてはならない。池のほとりの堤に萌え出る若草のような、青年時代の夢がまだ覚めきらないうちに、階段の前の青桐の葉は、はやくも秋風に吹かれてさびしく音をたてて散っているのであるから。
日本では、『徒然草』第四十九段に、「老(おい)来りて、始めて道を行(ぎょう)ぜんと待つことなかれ。古き塚、多くはこれ少年の人なり。はからざるに病(やまひ)を受けて、たちまちにこの世を去らんとする時にこそ、始めて、過ぎぬる方(かた)の誤れることは知らるなれ。誤りといふは、他のことにあらず。速やかにすべきことを緩くし、緩くすべきことを急ぎて、過ぎにしことの悔しきなり。その時悔ゆとも、かひあらんや。……」とあります。
老いがやって来て、そのときに、はじめて仏道を修行しようと待っていてはならない。古い墓は、大部分が年少で死んだ人のものなのである。このように、人はいつ死ぬかわからないのであるから、思いがけず、病気にかかって、にわかにこの世を去って死にゆくときに、やっと、今まで過ぎ去ってしまった期間の間違っていたことが自覚されるものなのだ。その間違いというのは、ほかのことではない。速くしなくてはならないことをのんびりと後回しにし、いつやってもよいことを先に急いでやって、生涯を経過してしまったことであって、それが、死に際に後悔されるのである。しかし、そのときになって後悔しても、何の効果があろうか。
私にも、「後生畏(おそ)るべし」に該当する方が2人がいらっしゃいます。おひとりは、備前高校でボート部を私の転勤後、受け継いでくださった藤原光郎先生です。もうおひとりは言うまでもなく、アドラー心理学の後継者・児玉先生です。児玉先生については、たびたびお話していますので、今回は藤原先生を懐古します。彼は年齢は私より丁度ひとまわり下の巳年です。私は1973年に備前高校に赴任した当初の何年か生徒課の交通指導係に所属されました。藤原先生は、前年に大阪の学校を卒業されて、母校の備前高校に赴任されて、私と同じ交通指導課の配属になりました。若くてハンサムな彼は、学校中のアイドルで、しかも種々の免許をお持ちで、多方面で活躍できるオールマイティーの先生でした。交通指導係では、彼が最年少、その次が私ですから、何かと気が合い、一緒に遊ぶようにもなりました。もちろん真面目な遊びです(笑)。この出会いが、彼をボート部に結びつけ、私はわずか7年備前高校に在職して、それから岡山工業高校へ転勤しました。藤原先生は、その後ずっと備前高校でボート部顧問をされて、のちに東岡山工業高校へ移られてからも、県の漕艇協会の役員を続けられ、2005年の岡山国体の幹部役員をされたあと、定年退職されました。私がわずか7年のボート部顧問歴なのに対して、彼はその数倍もの長きにわたって、県のボート界を支えられました。縁は異なモノで、相棒児玉先生も2002年に備前高校へ赴任されましたが、ここにはラグビー部がなくて、ボート部の顧問になられて、そこで藤原先生と2年間ボート部顧問をなさいました。人のご縁というのは不思議なものです。「対人連鎖」なんていう変な造語を作りました。ネットワークというとカッコいいですが、やはり東洋風に「ご縁」というほうが響きがいいです。仏教のキー概念は「縁起」ですから。
22,子曰く、苗(なえ)にして秀(ひい)でざる者有り。秀でて實らざる者有り。
先生が言われた。「苗には花が咲かないものがある。咲いて実らないものがある」。
※浩→教育による人間の才能の開発は難しいということです。孔子は穀物の苗に喩えて、その難しさを象徴しています。若いときの秀才、中年の活動家で、学問を大成させることができない者がどんなに多いことだろう。これも、顔回の死を惜しんで言われたとされます。
このお話はたびたび登場しますが、野田俊作先生は、アメリカ留学中にでしたか、ジョニーと呼ばれたそうです。ある講演会の質疑応答で、「本当ですか?」と質問されて、次のように応えられました。「ああ、ジョニー・アップルシードね。Johnny Appleseed(1774年~1845年、本名=John Chapman)は、アメリカ合衆国初期の開拓者の1人であり、実在した人物です。西部開拓期の伝説的人物の1人として、現在もさまざまな逸話や伝説で語り継がれています。マサチューセッツ州レミンスターに生まれた彼は、成人すると、リンゴの種を携えて西部の開拓地一帯(当時の西部なので、現在のアメリカ東部から中西部に当たる)を回り、エマヌエル・スヴェーデンボリの著書を手に新エルサレム教会(英語版)の教えを説きながら、オハイオ州、インディアナ州にリンゴの種を植えて回ったと言われています。アメリカの伝説的な英雄となるりんご作りの名人です。私も、こうしてアドラー心理学の種を播いています。あまり育ちませんが」(笑)。
私は、ありがたいことに、野田先生から二度ほど注目されたことがあります。一度目は、1993年の「京都総会」です。その前年にカウンセラー資格を取得していて、この総会にシンポジストとして晴舞台に出していただきました。私の出番の前日のシンポジウムで、野田先生がお話の流れの中で、「岡山の大森さんは、新幹線で毎月、私のところ(アドラーギルド)へ学びに来られます。これが本当の姿です。みんな私を各地へ呼びますが、大森さんのように自分が私のところへ来るのが本当です」と。会場の京都西本願寺門徒会館のフロアに私の名前が知れ渡りました。おかげで翌日の私が出るシンポジウムに堂々と登場することができました。二度目は、その翌年・1994年夏に、アドラーギルドで開かれた「カウンセラー養成講座」を再受講したときです。北村さんという女性の参加者が、「野田先生が大森さんのことを、西の“養成講座優等生”とおっしゃっていましたよ。東は東京の伊東毅さんです」と伝えてくださいました。何だか気恥ずかしくて、穴があったら入りたい心地でした。この年の養成講座も、参加者のどなたとも懇意にしていただいて、実りの多い講座でした。日本では、「謙譲の美徳」というのがありますが、自己評価が低すぎるのは健康なパーソナリティーとは言えません。自分の地道な学びの努力が、こうして評価していただけたのだと思うことにしました。
「秀でて實らざる者有り」は実感があります。ここ10年以内に私たちの学びの場にいた20歳代の若者たちのほとんどが現在は不在です。また、児玉先生の勤務校で昨年度は、同じ科の信任女性教師が児玉先生に誘われて講座に参加されていましたが、今年度は、年度初めに見えてその後はぱったり途絶えました。はじめのうちは児玉先生も催促?か勧誘かされていたようですが、最近はもうそれもなさらなくなったようです。アドラー心理学はある程度以上の年齢の方にしか魅力がないのでしょうか?
21,子、顔淵を謂(い)いて曰く、惜しいかな、吾その進むを見たるも、未だその止(や)むを見ざりき。
先生が顔回(顔淵)を評して言われた。「惜しい人間を死なせたものだ。彼が、日に日にたゆみなく進歩するのを、私はこの目で見た。その進歩が1つの到達点に達し、そこで停止するのを、見ることはなかった」。
※浩→若死にした顔回を惜しんだ言葉です。師匠にここまで言ってもらえる彼がいかに優等生で、師匠のお気に入りだったことがわかります。
顔回は紀元前521年生まれ、紀元前490年?没で、字(あざな)は子淵(淵)で、顔淵とも呼ばれます。魯の出身で、孔子の弟子としては最も優秀だったと言われます。孔子は、自分より30歳ほど若い顔回を高く評価していて、『論語』に顔回に対する賞賛を多く見ることができます。将来を渇望されて、孔子からも後継者と見なされていたのに、31歳(太陽暦)で夭折します。最も期待していた弟子だけに、顔回の死は孔子を激しく落胆させ、孔子は次のように言い嘆き悲しんだとされます。
顔淵死す。子曰く、噫(ああ)、天は予を喪ぼせり、天は予を喪ぼせり。(先進篇)
顔淵が亡くなった。孔子先生は歎いて言われた。「ああ、天は私を滅ぼした。天は私を滅ぼした」。弟子が亡くなったことを、「天が自分を滅ぼした」と慟哭する、師弟の強い絆を感じます。私には、「先生(老師)」は多いのですが、師匠と呼べる人はいないと思います。よく、野田先生を師匠と呼ばせていただいていますが、それは、こちらが勝手にそうお呼びしているだけで、野田先生は私を弟子とは思われてはいないでしょう。多数の生徒たちの1人にすぎないです。私の側からは、その絶大な影響から、勝手に師匠と呼ばせていただいています。「弟子」は英語でdiscipleで、「生徒」はstudentです。私は野田先生のところへ弟子入りしてはいませんから、one of the studentsです。かつて、アドラーギルドには、鎌田穣さんや、田中貴子さんという「内弟子」さんがいらっしゃいました。あの方々はお弟子さんです。「教師ー生徒」と「師匠ー弟子」との違いについて、昔、野田先生が書かれた解説があります。引用します。↓
育児あるいは教育をめぐる人間関係には2つの種類があります。1つは、先生teacherと生徒studentとの関係、もう1つは師匠masterと弟子discipleとの関係です。先生-生徒関係は、主に知識の伝達を目的とするもので、必ずしも人格的な触れ合いを前提としません。一方、師匠-弟子関係は、人格的な成長を目的とするもので、知識の伝達は副次的なものです。アドラー的な用語を使うと、先生-生徒関係は社会(ゲゼルシャフト)的、師匠-弟子関係は共同体(ゲマインシャフト)的な関係と言えましょう。両者を比較すると、次のようになります。
先生-生徒関係
・知識伝達が目的
・先生の言葉を生徒が覚える
・社会的関係
・契約関係
・普通は一時的関係
・教える-習う
・賞罰による訓練
・仕事のタスク
師匠-弟子関係
・人格的成長が目的
・師匠の行動を弟子が見習う
・共同体的関係
・信頼関係
・普通終生の関係
・共に学び共に生きる
・勇気づけによる育成
・交友ないし愛のタスク
さて、躾け(discipline)という言葉は弟子(desciple)という言葉と関係があります。つまり、躾けとは「師匠と弟子の道」なのです。従って、師匠-弟子関係のないところに、本当の躾けはありえません。今、この国で躾け不在なのは、親子間も教師生徒間も、師匠-弟子関係ではないからでしょう。それは共同体的人間関係が乏しいからでしょう。
かつては、尊敬される人が人々に推されて教師になりました。今では、尊敬されたい人が教師になって、人々に尊敬を強要しているのではないでしょうか。尊敬されたいために教師という職業を選択することそれ自体が悪いことではないでしょうが、動機はどうあれ、共同体に有益な職業を選択した限りは、いつまでも幼児的な『権力への意志』を追求しつづけるべきではないでしょう。教師には、みずからが人格的に成長して大人としてふるまうことで、生徒たちに大人の問題解決行動のモデルを示す責任があると思います。「教師は労働者か聖職か」と幼児的な議論をするのではなく、教育を可能ならしめる基礎としての、教師自身の人格的成長、すなわち共同体感覚の育成が、教育界の目下の急務ではないでしょうか。
教師だけではありません。およそ人の子の親たるものは、すべからくわが子の師であるべきです。もっと正確に言うと、好むと好まざるにかかわらず、わが子の師である他はないのです。悪い師匠の弟子になるのは一生の不幸です。親たちの多くは、師匠としての資格がないままに弟子をとっているのでしょうね。親がもし子どもレベルで子どもを育てていては、子どもは大人が育てないでしょう。親がまず大人にならなければ、子どもはいつまでも大人にはなれません。
20,子曰く、これに語りて惰(おこた)らざる者は、それ回か。
先生が言われた。「私が教訓を述べているとき、おしまいまでちっとも飽きずに聞いているのは、顔淵だけだな」。
※浩→孔子の弟子・顔淵(=顔回)は、まるで奇蹟のような人で、学問も礼法も武術も素早く習得しただけでなく、何より人格者で、若い弟子の集まった孔子塾の、時として殺伐になりがちな空気を和らげたと言います。
「語る」というのは、古代の塾などで老先生が若い弟子たちの問いに応じて教訓を暗唱して聞かせることでした。教訓は、話が長くなるので、その意味がよくわからない弟子は退屈したそうです。校長先生の朝礼の教訓みたいです(笑)。が、顔淵は意味がよく理解できるので、最後まで少しもイヤな顔をしないで聞き入っていました。
私には、野田俊作先生がここでの孔子のようです。野田先生のお話は、プロ向けのアカデミックなことから、一般の聴衆向けの、関西風のお笑い要素を交えた講演に至るまで、まったく退屈ということはありませんでした。そして、たくさんの「金言」を授かりました。私は今もそのほとんどを暗唱しています。そしてたくさんの講演ネタもほぼ暗記して、次の世代の人たちにお伝えしています。相棒の児玉先生は、職務上はもちろん、プライベートでも私の話をとても興味を持って聞いてくださいます。フィットしたら“メモ、メモ”と印をつけられます。歌舞伎のストーリーから落語に至るまで、ところかまわずしゃべる私に、それこそ顔淵のように、イヤな顔ひとつされないで、真剣に聞いてくださいます。今は、さらに一時、先生の次の世代の方々が参加されて、熱心にアドラー心理学を学ばれました。今はほぼ全滅です(笑)。残った少数精鋭はほんとに「エリート」だと思います。今、講座においでいただいている方々はとは、純正アドラー心理学の灯火を絶やすことにないように、学びを継続していきたいです。
19,子曰く、譬(たと)へば山を爲(つく)るが如し。未だ一簣(き)を成さざるも、止(やむ)るは吾(われ)止む也。譬(たと)へば地を平らにするが如ごとし。一簣を覆(ふく)すと雖(いえ)ども、進むは吾往く也。
先生が言われた。「例えば山を造るようなものだ。あと簣(もっこ)一杯の土を盛るだけになって、そこでやめたら自分がやめたのだ。例えば地面を平らにするようなものだ。わずか簣(もっこ)一杯の土を掘るなら、それは自分が進めたのだ」
※浩→上の訳は、貝塚茂樹先生によります。他に次のような訳もあります。
「革命とは山を築くようなものだ。たった一かごの土が足りなければ、それで終わりだ。革命とは地をならすようなものだ。たった一かご土を取り除けば、革命はそれだけ成功に近づく!」
中華人民共和国に好都合の訳のようです。
「修業というものは、たとえば山を築くようなものだ。あと一簣(き)というところで挫折しても、目的の山にはならない。そしてその罪は自分にある。また、たとえば地ならしをするようなものだ。一簣でもそこをならしたら、それだけ仕事がはかどったことになる。そしてそれは自分が進んだのだ」
吉川幸次郎先生の訳はこちらで、貝塚先生と同じです。行動は、あくまで自己の努力により、自己の責任に帰することを説いています。
築山を築くのに、ほとんど完成に近づいたのに、あと一簣というところでやめたら、それはほかならぬ自分がやめたのあって、責任を他に転嫁することはできない。また、たとえば地ならしをするようなものであって、完成はまだほど遠いが、一簣分でもそこをならしたら、その進歩は誰のものでもなく、自分自身の前進である。
アドラー心理学のキーワードは「自己責任」です。学校教育の4S(英語では4R)というのがあって、「尊敬」「責任」「社会性」「生活力」です。トップの「尊敬」は、人から尊敬される人になるという意味ではなくて、人を尊敬する人になるということです。カントの“人格の尊厳”を思わせます。「他の人の人格を手段として用いることなく、常に同時に目的として尊重せよ」。人格を手段として用いることは、20世紀には「人間疎外」と称されました。2つ目の「責任」が今回のテーマです。日本では、責任を取るというのは、江戸時代の侍なら「切腹」を意味し、現代の会社員や役人なら、辞職することですが、もとの英語でresponsibiltyで、「応答する+能力」です。旧約聖書のノアも、アブラハムも、神に呼ばれたとき、逃げないで、「はい、ここに」と応じました。宗教抜きで言えば、「状況からの求めに応じること」です。死んでも辞めても、責任を取っていません。逃げただけです。そして、逃げるときの言い訳が「悪いあの人、かわいそうな私」でしょう。「あいつのせいでこうなった。自分は被害者だから責任はあいつにある」と。野田先生はこういうのを「神経症的策動」とおっしゃいました。要するに「無責任」ということです。世の中これで溢れていて、そのためにずいぶん住みにくくなっています。交通法規では、信号のない横断歩道に歩行者が待っていたら、車は必ず一旦停止することになっていますが、岡山県ではほとんど守られていません。そういうところにお巡りさんがいてくれたら、絶対に「違反切符」をたくさん切れるでしょうに。テレビの記者が、ドライバーに「なぜ止まらないの?」と聞いたら、「車が通り過ぎたあとで歩行者渡ればいい」と答えていました。法令を熟知していないのかもしれませんが、あまりにも無責任です。遵守率の高いのは長野県でした。子どもたちが横断歩道を渡るとき、止まってくれた車の運転手に、手を挙げて挨拶していました。ずっと昔からそうだったそうで、今かつて子どもだった人がドライバーになっていてきちんと止まりますから、好循環が形成されています。大事なお手本です。4Sの残りについては、またいつかということで、今回はここまでにしておきます。
18,子曰く、吾未だ(いまだ)德を好むこと色を好むが如くする者を見みざるなり。
先生が言われた。「私はまだ美人を愛するほど熱烈に有徳者を愛する人を見たことがない」。
※浩→「美」は“色事”とも“美人”とも訳せますが、ここでは“美人”としておきました。「徳」は、一般には“道徳”“仁徳”を言いますが、“有徳の人”とも“道徳者”とも訳されます。ここでは、“有徳者”としておきました。
孔子は人間の能力の基本を「徳」に置きました。それは体力・気力を土台に、学問や技術や武術や経験などが積み重なった、圧倒されるような人格力でした。美人を愛する人は多くても、そういう効能を有する人を世間は知らない。先生はこれを嘆いたのでした。
愛する人との縁を切って忠義や責務を貫徹した人は、日本には存在します。播州赤穂の大石内蔵助は、主君の仇を討つためには、長子の主税(ちから)を身元に残して、妻子を離縁して妻の実家へ返しました。任侠の吉良(の)仁吉は、村田英雄さんの歌「人生劇場」でも有名な博徒でした。清水次郎長の子分として、荒神山の喧嘩で壮絶な死を遂げた「義理と人情に生きた博徒」でもあります。仁吉が戦死したのは「荒神山の喧嘩」です。喧嘩の発端は勢州桑名の博徒・安濃徳(あのうとく)次郎が、次郎長と親しい勢州神戸町(現・三重県鈴鹿市)の博徒・神戸(かんべ)長吉の縄張りを奪ったことです。長吉は寺津間之助に助けを求めたのですが、間之助は高齢だったため、代わりに仁吉が助っ人になりました。たまたま間之助宅に厄介になっていた清水一家の大政が、長吉を助けようと立ち上がります。荒神山一帯では、毎年4月上旬に神社、寺院のお祭りが続き、祭りには地元博徒が野天博打の賭場を開催するのが常でした。清水一家は長吉一家の縄張り奪還抗争を開始します。
浪曲では、仁吉の妻は安濃徳の妹・きくとされ、荒神山へ出かける直前に、仁吉は新妻であるにもかかわらず離縁して決意を固めたとされています。「義理と人情」のため、命を落とす任侠道の世界と美化されました。実際には、仁吉に妻はいなかったとも言われていますが、これではお芝居になりません。
世間ではよく「英雄色を好む」と言います。古今東西、権力を得た英雄には好色な人が多く見られます。古代ローマのカエサル(シーザー)とアントニウスにはクレオパトラという美女がいて、唐の玄宗には楊貴妃がいました。日本では、遊女を“傾城(けいせい)”と呼びました。有名なのは、伊達騒動の「高尾太夫」です。これはお話が長くなりますので割愛します。
17,子、川の上(ほとり)に在(あ)りて曰く、逝(ゆ)く者はかくの如きか。晝夜を舍(お)かず。
先生が川のほとりに立って言われた。「過ぎゆくものはこのとおりか。昼夜休むことがない」。
意訳すると、先生がとうとうたる川の流れを眺めてつぶやいた。「すべては過ぎ去っていくなぁ。昼も夜も休むことなく」。
※浩→「逝く」は日本では、「死ぬ」ことですが、中国では、一般に「行く」ことを意味するそうです。辞書には「ふっといなくなること」とあります。新型コロナ流行初期に亡くなった志村けんさんは、ほんとに「ふっといなく」なられました。ドリフターズのメンバーではすでに故人のいかりや長介さん以外のメンバーでは、最年少だそうでほんとに残念です。
「子罕篇」はこのあたりから、物寂しくなっていきます。孔子が期待した呉国は没落し、愛弟子の顔回も逝去したりして。
「川の流れ」からすぐ連想するのは、古代ギリシャのヘラクレイトスの「万物は流転する(厳密には、「人は同じ川の流れに二度入らない」)」ですが、ヘラクレイトスは“自然哲学者”ですから、人生の生々流転と重ねたのではなくて、単なる自然現象として述べたのでしょうが、仏教の「諸行無常」に馴染んでいる日本人には、人生哲学だとも捉えられます。孔子と同時代のブッダの臨終の言葉は、「すべてのものは移ろいゆく。怠らず努めるがよい」でした。孔子が眺めていたのは、魯国周辺の泗水(しすい)か、あるいは黄河か長江か。おそらく散歩の途中の泗水でしょう。最晩年にさしかかった孔子が、不遇のうちに年老いていくのを嘆いたのでしょう。
日本で「川の流れ」といえば、歌なら美空ひばりさんの「川の流れのように」です。お芝居だと「松浦の太鼓」(成駒屋系では「土屋主税」)です。赤穂浪士の討ち入り前夜と当日のお話です。
「松浦の太鼓」は播磨屋(中村吉右衛門)系です。
第一幕 両国橋の場
元禄15年12月13日。宝井其角(きかく)が「我がものと思えば軽し傘の雪」と独り言を言いながら両国橋のところを歩いてると、煤竹(すすだけ)売りをしてる俳句仲間の大高源五にばったり出会います。彼があまりにみすぼらしくて寒そうだったので松浦侯から拝領の羽織をあげて、別れ際に「年の瀬や、水の流れと人の身は」と詠みかけると、源五は「明日またるるその宝船」と返します。其角は首を「はてな?」と首をひねります。
第二幕 松浦邸の場
吉良家の隣人、松浦鎮信(しずのぶ)の屋敷。俳句好きで、討ち入りの夜も宝井其角や友だちを呼んで連歌の会をしていました。松浦候はお茶を持ってきた腰元・お縫(源五の妹)を見て、家来に「部屋に入れるなよ」と言う。彼女の後見人の其角はビックリする。殿様は赤穂浪士が一向に仇討ちをしないのでイライラしている。そこへ其角がその前日に、松浦候から拝領の羽織を源五にやったたことを聞いて激怒します。其角とお縫が退室しようとして、其角がふと、前日の両国橋で源五とのやりとりをつぶやきます。それを聞いて、松浦候は興味を持ち呼び返す。「明日またるるその宝船?明日待たるるその宝船?………」。ちょうどそのとき山鹿流の陣太鼓が聞こえる。「宝船船はこれじゃー!!!」。
第三幕 松浦邸 玄関先の場
松浦候が馬に乗って出かけようとしていると、本懐を果たした源五が討ち入り装束のまま駆け込んでくる。大喜びの松浦候はおおはしゃぎ。さっきまでお縫に「出ていけ」と言っていたのにケロッと機嫌を直すのでした。
16,子曰く、出でては則(すなわ)ち公卿(こうけい)に事(つか)え、入りては則ち父兄に事う。喪の事は敢えて勉めずんばあらず、酒の困(みだ)れを為さず、我に於いて何かあらんや。
先生が言われた。「外に出れば公や卿のような身分の高い人たちにお仕えし、家に入れば父や兄など目上の人に奉仕する。葬式の服喪には懸命に努めるし、酒を飲みすぎて悪酔いすることはない。それらのことは私にとって何でもないことだ」。
※浩→孔子が君主や父兄に仕える「忠孝」の道の基本を説き、葬儀や飲食のマナーなど「礼節」の道の原則を語った部分であり、これらのことは君子であれば当然のこととして実践できなければならなかったのです。最後の「我に於いて何かあらんや」は解釈が分かれているようです。新注には「これらの四つの行為さえも私には恵まれていない」と謙遜の意味に読むそうです。また、「この四つの行為だけは私にあるけれど、その他には何の取り柄もない」とも読む説もあるそうです。吉川先生も貝塚先生も「特別に困難なことではない」と読まれています。「家の外では職務に忠実で、家の中では家族相和し」は、現代においても当然のことです。今は身分の上下はありませんが、組織においての役割分担はありますから、このことを混同しないようにしないといけないです。今の子どもたちが、何か行動を制限されたり禁止されたりすると、「自由だろ」と反発することがあるそうですが、これは「自由」の意味を取り違えています。彼らが言う「自由」は“気まま”(恣意)、“自分本位”ということで、「人間共同体」に位置づけられている自分の存在を意に介さない、自己執着以外の何ものでもありません。アドラー心理学が「共同体感覚」を謳い、また基本前提(理論)に「社会統合論」(対人関係論)を含むゆえんを周知させたいものです。これしか人類存続の道はほんとなないんですから。
福沢諭吉の「自分に由(よ)る」という訳は素晴らしいと言われます。また、長坂寿久先生によれば、私たち日本人が教えられてこなかった概念として“Public”、つまり「公共」があります。もう1つは「自己決定権」だそうです。自己決定権、“Right of self-determination”という言葉は、国連憲章の第1条第2項に出てきます。第1条の第1項は国家間の平和について目指すべきことが書かれていて、第2項は、その国家間の平和を実現するために、人々の状況がどうあるべきかということが書いてあります。その中に“the principle of equal rights and self-determination of peoples”とあります。
われらが野田先生は、「自由」と「権利」を“選択肢”とおっしゃいました。これはわかりやすかったです。「選べる」ということが自由なので、時に「選べない=やらないといけない」ことがあります。これを「責任」とおっしゃいました。責任は義務に近いですが、義務は強制されているように感じられますから、責任のほうがしっくりきます。世間では「権利」は「義務」をともなう、と言われますが、どうも「権利」ばかりが先行して、「義務」や「責任」のほうは忘れられがちです。
今朝テレビで、NHKの気象担当の人が、「最近、温度が冷えてきました」と言っていました。こういう言葉には私は敏感で、「あれ?おかしい。温度は下がるんでしょ。空気が冷えてきたんでしょ!」とひとりでムキになって反論していました。そういえば、少し前にやはりNHKのアナウンサーだったか、「満点の星空」と言っていました。これは絶対変です。「満点の星」でしょうが。贔屓の歌手が紅白歌合戦に落選したので、少しムキになっています(笑)。
15,子曰く、吾(われ)衛より魯に反(かえ)り、然るのちに楽(がく)正しく、雅頌(がしょう)おのおのその所を得たり。
先生が言われた。「自分が衛から魯に帰国した以後、音楽の調子が整い、雅・頌それぞれあるべき位置に落ち着いた。
※浩→13年にわたる失意の遊歴の最後の場所であった衛の国から、孔子は故国・魯に帰り着きました。時に孔子68歳で、以後73歳の死に至るまでずっと魯にいて、もろもろの古典文化の整理に従事しました。そのうち音楽が重要な部分でした。
『詩経』は、周王朝の饗宴に演奏される楽曲「雅」と、宗廟で祖神を祭るときの「頌」と、諸国の民謡「風」の三部から成る。孔子の時代には、『詩経』は読む本ではなく、音楽の伴奏に合わせて歌う歌曲集でした。孔子は、諸国に滞在して、そこでの演奏を実地に見聞して、楽曲の分類配列、特に演奏する際の楽曲の調子に非常な異同・混乱のあることを知りました。その経験をもとにして、分類の混乱を整理して、妥当な分類に落ち着けた、ということです。
祭祀に演奏する楽曲といえば、日本では「雅楽」を想起します。今は一般には、結婚式状で演奏される「越天楽(えてんらく)」くらいしか知られていないようです。中学か高校の音楽の授業で教科書には載っていて、私も歌った覚えがあります。記憶は怪しいですが、「くーもにそびゆる たかちほのー」だったか、母ならきちんと覚えていて、たずねたらすぐ教えてもらえたはずです。そうそう、福岡の民謡「黒田節」のルーツだそうで、そういえば、「さーけーはー のめーのめー」と似ています。雅楽楽器の演奏者としては、東儀秀樹さんがあまりにも有名です。大河ドラマ「篤姫」では天皇役を演じられました。
日本では皇室がしっかり雅楽の伝統を継承していますが、本家の中国ではとっくの昔に廃れてしまっている、と野田先生から聞いたことがあります。日本は、一度外国から取り入れた文化をとても大切にして、ずっと維持継承していく国なんだそうです。しかも、日本の風土に合うようにアレンジされて、もはや日本産と言ってもいいように整備されます。外来文化をこういうふうに貴びアレンジして日本文化に同化していくワザはすごいです。
今は、政教分離で、国家としての祭礼は行われませんが、皇室の伝統は途切れることなく継承されていますから、雅楽は今後も廃れることなくこの国に存続するでしょう。民間伝承として、各種の祭礼が行われます。祇園祭や高山祭とかでは、豪華な山車(だし)が出て、お囃子(はやし)という音楽が演奏されながらの行列が街路を賑わします。祇園祭は、平安時代に疫病・災厄の除去を祈った祇園御霊会を始まりとする、八坂神社の祭礼です。「新コロナウィルス」退散に効果があったのかどうか、神様も忙しいから、人間の願いをすべて聞き届けるわけにもいかないかもしれません。あったと信じます。今は熊野被害が多発していて、大変です。人間の智慧でなんとかしないといけませんが、熊も山に食料がなくなって、人里に出てくるしか生き残れないのでしょうから、どうしたものでしょうか、困ります。まさかアメリカのように市民に銃を持たせることもできないし。熊のイヤがる音楽とかないでしょうか?