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論語でジャーナル’25

2,朝(ちょう)にして下大夫(かたいふ)と言えば、侃侃如(かんかんじょ)たり、上大夫(じょうたいふ)と言えば、誾誾如(ぎんぎんじょ)たり。君いますときは、踧踖如(しゅくせきじょ)たり、与与如(よよじょ)たり。

 朝廷の会議場で、下役の下大夫と話されるときは、なごやかで、同役の上大夫と話されるときは、ほどがよかった(的確・中正だった)。やがて太陽が出て、君主がお出ましになると、恭しく、またしずしずとなさった。

※浩→中国の閣議は、朝甚(はなは)だ早く開かれたそうです。太陽がまだ出ず、ものの色がはっきりし始めたころに、群臣は宮中の朝集所に集まり、君主のお出ましを待つ。やがて太陽が昇るとともに、君主が奥から出て臨席する。この風習は清朝まで続いたとか。
 1つ前の章でも、孔子が場面場面に応じたものの言い方を使い分けていたことがわかります。ここでは公式の場(朝廷の会議)において、下役には温和な態度で接したと言いますから、威張ったりしなかったのでしょう。同役には中正の態度だった(古注)か、和やかに論争した(新注)。そして、殿様に対しては、恭しくしずしずとなさった。
 現代に置き換えてみました。今の職場では、まさか日の出前から会議を開いたりはしませんが、午前10時とか、学校だと午後3時50分からとか会議を開きます。君主に当たるのは社長とか校長でしょうが、遅れて顔を出したりしないで、開始時には席に着いています。したがって、長のお出まし前に、出席者が根回しなどすることはなくて、根回しをするとすれば、会議の開始前にしておくでしょう。根回しはフェアかフェアでないか?会議の本番を円滑に進めるには、良い意味での根回しがあったほうがいいかもしれません。本会議でゼロから審議していては、限られた時間内に結論が出ないでしょう。国会だと本会議の前に、実質的な審議は「委員会」でなされます。そこでの審議の結果を本会議で賛否をとって、ほとんどの場合、原案が承認されることになります。日本の会議では、本会議は、ほとんど多数決の採決だけのようで、審議は事前の委員会で行われます。学校のクラスなどでの会議は、原案に対する質疑や審議はほとんどなく、提案されたらいきなり「賛成の人は?」と採決をしているようです。もしも、質問や意見などを言おうとすると、まるで会議の進行を妨げているかのような、冷たい視線を浴びたりします。民主主義とは「多数決で決めること」と思い込まされているためでしょう。戦後、日本はアメリカの指導(陰謀か)でデモクラシーを植えつけられたかもしれませんが、民主主義を取り違えて「多数決」だと思い込んだのでしょう。お粗末限りない!完成した民主主義というものを人類はまだ体験していません。現状からして今後の発展はとても危ういです。育児と教育を根本から立て直さないといけないでしょう。20世紀にアドラーが憂えたのと同じ状況かもしれません。先日、「ドクトル・ジバゴ」という往年の名画を観ました。野田先生が日記に書かれていて自分も観る気になりました。以前にも何度か観かけたことがありますが、長いし、途中でやめてしまいました。この映画は歴史ドラマというよりラブストーリー(正確には不倫ドラマ)だと今回納得しました。おまけとして、ロシア革命の本質のようなものがかなり見えてきたように感じます。

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論語でジャーナル’25

第十 郷党篇
 この篇の冒頭の解説は、吉川幸次郎先生も貝塚茂樹先生もほぼ同じです。例によって、はじめの二字をとって題名としていますが、内容は他の篇が抽象的・教訓的なのに対して、ここは孔子の行動記録が主体となっています。「郷党」つまり都の近郊の郷里の、孔子の本宅における日常の生活ぶりを主とし、それに付随して朝廷における孔子の公的生活の様子が記述されています。

1,孔子、郷党においては、恂恂如(じゅんじゅんじょ)たり。言う能(あたわ)わざる者に似たり。その宗廟・朝廷にあるや、便便として言い、唯(ひと)えに慎しめり。

 孔子は在所では控え目で、口ごもってものが言えないようであられた。国家のご先祖の御霊屋(みたまや)や政府の会議場などではすらすらと発言された。ただ謹厳な態度は決して失われなかったが。

※浩→孔子は私的には控え目で口ごもるようにものを言ったが、祭祀や政治の場では流暢に発言してしかも謹厳であった。これがプロフェッショナルというものでしょうか。私もおしゃべりが主たる業務ですが、やはり日常生活ではどちらかというと寡黙です。ひとり暮らしですから当たり前ですが、その反動で、一旦口を開くと、留まることを知りません。お盆とお正月に妹が帰省すると、終日しゃべりっぱなしでした。そこへさらに姪が加わると、今度は、母親である妹が入り込めないほど、姪と私のおしゃべりが高揚します。よくまあ話題が尽きないことです。お仕事で津山工業高校へ出勤した日は、お昼の12時過ぎに津山駅で車でお迎えの児玉先生と会ってから、仕事を終えて居酒屋での打ち上げが終わる21時くらいまで、ずーっとしゃべっています。
 退職まで勤めた岡山工業高校では、赴任して2代目の校長さん(和田道夫先生)から、職員会議等で寡黙な私のことを、あるとき、「大森先生はサイレントマンですね」おっしゃっいました。当時は、アドラー心理学をやる前で、授業でも新年度がスタートして2学期半ばまで、不要不急な発言をしたことがなくて、ひたすら授業に専念していました。
 一方、小学校時代の「早期回想」ではそんなことはないです。
 小学生のころ妹と一緒に隣村の伯母さん(父の姉)の家にお泊まりに行きました。夜は、座敷で伯母さんと妹と私とが川の字になって寝ていました。私は眠る前に、枕もとに鏡を置いて、アナウンサーの真似をしていました。「ひろちゃんは大きくなったら何になる?」と伯母。私は「アナウンサー」と即答。実際はアナウンサーでなくて高校教師になりましたが、おしゃべりする仕事には違いありません。高校で演劇部仲間の山県明宏さんは大学卒業後、地元の山陽放送(RSK)のアナウンサーにほんとになられました。そういえば、彼はとても美声でした。私は大学でボート部で声を潰してしまって、ヴォリュームありますが、澄んだ美声でなく、ドスのきいたダミ声になりました。授業や講演には向いていて、アナウンサーには向いていなかったのでしょう。ちなみに、児玉先生は澄んだビタミンボイスの美声です。妬けますね。

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論語でジャーナル’25

30,子曰く、与(とも)に共に学ぶべし、未(いま)だ与に道に適(ゆ)くべからず。与に道に適くべし、未だ与に立つべからず。与に立つべきも未だ与に権(はか)るべからず。唐棣(とうてい)の華(はな)、偏としてそれ反せり、豈(あ)に爾(なんじ)を思わざらんや、室これ遠ければなり。子曰く、未だこれを思わざるなり、それ何の遠きことかこれあらん。

 先生が言われた。「一緒に同じ学問をすることができても、一緒に同じ道をゆくことができない。一緒に同じ道をゆくことができても、一緒に同じ位置に立つことができない。一緒に同じ位置に立つことができても、一緒に同じ利益を求めることができない。
 詩に、 唐棣(とうてい = にわざくら)の花、風にゆらゆら、飛び立つばかり思わざらめや、主(ぬし)の家居のあまりに遠くして、とある」。
 先生はまた言われた。「真実恋しているのではないからだ。もし真実恋していたら家の遠さなどものの数ではないはずだ」。

※浩→吉川幸次郎先生は、「その人と一緒に勉強をすることはできる。しかし勉強の結果として、同じく道徳の方向に赴きうるとは限らない。仮に同じく道徳の方向に赴きうるとしても、その人とともに、何か仕事をして、1つのことを樹立しうるとは限らない。仮に何かを樹立しうるとしても、臨機応変の処置をとらねばならぬ非常の場合、そうした行動をも、その人と合致させうるとは限らない。言葉の表面は、以上のように読めるが、より具体的に、何を意識しているかは、よくわからぬ」と述べられています。
 一方、貝塚茂樹先生は、ただ、新注では、「唐棣の華」以下を独立の文としているが、古注を採用したと断られたうえで、「同学の人間が同じ主義で活動することは難しい。同じ主義で働くことはまだやさしいが、同じ位置に並んで落ち着くことは難しい。それでも同じ位置に落ち着くことはまだやさしい。同じ利害関係を持つと、とかく争いが生じやすい」。孔子はこう述べてから、「恋する者同士だって家が離れると心も離れ離れになる」という流行歌を引用した。だが、もし真実愛していたら、家が離れていることは問題ではないはずだ。もし朋友が真実仲が良かったら、利害関係で仲たがいになることはないのかもしれない、と言っている」と解されています。
 「同学の人間が同じ主義で活動することは難しい」。そうだそうだと納得します。「私的論理」は人それぞれに違います。「私的論理」を支える価値観を「私的感覚」と言います。同じ学問を学ぶというのは「行為」です。同じ学問をしていても、動機も目的も個々人で違うでしょう。仮に「同じ主義」で働いていても、「同じ位置に並んで落ち着くことは難しい」というのも当然です。「同じ位置」が何を意味するのかわかりませんが、職場でなら「同じポスト」のことでしょうか。そして、最終的には、もし、主義も位置も同じだとしても、「利害関係」が生じると、結局は利害が絡むと人間関係がこじれるということになっています。深く納得できます。同学・同主義・同位置でいたとしても、利害関係がきっかけで仲違いすることはよくあります。私はかつて心から信頼していた知人にかなりまとまったお金を貸しました。でも、約束どおり返済されたのは、初めの2,3回で、あとはなんだかんだと延期されているうちその人が個人破産したため、踏み倒されました。最近その人は亡くなったと聞きました。バチが当たったのだと考えて自分を慰めています。あれ以後、人にお金を貸すのを断固やめました。
 『孟子』の冒頭に──
 孟子、梁の恵王に見(まみ)ゆ。王曰く「叟(そう=五十歳以上の老人の敬称)千里を遠しとせずして来たる。またまさにもってわが国を利することあらんとするか。孟子対(こた)えて曰く、王なんぞ必ずしも利を曰わん、ただ仁義あるのみ」(梁恵王篇)とあります。(子罕篇:完)

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論語でジャーナル’25

29,子曰く、知者は惑わず、仁者は憂えず、勇者は懼(おそ)れず。

 先生が言われた。「知恵のある人は迷わない。仁徳のある人は心配しない。勇気のある人はこわがらない」。

※浩→難局に臨んで、知者・仁者・勇者はかくあるべしという名言です。知恵のある人は、選択肢が多いから迷うことがないのでしょう。仁徳のある人は、他者から信頼されているから、裏切りなどを心配することはない。勇気のある人は、自分を信じてひるむことはない。
 知者・仁者・勇者をセットにして「知・仁・勇」とすれば、落語の「桃太郎」を思い出します。桂米朝師匠のカセットテープを、昔、岡山工業高校の細川公之先生が貸してくださったのを、MDに保存しています。これはいつ聴いても爆笑しています。こんな内容です。
 →「這(は)えば立て、立てば歩めの親心」と申しますが、昔の子どもはんはなるほど、可愛らしゅうございましたな。夜、なかなか寝付かれん、てなときには親御さんがお話を聞かせたりしたものですが……
父親:いつまで起きてんねん、金ぼう、早う寝なさい。子どもがあんまり遅うまで起きてるもんやない。こんな遅い時分まで起きてたら、恐ぁいお化けや幽霊が出て、お前なんか頭からガリガリッと齧られてしまうぞォ...ホ~ラァ...そのうしろの暗いとこから、アッ、お化けが...さあさあ、大人しいに寝んねし!寝床へ入んねん!寝床へ入ったらもう恐いお化けも出てけぇへんからな!さあ、布団へ手ぇ入れて。おとうはんが面白い話をして聞かしたるさかい、それを聞きながらねんねするんや、ええか。 ...昔々、あるところにおじいさんとおばあさんが住んではってん。おじいさんが山へ芝刈りに行て、おばあさんが川へ洗濯に行た。川の上のほうから大きい桃が流れてきて、おばあさんはこれをうちへ持って帰って、ポンと割ったら中から元気のええ男の子ォが生まれてきた。これに桃太郎という名前を付けた。この子が大きくなって、鬼ケ島へ鬼退治に行くと云うのでキビ団子をこしらえて持たしてやると、犬と猿と雉が出てきて、一つ下さい、その代わりお供します。三匹を引き連れて鬼ケ島へ攻め込んだ。この桃太郎はんが強いんねや。三匹もよう頑張った。とうとう、鬼が降参や、山のように宝物を出して謝った。車に積んだ宝物、エンヤラ、エンヤラと持って帰ってきて、おじいさんやおばあさんに孝行したちゅうのや。
 なあ、面白いやろ。桃太郎さんのお話...金ぼう...金ぼう...寝てしもうたがな。えぇ、子どもというのは罪がないなあ...。
 てなことを云うてましたのは、もう昔のお話でございます。きょうびの子どもはなかなか、こんなことくらいでは寝ぇしまへんわ。
親:健一、健一...健一!
子:...えぇ?
父親:寝んかい。
子:なんで?
父親:なんでちゅうやつがあるかい。不思議そうな顔すな、お前、子どもが日が暮れたら寝んの、当たり前やないかい。
子:眠たないねん。
父親:眠たないちゅうてなぁ、子どもが遅うまで起きてたらあかん。お前ら、晩が遅いさかいに朝ァ起きられんようになってしまうねや。えぇ、子どもがあんまり遅うまで起きてるもんやない。早う寝なさい。
子:眠たいことないんや。
父親:眠たいことなかっても寝ぇ
子:眠たいことなかっても寝ぇ、やなんて、そら君ィ。
父親:き、君ィ?親を友だちみたいに思うてけつかんな、コイツ!子どもがそない遅うまで起きてたら、恐わーいお化けや幽霊が出てきよるぞ。
子:お化けや幽霊やて。火星へ無人探査機が行く時代やで。おとうはん、云うことが相変わらず可愛らしい。
父親:どつくで、ほんまにこのガキは!早う寝て、早う起きるねん。とにかく寝床入れ!
子:眠たいことない。
父親:眠たいことなかっても、寝床に入って横になって、目ェつぶってたら、ひとりでに眠とうなって、寝てしまうものやがな。
子:そない云うけどなぁ、眠たいこともないのに寝床へ入って目ェつぶってたら...もうロクなこと考えへん...。
父親:...子どもの云うこっちゃあらへん。こら、とにかく横になれ!寝床へ入るねん!さあさあ、さあさあ、寝床へ入ってなぁ、そいでもう寝る気になれぇ。おとうはんが面白い話を聞かしてやるさかい、それを聞きながらねんねするんや。
子:そら無理や。
父親:無理ちゅうことがあるかい。
子:無理やがな。話聞くなら聞く、寝るなら寝ると、どっちか一つにせんとあかんで。そんな、聞きながら寝るやなんて、半端なことしてたら、どっちも満足にでけへんで。昔から「二兎を追うものは一兎をも得ず」ちゅうねんで。
父親:じゃかまし!ようごじゃごじゃ云うやっちゃなぁ、お前は。話を聞いて、眠とうなったら、そのままスーッと寝たらええんやがな。
子:えぇ、そうか?ほんなら、まあ、おとうはん、試しにいっぺん演(や)ってみ。
父親:いっぺん演ってみ...親を咄家みたいに思うとるがな、こいつは。ええか、よう聞いてぇよ、昔々...、
子:何年ほど?
父親:...何年ほど、て...こんなもん、お前、ずっと前から、ここは「昔々」ちゅうのやがな。
子:なんぼ昔でも年号というのがあるやろ。元禄とか、天保とか、寛永とか、明治とか。
父親:年号も何もないくらいに昔や。
子:年号もないとは、これはよっぽどの昔やな。
父親:そうや、よっぽどの昔や。あるところに...。
子:どこや?
父親:どこでもええやないかい。親が「あるところ」ちゅうてんねや、あるところやなぁ、と思うとかんかい!
子:あるところ、やなんて頼りない話しやなぁ。そんなことでは現実感も何もあれへんで。昔でも国の名ァちゅうもんがあるやろがな。大和とか、河内とか、摂津とか、播磨とか。
父親:国の名ァもないくらい昔や。
子:国の名ァもないのん?そら、縄文時代やな?
父親:じょうもん...知らん知らん、そんなもん。とにかく、あるところにおじいさんと、おばあさんが住んでたんや。
子:おじいさんの名前は?
父親:もうええかげんにせぇよ、お前なぁ、そないに次々と引っかかってたら寝る間もあらへんやないかい...名前もないッ。それくらい昔や。
子:へぇ、人間に名前のなかった時分ちゅうたら、そら原始人の時代やな?
父親:あぁ、よっぽど昔や。おじいさんとおばあさんが住んでたんや。
子:歳は?
父親:ほんまにどつくで。歳もない。歳のないくらい昔や!
子:そんな、おとうはん、無茶云うたらいかんわ。なんぼ昔でも歳はあるわいな。一年たったら一つずつ歳、とらはんねん。
父親:そら、始めのうちは歳もあったわい。そやけど火事で焼けてしもうてそれからなくなった。
子:無茶云いな。歳が火事で焼けたりするかいな。
父親:お前、ごじゃごじゃ云うさかい、話が一つも前へ進まへんやないか。少々わからんことがあっても、黙って「ふーん」ちゅうて聞いてたら、だんだんとわかるようになってくるもんやがな。
子:ふーん。
父親:おじいさんは山へ芝刈りに行った。
:ふーん。
父親:おばあさんは川へ洗濯に行った。
子:ふーん。
父:川上から桃が流れてきた。
子:ふーん↑。
父親:...なぶってたらあかんで。ほんまに、こいつだけは手ェがつけられんなぁ ...。見てみい!どこまでしゃべったか忘れてしもうたやないか!...そやそや、桃が流れてきたとこや。それを持って帰ってポンと割ったら中から男の子が生まれた。桃から生まれたんで桃太郎という名前をつけたなぁ。この子ォが鬼ケ島へ鬼退治に行くというので、キビ団子という美味しいものをこしらえて持たせてやると、途中で犬と猿と雉が出てきて、一つください、その代わりお供します。三匹が供をして鬼ケ島へ攻め込んだなぁ。猿がかきむしるやら、犬が食いつくやら、雉が目玉つつくやら。鬼も降参やぁ。山のように宝物を出して謝った。車に積んだ宝物、猿が引く、犬が押す、エンヤラ、エンヤラァと持って帰っておじいさんやおばあさんに孝行したちゅうねん。なぁ、おもろいやろ。さあ寝ェ...寝んかい...寝ぇっちゅうのに、このガキは...。なんや、大きい目ェ剥きやがったな。何や?
子:......あない、やいやい云うさかいに、寝たろかいなと思うてたんやけど、あんまりアホな話し聞かされたさかいに、だんだん目ェが冴えてきた。
父親:冴えてきた!?悪いガッキャなぁ、こいつ。何で冴えてくるねん!?
子:なんでて、おとうはん、それ桃太郎の昔話やろ。
父親:そや、桃太郎の昔話やがな。
子:桃太郎みたいな子ども向けの噺されたらかなんなぁ。わいらもっと、こう...恋愛モンみたいな...。
父親:生意気なことぬかすな!お前ら桃太郎で十分じゃ!
子:おとうはん、何も知らへんやろうから、ちょっと話をするけれども、この桃太郎という話は、日本の昔話の中でも一番ようでけてんねん。グリムやアンデルセンに匹敵する世界的な名作と云われてんねんで。外国へ持っていっても引けを取らん、ようできた話や。それをあんな言い方したら値打ちもクソも無いわ。あれでは作者が泣く。
父親:な、何が作者や...お前ら、何も知れへんねん。
子:おとうはんこそ、何も知れへんやろ。これはなぁ、昔々あるところ、と云うて、時代やら場所をはっきりさしてないやろ。わざとそないしてあるんやで。子どもに難しいこと云うてもわからへんけど、借りにこれを大阪の話にしたらやな、大阪の子どもには馴染みがあってええやろうけど、東京の子どもはどないする?ほたら東京の話にしたら、東京の子どもにはええやろうけど、東北の子どもはどないしたらええ? 日本国中どこへ持って行って、どこの子どもに聞かしてもあてはまるように、「あるところ」としてある。話しがそれだけ普遍的になるわけやな。ほいで、おじいさんとおばあさんが出てくるやろ。これ、ほんとは両親やねん。「ぢぢ」と「ばば」の濁り取ったら「ちち」と「はは」になるやろがな。二親のことを云いたいねやけど、昔は子どもや年寄りのほうが馴染みが深かったさかいに、おじいちゃん、おばあちゃんの話に変えてあんねん。ほいで、山へ芝刈りに行て、海へ洗濯に行く...わけにはいけへんさかいに、「川」に変えてあるけれども、本当はここは「海」やねんで。山と海やねん。で、つまり「父の恩は山よりも高く、母の恩は海よりも深い」ということの喩えになったぁんねやで、おとうはん。
父親:...ふーん、あぁ、そうか、なるほどなぁ...それからどないしてん、それから。子:ほいで、川上から桃が流れてきて、持って帰って、ポーンと割って子がでけたて、桃から子どもが生まれたりせぇへんで。桃から子どもが生まれたりしたら果物屋、やかましいてしゃあない。人間のお腹から生まれた子どもが、子どものくせに鬼を退治したりしたら不自然やさかい、神さんから授かった子どもになってんねん。ほいでな、鬼ケ島てなとこはな、この世にはないんやで。あれはな、この渡る世間を鬼ケ島に喩えてある。人間と生まれたら、世の中の苦労をせんならん。なぁ、これが鬼ケ島や。渡る世間に鬼はないというけれども、おとうはん、あんた、わかるかなぁ。渡る世間は鬼ばっかりやで。世間というところは恐ろしいところやで、おとうはん...ちょっと、あんた、ボーッとしてたらあけへんのやで。しっかりしてや、なぁ、世の荒波にもまれる、これが鬼ケ島の鬼退治やないかい。犬と猿と雉が出てくるやろ。これ、動物三種、何でもええと思うたら大間違いやで。犬は三日飼われたら三年恩を忘れんというぐらい、仁義に篤い動物や。猿は猿知恵ちゅうてバカにするけれども、なかなかどうして、人間どけたら一番知恵がある。雉というのは勇気のある鳥やで。卵を抱いてるときにヘビが卵を狙うて寄ってきよったらな、自分の身体をおとりにして身体を巻くだけ巻かしといて、十分に巻いたところでパチンと切々れに弾いてしまうというぐらいに、落ち着いた勇気のある鳥や。つまり、この三匹で智、仁、勇という三つの徳が表されてあるねん。
父親:ウーム...こら、カカァ、寝てる場合か。ちょっと起きて、この話、一緒に聞けこらー、お前、大人が聞いてもためになるがな。こらええこと云いよる。こいつ、こんど参議院に出したろ。ウーム、それからどないしてん、それから。
子:さいぜん、「キビ団子という美味しいもの」て云うたやろ。あんなスカタンなこと云うたらあかんで。キビちゅうたら、五穀の中でも米や麦に比べたら粗末なもんや。キビの団子云うたら、粗末なモンの代名詞やな。つまり「贅沢したらあかん」という教えがこのキビ団子や。そやさかいに、人間と生まれた以上は、鬼ケ島の鬼退治、つまりこの世の苦労をせんならん。その時に贅沢をせずに、質素を守って、仁、智、勇という三つの徳を身に付けて、一生懸命に働いて、いろんな目にあい、いろんな苦労をして、ほいでやがて鬼を退治して山のような宝物を手に入れんねや。この宝物というのは、世間へ出て身につける信用とか、名誉とか、地位とか、財産とか、そういう宝や。そういうものを身につけた立派な、世の中の役に立つ一人前の人間になってやな、ほいで、親に孝行し、家名を上げるという、これが人間として一番の大事な道や、ということをやな、昔の人が子どもにでも分かるように、面白い話に仕組んどいてくれたんや。それぐらいようできた話を、あんな云い方したら、値打ちも何もあらへんで。おとうはん、僕の前やからええけど、よそへ行ってあんなこと云うたらあかんで。恥かくさかいに。親の恥は子の恥やさかいな。僕まで辛いさかいに、そんなこと云わんようにしてや、わかったな、ええか?これ、おとうはん?...ああ、寝てしもたがな。今どきの親は、罪がないわい...。(おあとがよろしいようで。)

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論語でジャーナル’25

28,子曰く、歳寒くして、然るのち、松柏の凋(しぼ)むに後るるを知る。

 先生が言われた。「寒気の厳しい歳になってはじめて、松と柏の葉が他の樹木に遅れて枯れ落ちることがわかる」。

※浩→孔子が前497年から484年まで、14年の長きにわたる亡命の旅の終わりごろの発言だと考えられています。初めはかなり多数いた随従の弟子は、歯が抜けるように立ち去っていった。この寂しい境遇でも、正面から去りゆく弟子を非難しないで、寒気の中で最後まで緑を維持しながら、ついに少しずつ枯れていく松柏の姿をもって自らを象徴しています。口では立派な主義を主張して、高遠な理想を語る人が、厳しい弾圧に遭うとたちまち転向し、果ては時局に迎合していった有様を、イヤと言うほど見せつけられます。孔子のこの言葉は、本当の信念を持つ者と、そうでない口先だけの人間との差を見事に表しています。
 私は、1991年にアドラー心理学に出会って、今年で34年になります。93年に講座を立ち上げました。会を支える多くのスタッフにも恵まれました。参加者の職場や関係の団体に講演を依頼されて、たくさんお仕事をいただきました。その後ずーっと時代が経過してからは、相棒・児玉先生の勤務校でスクールカウンセラーをさせていただきました。2023年度まで。そして今はこれまた児玉先生の勤務校で小さな小さな講座を開かせていただいています。一箇所だけになりました。ずっと以前にNHKの朝ドラ「あぐり」というのがありました。女優・吉行和子さんのお母様「あぐり」さんの半生を描いていました。美容師さんです。岡山の第一女学校の出身ですから、うちの母と同門です。名取裕子さん扮するチェリー山岡の美容室で修業して、やがてチェーン店を何件も経営するビッグ・オーナーになりますが、晩年は、1脚だけの小さな店を1軒残して、あとは全部、師匠にお返しします。私たちの講座もそのようになりました。でも、孔子のような嘆きはありません。むしろ身の丈にあったお仕事ができてとても幸せです。
「歳寒くして、然るのち、松柏の凋(しぼ)むに後るるを知る」といえば、母校の校歌の3番に、「 操(みさお)の山にいや高く 常盤(ときは)のみどり照り映えて 空にけだかき松と柏(かし) 永久(とは)に薫(かを)らんわが胸に」と“松と柏”が歌われています。このことを1年生の担任だった、大月邦彦先生が、漢文の授業で、詳しく解説してくださったことを覚えています。でも解説の内容はさすがに全部忘れました。
 ちなみに、1番と2番は次のとおりです。フシは出だししか覚えていません(笑)。

1
 光にみつるしののめに
 雲紫(くもむらさき)にかがよひて
 若き生命(いのち)にあふれつつ
 仰ぐ理想の嶺(みね)遠し
2
 学びの道にきはみなく
 いそしむ窓にめぐる日の
 三年(みとせ)のきよき友垣(ともがき)と
 新しき世に培(つちか)はん

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論語でジャーナル’25

27,子曰く、弊(やぶ)れたる縕袍(うんぽう)を衣(き)て、狐貉(こかく)を衣(き)る者と立ちて恥ざるものは、それ由(ゆう)か。忮(やぶ)らず求めず、何をもってか臧(よ)らざらん。子路、終身これを誦(しょう)す。子曰く、この道や何をもって臧(よ)しとするに足らん。

 先生が言われた。「ボロボロの綿入れ羽織を着て、狐や貉(むじな)の毛皮を着た人と並んで立って恥ずかしがらないものは、子路ぐらいではないかね。『他人を妬まず、せがまずばいかでか善き人ならざらん』という詩によく合っている」。喜んだ子路は、死ぬまでこの詩を口ずさんでいた。この噂を聞かれて先生が言われた。「この行いは立派だが、善はそれだけで済むものではないのに」。

※浩→難しい漢字の多くて、パソコンで変換しても出てきません。一々「手書き入力」で自分で書き込み、明朝体に変換しました。「貉(むじな)」は変換できました。
 子路について熟知していると、孔子の子路への愛がなお一層納得できます。ネットにまとまった解説があります。そこから拝借して、私なりにまとめてみました。
 ↓
 子路は魯国の出身。孔子門下でも武勇を好み、そのためか性格はいささか軽率なところがある反面、質実剛健たる人物であった。『論語』には、性格の軽率さを孔子に咎められるも、その人物の率直さをもって愛されて、弟子の中で『論語』に出てくる回数が最も多い。司馬遷の『史記』「孔子世家」と「衛康叔世家」によれば、衛の高官に取り立てられて、衛の太子蒯聵(かいかい)の反乱を諫めたが、しまいには「太子には勇気がない。この高殿を放火すれば、太子はきっと孔悝(こうかい)を放逐されるだろう」と言い放ったために、激怒した蒯聵の家臣が投げた戈(ほこ)で落命した。死の直前、冠の紐を切られた彼は、「君子は冠を正しくして死ぬものだ」と言って結び直したと言われる。子路の遺体は「醢(かい)」にされた(死体を塩漬けにして、長期間晒しものにする刑罰)。これを聞いた孔子は悲しみにより、家にあったすべての醢(食用の塩漬け肉)を捨てさせたと伝えられる。なお、衛に乱があったことを聞いた段階ですでに、孔子は「由(子路の実名)は死ぬだろう」と述べたと伝えられる。
 彼は弟子になる前、雄鶏を帽子につけ、豚の皮を腰の剣につけて孔子に無礼を働いたとか。孔子は彼を次第に導いてそれから弟子になりました。孔子は彼が勇敢であること、大胆であることを戒めることが多かった。例えば子路が「聞いたことはすぐに行いましょうか?」とたずねると「慎重にするよう」に言い、冉有(ぜんゆう)が同じことを聞いたら「すぐに行え」と言った。わけは、「由(子路)は人をしのぐからこれを押さえた」と述べた(先進編)。
 また、あるとき孔子は「道が行われないから、いっそ海に出ようか、ついてくるのは由だろう」とその勇敢さを取り上げて彼を喜ばせたが、それに続いて「しかし君には筏の材料がないね」と言った(公治長編)。他方で、彼の琴の音を孔子が批判したために他の門人が彼を軽んじたときには、「由はすでに堂には上がっているのだ」と述べ、彼がすでに高い境地にいることを語っている(先進編)。
 今回の、「敝れたる縕袍(うんぽう)を衣、孤貉(こかく)を衣たる者と立ちて恥じざる者は、其れ由なるか」と外見を取り繕うことのない姿勢を評したあと、やはり「善はそれだけで済むものではない」とたしなめている。たしなめ部分を含めて、全体を1章とする説と、前半と後半を分ける説とあって、貝塚先生は合体説と、吉川先生は、荻生徂徠に倣って分離説を採用されている。私は合体説でいいと思います。いたずら者で愛すべき存在はたくさんいます。野田俊作先生も「人をびっくりさせるのが好き」だそうです。かく言う私も大好きです。小学校6年生くらいに、母の従姉(いとこ)の親子とうちの母と私と妹と大浜海水浴場かへ海水浴に行きました。大きな西瓜を買ってもらえて、私はそれを抱えて砂浜を歩きながら、少し前に学校で「隕石」について習ったのを思い出して、「いんせきじゃー!」と言って、西瓜を砂浜へ落としたら、ものの見事に真っ二つに割れました。大人たちにたっぷり叱られました。あれから、「母の従姉の娘=岡本のおねえちゃん」に、ことあるたびに「浩ちゃんは“おっちょこちょい”だ」と言われていました。大学時代には、ボート部で、年中ほとんど合宿か遠征かで、ろくに下宿にいませんでした。「対抗選手(本ちゃん)」に選ばれてから、コックスを務める1年先輩の柴田浩志氏(惜しくも他界されました)が、津島の大学裏のアパート(「東雲寮」だったか)に住んでいたので、私も隣室を借りました。柴田先輩は、全日本選手権のとき埼玉県戸田まで「自艇」をトラック輸送する段取りなどで力量を発揮された藤原潔・名マネージャーとともに、私を最もかわいがってくださった先輩です。その柴田先輩の隣室に住むことになって、どれだけ嬉しくてたまりませんでした。彼の名前は「浩志」で、私の名前が「浩」で、私のほうが一文字「志」が足りないことで、「お前は志がない」としょっちゅう冷やかされていましたが、それもまた心地良かったです。互いの部屋の合鍵を持ち合って、いつでも自由に出入りできました。彼は落語が大好きで、ラジオで落語番組が始まると、部屋の仕切りの壁をドンドンと叩いて、「おーい、落語が始まるぞ-」と知らせてくれました。あるとき、私の思いつきで、互いの部屋に「呼び鈴」をつけることにしました。ときどき悪戯をして、彼の部屋のブザーを思い切り大きな音のするものに、留守の間にこっそり取り替えておきました。夜、彼がバイトから帰ってきた気配を感じてブザーを押すと、「バー!!!」という大音量で、先輩は「わーっ!!!」とびっくり仰天。あとで大目玉をくらいました。楽しい楽しい学生生活の巻でした。このアパートの家賃は月2000円でした。

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論語でジャーナル’25

26,子曰く、三軍も帥(すい)を奪うべきなり。匹夫も志(こころざし)を奪うべからざるなり。

※浩→良い数字(成果)を聞きたいばかりに部下の申告を鵜呑みにすると……
 例えば、営業リーダーの場合、売上計画をクリアするには、まず部下である営業マン1人1人がどれだけノルマを達成できるかを吟味するはずだ。このとき、彼らの自己申告を鵜呑みにしていたら月末(決算時)になって真っ青になるだろう。したがって、1人1人の売上見込みを正確に弾(はじ)くことは大切である。
「今月の売上はどれくらい見込めそうだ?」
「1000万円です」
「本当か?」
「はい」
「もう一度聞くぞ。それは本当か?」
「いえ……800くらいかもしれません」
「正直に言ってみろ」
「すみません、700万円です」
 会社は、売上をガソリン代わりにして正しい舵取りができるのだ。途中でガス欠してしまえばエンスト(資金ショートで倒産)するしかない。
 もちろん、リーダーとしては景気の良い話を聞きたいはずである。売上見込みが増えれば増えるほど嬉しい。社長や部門長から厳しく追及されずに済む。しかし都合の良い数字をいくら積み上げたところで、所詮は絵に描いた餅に過ぎない。
 ビジネスマンは、数字に関しては都合良く考えたがるものだ。しかし、これは判断ミスの元凶である。“一寸先は闇”。『易経』に「治にいて乱を忘れず」とあるとおりだ。
 リーダーというのは、「常に最悪の事態を想定して対策を講じておくこと」が肝要だ。ヒューマンエラーは必ず起こる。ヒューマンエラーを防ごうと「もっと注意しろ」と怒鳴っても効果はない。きちんとしたシステムを構築し、人為的なミスや失敗をフォローする態勢をとらなければならない。これらのフォローシステムがきちんと機能するようにダブルチェック、トリプルチェックが必要なのである。
 最近は複数の人が独立して同じチェックをし、多数決で合否を決する「デュアルチェック」がはやっている。ダブルチェックだと2番目にチェックする人はどうしても前の人を信用していい加減になる。トリプルの3人目に至っては、ハンコを押すだけで終わることも多い。
 ダブルチェックといえば、私の在職中の、入試採点後のチェック作業を思い出します。すべての作業をダブルチェックするのですが、それでもミスが発見されることが、結構ありました。この仕事に関しては、「性善説」は通用しません。徹底的に「性悪説」で、疑わないと正確な作業はできなかったです。「性善説」では第一採点者の作業を信じて、チェックが甘くなります。一方では競合的で、自分の作業でミスがなかったら、いわゆる“ドヤ顔”をするし、他の先生の作業のミスを見つけると、言葉は穏やかでも内心やはり“ドヤ顔”で担当の先生に見直してもらっていました。
 昭和48年度に備前高校に転勤した当時は、入試は「国語」「数学」「英語」の3科目でした。その後、「理科」と「社会」が加わって5科目に戻りましたが、3科目時代は、社会科の先生たちは(筆者も)「国語」の採点係でした。国語の採点は時間がかかりますから、どうしても全作業が終了するのは最後になります。赴任2年目のこと、予想外にトントン拍子に進んで、他の教科より早く終了して、「万歳ー!」とばかり、メンバー全員そのまま学校近くの居酒屋で互いの労をねぎらっているところへ、学校から呼び出されました。「ミスが見つかったから戻ってこい」と。全員とたんに酔いが醒めて、また一から点検のやり直しにかかりました。そして作業は深夜まで続きました。私は赤穂線で「備前片上」から「西大寺」まで帰るのですが、窯業科(現・セラミック科)に佐賀県出身の新卒の「金岩先生」という方が学校近くに下宿されていて、そこへ転がり込んで雑魚寝しましたす。せっかく仲良しになった金岩先生は、翌年故郷の佐賀県に採用されて、風とともに去っていかれました。昭和51年に国体が佐賀県であって、私は、その年、「朝日レガッタ」と「インターハイ」で、シングルスカル優勝者の柿本研三選手を引率して参加しました。もちろん、金岩先生と連絡を取りました。先生は私たちを有田焼の窯元などへ案内してくださいました。そのとき、記念館でいただいた青磁の「ぐい飲み」を家宝にして今も大切に保管しています。とても綺麗です。今はわが家の宝物です。

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論語でジャーナル’25

26,子曰く、三軍も帥(すい)を奪うべきなり。匹夫も志(こころざし)を奪うべからざるなり。

※浩→さいわい、弘前第三十一連隊は総員38名が全員無事にたどり着けたが、青森歩兵第五連隊は三昼夜さまよったあげく、総員210人中、生存者わずか11名。大きな犠牲を出した。この違いはいったいどこにあったのだろうか?
 福島大尉は雪中行軍の経験があってその怖さを熟知していたため、入念な準備と計画を練っていた。しかも最初から士官中心の少数編成で行軍することを決めていた。これについては上層部から反論があったが「訓練ではなく研究であるからにはこれで十分」と福島大尉も反論する。さらにはすぐに構想に着手し、あっという間に計画概要まで作成して連隊内で情報公開した。以後はじっくり時間をかけて人選を行なった。隊員には研究課題を与えた。出発までの1か月間に雪中行軍のリスクを想定して、対処法を準備させたのである。実際の行軍では、民家に宿泊して十分な休息を取り、地元民をガイド(映画では秋吉久美子さん)に頼み、徹底して隊員の安全を最優先した。もちろん、実際の戦争でこうはいかない。だが、今回はデータ収集のための行軍であり、いたずらに雪山でリスクを冒す必要はないと福島大尉は判断した。
 一方、上層部の命令に背けず無理な大編成で挑まざるをえなかった第五連隊は、装備、食糧準備、編成(下士卒がほとんど)において、すべての判断が甘かった。時間をかけて計画書を完璧に作成し、予行演習も行なっている。ただし、その日は稀に見る好天で、しかも八甲田の入口まで行っただけのものだった。ところが、本番は最悪の天候で、記録破りの寒波に見舞われた。奇跡的に生き残った1人が次のように述べている。「行軍前夜は酒杯を傾け、かなり夜更けまで飲んだ。行軍といってもわずか5里(20㎞)くらいの距離だから温泉に行くつもりで手拭い1本持っただけだった」。この緊張感のない緩んだ空気を醸し出したのは最高責任者の認識である。福島大尉と同様、地元民をガイドにするチャンスは何度もあったが、軍の威信にかけて拒絶している。手拭い1本の気楽さの割にはプライドが高いのである。
 ポイントは、「判断」とは他の誰でもない、リーダーのみに与えられた職務であるということだ。すなわち、会社なら社長、部なら部長、課なら課長、(学校なら校長)、チームならリーダーでなければできない特権事項なのだ。例えば、あなたがチョモランマ(エベレスト)登山隊の隊長だとしよう。頂上はすぐそこに見えている。ところが、先ほどまで快晴だった天候がどんどん怪しくなってきた。下手をすると大荒れになるかもしれない。さて、この極限状況に追い込まれたらあなたはどう判断するだろうか?
(1)せっかくここまで来た。もう二度と挑戦できない。イチかバチかやってみよう。
(2)残念だがここで下山する。無念だけれども、皆、いいな?
(3)途中まで下山して、天候次第で再アタックしよう。
 (1)は人命を軽く考えすぎではないか。「ここまで来たからには」と誰もが思う。名誉欲もある。死んでも悔いなしと盛り上がるかもしれない。だが、こういうムードがチームに蔓延しているときこそリーダーは冷静に判断しなければならない。しかも、「あのとき、相談したら君がこう言った」などと責任転嫁はできない。リーダーはひとりで決めて、ひとりで責任を負わなければならないのである。
 (3)のような中途半端な態度ではどちらも達成できない。下山も命がけなのである。
 ここは(2)の選択こそリーダーの判断である。優先順位の筆頭は何か。登頂することか、それとも全員無事に帰還させることか。どちらを優先すべきなのか?
 登頂し、さらに無事に帰還できればベストだが、そんな希望的観測に振り回されていたら遭難してしまう。ここは最悪の事態を想定して現実的に判断すべきだ。すなわち、ベストが無理ならばセカンドベストを追求すべきではないか。では、セカンドベストはどちらなのか?
 失敗の対処法のみならず、すべての仕事は優先順位に則って行うべきである。優先順位は目的に近いほうが高くなる。「雪中行軍のデータ収集」が目的ならば、「地元民をガイドで雇う」「民家に分宿する」「少人数で実行する」はいずれも手段である。重要なのは、目的を達成するための手段である。プロジェクトの目的は変えられないが、手段はいかように変えても構わない、ということだ。(うーん、アドラー心理学もそうです。)
 もちろん、ほとんどのビジネスマンも同じように発想していると思う。このとき、ベストだけでなく、セカンドベスト、サードベストというように、優先順位のランキングを頭の中に想定しておくことが大切である。
 事態は刻々と変化する。スピード時代ならばなおさらである。昨日の正解はもう明日には不正解かもしれないのだ。リーダーの希望的観測が会社(組織)を間違った方向に進める。「この前は危なかったけれどもなんとか回避できた。きっと今度も大丈夫だろう」と、何の根拠もないくせに平気でこう考える。この前うまくいったことが「偶然=たまたま」ではなく、「必然=しかるべく」と思い込んでしまうのである。
 個人であれば自分が痛い目にあうだけですむが、ビジネスにおいてはそうもいかない。売上や利益、資金等々に直接関係するリーダーが思い込みで、希望的観測で予測していたら、会社(組織)はとんでもなく間違った方向に進んでしまう。(つづく)

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26,子曰く、三軍も帥(すい)を奪うべきなり。匹夫も志(こころざし)を奪うべからざるなり。

 先生が言われた。「三軍のような大軍でも、意志が統一していないと、大将を捕らえて無理に指揮権を横取りすることができる。これに反して、弱い1個の人民でも、決心していると、暴力でその意志を曲げさせることはできない」。

※浩→孔子はここでは、1個の人間の意志力・精神力が確固としていれば、いかなる外界の暴力の圧迫にも打ち勝つことができると信じているように見えます。
 吉川幸次郎先生は、「これは人間の主体性についての議論である」と解説されます。この「人間の主体性」という表現が嬉しいです。何しろ、アドラー心理学の基本前提の1つに「個人の主体性」がありますから。「個人」というのは、個人主義・利己主義の個人ではありません。「個人」というのは英語でindividualで、「分割できない」という意味です。人内部のパーツは拮抗対立するものではなくて、それらは分業協力し合って「全体」を構成しているという意味です。
 「大軍でも意志が統一していないと指揮権を横取りされる」というと、思い出すのは、新田次郎の「八甲田山・死の彷徨」です。映画にもなりました。東映を退社してフリーになった高倉健さんの主演で大評判になりましたが、私は映画より先に原作を読んでいました。映画のタイトルは短くなって「八甲田山」でした。原作を読んだときは、指揮の乱れからほぼ全滅する悲劇に涙しました。映画では、組織の指揮統率のあり方の違いに注目しました。健さんの、研究し尽くして決定された「小隊編成」では、1名も犠牲者を出すことなく八甲田踏破に成功します。一方、北大路欣也・中隊長率いる中隊に三國連太郎・大隊長が随行した「大隊編成」では、指揮系統が2本立てとなって大混乱の末、ほぼ全滅してしまいます。映画では、組織の指揮統率のあり方の違いが丁寧に描かれていました。健さんや北大路欣也さんの名演技が凄かったです。
 ネットに、「八甲田山の悲劇に学ぶ、楽観的すぎるリーダーの害」(中尾政之:東京大学大学院工学系研究科教授)というのがありました。凄いのを見つけました。とても長い長い記事ですが、ここで少しずつ読ませていただきます。

 引用→生産性が感じられない会議と同様に、失敗のリカバリーショットについて議して決せず、決して行わずという会社も少なくない。こうなる理由は、
「もう少し様子を見よう」
「そのうち状況が(いいほうに)変わるかもしれない」
 という淡い期待が持ち上がってくるからである。もちろん、こんなものは宝くじで3億円を当てるよりも確率は低いに決まっている。これが失敗学における「楽観視の法則」である。しかし、他力本願で仕事をされては困る。
 希望的観測が高じると、いったいどんな悲劇が待っているのだろうか。
 1902年1月23日、旧青森歩兵第五連隊第二大隊が青森市を出発、三本木(現十和田市)に向かう途中に大事故が起きた。世界の山岳遭難史の中でも類を見ないほどの悲惨な事故だった。この大事故は軍事訓練だったので当時、事実は伏せられていたが、後年、映画になって広く知れわたることになる。すなわち、「八甲田山・死の彷徨」である(本当は八甲田山という山はなく、連峰を総称する呼び方である)。
 雪中行軍を決行した狙いは、目前に迫りつつあった日露戦争対策である。陸軍による寒冷地戦の研究(シミュレーション)の一環として展開された。
 第八師団青森歩兵第五連隊(隊長神成文吉大尉)と、弘前第三十一連隊(隊長福島泰蔵大尉)が選ばれ、冬の八甲田を互いに反対側から登るのだが、折しも記録的な寒波とすさまじい吹雪に遭遇する。(つづく)

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論語でジャーナル’25

25,子曰く、忠信に主(した)しみ、己れに如(し)かざる者を友とするなかれ、過てば則ち改むるに憚ることなかれ。

 先生が言われた。「律儀で約束をたがえない人に昵懇(じっこん)を願って、自分に及ばない者と友だちにならないこと。過ちがあれば、素直に認めてすぐさま訂正することだ」。

※浩→「学事篇」第八章の後半と同文です。「前半」は、「君子は重からざれば則ち威あらず、学べば則ち固ならず」でした。意味は、「紳士はどっしりかまえていないと威厳がない。学べば頑固でなくなる」ということです。“どっしりかまえて”は、飛躍するかもしれないですが、例の「得意淡然、失意泰然」のような感じがします。心理学的には、「未来を恐れず、過去を悔やまず」、すなわち不安や後悔に揺れないで、「今ここ」でしっかり生きたいです。過ちのないことを期待したいですが、人間はどこまでも不完全で、どうしても過ちを免れられないです。孔子は、弟子たちの過ちを深く咎めないで、同じ過ちを再びしないことを説きました。これが孔子の人間味溢れるところです。学校の生活指導は「教条主義」の典型のようです。校則を再検討するよう、ようやく文科省が腰を上げたようですが、現場では旧態依然のままのようです。エーリッヒ・フロムの『自由からの逃走』を再読しないといけません。

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