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論語でジャーナル’25

14,子、九夷(きゅうい)に居らんことを欲す。或る人曰く、陋(いや)しきことこれを如何(いかん)せん。子曰く、君子これに居らば、何の陋しきことかこれあらん。

 先生が東方海上の未開民族・九夷の国に移住しようとされた。さるお方が言われた。「むさ苦しいところですが、どんなものでしょうか」。先生が言われた。「君子がそこに住めば、自然に文化に化せられます。むさ苦しいことなど問題ではありません」。

※浩→春秋時代の中国では、周辺諸民族を、「東夷」「西戎(せいじゅう)」「南蛮」「北狄(ほくてき)」と、軽蔑していました。後漢ごろには、東方海上の「未開民族」として、①玄莬(げんと)②楽浪③高麗④満飾⑤鳧臾(ふゆ)⑥索家(さくか)⑦東屠(とうと)⑧倭人⑨天鄙(てんぴ)の九つを「九夷」と称しました。このうち①~③は朝鮮半島、④~⑦は満州、⑧は日本です。“中華思想”というのがあります。ネットによくまとまった記事がありました。
 ↓引用します
 漢民族は自国を世界の中心にあって、花が咲きほこっている国という意味で「中華」と言い、その周辺の異民族に優越すると考えていた。そのような漢民族の思考を中華思想、あるいは中華意識、華夷思想とも言う。渭水流域の中原に成立した周王朝に始まり、春秋・戦国時代を経て形成され、漢代には確固たる漢民族の世界観となった。周辺民族をその方面別に東夷、南蛮、西戎、北狄と呼んだ。漢民族はこれらの民族を異民族ととらえたが、多くは民族的に同一である。また、これらの言葉には当初は蔑視の意味はなかったが、周代になると犬戎(けんじゅう)と言われる北方民族の侵入が始まり、戦国時代から秦時代・漢代になると強大な匈奴帝国の圧迫を受けるようになって、それへの恐怖心から蔑視の意味が含まれるようになった。
 漢・後漢や三国時代、隋・唐など漢民族の王朝は、周辺諸民族に対して中華思想にもとづいて冊封体制という国際秩序を作り上げた。その間、五胡十六国から北朝の諸王朝や契丹(きったん)族の遼や女真族の金(浩→井上靖『敦煌』に登場している。映画ではその王を渡瀬恒彦が演じていた)などの華北支配を受けることもあり、特に宋代の朱子学では漢民族の中国支配の正当性を強調するため、華夷の別を強調するようになった。
 モンゴル人の元(げん)、満州人の清(しん)による中国支配の時期には、中華思想は変質し、非漢民族でも儒教や漢字など漢文化を受容すれば「中国の民」であると考えられるようになった。朝鮮(李朝)では、清に服属しながら、清は非漢民族ではないので、むしろ儒教の正統性は朝鮮が継承したという意識から小中華思想という事大的な考えが生じることとなった。
 そして「中華民国」から、中華という語句は中国のすべての民族を含む国家の名称として用いられるようになる。なお、自国を他の諸民族の国家に優越するという民族感情はどの民族にも認められる(古代ギリシア人が異民族をバルバロイとしたことなど)のであり、偏狭なナショナリズム(その最も行き過ぎたものがナチスのアーリア人信仰)に陥らないためにも他の文明に対する理解と寛容が必要であり、世界史の学習もそのために有効であると言える。(引用終わり)
 魯国の政治は、豪族の専制によって腐敗していましたが、特に季氏の執事・陽虎が紀元前505年~501年にかけて、季氏を抑えて一時魯の国政を左右するに至って、混乱は極に達しました。孔子はこのころ海上に逃れようとしたと考えられます。人気の学者である孔子を味方にしようと熱心に勧誘していた陽虎が、この噂を聞いて、引き留めようとして、「むさ苦しいところですが、どんなものでしょうか」と言ったのに対して、孔子が「君子がそこに住めば、文化の威力でもってむさ苦しさは消えてなくなる。なんのむさ苦しさがあるものか」とはねつけました。昔、西郷隆盛が何度も奄美大島へ流されましたが、そのために島の文化が向上しました。今は、大都市部から地方への転勤をイヤがる人がいますが、有徳・博学・多彩な人材の地域間の交流によって、全域の文化が向上していくことを考えると、転勤を避けるようなチンケなことを考えるのは恥としたいものです。相棒・児玉先生は、岡山から備前へ、さらに倉敷へ、さらに津山へと転勤されて、アドラー心理学が拡がりました。なお児玉先生は西郷どんと同郷の“よかにせどん”です。残念なのは、倉敷も津山も学校の中だけのアドラー心理学で、地域に根ざしていかないことです。ここまで思うのは欲が深いのでしょうか。かつて野田先生が、「創造的思想も時代とともに土着化していく」という論文を出されました。今アドラー心理学がそうならないことを祈ります。そしてそのための実践をささやかながら怠らないようにします。

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論語でジャーナル’25

13,子貢曰く、斯(ここ)に美玉あり、匵(ひつぎ)に韞(おさ)めて諸(これ)を蔵(ぞう)せんか、善賈(ぜんこ)を求めて諸を沽(う)らんか。子曰く、沽らんかな、沽らんかな。我は賈(こ)を待つ者なり。

 子貢がおたずねした。「仮に綺麗な宝石があるとします。箱に入れてしまい込んでおいたものでしょうか。いい買い手を見つけて売ったものでしょうか?」。先生が答えられた。「売るよ、もちろん売るよ。でも自分は店で買い手を待って売ろうと言うのだがね」。

※浩→魯国を辞職した孔子に、子貢がこの比喩で、もう一度仕官する希望があるかどうか、たずねています。孔子は、「売るよ、売るよ。私は良い値段で買ってもらえるのを待っている」と答えた。新旧解釈の違いがあって、古注では、「もちろん仕官したいが、こちらから押しかけて売り込みはしない。店で買い手が来るのを待つ、すなわち、君主が招聘するのを待っていると。新注では、「売ろう、売ろう、と積極的に就活をする」となっています。でもこれでは、もっと積極的に猟官運動(官職を得ようと有力者に働きかけたり、何らかの形で経綸を述べたりする行為)をすることを意味して、貪欲に感じれらますから、古注のほうが謙虚な孔子にはふさわしいように思えます。
 相棒・児玉先生の1つ前の勤務校では、2019年度末に校長さんが定年退職されて、2020年度には、もと倉敷工業高校生徒課長でラグビー部監督のY先生が赴任されした。年齢は児玉先生が少し上です。倉工ではY先生が監督、児玉先生が部長で、「Y-K」コンビとして花園への出場させるなど、数々の実績を残されました。そのコンビが津山で復活しました。私も倉工でスクールカウンセラーとアドラー心理学の公開講演会を務めましたので、よく存じあげています。アドラー心理学のよき理解者で、講座にもときどき参加されました。そして津山ではほぼ皆勤で参加されました。
 K先生は、自分から「売る、売る」と貪欲に動かれないで、むしろ大きな流れに身を任せている感じでした。ご本人の真意はわかりませんが。2017年度に津山へ赴任されて、2年間は「ヒラ」でカウンセリング活動をされました。3年目に「相談主任」になられるとすぐに、私がスクールカウンセラーとして招かれました。そして4年目に「相談室長」に就任されました。その年、好タイミングでY先生が校長として赴任されました。児玉先生には幸運がつきまとっている感じです。私たちの後継者を養成しないといけないのですが、倉敷では実現しませんでしたが、津山の地では少数ですが若い先生がアドラー心理学の魅力に取り憑かれました。あれから5年以上…ほぼ全滅です。

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 今日はこちらでご覧ください。↓


http://www2.oninet.ne.jp/kaidaiji/dai3keiji-11-17.html

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論語でジャーナル’25

11,顔淵、喟(き)然として歎じて曰く、これを仰げば弥(いよいよ)高く、これを鑚(き)れば弥(いよいよ)堅く、これを膽(み)るに前に在(あ)れば、忽焉(こつえん)として後(しりえ)に在り、夫子、循循然として善く人を誘(いざな)う。我を博(ひろ)むるに文をもってし、我を約するに礼をもってす。罷(や)まんと欲すれども能(あた)わず。既に吾が才を竭(つ)くすに、立つ所ありて卓爾たるがごとし。これに従わんと雖(いえど)も由(よ)る末(なき)なり。

 顔淵(顔回)が、「はあっ」と溜息をついて言うには、先生の人格は、仰げば仰ぐほどいよいよ高く、先生の人格の中に切り込もうとすればするほど、いよいよ堅い。ふと見れば、前にいられるかと思えば、ふいにまた後ろにいられる。つまり先生の人格と、その人格にもとづく行動は、自由自在である。先生は順序立てて、巧みに人を導かれる。文化で私の視野を広めてくださり、礼の法則で私を人間の教養の中心へ引き寄せてくださる。そうした先生の教育に私はついていかざるをえないのであり、途中でやめようと思っても、そうできないようになさる。私は自分の才能のあるだけを出し尽くしたつもりでいるが、先生はさらに新しいものを、高々と樹立されて、遙か彼方から、私を招かれるように見える。ついていこうと思っても、なかなかよるべき方法がない。

※浩→孔子の最愛の弟子・顔淵が、先生を讃えた言葉です。私にとっては、そのまま恩師・野田俊作先生を讃える言葉としてピッタリです。もっとも、野田先生にはご迷惑かもしれませんが、悪口ではないのでお許しいただけるでしょう。
 野田先生は、2時間くらいの単独の講演会では、台本もメモもなしで、お話なさいます。質疑応答も当然そうですが、このことは前にも述べました。もっとすごいのは、各種講座です。例えば、カウンセラー養成講座は全8日間、通算48時間の講義と実習を台本なしでなさいます。何も見ないでどんどんお話が飛び出します。図表もすらすらと板書されます。休憩時間に、親しくなった受講者たちが一塊になって話していると、いつの間にか後ろに立たれています。近づかれても「人の気配」を感じさせません。忍者みたいです。ああしてアンテナを張り巡らして、情報収集なさっているのでしょうか。総会などでは、いつも児玉先生と最後列の端の席に並んで座って、2人でひそひそ話をしていて、ひょいと横を見ると、野田先生が立たれていてびっくりします。時には2人の会話にいつの間にか入られています。ちょっとエッチな話などしていると、突然、そばで「朝からなんてことを」とニコニコとおっしゃって、サッと去っていかれます。講義では理論を私たちに伝授され、実習では「共同体感覚」体験・実践の後押しをしてくださり、事例検討会では、痒いところに手が届くような丁寧なアドバイスをしてくださいました。顔淵のように、あとをついていこうなどと、大それたことは考えたことはありませんが、アドラー心理学の学習を、途中でやめようと考えたことは、顔淵と一緒で、一度もありません。顔淵のように、自分の才能をあるだけ出し尽くそうにも、「あるだけ」がまことに乏しい。自分の「知恵袋」は、底のほうにほんの少しだけ入っていて、あとは大きな空洞です。まだまだ学びたい一心ですが、先生亡きあと、直接学ぶことはできませんが、せめて、残された文献・資料から今後もしっかり学び続けます。

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10,子、斉哀(しさい)の者と冕衣裳(べんいしょう)の者と瞽者(こしゃ)とを見れば、これを見て少(わか)しと雖(いえど)も必ず作(た)つ。これを過ぐれば必ず趨(はし)る。

 先生は、荒い麻布で裁(た)ちはなしの喪服を着けた人と、高官の礼服を着けた人と、盲人に会われたときは、出会った相手が年若くても必ず座から立ち上がり、通り過ぎるときは敬意を払って小走りされた。

※浩→「斉哀(しさい)」は喪服の一種で、粗末な麻布で裁ちはなして縁を縫い返ししない。3か月以上近親の喪に服する人が着けます。「冕衣裳(べんいしょう)」は大夫(たいふ)以上の人が着ける礼服礼冠。「瞽者(こしゃ)」は盲人。盲人さんはたいてい音楽家で、孔子は彼らに「詩経」を習ったそうです。日本でも、琵琶法師は盲人さんで、ラフカディオ・ハーンの『怪談』の「耳なし芳一」がそうでした。東宝映画では中村嘉葎雄さんが熱演されていました。ハーンは今の朝ドラ「ばけばけ」の登場人物です。
 相手が年若でも敬意を払う人といえば、私には野田俊作先生です。先生は6歳年下ではありますが、大師匠です。それは単に「碩学」「万能」のためではなく、その不思議とも思えるお人柄も関係があります。その野田先生からは計り知れないほどの「知恵」を授かりましたが、こちらからは何もお返しできないままお亡くなりになりました。講演会や各種講座の受講料は当然お払いしましたが、それは微々たるものです。
 万能といえば、レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452-1519)が、イタリアのルネサンス期を代表する芸術家で、音楽、建築、数学、幾何学、解剖学、生理学、動植物学、天文学、気象学、地質学、地理学、物理学、光学、力学、土木工学など様々な分野に顕著な業績と手稿を残した「万能人」です。野田先生は20世紀から21世紀にかけての「万能人」だと思います。私たちが、どんな努力をしても、その足もとにさえ近づけないほどのカリスマです。野田先生のカリスマ性は「質疑応答」の回答でもうかがえます。あらゆるジャンルの質問に、「はい次」「はい次」と、ノートもメモも見ないで、即答されます。出てくる言葉の1つ1つが「金言」として、すーっと入ってきてます。何かのときに、関係あるキーワードに触発されると、自然に口から、かつて聞いた金言がそのまま出てきます。しかも、温かみ溢れる関西弁で。
 礼服に関しては、昔は厳重で、女性は、昔は和装・洋装と選択肢があって、和服で卒業式に参加されるお母さんもいらっしゃいました。最近はほとんど洋装になって、たまに和服の方が見えると、ドキッとするくらい魅力的です。それと対照的に、成人式の女性の和服はケバケバしくていただけません。色はほとんど原色、模様は大雑把です。微塵も「気品」が感じられません。しかも誰もが同じような白い襟巻き。こういう服装を望む新成人自身が無分別なのか、そういうものをデザインして販売する人のセンスが問題なのかわかりませんが、「みんな一緒」で、個性のなさを感じさせます。ステレオタイプ。昔は、和装については、母親から娘へときちんと伝承されました。田舎のわが家の座敷には和箪笥があって、そばへ寄ると、樟脳の匂いがして、引き出しを開け閉めすると、「ファーン」と面白い音がするのを喜んで、私も子どものころしょちゅう触っていました。
 男性の礼服は、女性に較べるとシンプルで、吉事・凶事の両方ともにダブルの黒服で間に合います。私自身の結婚式は貸衣装でモーニングを借りました。卒業生の仲人を何件かお受けしましたが、そのときは黒ダブルでした。その後モーニングがいいと思って誂えましたが、まだ一度も手を通すことなく、今も洋服ダンスに眠っています。もったいない。
 岡山工業高校で機械科を受け持ったときの卒業式に一度だけ、紋付・袴で出たことがあります。1983年でしたか、卒業式の前日に、校長さんがわざわざ、「明日の卒業式は必ずネクタイを着用してください」と、日ごろジャージ姿の先生が結構いらしゃったためでしょうか、そういうご注意がありました。そのころ反抗的だった(笑)私は、なぜかカチンときて、なんとかネクタイをしないで式に出られないものかと思案して、和服に思い至りました。ちょうど、結婚式でお世話になった貸衣装屋が学校のすぐ近所にあったため、そこで一式お借りして着付けしてもらって和服の正装で出席しました。翌日、校長さんから、「まいった」と言われました。見栄の大森は“ドヤ顔”をしました。その当時は、マイカーも黒いフェアレディZでした。今はダイハツの軽四です(笑)。

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9,子曰く、鳳鳥(ほうちょう)至らず、河、図(と)を出さず。吾已(や)んぬるかな。

 先生が言われた。「吉兆の鳳凰の鳥は舞い降りてこない。黄河から誰も神秘の図書を背負って出てこない。私の運命もこれでおしまいだ」。

※浩→鳳凰は鳥類の王として空想された美麗な羽の大鳥で、聖なる天子がこの世に現れて理想の政治をするとき、やって来る。そんな聖天子が現れると、黄河から、すぐれた法則を図で示した文書が浮かび出る。そういう伝説があったそうです。
 ところが、自分は70歳を過ぎたというのに、鳳凰は飛んでこないし、黄河からは何も出てこない。もう絶望だ。
 聖人としてあがめられる孔子、しかも、「怪力乱神を語らず」の孔子が、まさかの“絶望名言”です。自身の人格形成の歩みとしては、「七十にして心の欲するところに従いて矩をこえず」と、70歳になると欲望のままに動いても人間の法則を犯さないところまで完成されていたはずです。「絶望」に関する解釈は2つあるそうで、1つは、自分自身が帝王の地位を得て理想の世界を実現することを期待していたが、そういう天命はなかったこと。もう1つは、理想の帝王が孔子の時代についに現れなかったこと。前者は、学者である孔子なのに「まさか」とも思われますが、あの時代ですからあっても当然だと、吉川幸次郎先生は述べられています。古代ギリシャのプラトンも“哲人政治”といって、哲学者が王になって政治をするか、政治家が哲学者になって政治をするのを理想としましたが、そういう理想の王は現れることはなくて、アテネ郊外に「アカデメイア」という学園を開いて、もっぱら教育に専念したことは有名です。孔子もそうだと思っていましたが、やはり野心はあったのでしょう。
 野田俊作先生がもしも文部科学大臣になられたら、全国の学校がアドラー心理学で運営されるようになって、理想の教育が実現すると、私などは安易に空想していましたが、それはありえませんでした。それなら、弟子・生徒であるわれわれが文科省とか県の教育委員会とかに入って改革をすればいいのですが、今生では間に合いません。わが県では、私がまだ在職中、某・中学校の養護教諭さんが県の指導主事になられました。私は、この方が勤務される中学校の職員研修に二度呼んでいただきました。この方は、指導主事任期途中で、ご自分には向いていないと、現場へ戻られました。それでも任期中には私にお仕事が回ってきました。全県の中学校養護教諭研修会での講演を何度か依頼されました。カウンセリングに関しては、県の教育センターに知人がいて、その方の推薦で、2年間「非常勤相談員」になりました。当時、ロジャース派の殿堂のような「教育センター」の相談室で、私1人がアドラー心理学でカウンセリングをしていました。それでも、こちらの期待どおりにはお客様が集まらなくて、絶望することもありしたが、孔子様ほでではありません。ありがたいことです。

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8,子曰く、吾知ることあらんや、知ることなきなり。鄙夫(ひふ)あり、来たりて我に問う、空空(こうこう)如たり。我その両端を叩いて竭(つ)くす。

 先生が言われた。「私が物知りだって?いや物知りなどではないよ。しかし、名もない男が訪ねてきて私に質問し、その態度が馬鹿正直だとしよう。私は話の始めから終わりまで問いただして、十分に答えてやるまでだよ」。

※浩→「空空如」は、クソ真面目な態度。「鄙夫」は身分の卑しい、したがって知識の乏しい男。
 ここも新旧で解釈が違います。古注は、「私はインテリぶることがあろうか。そうしてインテリの特権として、知恵を自分だけの専有とし、人から問われた場合に、知識の出し惜しみをするということがあろうか。そうした態度はない」と読みます。
 新注は、私は知識を持っている者と言えるであろうか、そうではない。無知な人間なのだ。実際は知者ではないが、知者のように思われるのは、誰の質問に対しても、丁寧に答えるところから生まれた評判にすぎない」です。
 いずれにしても、ソクラテスの「無知の知」と同じようです。真の知者であろうと、世間からそう思われているだけであろうとも、「実るほど頭(こうべ)を垂れる稲穂かな」で、謙虚で、人からの質問には、その真意を確認して、丁寧に答えていく。かくありたいものです。野田俊作先生の講演会には、必ず「質疑応答」がついていて、先生はたくさんの質問に次々と即答されました。時々、講演そのものよりも、「質疑応答」のほうが面白いのがあったりしました。私も、先生を倣って、自分が講義・講演したあとに、質問に答えていますが、だいたい即答できます。慎ましく謙虚(?)なはずの自分が、こんなことがよくできるものだと、ときどき不思議になります。何とかできているのは、アドラー心理学を学んでいるからです。この世で起こることについては、アドラー心理学のどこかに回答があります。これは助かります。野田先生がご健在のときは「カウンセラー養成講座」が毎年夏にあって、全8日のうち2日を見学参加していました。受講者同士が、カウンセラー役とクライエント役になって、実際の自分の抱えている問題をケースとして扱います。まずクライエントから情報収集しますが、この時点で解決の「落としどころ」を決めてかからないと合格しないのですが、これが難作業で、よくよくアドラー心理学の理論と技法に通じていないときるわざではありません。先生は、このころは「パセージ」と「パセージ・プラス」のどこかに回答があるとおっしゃっていました。昔に比べると、ずいぶんシンプルになった感じがします。現場ではこれだけでは対応できない体験を私もときどきしました。そういうときには、ずっと昔教わった古典的技法を引っ張り出すと、うまく運びます。で、現在進行中の講座では、主に「温故知新」方針で講義をしています。概ね好評のようです。

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7,牢曰く、子云(のたも)う、吾試(もちい)られず、故に芸ありと。

 琴牢(きんろう)が言った。「先生は、『自分は世間に用いられなかったため多芸になったのだ』と言われた。

※浩→これは、前章の孔子の言葉をそばで聞いていた弟子の琴牢が、その結論のところだけ記憶していたのでしょう。
 世間に用いられないために多芸になったということは、「用いられたい」という願いがあったからでしょう。多様な技術を身につけていれば、どれかが世間に認められて、職にありつけそうに思います。現代ふうに言えば、「就活」でしょうか。企業や官公庁へ自分を売り込むためには、多種類の技能を修得しておくと採用される確率が高くなりそうです。私が高校教師の職に就けたつけたのは、大学で「高校教諭免許」を修得していたことと、低得点ながら採用試験に合格したためで、特に「履歴書」に書けるほどの特技や資格はありませんでした。在職中に、高校生の履歴書書きを指導したことがありますが、「免許・資格」という欄に、生徒たちは取得している資格などをぎっしり書き込んでいました。工業系でしたから、それはそれは多種類です。「危険物」「測量」「電気工事士」「ボイラ技士」「英語検定○級」……、昔は「算盤(そろばん)検定」や「計算尺検定」などがありました。「算盤」は今でもあるでしょうが、「計算尺」はコンピューターに取って代わられました。「パソコン検定」です。
 どういう検査か─
○知識:パソコンに関する知識の有無を問うタイプの試験である。機器や機能に関する知識を問われることが多いが、インターネット人口増加に伴うネット上でのトラブルや、個人や企業の情報流出の増加といった昨今の社会問題を踏まえ、パソコンを通じた情報活用におけるマナー・心構えを問う問題も出題される傾向にある。試験形態について、従来、筆記試験で行われることが一般的であったが、近年の傾向として、パソコン上にて実施するケース(Computer Based Testing、通称CBTシステムを利用)も増加している。
○スピード:文字どおり、パソコンを素早く操作できるかを測定するタイプの検定試験である。タイピングにおける入力数を測定する文書作成型の試験が代表的だが、多くの検定試験には制限時間が設けられているため、「知識」や「技能」を問う検定であっても、解答にスピードが求められることは言うまでもない。
○技能:パソコンの各種機能を正しく運用できるかを測定することを主眼に置くタイプの試験である。特に受検者の多いものとしては、Microsoft社のアプリケーションソフトであるMicrosoft Office(中でもWord、Excelの技能を問う試験が多いが、PowerPointを用いたプレゼンテーション能力を問う試験も増加している)の運用能力を測定する試験であり、多くの試験団体が名称や形式を変えて実施している。
 他にも、Webデザインや画像処理、プログラム作成の能力を測定する検定試験が存在しており、これらの分野に特化した検定試験をメインに実施する試験団体もあります。
 そういえば、私は在職中に、ボイラ技士講習会を受講する生徒を引率したとき、自分も受講して、試験も受けたら、「2級ボイラ技士免許」に合格しました。これは終身免許ですが、一度もボイラを運転したことはありません。免許証には、20歳台の超若い自分の顔写真が貼ってあって、笑ってしまいます。「自動者運転免許」は、高梁工業高在職中(30歳頃)に、3年生が教習所へ行くときに、自分も一緒に行きました。生徒がどんどん「見極め」に合格して進級していくのに、不器用な私は何度も補習を受けて、彼らよりもかなり後れて卒業しました。免許取得の試験では、さすがに学科は満点に近かったです。実技は免除でした。他には、スポーツジムへ通っていた関係で、「日本ボディビル連盟」の「ウエイトトレーニング指導者」と「ボディビルディング審査員」の免許をいただきました。これらは75歳をすぎたとき、返上しました。自分がトレーニングするのに免許はいりませんから。変わったものとしては「16ミリ映写技師免許」というのを県の教育委員会からもらっていました。県のライブラリーが保管する16ミリ映画を自分の授業で上映できる免許でした。これは岡山県内のみで使えるもので、他県では通用しません。フィルム映画はビデオの普及とともに使われなくなりましたが、当時はたびたび利用していました。講習会では、切れたフィルムのつなぎ方を習ったことを覚えています。「ニューシネマパラダイス」という映画を観て思い出しました。
 何と言っても最大の贈り物は、「アドラー心理学カウンセラー免許」です。1992年に取得した際は、ありがたいことに「筆記試験」だけでした。現在は「実技試験」だけです。 手先が不器用な筆者は、自分に使える技術としては多芸ではないですが、鑑賞するものは広範囲にわたっています。音楽は、クラシックからポップスや演歌まで聴きます。歌舞伎や落語などの伝統芸能も好きです。旅行も好きでしたが、年齢とともに、出かけなくなりました。コロナ前は、歌舞伎見物と年1回の「アドラー心理学会・総会」で各地へ行けるのが唯一の旅行でした。コロナが収まった現在は、高齢のためすっかり出不精になってしまいました。自宅とスポーツジムとスーパーマーケットへ自転車で出かけるのが常です。自動車の運転も雨天以外はほとんどしなくなりました。とにかく無理をしない。焦らない。少しの手間を惜しまない。急がば回れです。

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6,大宰(たいさい)、子貢に問いて曰く、夫子(ふうし)は聖者か、何ぞそれ多能なる。子貢曰く、固(もと)より天の縦(ゆる)せる将聖(しょうせい)にしてまた多能なり。子これを聞きて曰く、大宰は我を知れる者か。吾少(わか)くして賤(いや)しかりき。故に鄙事(ひじ)に多能なり。君子多ならんや、多ならざるなり。

 呉の大臣が、子貢に訊(き)いた。「先生は聖人であられるのか。それにしてはなぜあんなに多芸なのか」。子貢が答えた。「仰せのとおり先生は天に許された大聖人ですが、またその上に多芸なのです」。先生がこのことを聞かれて言われた。「大臣は自分のことをよく理解しているね。自分は若いとき身分が低かった。そのためたくさんつまらぬ仕事ができるようなったのだ。君子は多芸であっていいだろうか、いや、多芸ではいけないのだよ」。

※浩→「大宰」は総理大臣のこと。どこの国の大臣か不明という説がありますが、有力な説として、孔子と同時代の新興の覇者・呉の大宰・嚭(ひ)のようです。魯と呉の外交交渉の際、魯のスポークスマン・子貢と、会議のあと会話したときのことであろうと言われます。
 但し、解釈は新旧で違っていて、貝塚先生は古注を、吉川先生は新注を採用されています。
 古注では、大宰が、「君の先生は聖人なのか?それにしてはつまらないことに多芸すぎるではないか」と聞いたのに対して、子貢は、「先生は天から許されたほんとの聖人だが、その上に多芸なのだ」と、明確さを欠く答えをしています。「為政篇」に「君子は器ならず」とあるように、聖人が多芸ではおかしいという考え方が時代の通念でした。孔子は、自分の多芸は、青年時代の貧しさのため、やむをえずそうなったと、子貢に答えている。そういえば、日本では「器用貧乏」という言葉があります。これと対比して「一芸に秀でる」というのがあるんでしょう。
 新注では、大宰が、「あなたの先生は、世で噂するとおり、全能の人なんでしょうね。実にいろいろの才能を持っていらっしゃる。びっくりするほどたくさんの才能を持っていらっしゃる」と言って、子貢は、「そうです。天はその意志として、先生の人格を十分伸ばせるだけ伸ばして、聖人の地位に近づけようとしているのです。その上にまた、さまざまの才能を持っていらっしゃるのは、あなたのお説のとおりです」と答えました。孔子は、さすがで、自分が聖者であるかどうかにはまったく触れないで、「多能」だけを取り上げて、それを事実としては肯定しつつ、価値としては否定していて、ここに文章としての面白さがある、と吉川先生は解説されます。
 「多能・多芸」は可か不可か?どちらの説も一理ありそうで、新旧解釈が分かれているのでしょう。「君子は器ならず」というと、技術軽視のように受け取れます。孔子は自分が多能・多芸なのは、若いころ貧しくて、いろんなことを仕事としてやったため、と、まあ、言い訳をしているようです。古代ギリシャでも、哲学者が「観想的生活」に没頭できたのは、「生産活動」は奴隷が担ったからです。今なら「技術軽視」になりそうです。洋の東西を問わず、古代「貴族社会」は奴隷制でしたから、この構造は、現代社会には通じません。むしろ世間の風潮としては、大学でも理系が重視されて、文系は軽視されている節もあります。最近は「理科離れ」が進んでいるとか。これはどういうことでしょう?
 職場で有能・器用な人は重用されて、やたら業務が増えたりして悲鳴を上げていると「器用貧乏」です。そのために鬱になる人もいます。そういう人を守る意味でも、閑暇を大事にして、じっくり思索にふける時間を確保しないといけないでしょう。「学校」を表す英語のschoolは、ギリシア語の「スコレー(閑暇)」から来ています。「閑暇」は“ヒマ”で、“ゆとり”です。“ゆとりの時間”がないと、なるほど「学問」はできません。学ぶことと閑暇とは結びついています。昔は、子どもが進学しようと思っても、親が、「労働力が足りなくなるから」と、反対していました。「お父さん、学校へ行かせて」「そんなヒマはねえ!働け」と反対されるのを、拝み拝みして、学校へやってもらいました。映画「鬼龍院花子の生涯」では、ヒロインの夏目雅子さんが、養父の仲代達矢さんに「学校へ行かせてくれやんせ(だったか?)」と懇願しているシーンがありました。昨今は、子どもが学校へ行きたくないのに、親が「行け行け」と強要します。子どもに学校へ行くニーズがなくては、本気で勉強するわけがないです。学問は創造的活動で本来楽しいものだと、野田先生はおっしゃっていました。それがなんで苦痛になってしまったのでしょうか?

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5,子、匡(きょう)に畏(おそ)わる。曰く、文王既に没す、文は玆(ここ)にあらざらんや。天の将(まさ)に斯(こ)の文を喪(ほろ)ぼさんとするや、後(おく)れ死す者、斯(こ)の文に与(あずか)ることを得ざらん。天の未だ斯の文を喪ぼさざるや、天の未だ斯の文を喪ぼさざるや、匡人それ予(われ)をいかんせん。

 先生が匡の町で襲われたとき言われた。「周の文王はとっくに亡くなられた。文王の伝えたもうた文化は──自分で胸を指さされて──ここに存在しているではないか。神さまが私の身についている文化を滅亡させようとおぼしめさるならば、生き残った者は、私の身とともに滅びるこの文化に沃(よく)することが不可能となる。神さまがわが身についた文化を滅亡させまいとおぼしめさるるならば、匡の民のごとき者が私をいかんともできるはずはあるまい」。

※浩→「匡(きょう」は邑(ゆう)、つまり町の名前で、現在のどこかは定説がないそうです。「畏」は、普通は「おそれる」ですが、ここでは「武器をとった闘争」の意味に使われています。「文王」は周を開いた王で、徳望高く、周の政治・文化の基礎を作りました。「文は茲(ここ)に……」は、孔子が自分の胸をさして「文化がここにある」と言いました。文王が作った「礼・楽」を「文化」と言っています。
 ややこしい文ですが、貝塚先生の解説がわかりやすいので、「世界の名著」から引用しておきます。

 孔子は紀元前497年、魯から衛に亡命したが、その冬か翌年の春かに、強国・晉(しん)の豪族・趙簡子(ちょうかんし)の本拠地・朝歌(ちょうか)に行こうとして、国境の城・匡に立ち寄った。大学者・孔子の晉への入国を阻止しようとする、衛の陰謀か、軍隊の襲撃を受けて、やっと危機を脱したことがあった。孔子が56,7歳のときだった。匡の町はずれを孔子の一行が馬車を連ねて旅していると、突如、攻撃を受けた。弟子たちは慌てて騒いだ。魯の勇士の子で武術のたしなみのある孔子は、少しも騒がず、弟子たちを励まし、この言葉を語り、自分の胸を指さして、文王は没してその文化の伝統は「ここ」にある。もしも天が周の文化を滅ぼすつもりなら、自分はここで一命を果たすかもしれない。一行が逃げて生き残った者があるとしても、私とともに文化は滅びるから、永久に文化にあずかることはできない。天がもし文化を滅ぼさない気なら、匡の人が私をどうすることもできないだろう。弟子の中には、子路、冉求(ぜんきゅう)のような勇士もいる。孔子のこの一言を聞いて奮起して、一致して血路を開いたのだろう。孔子は普段から、周の文化は天命によって自分の中に生きて伝わっているという自信を持っていたが、その素振りはどこにも見せなかった。このとき初めて盤石(ばんじゃく)のような自信を表明し、この危機を切り抜けた。

 この解説の中に、貝塚先生は、吉川幸次郎先生の解説をほぼそのまま取り入れていると記されています。吉川先生の偉大さが、ここでもよくわかります。
 私たちにとっての“大師匠”はもちろん野田俊作先生です。2020年に亡くなられて、直接お教えをいただくことができなくなりましたが、教わった内容は、孔子がしたように、私も自分の胸を指さして、アドラー心理学の智慧と技術は「ここ」に入っている、と言えそうな気がします。西原(さいばら)理恵子さんの「毎日かあさん」をもじって、自分のことを「毎日アドラー」と呼べるように、日々精進を怠らないように、学びを続けます。

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