4,子(し)、四(し)を絶つ。意なく、必なく、固なく、我なし。
孔子には4つのものがなかった。第一に主観的な恣意(しい)。第二には無理押し。第三に固執。第四には自己のみへの執着。
※浩→「教訓」などで、東洋は「否定形」、西洋は「肯定形」が多いようです。例えば、「己の欲せざるところを人ほどこすことなかれ」という孔子の言葉は否定形で、「自分がしてほしいように他の人にせよ」という『新約聖書』のイエスの言葉で“黄金律”と呼ばれているものは、肯定形です。今日の論語の言葉もすべて「~がないように」という「否定形」です。これらを全部ひっくり返して肯定形にすると、そのままアドラー心理学になりそうです。朱子によると、「ここの4項目は、相関連して起こる」とあります。恣意(私意)は無理押しを、無理押しは固執を、固執は利己主義を生むと。
「私意」を野田先生だと“わたくしごころ”と名づけられます。私利私欲に走ることです。これをなくして、“おおやけごころ”を持つということになります。「無理押ししない」のは「権力闘争しない」です。「固執しない」は「頑固でなく柔軟」ということ。「自己への執着」はそのまま「自己執着」ですから、これをひっくり返すと「共同体感覚」になります。
野田俊作先生は「勇気づけの歌」と「基本前提の歌」の他に、「共同体感覚の歌」を創られました。これは長編です。世界史、宗教史から始まって、ゲゼルシャフトでなくてゲマインシャフト的な社会を構築して、協力的な暮らしができるように導かれています。その冒頭に、
人はひとりで生きてゆけなくて
社会を作って互いに助けあう
動物の群と社会が違うのは
得られたものを分かちあうところ
昔のオイルショックのとき、店頭からトイレットペーパーが消えました。最近の新型コロナウイルス感染時には、マスクが店頭から消えました。こういうときに醜い自己執着の争いが生じます。日本はお行儀の良い国のはずなのに。“動物の群れと社会が違うのは、得られたものを分かちあうこと”。そうそう、「奪い合えば足りなくなるが、分け合えば余る」と言われました。すごく納得します。
夏目漱石の「草枕」の冒頭を思い出しました。「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角(とかく)に人の世は住みにくい」。
3,子曰く、麻冕(まべん)は礼なり。今純(いと)なるは、倹なり、吾は衆に従わん。下に拝するは礼なり。今上に拝するは泰(おご)れるなり。衆に違(たが)うと雖(いえど)も、吾は下に従わん。
先生が言われた。「麻の冠は礼にかなっている。現在絹で作っているのは倹約のためだ。この点では自分は、大衆のやり方に従う。君主に招かれたときは、御殿(座敷)の下に降りてお辞儀をするのが礼だ。現在、御殿(座敷)の上でお辞儀をするのは、奢(おご)りたかぶっているのだ。この点は大衆と違っても、(私は)御殿の下でお辞儀をすることにしよう」。
※浩→「麻冕(まべん)」は、麻で作った冠です。冠の上に長方形の板が乗っていて、その裏表に、元来は「麻糸」を貼っていたのが、いつしかそれが純(絹)に変わりました。当時は、麻より絹のほうが安かったんです。で、孔子は、「古い掟には反するが、自分も異を唱えず、みんなのするとおり、絹を使おう」と。反対に、臣下が君主からもてなしを受ける場合、座敷から中庭に降りでお礼を言うのが本来の掟でした。それがいつの間にか、座敷にいたままお辞儀をしている。孔子は、「これは傲慢というものである。自分は、みんなのやり方とは違っても、中庭に降りて下でお辞儀をする」と言いました。
「礼」というのは日本では日常生活からすっかり消えて、冠婚葬祭や習い事や学校儀式の中でだけ行われているようです。孔子は周公・旦の礼の制度をお手本にすることができました。現在の暮らしの中では、どうすれば「礼」を行えるようになるでしょうか?儀式や習い事の中で実行しても、日常生活に戻ると、とたんに無作法になるのはどういうことでしょうか。歌舞伎にはしっかり伝承されています。上使をお迎えする場面だと、「ご上使のお入りー!」との声が響くと、太鼓がどーんと鳴って、花道の揚げ幕がシャリッと開いて、正装した上使が登場します。それまで舞台の座敷の上座(かみざ:向かって右)に座っていた主(あるじ)は、上座へ上使を通すために、自分は下座(しもざ:向かって左)に下がります。「これはこれはご上使様にはようこそのご入来、して、こんにちの御用向きは?」と言うと、上使は「上位ー!」と上から預かった書状を示します。主は「ははー!」と平服。こういう厳かなシーンをお芝居で観るていた観客は、芝居が終わって退場するとなると、とたんに不作用千万です。幕が完全に閉まるか閉まらないかのタイミングで、すでに一部の観客がさっと通路を目がけて立ち上がり、階段やエスカレーターに溢れています。我先に退場しよう人々に圧倒されて、弱気な人はなかなかエスカレーターに乗れません。もっと言えば、お芝居が始まってから、続々とロビーから客席に戻る人もいます。テレビの中継を見ていると、すでに舞台ではお芝居が始まっているのに、ロビーにいた人たちが遅れて、ぞろぞろ入場してくるので、人の頭がいくつも画面に映って、舞台を遮ります。東京の歌舞伎座のような日本を代表するような劇場でそうなのです。中には、演出上の都合で、開幕の遅れた人を客席に入れない演目もあります。舞踊の「藤娘」は、はじめ場内の非常灯まで消えて真っ暗です。そこへ「チョーン」と木が入ると、途端に舞台全体に照明が入ります。中央に藤の枝を肩にかけた「藤の精」が立っています。客席から「大和屋ー!」とか声がかかります。長唄連中の演奏が始まり、板東玉三郎さんが艶姿をたっぷり披露してくれます。また、「仮名手本忠臣蔵」では「四段目」 の「判官切腹」の場面は、昔は「通せん場」と言われて、開幕に遅れると、客席に入れなかったそうです。無理に入ろうとすると、係員が「只今、判官様ご切腹につきお通しできません」と制したそうです。お客のほうも、それで納得して、「切腹」が終わるまでロビーで待ったと言いますから、悠長な時代でした。
判官切腹の段というのは次のとおりです。判官(浅野内匠頭の歌舞伎での名称)の切腹に立ち会うために、石堂右馬之丞、薬師寺次郎左衛門が上使として来訪した。情け深い石堂に比べて、師直(吉良上野介の歌舞伎での名称)とは親しい間柄の薬師寺は意地が悪い。一間(ひとま)より判官が出てきて上使に応対すると、「判官は切腹、その領地も没収」と、上意を申し渡される。判官はかねてより覚悟していたのかその言葉に動ずる気色も無く、「委細承知仕る」。そして着ているものを脱ぐと、その下からは白の着付けに水裃の死装束(しにしょうぞく)が現れる。判官はこの場で切腹するつもりだったが、せめて家老の大星由良助(大石内蔵助の歌舞伎での名称)が国許から戻るまでは、ほかの家臣たちにも目通りすまい…と待つが、なかなか現れない。判官は由良之助の息子・力弥(大石主税の歌舞伎での名称)にたずねた。「力弥、力弥、由良助は─」「いまだ参上仕りませぬ」「…エエ存生(ぞんじょう)に対面せで残念、是非に及ばぬ。これまで」と、刀を腹に突き立てる。そのとき花道をバタバタと、大星由良助が国許より駆けつける。「由良助、待ち兼ねたー」「ハア御存生の御尊顔を拝し、身にとって何ほどか」「定めて仔細は聞いたであろう」と判官は刀を引き回し、薄れゆく意識の中で最後の力を振り絞り、「この九寸五分は汝へ形見。我が鬱憤を……」と、喉をかき切って事切れます。
またまたとんでもない方向へ脱線しました。はなはだ失礼を申しあげました。
2,達港党の人曰く、大なるかな孔子、博く学びて、名をなすべきなしと。子、これを聞き、門弟子に謂いて曰く、吾何をか執(と)らん。御(ぎょ)を執らんか、射(しゃ)を執らんか、吾は御を執らん。
達港集落のある人が言った。「偉大なお方だ、孔先生は。博く種々の学問をしながら、何の専門家であるという局限された名声はお持ちにならない。すべてのことに通じ、かつ、すべてを包容した偉人でいらっしゃる」と。
先生がこの噂を聞かれてから、内弟子に言われた。「じゃあ、私は何を専門として主張したらいいのかね。馬車の御者が一番の専門だと言おうか、あるいは弓を射ることだと言おうか。まあ、御者であることが専門だとしよう」。
※浩→この条は、孔子の謙遜を示しているようですが、その謙遜は、自分の行為に十分な自信を持つ人の謙遜で、微笑ましく気持ち良く響きます。当時の風潮としては、文武の一芸に習熟して専門家として世に立つことだったのに対して、孔子は、専門にこだわらず、広い学問を習っていたところに孔子の偉大さを認めた、この達港党の人はなかなかの人物だったのでしょう。孔子はよほど嬉しかったのでしょう。そこで「何を専門にしようか、御者かな……」と冗談を言っている。孔子はとかく苦虫を噛みつぶしたような堅物かと想像されがちですが、機嫌のいいときはこういう軽口を言うユーモアに富む人だったのです。まさに野田先生のようです。野田先生は確か、ロケットを発射する人になりたかったと、早期回想でおっしゃっていました。何をするかというと、人々をロケットに乗せて宇宙へ打ち上げるんだそうです。実際、カウンセリングや講座でもってそれを実践されました。
なお、孔子の時代の君子の必須の教養は、礼、楽、御、射、書、数の「六芸(りくげい)」で、国立大学の学生に教えた教養です。
自分の能力・行為に自信のある人が謙遜するのは、微笑まして気持ち良いとのことです。能力の乏しい人は謙遜するよりもむしろ虚勢を張るでしょう。ソクラテスの「無知の知」というのは、「己れの無知を知る者が真の知者」というとでした。真の知者というのは、自分を「まだまだ不十分」と感じていて、さらに、ちょうど「あすなろ」の心のようにで、「明日は檜に」と、研鑽を積んでいるはずです。ただし、自分で自分の能力を正当に評価することも、また大切なことではないでしょうか。自己勇気づけとでも言いましょうか。自分の能力を他者に対してひけらかすのではありません。これはちょうど、「共同体感覚は自分が実践することであって、他者に強いることではない」と、常々教えられていることと一致します。『こち亀』の両津さんだと、「己れにやさしく、他人に厳しく」とか、「笑ってごまかせ自分の失敗、厳しく罵れ他人の失敗」となるのでしょうが、あれはコミックの世界で、現実に実行すると、人間関係がぶっこわれます。
「六芸(りくげい)」は、別の言いかたをすれば、“文武両道”のようなことでしょうか。野田先生もまさに、文武両道でした。講義でも講演でも、その広い広い見識が溢れ出していました。単なるアドラー心理学の学習にとどまらず、音楽、仏教、政治、経済……と、人生のあらゆる側面に関する教養が語られました。西洋のルネッサンス期のダヴィンチは“万能人”と言われました。こういうマルチの才能を高く評価する一方で、「一芸に秀でる」という考えもあって、面白いです。孔子は、冗談で、「専門は馬車の運転か」と言っていますが、私はどうでしょうか。手先が不器用な私は、おしゃべりが得意です。早期回想に、小学生のころ、妹と一緒に、大好きだった伯母さん(父の姉)の家にお泊まりに行ったとき、お布団に3人並んで寝ていました。伯母が「ヒロちゃんは大きくなったら何になる?」と聞かれて、私は鏡を顔の前に立てて映った顔を見ながら「アナウンサー」と答えました。実際には、アナウンサーにはなりませんでしたが、おしゃべりが商売の教師になり、退職後はアドラー心理学の講義・講演をしています。やはり、早期回想の路線を生きています。
第九 子罕(しかん)篇
1,子、罕(まれ)に利を言う。命(めい)と与(とも)に仁と与にす。
先生はめったに利益について語られなかった。もし語られたなら、運命に関連してか、仁徳に関連してかであった。
※浩→篇名の「子罕」は、冒頭の「子、罕(まれ)に利を言う」を短縮しています。その内容は、弟子たちが孔子の人格について論じたもの、孔子の自叙、孔子の絶望感、後世への畏れ、孔子の病気のことなど晩年の言動が多く記されていて「述而篇」の補遺とも言われます。
上の読み方は荻生徂徠によるものです。一般には、「先生はめったに利と命(天命)と仁徳について語られなかった」と読むそうですが、これには無理があるようです。なぜかというと、「利」と「命」について語ったのは『論語』で6例ですからもっともだとしても、「仁については60回以上語っている」、と貝塚先生が解説されています。吉川先生は、「利」も「命」も「仁」もともに大変重要な問題ですから、軽率には口にしなかったと考えられ、一般の説を採用されました。どちらも一理あると思います。
私は、「利」と「仁」から『孟子』の冒頭を思い出します。
孟子、梁(りょう)の恵王に見(まみ)ゆ。王曰く、叟(そう)、千里を遠しとせずして来たる。亦(また)将(まさ)に以て(もって)吾が国を利することあらんとするか。孟子対(こた)えて曰く、王何ぞ必ずしも利を曰わん。亦(ただ)仁義あるのみ。
孟先生が、梁の恵王に拝謁された。恵王は言われた。「老先生、あなたは千里の道を遠しとされずにおいでくだされた。さだめしわが国に利益をもたされること存ずる」。老先生が、かしこまって答えられた。「王さま、どうして利益のことなど仰せになるのですか。王さまはただ仁義のことだけお気にかけられたらよろしいと私は存じます」。
「子罕篇」に関連して、貝塚先生が挙げられている「利」と「仁」に関するフレーズを引用して列挙してみます。
「知者は仁を利とす」(里仁篇)
「君子は義に喩(さと)り、小人は利に喩る」(里仁篇)
「利を見ては義を思う」(憲問篇)
「利によりて行えば怨み多し」(里仁篇)
「小利を見ることなかれ……小利を見れば則ち大事ならす」(子路篇)
重要な問題だから軽率に口にしないということは、アドラー心理学でも「共同体感覚」は重要な概念ですから、軽率に口にしないと読み替えられそうです。野田先生は、ドイツ語の「ゲマンシャフツゲフュール」を「共同体感覚」と訳されましたが、先生はこの訳が嫌いだそうです。世間で一般に言われている「共同体」とか「感覚」とかの意味に解釈されるからだそうです。いっそ「X28」とか「P30」とか意味のわからない言葉のほうがよかったとおっしゃいます。これだと、何のことかさっぱりわかりませんから、本気で意味を考えるでしょう。「心理学事辞典」に掲載された、野田先生による解説を紹介します。
共同体感覚は、アドラー心理学の鍵概念のひとつ。共同体とは、狭義には現在と未来の一切の人類であり、広義には宇宙全体である。実際の「現実の社会」を言うのではない。このような意味での共同体への基本的な、①所属感、②信頼感、③貢献感を併せて共同体感覚と言う。これを持っている(というより、“行なう”)ことが心理的健康の条件であり、逆に、すべての精神病理はこれの不足ないしは欠如に由来する。したがって、アドラー心理学のカウンセリングを心理療法の基本的な目標は、共同体感覚の育成である。その具体的な方法として、①治療情況を閉鎖的なものではなく、グループ療法などの開かれた設定にすることを好み、②治療者・患者関係を常に相互尊敬・相互信頼にもとづくまったく対等の協力的交友関係にし、③絶えず他者への貢献の可能性を問いかけ、④社会適応を越えてより大きな全体との関係に注意を向けさせる、などの働きかけを行なう。
おー!なんと、日常生活の心得からカウンセリング&サイコセラピーにまで及ぶ、共同体感覚の概念が圧縮されているではありませんか。
逆に、最短の解説としては、「他者の関心に関心を持つ」ことだとも言われます。ただ、「他者に関心を持つ」のではありません。「他者の関心に関心を持つ」のです。
エーリッヒ・フロムの名著『愛するということ』に、愛に必要な4つの基本的要素というのがあります。これが何となく共同体感覚のイメージとダブってきます。
(1)配慮
(2)責任
(3)尊敬
(4)知
(1)『配慮』は『思いやり』で、思いやりとは、
・人に嫌な思いをさせない
・人を傷つけるようなことをしない
・人にやさしくする
・人のためになることをする
ということです。
この『思いやり』とは、自分に対して発生させるものではなく、『相手』に対して発生させるものです。そのため、『相手のためを考える』『相手の幸福を考える』ことができないと『愛』ではありません。
(2)『責任』とは、自分が行なったことの結果を引き受けることや、立場上負わなければならない任務や事柄のことです。
(3)『尊敬』とは『相手を尊重する』という言葉に言い換えることができます。
相手のありのままを見て、相手の考え、行動、相手の意思を尊敬することです。
(4)『知』とは『相手を知ること』です。
21,子曰く、禹(う)は吾(われ)間然(かんぜん)すべきなし。飲食菲(うす)くして孝を鬼神に致し、衣服を悪しくして美を黻冕(ふつべん)に致し、宮室を卑(ひく)くして力を溝洫(こうきょく)に尽くす、禹は吾間然すべきなし。
先生が言われた。「禹の君には、自分はまったく非難を加える余地がない。自身の飲食を切り詰めて神さまに供物をあげ、自身の衣服を質素にして祭服の前垂れと冠を立派にされ、自身の住居を粗末にして、全力を治水に尽くされた。禹の君には、自分は非難を加える余地はまったくないのだ」。
※浩→「菲(うす)く」「黻冕(ふつべん)」「溝洫(こうきょく)」と、難しい漢字が続きます。これまでは、禹を舜と並べて讃えていましたが、「泰伯篇」結びのこの一条では、もっぱら禹に対する賛美が述べられています。禹は治水で大きな成果を上げて、舜から帝位を譲られ夏(か)王朝を始めました。その禹は、衣食住の私生活は慎み質素にして、公的な面を豪華にしました。
間然の「間」はスキを見つけて非難すること。国会で今の野党のやっているのはこれのようです。大事な法案審議よりも、政府与党の揚げ足とりに終始しています。政府与党に問題がないわけではありませんが、その失錯を責めることのみに終始しているように思われて、とても残念です。Yahooのニュースにも、「国会はまるで子どもの喧嘩のよう」とありました。言葉の使い方を誤っている議員もいます。以前、安倍政権時代に、立憲民主党の辻○議員が、「桜を見る会」に関して、「ホテルの説明と先ほどの総理の説明はマッコウカラ違っている」と言っていました。「真っ向から」のあとには、「対立している」とか「否定する」とかだとつながりますが、「真っ向から違っている」とは言わないでしょう。ところで、「鬼神」の「鬼」は先祖の魂その他人間がなった神で、「神」は天の神その他人間以外の神のことです。「黻冕」は祭服の膝の前に垂らす「前垂れ」と冠で、「宮室」は宮殿でなく住居のことです。「溝洫」は田圃のまわりの排水路です。
「禹は吾間然すべきなし」をまた最後に繰り返していることから、孔子は禹と同時代人として参加できないのがよほど悔しかったのでしょう。
私自身に関して言えば、「衣」は、在職中はスーツをほぼ毎日替えていました。これは贅沢ではなくて、母親から、「1着を毎日着るよりも、2,3着を毎日着替えるほうが、かえってそれぞれの服が長持ちする」と教えられたことを守っていたのです。「食」は筋トレをしている関係もあって、高タンパク低脂肪の食事をずっと維持しています。「住」は現在は持ち家に住んでいますが、本籍地を離れた大学生時代以後は、転勤がありますからずっと借家(アパート)住まいでした。治水からの連想では、1976年の水害を思い出します。当時勤務していた備前高校(現・備前緑陽高校)で、ボート部の柿本研三君は春の「朝日レガッタ」に優勝し、続いて「中国大会」、石川県での「インターハイ」に優勝し、残る佐賀国体に備えて練習していましたが、台風が南九州沖に3日くらい停滞して、そのために岡山県にも大雨が続きました。当時、私は西大寺駅近くの用水のそばの借家に住んでいました。その用水の水が徐々に溢れてきます。どっと溢れるのではなく、一寸刻みにちょろちょろ増えてくるので不気味でした。そこでまず上流の水門を閉めたところ、そこより上(かみ)の住宅が浸水し、今度は下流の水門を開けて下(しも)へ流したら、下が浸水しました。わが家のあたりだけ免れて申し訳ないからと、地区で募金をして被災地区に「お見舞い金」を出しました。徐々に水位があがるので、大事なものを初めはタンスの上などに移動させていましたが、必要なものすべてを移動できませんから、最優先するものを考えに考えて、「預貯金通帳」と「スーツ」だけ高いところへ移動しました。書籍やその他のものは、もし被災しても補えますが、スーツがダメになると、毎日の出勤に差し障ると考えたのでした。結局、被害を受けることなく、水は引いてくれました。柿本君は国体出発前に、自宅が浸水するなどの被害があったりして、コンディションの最終調整がうまくいかず、国体での入賞・優勝は逃してしまいました。それでも、その年の「岡山県スポーツ大賞」をいただけて、監督の私まで「指導者賞」をいただけました。今は昔のお話です。(「泰伯編」完)
20,舜に臣五人ありて天下治まれり。武王曰く、予(われ)に乱臣十人ありと。孔子曰く、才難(かた)しと。それ然らずや。唐虞の際、斯(ここ)において盛んなりとなす。婦人あり、九人のみ。(文王、西伯となりて)天下を三分してその二を有(たも)ち、もって殷に服事す。周の徳はそれ至徳と謂うべきなり。
舜帝には有能な臣下が五人いて、天下は良く治まった。周の武王は言われた。「自分はさいわいに、政治に関する十人の賢者の家来がいる」。孔子が言われた。「しかし、人材を得るのが困難であるというが、まったくそうではないか。唐つまり堯と、虞すなわち舜とが相次いだ以後では、まったく周の初めこそ盛代であったとされるが、婦人が一人混じるから、賢臣は九人にすぎなかった。文王が西伯となって天下を三分して、その二を保有されながら、残りの三分の一を領した殷に仕えられたのだから、周の徳こそは完全無欠であったと言うべきである」。
※浩→ここも、過去のすぐれた政治への賛美ですが、時代が孔子自身の時代の王朝・周の創業時代に下りました。舜の五人の臣は禹・稷(しょく)・契(せつ)・皐陶(こうよう)・伯益です。禹は洪水を治め、次の夏王朝初代君主。稷は農事の長官で周の遠い祖先。契は民政の長官で殷の遠い祖先。皐陶は司法長官。伯益は狩猟の長官でした。
武王の「乱臣」の「乱」は反対の「治」の意味で、「治臣」のこと、「すぐれた補佐・賢臣」のこと。その十人は、弟の周公・旦、同族の召公・奭(せき)、その軍師の太公望、畢(ひつ)、栄公、大顛(たいてん)、閎夭(こうよう)、散宜生(さんぎせい)、南宮・适(かつ)、そして武王の母・太姒(たいじ)です。母親は「臣下」と言えないので、彼女を除いて九人です。
周は、武王&文王によって勢力範囲が拡大して、当時の中国の三分の二を保有しました。殷には三分の一が残されただけでしたが、周は、一大名としておとなしく殷王朝に使えました。殷王朝の悪政が極まったとき、はじめて革命を起こしました。そのような周の国の道徳の高さを、孔子は最上のものと評価しています。
このように、孔子は、古代の周王朝の高い道徳を模範として絶賛しています。太古・古代のあり方を模範とするというと、老子が「いにしえの無為自然の道に復帰」するよう説いたのと似ているようですが、老子は文明を捨てて原初に帰ることを善しとしていますが、孔子は、過去を模範とはしてはいますが、文明を捨てよとは説いていないです。孔子は「仁義礼楽」の「徳」を身につけるように説き、老子はむしろそうした「文明」を捨てて「太古に復帰」せよと説きます。そして老子は、万物の根源として「道」を想定しているのに対して、孔子は、「怪力乱神を語らず」「未だ生を知らず。いずくんぞ死を知らん」と、超自然的なものについては口を閉じて語りません。現実主義です。
私にも昔、公私ともに苦難の時期がありました。その際、逆説的な処世法を説く老子の思想と、千変万化する現象世界そのものを「道」として従容と受け入れる荘子の哲学に惹かれたことがあります。のちに、アドラー心理学を学ぶようになって、野田先生から、「万物の根源」を説く思想は、土着思想だと教わってショックを受けました。それ以来、しばらく遠ざかっていました。それで、アドラー心理学と似ているかもしれな(?)孔子の思想になじんできました。それで、今こうして「論語でジャーナル」を書いています。
ところで、「根源としての道」はさておき、逆説的な処世法は今でも役に立ちます。治安の良い時代には儒家思想が向いていて、乱世には老荘思想が向いています。現在は決して「治安の良い時代」とは言い切れないようで、老荘思想が生き方のヒントになることがしばしばあります。アドラー心理学でも「パラドキシカル」な対応が適していることがあります。孔子も「温故知新」とか「巧言令色鮮(すく)なし仁」と言っています。太古の君主を模範にしていて「過去を無視」しているわけではないと思います。
心理療法では、理論の折衷はありえないですが、技法の貸し借りは行われています。学校の現状もまさに「乱世」のようで、不登校、校内暴力、学級崩壊、授業不成立、等々、枚挙に暇がありません。アドラー心理学がメジャーのフロイト派やユング派への「アンチテーゼ」だとすれば、儒家思想へのアンチテーゼである道家(老荘)思想が、処世法に関しては有効であるに違いないでしょう。荒れ狂う生徒たちに、教師が「仁義礼楽」を説いて、それですんなり指導に従うでしょうか?かといって荒廃した学級から教師が逃げ出すわけにはいきません。まずは現状から逃げることなく、現状を冷静に観察した上で、生徒たちの反道徳(パラドキシカル)な言動に対して、カウンターパラドクスで迫るというアイディアが一考の価値ありそうです。
19,子曰く、大なるかな、堯の君たるや。巍巍として唯(ただ)天を大なりとなす。唯堯これに則(のっと)る。蕩蕩として民能(よ)く名づくるなし。巍巍としてそれ成功あり、煥(かん)としてそれ文章あり。
先生が言われた。「偉大なものだ、堯の君主ぶりは。堂々として、天だけが偉大であったが、ただ堯帝だけが天の徳を手本として行動され、その道は広々して、人民も形容する言葉に苦しんだ。堂々とした恰幅で手柄を収められ、華やかな文化を創り上げられた」。
※浩→不思議ですが、貝塚茂樹先生はこのあとの解説はありません。吉川幸次郎先生はかなりの量の説明をされています。それによれば、この条は、前条よりもさらに遡って、「堯」の偉大さを賛美している。堯帝はすぐれた道徳的能力者であり、天象を観察して暦を整え、微賤の身分にあった舜を後継者として抜擢しました。今は、堯帝は伝説上の存在になっていますが、孔子の時代には、歴史として意識されていたのでしょう。
堯について、少々検索しみました。
司馬遷の『史記』では、「その仁は天のごとく、その知は神のごとく」と最大級の賛辞で描かれている。孔子が尊敬するはずです。天文を観察して暦を作らせ、1年を366日とし、3年に1度閏月を置いたことは有名です。
堯の御世の数十年、あまりの平和さに、天下が本当に治まっているか、民は満足しているか気になり、変装して家を出て自分で確かめようとした。子どもたちが、堯を賛美する歌を歌っていた。これを聞いて、堯は子どもたちは大人に歌わされているのではないかと疑ったが、傍らで、老人が腹を叩いて地を踏み鳴らして(鼓腹撃壌)楽しそうに歌っているのを見て信じたという。
堯から帝位を譲られた舜は、母を早く亡くし、継母と連れ子と父親と暮らしていた。父親たちは連れ子に後を継がせるために舜をころそうと狙っていたが、舜はそういう父親に対しても孝を尽くしたことが堯のもとへも噂が届いた。そこで舜の人格を見極めるために、娘を嫁にやったら、舜の影響で娘はとても誠実な人になった。舜の家族は相変わらず舜をころそうとしていて、舜に屋根の修理を言いつけて下で火をたいて舜を焼きころそうとした。舜は2つの傘を鳥の羽のようにして逃れた。井戸さらいに言いつけて、上から土を放り込んで生き埋めにしようとしたら、舜は横穴を掘って脱出した。こんなことをされても、相変わらず父に対して孝を尽くした。舜を気に入った堯はまず舜を摂政にし、その成果を見て、舜に帝位を禅譲した。…
ということです。わが国の歴史でこれほどの人物がいたでしょうか?うーん。いたのでしょうが、堯舜禹のように詳細な伝記が筆者の身辺になくて、わかるすべがありません。孔子の偉大さに驚歎していて、その孔子が最高の尊敬を払うのですから、その偉大さは想定のしようもありません。
18,子曰く、巍巍(ぎぎ)たるかな、舜(しゅん)・禹(う)の天下を有(たも)てるや、而(しこう)して与(あずか)らず。
先生が言われた。「高く大きく、正々堂々と、立派なものだね、舜帝と禹帝が天下に君臨されたのは。しかし、独裁的には関与しないで、多くの賢人たちに委任して任せた」。
※浩→考古学的に実在が確認されている中国最古の王朝は殷(紀元前17世紀頃~紀元前1046年)だとされていました。天乙(湯)が「夏」を滅ぼして建立したとされています。「夏」は伝説上の王朝だとされていましたが、最近は実在したと考えられるようになってきているそうです。「夏」を開いた禹帝は長年氾濫に苦しめられてきた黄河の治水を見事に成功させることで、舜から帝位を継承されたそうです。高校時代に習った「世界史」の授業を思い出します。自分も在職中に何度か世界史を担当したことがあります。38年の教職で、ほんの数回でした。あとは「倫理(社会)」と「現代社会」が最も多く担当した科目です。
それはさておき、中国古代の偉大な帝王は、自分が独裁的に支配するのではなく、賢人たちに委任していたということは、のちのちの世にも、いくらか例があります。今風に言うと、「ブレイン」ですか。「三国志」の劉備玄徳は、軍師として諸葛孔明を、三顧の礼で以て迎えました。それまでは、桃園の誓いで兄弟の契りを結んだ張飛と関羽と、のちに加わった趙雲子龍が玄徳を助けていました。彼らは武力は凄かったのですが、肝心の「智慧」において不十分だったのでしょう。それで孔明が、少しのちには龐統(ほうとう)と、当時の二大賢者がともに劉備玄徳に仕えることになります。その孔明の進言を、情に厚い玄徳は自分を慕う民を思うあまり、何度か拒否して、痛い目に遭いますが、孔明は「殿の命とあらば……」と受け入れます。これは立派だと思いますが、ライバルの曹操と異なる点はここでしょう。政治家としては冷徹に見える曹操のほうが適していたのでしょうが、「判官贔屓(ほうがんびいき)」の日本では、玄徳の人気のほうが圧倒的です。
現代では、裸一貫から成功した企業人はおそらく、独裁体制をとらないで、プレインの進言を大いに採用したであろうと、推察されます。私が勤務した職場の管理職でも、何人かのお方がそうでした。もちろん、ワンマンもいました。ここに書けませんが、今、頭の中でそれぞれのお方を思い出しています。部下の進言に謙虚に耳を傾ける度量の備わった管理職の組織が、うまく機能するのは言うまでもないことでしょう。
17,子曰く、学は及ばざるが如くするも、猶(なお)これを失わんことを恐る。
先生が言われた。「学問をするには、(泥棒を追っかけるように)一生懸命に、目的を追っかける態度でなければならない。それでもなお、対象を見失う恐れがあるのだ」。
※浩→「及」は、「去りゆくものをあとから追いかける、追いつく」という意味です。時々引用しますが、先々代・三遊亭円楽師匠は「まだ足りぬ。語り語りてあの世まで」とおっしゃっていたことを思い出します。十七世・中村勘三郎丈は「まだ足りぬ。踊り踊りてあの世まで」でした。どちらも、努力・精進のすえ、「もうこれで完璧だ」ということはありえない。生きている限り、われわれは「途上」にいます。野田俊作先生は、「アドラー心理学を一生懸命学んでも、ある日突然、寝ても覚めても居ても立っても、そのままで完璧にアドラー心理学だなんてことはありえない」というような意味のことをおっしゃっていました。これは、「常に努力すること」の大切さと、「努力を怠って成果を失うことへのおそれ」と、しかもなお「不完全でいる」勇気を持つようにという戒めのように受け取れます。
有名なお釈迦様の最期の言葉は、「比丘たちよ、今こそおまえたちに告げよう。諸行(しょぎょう)は滅びゆく。怠ることなく努めよ」でした。←『マハーパリニッバーナ経』『南伝大蔵経』
『マハーパリニッバーナ経』は、釈尊の最晩年に、ラージャガハ(王舎城)から入滅の地クシナーラまでの最後の旅の様子を伝える経典で、釈尊の老いて死を迎える心境が随所に吐露されています。釈尊の最後の旅は自らの故郷カピラヴァットゥをめざしたと言われているので、旅半ばにして入滅したことになります。うわー、アドラーも講演先のスコットランドの路上で亡くなりました。死は私たちそれぞれに避けることのできない、最も重い現実として向かってきます。そのため、私たちは死という事態を自分なりに意味づけをして受け止めざるをえません。自ら迎えなければならない死を見つめることで、それまでの自分の生や死後に思いを向け、生きることの意味を考えるのです。同じことが、非常に近しい人の死に直面したときにも起ってきます。そして、その近しい人が自分にとってかけがえのない人であったとき、その死は自らの死以上に深い悲しみや動揺を引き起こします。
旅の途中で釈尊は重い病にかかって、死を予感します。しかし、侍者のアーナンダをはじめとする弟子や信者たちにとって、釈尊が入滅するということはまったく予想しなかった事態でした。差し迫った現実としてそのことに直面しなければならなかった弟子や信者たちの動揺は大きかったでしょう。その時、釈尊は入滅を前にして、アーナンダたちに次のように語ったのです。
「アーナンダよ、お前たちは次のように思うかもしれない。“教えを説かれた師は去ってしまわれた。われわれの師はいらっしゃらない”と。しかしそれをそのように見なしてはいけない 。アーナンダよ、私が説いた教えと制定した戒律が私の死後じゃ、お前たちの師である」。まるで、野田先生のお言葉のようでもあります。そのように弟子たちの動揺を静めた後、さらに釈尊は、「アーナンダよ、悲しむな、嘆くな。私は、前もって言ったではないか。“すべての愛しいもの、好ましいものと分れ、離れ、別になる”(愛別離苦)と。生じたもの、因縁によって作られたもの、破壊されるべきものが、破壊されないような道理がありようか」と語り、そして、自らの最後の言葉として弟子たち全員に「比丘たちよ、今こそおまえたちに告げよう。諸行は滅びゆく。怠ることなく努めよ。」と言い残したのです。「諸行」とは、因縁によって作られたすべてのもの、すなわちすべての現象や存在のことです。そして、それらは必ず滅びゆく、無常なものです(諸行無常)。このことは釈尊の身心も例外ではありません。釈尊の教えはこの「諸行は滅びゆく」ということの上に展開しています。したがって、釈尊は、自らの死を題材として教えの根本を示しながら、すべての弟子たちに「たゆまぬ精進」を促しているのです。師から弟子たちへの最後のメッセージにふさわしいものとなっています。
私のアドラー心理学カウンセラーの経歴も34年になりました。なるほど、ここに至っても、野田先生のような鮮やかな「ライフスタイル分析」はできません。それでも、まだ先がもうちょっとありそうでありがたいことです。日々の小さな努力で、ほんのわずかずつでも、向上したと感じられるときがあり、それが至福のひとときです。仏道修行では、『徒然草』第四十九段の「老い来たりて、始めて道を行(ぎょう)ぜんと待つことなかれ。古き塚、多くはこれ少年の人なり。はからざるに病を受けて、忽(たちま)ちにこの世を去らんとする時にこそ、始めて、過ぎぬる方(かた)の誤れることは知らるなり。誤りといふは、他のことにあらず、速(すみや)かにすべきこを緩(ゆる)くし、緩くすべきことを急ぎて、過ぎにしことの悔しきなり。そのとき悔ゆとも、かひなからんや。……」が有名です。老いがやって来て、そのときに、はじめて仏道を修行しようと待っていてはいけない。古い墓は、大部分は年少で死んだ人のものなのである。このように、人はいつ死ぬかわからないのであるから、思いがけず、病気にかかって、にわかにこの世を去って死にゆくときになって、やっと、今まで過ぎ去ってしまった期間の間違っていたことが自覚されるものなのである。その間違いというのは、他のことではない、速くしなくてはならないことをのんびりとあとまわしにし、いつやってもよいことを先に急いでやって、生涯を経過してしまったことであって、それが死に際に後悔されるのである。しかし、そのときになって、後悔しても、何の効果があろうか。……
ところが神経症的に、強迫的に、止まることを知らないあくなき目標追求も、人を不幸にするようです。『老子』第四十四章には、「名と身といずれか親しき、身と貨といずれかまされる、得と亡といずれか病(うれ)いある。このゆえにはなはだ愛すれば必ず大いに費(つい)え、多く蔵(ぞう)すれば必ず厚く失う。足を知れば辱(はずか)しめられず、止まることを知れば殆(あやう)からず。以て長久なるべし」とあります。
心の安寧を望むなら、こちらが有力です。この主張からも、先の先には「中庸」の徳へと辿りつきそうです。
多事多端な折り、どれから着手するかの優先順位を決める際の基準は、「私的感覚」が影響するのでしょう。人それぞれに価値観が違いますから、どれを先にするかを見れば、その人がどんな人か、何を目ざして生きている人かが、わかります。
私は、幼少期から母親に、「楽あれば苦あり、苦あれば楽あり」と教えられ、いつしか、「のちのちの楽のためには、今の苦労は厭わない」タイプの人になっていったようです。アドラー心理学では人格のパターン分けを好まないのですが、グループワークなどで体験した、「最優先目標」の4つのパターンというのは、なかなか味わいがありました。人が、いよいよせっぱ詰まったとき、何を最優先目標にするかということです。その4つとは、「A:安楽でいること」「B:みんなに好かれること」「C:支配できること」「D:有能・優秀であること」です。
16,
A 子曰く、狂にして直(なお)からず、侗(とう)にして愿(げん)ならず、悾悾(こうこう)にして信ならずんば、吾これを知らざるなり。
先生が言われた。「熱狂的なくせに一本気ではなく、子どもっぽいくせにまじめでなく、馬鹿正直なくせに誠実でない。このごろの人間は、自分にはさっぱりわからないよ」。
B 子曰く、狂にして直ならず、侗にして愿ならず。悾悾にして信ならざるものを、吾これを知らず。
先生が言われた。「熱狂的な情熱家でありながら正直でないもの。子どもっぽさを持ちながら地道でないもの。馬鹿正直にしてアテにならない人間、そうした人間に私は出会ったことがない。
※浩→Aは貝塚先生、Bは吉川先生の読み方です。これは同じことを言っているのでしょうか、正反対のことを言っているのでしょうか?
貝塚先生の読み方はわかりやすいです。吉川先生は、古注と新注のそれぞれを紹介しています。古注では、「狂」「侗」「悾悾」という性格は、同時に「直」「愿」「信」という美点を持っているのが普通である。この法則にはずれるものを私は知らないと解釈しています。これに対して新注では、「狂」でありながら「直」でない、「侗」でありながら「愿」でない、「悾悾」でありながら「信」でないものはみな「まやかしもの」だから、私はそれらに対して、責任を持って応対しないと解しています。吉川先生は、新旧どちらにしても、孔子が、過度な、中庸を失した性格にも関心と同情を持ったことを示していると述べられています。このことで両説の共通点が見つけられたような気もしますが、それでも考えれば考えるほど、わからなくなります。こうなると、貝塚先生の明快な解説のほうが受け入れやすいです。
いつの時代でも、年配の人から若い人を見ると、理解困難なことがあるのでしょうが、大昔の、春秋末期の青年たちの行動と心理に孔子もお手上げだったのだろうと、貝塚先生は新注を採用されます。「近ごろの若い者は……」という嘆きの声がよく聞かれますが、若かろうが古かろうが、理解できる人は理解でき、理解できない人は理解できないのだと思います。人にはそれぞれ「認知(統覚)バイアス」という色眼鏡があって、それを通して世界を体験しますから、本来、他者は理解できません。アドラー心理学では、「私的感覚」といって、カウンセリング場面でも、「この人はなにゆえにかかる場合にかかる行動をするのか」を推理する際に参照する、「その人なりの価値観」を見つけることが重視されます。
サスペンスドラマのラスト近くで、犯人が追い詰められて、「お前に何がわかる!」と叫ぶシーンがよくありますが、このセリフの意味がいまいちわかりません。「わかってもらえないから罪を犯した」「わかってもらえれば罪を犯さなかった」と言うことなら、もしも人にわかってもらっていたら罪を犯さなかったんでしょうか?人にわかってもらおうがもらうまいが、「してはいけないことはしてはしない」「したくなくてもしなければならいいことはする」のです。これは野田先生が残された名言です。